第77話 前線砦
追撃を受けていた第7前進観測所の一行と合流した翌朝、エイルたちは予定していた第3基準標の確認をいったん後回しにし、負傷者と測量要員を安全圏まで送り届けるため、西部方面隊が街道沿いに置いている第3前進砦へ進路を変更した。
観測所から撤退してきた82名が加わったことで隊列は大きく伸び、歩行速度も当初より落ちていたものの、昨日エイルが追手を食い止めたあとには新しい襲撃もなく、昼を過ぎる頃には負傷者の顔にも少しずつ余裕が戻っていた。
ただ、行軍中の話題はかなり偏っていた。
エイルが後方へ残ったあとの戦闘を直接見ていた者はほとんどいないが、だからこそ、退避していた側が聞いたものが強く印象へ残っているらしい。
「最初は追手の足音だと思ったんだよ」
休憩中、昨日助けた第7隊の若い兵士が仲間へ話している声が、少し離れたところまで聞こえてきた。
「でも途中から明らかに違った。追手が走る音の間に、もっと低いのが混ざり始めてさ。ドンって1回鳴って終わりじゃなくて、何度も腹に響くみたいに来るんだよ」
「俺は地面の下で何か爆発してると思った」
「俺も。しかも少しずつ場所が移ってたよな」
エイルは水筒から水を飲みながら、その会話を聞かないふりをしていた。
戦闘中の自分には、《衝撃》を何回使ったかまで数える余裕はなかった。
足元から放って姿勢を崩し、長剣を通して内部へ撃ち込み、接近してくる個体へ直接当て、さらに巨大個体へ何度も圧縮した一撃を通しているため、結果としてかなりの回数を使ったのは間違いない。
しかも今の《衝撃》は、以前のような小さな押し出しではなくなっている。
直接命中させた時にも空気と地面へ低い振動が逃げ、圧縮した一撃を大型個体の内部へ叩き込めば、外からでも重い音が周囲へ伝わる。
昨日の戦いでは、それが数分間にわたって森の奥から何度も響いていた。
遠くにいた者からすれば、何かが地面の下を移動しながら鳴らし続けているように聞こえても不思議ではなかった。
「だから《地鳴り》なのか」
隣から声がして、エイルが振り向くと、リヴィアが地図を丸めながら立っていた。
「昨日から増えてますね、その呼び方」
「昨日までは、地面を揺らした1回の技から付いたのかと思ってた。でも第7隊の人たちが言ってるのを聞いてたら、少し違うみたい」
「僕は普通に戦ってただけなんですけど」
「普通に戦ってる人の音が、700メートル以上先まで何度も響くとは思わないけど」
「そんなに聞こえてたんですか?」
「少なくとも私は聞こえてた。最初の大きいのが1回、そのあと少し間を空けながら何度も低い音が来て、最後に1番大きいのが2回くらいあった」
巨大個体へ長剣を深く刺して《衝撃》を通した時だろう。
エイルが思い返していると、リヴィアは小さく笑った。
「本人だけ音の大きさを気にしてなかったんだ」
「戦ってる場所だと、相手の音も大きいので」
「なるほど。だから周りの方が先に二つ名を覚えるんだね」
「覚えなくていいですけどね」
「もう遅いと思う」
少し前を歩いていた兵士が、ちょうど仲間へ《地鳴り》の話をしている。
まだ王国内へ広がるような呼び名ではない。
この場にいる100人ほどの人間が使い始めただけだ。
それでも、軍人は所属先へ戻れば仲間へ話すし、観測所の測量員たちも別の地域へ移動することがある。
噂というものがどう広がるのか、エイル自身にはまだ実感がなかった。
◇
第3前進砦が見えてきたのは、その日の夕方だった。
山裾を切り開いて作られた軍事拠点で、高い城壁を持つ本格的な城塞というより、石と太い木材を組み合わせた防壁で街道を囲み、その内側に兵舎、倉庫、治療所、厩舎、訓練場をまとめた前線基地に近い。
常駐兵は200名ほどらしい。
第7前進観測所から撤退した一行の姿が確認されると、門の内側はすぐ慌ただしくなり、治療担当と補給兵が次々に外へ出てきた。
負傷者が先に運ばれ、カルド少尉とハインはそのまま砦の指揮所へ報告へ向かう。
エイルたち冒険者には空いている兵舎の1室が与えられた。
「今日はここまで?」
荷物を下ろしながら、エイルがリヴィアへ尋ねる。
「少なくとも今夜は。明日の朝、隊長たちの判断が出ると思う。第3基準標へ戻るか、第7観測所の件を優先するかはまだ分からない」
「観測所って、かなり奥なんですよね」
「ここから北西へ2日半くらい。旧測量路よりさらに外側」
リヴィアは自分の地図を開き、砦から北西へ伸びる細い線を指で追った。
途中から記録が減り、第7前進観測所の周辺になると等高線と簡単な地形記号ばかりになっている。
「この観測所、何を見るために作ったんですか?」
「元々は魔物の移動と地形変化。それに、西境連峰の北側へ抜ける別経路が作れないか調べるため」
エイルの視線が地図の先へ動いた。
そこには大きな空白がある。
リヴィアがすぐ気づく。
「今、行きたいと思ったでしょ」
「少し」
「少しじゃない顔してた」
「でも任務中なので勝手には行きませんよ」
「成長したね」
「前からそれくらいは守ってます」
反論すると、リヴィアは笑いながら地図を閉じた。
◇
夕食後、エイルは砦内の空いている訓練場へ向かった。
大怪我をして以降、完全に身体を休ませる日を作るより、軽い負荷を掛けたあと《自己治癒》で回復させる方が身体の状態を把握しやすくなっている。
もちろん骨や内臓まで傷めるような訓練をするつもりはない。
今では《高密度強化》も、最大出力を出さずに筋肉や関節へ適度な負荷だけを掛ける使い方ができるようになっていた。
訓練場の隅に置かれていた大型の木製打撃柱へ近づき、まず魔力を使わず剣を振る。
横。
斜め。
突き。
新しく打ち直された長剣にもかなり慣れてきた。
以前より重量が増したことで、速度を出した時の慣性は大きくなっているが、今の筋力なら止めることも難しくなく、むしろ力を乗せた時に刀身がぶれない分だけ扱いやすい。
次に《身体強化》を全身へ薄く流し、速度を上げる。
そのまま《高密度強化》を右脚から腰、背中、腕へ移しながら、柱へ触れる寸前で刃を止めた。
風圧だけで柱の表面に付いていた細かな木屑が飛んだ。
「今、当ててないよね?」
訓練場の入口から声がした。
振り返ると、リヴィアが立っている。
「当ててないです」
「じゃあ何で揺れたの?」
「剣を止めた時の風だと思います」
「そういうことを平然と言うから感覚がおかしくなるんじゃない?」
エイルは少し考えたが、否定できなかった。
「訓練ですか?」
「私は見に来ただけ。砦の人から、あのA級って普段何してるんだって聞かれたから」
「それで僕を見に?」
「半分はそれ。もう半分は、昨日の戦い方を近くで見てなかったから少し気になった」
リヴィアは訓練場の壁際まで来ると、邪魔にならない場所へ寄った。
エイルは特に断る理由もないため、そのまま訓練を続ける。
今度は長剣を鞘へ戻した。
「剣は使わないの?」
「身体強化の方もやるので」
訓練場の端には、兵士が脚力訓練へ使う大きな石塊が置かれている。
持ち手の付いた重量物で、数字を見る限り最も重いものは500キロ近いらしい。
エイルはその前へ立ち、片手で取っ手を掴んだ。
以前、グランと訓練した頃なら、500キロでも純粋な身体能力を確かめるには十分な重さだった。
今は持ち上げる。
普通に浮いた。
肩の高さまで上げても、まだ余裕がある。
「……それ、何キロ?」
「500くらいって書いてあります」
「片手で?」
「今のところ魔力は使ってないです」
リヴィアが黙った。
エイルはその反応を気にせず、石塊を静かに戻す。
「もう少し重いのが欲しいな」
「多分この砦、あなたの訓練を想定して作ってないと思う」
「ですよね」
本人としては、ただ現在の身体能力を確かめたかっただけだった。
しかし訓練場の入口では、いつの間にか数人の兵士まで足を止めている。
昨日助けた者もいれば、この砦に元々いた兵士もいる。
噂を聞いて見に来たらしい。
「《地鳴り》って、魔法使いじゃなかったのか?」
「剣士だろ」
「500を片手で持つ剣士って何だよ」
声は小さいが、《近域感知》を薄く維持しているエイルには普通に聞こえる。
聞かなかったことにした。
◇
翌朝、砦の指揮所へ呼ばれたエイルは、ハインとカルド少尉のほかに見覚えのない軍人が2人いることへ気づいた。
1人は40代半ばほどの男性で、軍装の肩にはハインより明らかに上位の階級章が付いている。
もう1人は20代後半ほどの女性で、腰に剣を下げているものの、机の上には大量の書類が置かれていた。
「西部方面隊第3前進砦司令、バルガス中佐だ」
男性が名乗る。
「エイル・アーネット、A級冒険者。昨日、第7隊の撤退を援護した本人で間違いないな?」
「はい」
「報告書を読んだ。追撃個体の数は正確には不明、少なくとも100以上。大型個体を1体確認し、それを含めて単独で追撃を停止させたとある」
「数は途中から分からなくなったので、そのくらいだと思います」
「大型個体について特徴を説明できるか?」
エイルは見た範囲で答えた。
6脚。
板状の外殻。
前脚が発達していること。
口内へ魔力を集め、腐食性の液体を吐いたこと。
地下をかなりの速度で移動していたこと。
バルガス中佐の隣にいた女性軍人が、その内容を次々に書き取っていく。
「その大型個体を倒した方法は?」
「背中へ乗って、殻の隙間から剣を刺しました。そのあと内部へ《衝撃》を何回か通してます」
「昨日から何度も出てくる《衝撃》という技能は、どの程度の範囲まで使える?」
「やり方によります」
「例えば、この砦の正門へ大型魔物が密集した場合は?」
質問の意図を考え、エイルは少し間を置いた。
「正門の外なら、周りに人がいなければかなり広く使えると思います。ただ、壁ごと壊す可能性があるので近すぎるとやめた方がいいです」
室内が少し静かになる。
バルガス中佐がハインを見る。
「誇張は?」
「私が見た範囲では、むしろ本人が控えめに言う傾向があります」
「そうか」
エイルは少し納得できなかったが、話を止めるほどではない。
バルガスは地図を広げた。
「本題だ。第7前進観測所を襲った群れについて、今朝別方向から偵察を出したところ、観測所自体はまだ残っていることが分かった」
地図上の小さな四角へ指が置かれる。
「問題は、周辺に昨日まで存在しなかった大規模な地割れが複数発生していることだ。そこから未確認個体が地上へ出ている可能性が高い」
「地割れの原因は分かってますか?」
「不明だ。地震記録はない。ただし、この地域では3か月ほど前から地中振動の報告が増えている」
エイルはリューデ湖の地下で起きていた異常を少し思い出したが、ここは距離が離れすぎている。
同じ原因と決めつける理由はない。
「観測所には何が残ってるんですか?」
「直近3か月分の振動記録と地下反応の測量資料だ。撤退時に持ち出せなかった」
それなら回収する価値は高い。
バルガス中佐は続けた。
「本来なら砦から1個小隊以上を出して奪還に向かう。ただ、現在西側街道でも別件が起きていて、まとまった兵を動かしにくい」
「別件?」
「魔物の移動が増えている。まだ被害は小さいが、複数の集落へ警戒を出しているところだ」
軍全体が少しずつ忙しくなっているらしい。
「そこで、第4測量護衛小隊には予定を変更してもらう。第3基準標は後回しにし、第7観測所へ向かって記録を回収する」
ハインが頷く。
エイルも断る理由はなかった。
「分かりました」
「それから、エイル」
バルガス中佐がこちらを見る。
「お前には別枠で動いてもらいたい」
「別枠?」
「観測所へ向かう部隊の先行戦力だ。未知個体と遭遇した場合、討伐より情報収集を優先する方針は変えない。ただし撤退路へ敵が回った場合には、お前の判断で戦闘して構わない」
「自由に動いていいんですか?」
「ハインの作戦範囲内でな。昨日のように1人で消えるのは困る」
ハインが横で強く頷いた。
「本当にそこは守ってくれ」
「昨日は許可もらいましたよ」
「許可した俺が悪かった気がしてきてる」
少しだけ空気が緩んだ。
しかしバルガスの表情はすぐ戻る。
「もう1つある。観測所から北西へ半日ほどの場所に、開拓民の小集落がある」
地図へ新しい印が置かれる。
「人口はおよそ160。昨日の時点では避難命令を出していないが、もし地中個体の活動範囲が北西へ伸びていれば、集落が巻き込まれる可能性がある」
エイルの視線がその印へ止まった。
160人。
昨日よりさらに多い。
「今、連絡は?」
「朝に伝令を出した。まだ戻っていない」
指揮所の空気が少し重くなる。
第7観測所の記録を回収する。
地割れを確認する。
そして必要なら、集落の人間を避難させる。
単なる測量任務からは、かなり話が変わってきている。
「出発は?」
「1時間後だ」
「分かりました」
エイルはすぐ立ち上がった。
◇
指揮所を出ると、建物の外でリヴィアが待っていた。
「聞いた?」
「観測所と、その先の集落ですよね」
「私も行く。観測所の記録を扱える測量員が必要だから」
「危なくなったら下がってくださいね」
「それ、昨日1人で100体以上のところへ残った人に言われると複雑なんだけど」
「僕は逃げる人を守る方なので」
「じゃあ、今回は守ってもらおうかな」
冗談めいた言葉だった。
エイルも軽く返すつもりでいたが、リヴィアは続けて地図を開いた。
「集落の周り、少し地形が悪い。北と西が崖に近くて、南東へ抜ける道が1本しかないから、本当に襲われたら避難に時間が掛かる」
エイルも地図を見る。
大勢を守りながら細い道へ逃がす。
昨日と似た条件だ。
ただし今回は160人。
子供や高齢者もいる。
敵の数も種類も分からない。
それでもエイルが考えたのは、自分に守れるかどうかではなかった。
どこへ敵を集めれば、最も安全に全員を逃がせるか。
どの範囲まで《衝撃》を使えるか。
どこに立てば、1人で最も広い方向を塞げるか。
すでに考える基準がそちらへ変わっている。
リヴィアは地図を見ていたエイルの顔を横から見て、少しだけ眉を寄せた。
「今度は最初から1人で全部やろうとしないでね」
「必要なら頼りますよ」
「本当に?」
「多分」
「そこは『はい』って言うところだと思う」
エイルは笑いながら地図を返した。
1時間後。
第4測量護衛小隊は、予定されていた旧測量路の続きを外れ、第7前進観測所へ向けて砦を出る。
その少し後ろでは、昨日救助された兵士たちが出発を見送っていた。
エイル本人が知らないところで、《地鳴り》という呼び名はすでに第3前進砦の兵舎へ入り込み始めている。
その由来として語られていたのは、地面を1度大きく揺らした技だけではなかった。
森の奥から何度も響いた重い《衝撃》。
地面から靴底へ伝わり続けた低い振動。
そして、それが止んだ数分後、追手の姿だけが消えていたこと。
まだ小さな噂にすぎない。
ただ、その音を実際に聞いた者ほど、《地鳴り》という2文字を笑わず口にするようになり始めていた。




