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第74話 西境へ続く道

 ローデンへ戻ってから10日目の朝、エイルは宿の部屋にある姿見の前で新しい装備をひと通り確かめると、腰のベルトを締め直し、その上から黒に近い濃灰色の戦闘用コートを羽織った。


 リューデ湖へ向かう前まで使っていた外套は、雨風を防ぎ、寝具代わりにもできる便利なものではあったが、地下遺構や狭い岩場で何度も裾を引っ掛け、戦闘中にも大きく翻ることがあったため、今回は仕立屋へ頼んで最初から探索と戦闘を前提に作り直してもらっている。


 丈は膝へ僅かに届かない程度で、胴回りは身体へ沿うものの窮屈にならないよう余裕が取られ、腰から下は前後ともに分かれているため、走る時にも剣を振る時にも脚へ絡まない。前合わせには小さな鈍銀色の留め具が並んでいるが、すべてを閉じなくても形が崩れないよう作られており、普段は胸元だけ留めて下側を開けたまま歩ける。


 首元には少し高めの襟があり、雨や砂風が強い場所では立てられるようになっている。その縁だけには黒に近い青色の細い糸が縫い込まれ、光が当たった時にようやく分かる程度の意匠が入っていた。


 袖口にも同じ色の細線が1本だけ走っている。


 派手ではない。


 ただ、何の飾りもなかった以前の外套よりは少しだけ整って見える。


 右肩から胸元にかけては薄い魔獣革が内側へ仕込まれ、左脇と腰回りにも擦れや衝撃へ耐える補強が入っている。表からはほとんど見えないものの、コートの内側には細い革帯と小さな留め具があり、薬瓶、予備の布、火口箱、細縄などを身体へ密着させたまま収納できるようになっていた。


 背面には地図筒を斜めに固定する帯があり、歩くたびに筒が腰へぶつかることもない。


 コートの下には、黒褐色の軽量革鎧を着ている。


 胸部と脇腹へ薄い硬質革を重ね、肩と肘には動きを邪魔しない程度の補強を入れたもので、腕や脚まで重い金属板で覆う形にはしていない。下半身も丈夫な濃灰色の旅用長衣と革布を重ねた実用的な服装でまとめ、膝には外から目立たない薄い当て革を入れている。


 足元は足首をしっかり固定できる黒革の長靴へ替えた。


 全体として見れば色は暗い。


 ただし金具は鈍銀色、革鎧には濃い茶色が残り、襟元と袖口には青黒い細線が入っているため、単純に黒一色で固めたわけではなかった。


 エイル自身は服装に強い拘りがある方ではない。


 それでも姿見へ映る自分を見ていると、村から初めて旅へ出た頃より、随分と自分に馴染んだ格好になったとは思う。


「こっちの方が動きやすいな」


 裾を軽く払ってみても、膝や太腿へ引っ掛かる感覚はない。


 戦闘中に大きく身体を捻っても問題なさそうだった。


 外見より実用性を優先して選んだ結果ではあるものの、黒いコートと腰の長剣という組み合わせは、今後エイル自身を覚えている者にとって分かりやすい特徴になっていくのかもしれなかった。


     ◇


 《赤炉》へ着いた時、工房の扉はまだ閉まっていたが、内部からはすでに槌の音が響いていた。


 エイルが入口横へ立つと、《近域感知》には工房内を動く数人の気配と、炉の周囲で大きく揺れる魔力が薄く伝わってくる。


 ローデンへ戻ってから大きな戦闘はしていないにもかかわらず、常に薄く使い続けてきた感知技能はさらに馴染み、今では意識を向けなくても自分の周囲数メートル程度なら、人の動きや魔力の変化が背景情報として入るようになっていた。


【《近域感知 Lv.15 → Lv.17》】


【《危機感知 Lv.23 → Lv.24》】


 さらに朝の鍛錬後には《自己治癒》を使い、筋肉へ残る小さな負担を回復させることも習慣になっている。


 傷を負ってから使うだけではなく、強い身体強化を使ったあとに生じる細かな損傷へ魔力を流すことで、その日のうちにかなり回復させられるようになり、結果として以前より高い密度で鍛錬を続けられるようになっていた。


【《自己治癒 Lv.10 → Lv.12》】


 大きな敵を倒していない時でも、身体と技能は止まらず伸びている。


 その事実にも、エイルは少しずつ慣れ始めていた。


 やがて槌の音が止まり、工房の奥から重い足音が近づいてくる。


 扉を開けたグレイグは、入口前に立っているエイルを見るなり眉を寄せた。


「朝から突っ立ってるなら入れ」


「前に勝手に入るなって言われたので待ってました」


「……言ったな」


「だから入らなかったんですけど」


 グレイグは数秒黙ったあと、少し納得のいかない顔をしながら扉を大きく開いた。


「今回はお前が正しい。入れ」


 炉の熱と鉄の匂いに満ちた工房へ入る。


 作業台の中央には、見覚えのある長剣が置かれていた。


 ただし、一目で以前のままではないと分かる。


 基本的な形は残っている。


 エイルが最初から使い続けてきた、片刃寄りの長剣。


 刀身の大部分は片側へ主刃を持つものの、切っ先近くには反対側にも短い刃があり、斬撃だけではなく刺突にも使える。以前より僅かに刀身が長くなっているが、幅は無闇に広げられておらず、巨大な大剣というより、高い速度を保ったまま重い斬撃にも耐えられる形へ調整されていた。


 刀身の色は黒銀。


 磨かれていても白く光ることはなく、深い灰色の表面を光へ傾けた時だけ、内部を走る青黒い筋が薄く浮かび上がる。


 それは装飾として描かれたものではない。


 青鋼と深層鉱によって作られた魔力の通り道が、刀身そのものの中へ組み込まれている。


 ただ、鍔元には1つだけ装飾らしいものが増えていた。


 小さな鍔の中央に、深い青色を帯びた細い金属片が左右へ伸び、翼にも、水面にも見える緩い曲線を作っている。


「これ、前はありませんでしたよね」


「余った深層鉱を削った。機能的には補強材だが、全部真っ黒じゃ味気ないだろ」


「グレイグさん、こういうの入れるんですね」


「気に入らないなら外すぞ」


「いや、結構好きです」


 素直に答えると、グレイグは鼻を鳴らした。


 柄は黒革巻きで、以前より僅かに長い。


 柄頭には小さな鈍銀色の金具が入り、その中心にも青黒い点が1つだけ見える。


 こちらも飾りだけではなく、内部に残した旧剣の芯を固定するための構造らしい。


「持て」


 エイルは剣を受け取った。


 重い。


 以前より明らかに重量は増している。


 しかし、片手で軽く持ち上げてみても振り始めはむしろ滑らかで、両手へ持ち替えて斜めに振ると、切っ先が考えた位置へ自然に止まった。


「重くなってるのに、前より扱いやすいですね」


「今のお前なら軽い剣の方が問題になる。力が上がりすぎて、接触した瞬間に刀身側が負けるからな。重量を少し足して、重心を柄側へ戻した」


 グレイグは刀身の根元を指で叩いた。


「それより大きいのは中身だ。前は青鋼を魔力路にして魔鉄で支え、角根で負荷を逃がしてた。今回は深層循環獣の体内から出た深層鉱を芯へ噛ませ、その周囲を甲殻由来の補強材で締め直してある」


「圧縮した魔力を通すため?」


「そうだ。試せ。ただし《衝撃》は撃つなよ」


 エイルは柄から少量の魔力を流した。


 反応はすぐ返ってくる。


 以前の剣では、魔力が柄から刀身へ移り、青鋼を通って先端へ伸びていく過程を僅かに感じていた。


 今はそれがほとんどない。


 剣を握っている自分の手と、切っ先までが最初から1本に繋がっているような感覚だった。


 続いて《魔力圧縮》を使い、流す魔力の密度だけを少し上げる。


 刀身内部で偏りが生まれない。


 以前なら一部の伝導路へ熱が集中していたが、今は濃い魔力を保ったまま滑らかに先端へ届く。


「これなら、かなり奥まで通せそうだな」


「そうやってすぐ出力を上げる話にするな」


「でも前より耐えますよね」


「耐える。壊れないとは言ってない」


 グレイグは即座に返した。


「お前が今後どこまで強くなるか、もう俺には分からん。今のお前が使う分にはかなり余裕を持たせたが、半年後のお前まで保証する気はないぞ」


「半年でそんな変わりますかね」


 グレイグが無言でエイルを見る。


「……変わりそうですね」


「自分で言うな」


 エイルは笑いながら、もう1度黒銀の刀身を見る。


 派手な宝剣ではない。


 それでも黒銀の刃に青黒い筋が入り、鍔元と柄頭にだけ小さな青色の意匠があることで、以前より少しだけ完成された武器らしく見えた。


「名前は?」


「まだ付けなくていいです」


「だと思った」


「まだ変わると思うので」


「剣もだが、お前もな」


 グレイグの言葉を聞きながら、エイルは新しい鞘へ長剣を戻した。


 鞘も黒革を基調としており、口金と先端だけに鈍銀色の金具が使われ、その縁には鍔と同じ青黒い細線が1本だけ入っている。


 黒い戦闘用コート。


 黒銀の長剣。


 必要以上に目立つ装飾はないものの、以前よりエイル自身の装備として統一された印象が強くなっていた。


     ◇


 新しい剣を受け取ったその足で冒険者ギルドへ向かうと、西側の依頼掲示板には王国軍関連の依頼が以前より増えていた。


 王国西部では季節の変わり目に合わせて交易路と測量路の再確認を進めており、西境連峰へ近づくほど地図が古くなるため、軍と冒険者ギルドが合同で道と周辺生態を調べているらしい。


 ただ、エイルが興味を持ったのは依頼の規模ではなく、資料に書かれている魔物情報の少なさだった。


 内地なら名前、特徴、危険度、過去の討伐例まで記録されている種が多い。


 ところが西境外縁では、《白色大型飛行種》《岩中潜行個体》《長腕樹上個体》という程度の仮称しかなく、強さについても「不明」「遭遇記録少数」と書かれたものばかりだった。


 何級相当か。


 どれだけ危険か。


 資料を読んでも分からない。


 エイルは何枚か見比べ、その中から王国軍西部方面隊が出している依頼票を外した。


【西境第3街道・旧測量路再確認】


【依頼元:王国西部方面隊】


【内容:旧測量路の通行確認、基準標再測量、周辺地形および生態記録】


【条件:B級以上】


【予定期間:8日〜12日】


 目的地は西境連峰へ続く道の途中から北西へ外れた旧測量路で、6年前から本格的な調査が行われていない。


 次へ向かう道としてもちょうどいい。


「これにします」


 受付へ依頼票を持っていくと、担当職員はA級証と内容を確認したあと、少しだけ怪訝な顔をした。


「受注条件には問題ありませんけど、これは討伐依頼じゃありませんよ?」


「分かってます。知らない道を調べる方が面白そうなので」


「出る魔物もほとんど分かってません」


「それもいいですね」


「……A級になっても、選ぶ依頼はあまり変わりませんね」


「多分、これからもそんなに変わらないと思います」


 職員は苦笑しながら手続きを進めた。


「明日の朝、西門外の軍用集積所へ集合してください。軍の測量護衛小隊に加えて、ギルドからB級冒険者3名が参加予定です」


 依頼票を返したところで、エイルは受付横に貼られた大きな告知へ目を向けた。


 王都の紋章が入っている。


 数か月後に行われる王国主催の武技競技会で、軍人、騎士、冒険者から推薦された者が参加し、個人戦と部隊戦の両方が実施されるらしい。


 その横には、王国軍各方面隊による合同演習の告知も並んでいる。


「A級なら推薦枠を狙えますよ」


 受付職員が言った。


「強い人とは戦ってみたいですけど、今は西へ行きたいですね」


「気にならないんですか?」


「気にはなります。近くにいたら考えます」


 その程度だった。


 ただ、王国中から強者が集まる場所という部分だけは、少し頭に残った。


     ◇


 翌朝、西門外の軍用集積所へ集まったのは総勢19名だった。


 王国軍所属が15名。


 冒険者が4名。


 全体の指揮を執るのは、30代後半ほどのハインという軍人で、日に焼けた顔と短く刈った黒髪を持ち、左肩から胸部へ軽金属板を重ねた実戦的な軍装を身につけている。


 腰には幅広の片手剣があり、背中には短槍まで固定されていた。


「西部方面隊第4測量護衛小隊、隊長のハインだ。今回の目的は6年前に放棄された第3旧測量路へ入り、基準標3ヶ所の確認と周辺地形の再測量を行うことにある」


 地図を広げたハインの横には、見慣れない若い女性が立っていた。


 年齢はエイルより2つか3つ上に見える。


 灰色がかった金髪を首元でまとめ、瞳は薄い緑色。軍の軽装鎧を着ているが、他の兵士より装備が軽く、腰には細身の剣、背中には短弓、反対側には巻いた地図と測量用の道具を入れた細長い筒を下げている。


 鎧の上に羽織っている短い濃緑の上衣には、西部方面隊の紋章と、その下へ小さな銀色の測量針が縫い込まれていた。


「測量斥候のリヴィア・セインだ。地図と進路確認は私が担当する」


 声は落ち着いていた。


 ハインが説明を続ける間にも地図へ視線を落とし、古い道と現在の地形を見比べている。


 エイルは腰の地図筒へ目を向けた。


 リヴィアもそれに気づいたのか、一瞬だけこちらを見る。


「地図を書くの?」


「はい。旅した場所はなるべく自分でも残してます」


「冒険者にしては珍しい」


「空白があると気になるので」


 その答えを聞いた時だけ、リヴィアの表情が少し変わった。


「それは分かる」


 短い会話だった。


 ハインが説明を再開したため、それ以上続けることもなかった。


 ただ、少なくとも地図を持っているだけの人間ではなさそうだった。


「ここから先では、既存の討伐等級を当てにするな」


 ハインが全員へ告げる。


「記録が少なすぎる。同じ姿の魔物でも内地とは性質が異なる例があり、名前すらない個体も多い。今回は観測が優先だから、戦えるかどうかより情報を持ち帰ることを考えろ」


「出会うまで強さが分からないんですか?」


 エイルが尋ねる。


「そのつもりでいろ。資料に書いてある数字より、自分の目と現場の判断を信じた方がいい」


 エイルは素直に頷いた。


 強さの基準がない。


 少し前なら不安に思ったかもしれない。


 今はむしろ、その方が気楽だった。


     ◇


 旧測量路へ入ったのは出発から2日目だった。


 最初の1日は整備された街道を進んだため大きな問題は起きなかったが、北西へ折れる古い道へ入った途端、石畳は木の根によって持ち上げられ、道そのものが草木へ埋もれている場所まで増えていった。


 リヴィアと2名の測量兵が前方の地形を確認し、その少し後ろをエイルと冒険者たちが歩く。


 エイルは《魔力感知》と《振動感知》を広く薄く展開し、その内側へ《近域感知》を重ねていた。


 午前中だけでも複数の生物反応が入る。


 地中。


 木上。


 遠方。


 そのほとんどはこちらを襲う様子がないため、位置だけ把握して通り過ぎた。


 昼を過ぎ、地面の傾斜が少し強くなった頃、《危機感知》が僅かに反応した。


「右前方に3体います。距離は70メートルくらいで、地面より高い位置です」


 ハインがすぐ片手を上げ、隊列を止める。


 リヴィアは地図を丸めると短弓へ手を伸ばし、木々の上へ視線を走らせた。


「まだ見えない」


「太い枝の上にいると思います。少しずつこっちへ動いてます」


 エイルが答えた数秒後、灰白色の影が木々の間から地面へ落ちてきた。


 人間より頭2つほど高く、胴体に対して両腕が異様に長い。身体の大部分は細い灰色の毛で覆われているが、胸部と手先だけは黒い硬質皮膚が露出し、指先には曲がった太い爪が伸びている。


 1体。


 続いて左右から2体。


「記録との一致は?」


 ハインが尋ねる。


 リヴィアは魔物を見たまま首を横へ振った。


「ない。少なくとも私が持ってる西部記録には出てない」


「なら追わない。向こうから来た場合だけ迎撃する」


 その判断が終わる前に、中央の1体が動いた。


 長い腕を地面へつき、その反動まで使って一気に距離を詰めてくる。


 B級の盾役が正面へ出た。


 しかし《危機感知》が強く反応した場所は盾ではなかった。


 腕。


 爪。


 向きが低すぎる。


「1歩下がってください!」


 エイルの声を聞き、盾役が反射的に重心を後ろへ移す。


 直後、灰白色の魔物が黒い爪を地面へ叩き込んだ。


 石畳と硬い土がまとめて砕け、無数の破片が前方へ散弾のように飛ぶ。


 エイルは左手を前へ向け、《衝撃》を広く薄く放った。


 飛来していた石片が正面から押し返されるのではなく、左右へ大きく軌道を変えて森の中へ散る。


 その隙に2体目が木を蹴り、エイルの頭上から降ってきた。


 新しい長剣を抜く。


 黒銀の刀身と黒い爪が斜めに触れた。


 正面から力を受けず、刃を僅かに寝かせて外へ流すと、魔物の腕がエイルの肩横を抜ける。


 そのまま身体を入れ替え、脇腹へ斬撃を通す。


 刃は入ったが、外皮が予想より硬い。


 エイルは無理に深く斬ろうとせず、傷へ刀身を残した状態で《振動感知》を流した。


 骨格。


 筋肉。


 内側の魔力。


 刃先から返ってくる情報が、以前よりはっきりしている。


 深層鉱を組み込んだ刀身が魔力だけではなく微細な振動も素直に伝えていた。


「ここなら通るな」


 独り言とともに胸元で圧縮した《衝撃》を長剣へ送り、そのまま傷の内側へ放つ。


 外側の傷口はほとんど広がらなかった。


 それでも灰白色の魔物は全身を大きく震わせ、脚から力を失って倒れた。


 3体目はすでに背後へ回っている。


 《近域感知》が肩と腕の動きを拾う。


 振り返って確認するより早く、エイルは身体を半回転させ、伸びてきた手首へ斜めに刃を通した。


 腕が落ちる。


 完全に切断したわけではないものの、深く傷ついたことで攻撃の軌道が崩れた。


 エイルはそこへ踏み込み、《高密度強化》を右脚から腰、背中、両腕へ短く繋げながら、胸部の黒い硬質皮膚へ2撃目を入れる。


 黒銀の刀身へ圧縮した魔力が流れる。


 硬い表皮が割れ、その下へ刃が深く沈んだ。


 魔物は後方へ数歩よろめき、そのまま倒れた。


 残った1体は動きを止め、エイルたちを見たまま少しずつ後ろへ下がると、追われないと分かったのか木々の奥へ姿を消していった。


 エイルは追わず、剣を下ろす。


「観測優先でしたよね」


「ああ、その判断でいい」


 ハインが答える。


 その横で、リヴィアは倒れた魔物ではなくエイルの剣を見ていた。


「今の、外側を斬ったんじゃないの?」


「途中から中へ《衝撃》を通しました」


「剣から?」


「はい」


 リヴィアは少しだけ眉を上げた。


「変な戦い方」


「よく言われます」


「褒めてる」


「それならありがとうございます」


 そこで会話は終わり、リヴィアはすぐ測量兵と一緒に死体の記録へ向かった。


 興味は持ったらしいが、しつこく技能を聞こうとはしない。


 その距離感はエイルにとって楽だった。


     ◇


 夜営地では、昼間の魔物について仮の記録が作られた。


 体長。


 腕の長さ。


 硬質皮膚の厚み。


 木上移動。


 地面を砕いて破片を飛ばす攻撃。


 既知種との一致が見つからなかったため、仮称として《灰長腕種》とだけ記載される。


「こういう名前もない魔物って、この先はもっと増えるんですか?」


 エイルが尋ねると、焚き火の向こうに座っていたハインが頷いた。


「増える。人間が十分調べた土地だから名前や等級を付けられるだけで、西へ行けば未分類の方が普通だと思った方がいい」


「討伐したあとでも強さは分からない?」


「1回戦っただけじゃ分からん。相性もあるし、個体差もある。複数の記録が揃って初めて大まかな危険度が決まる」


「じゃあ、しばらく何級とか考えない方がよさそうだな」


「それは構わん。ただし、お前が簡単に倒せたから弱いと思い込むのも危険だぞ」


「気をつけます」


 そう答えると、少し離れたところで地図を整理していたリヴィアが顔を上げた。


「その言葉、信用していい?」


「何でですか?」


「昼間、相手の攻撃を1回見ただけで前へ入ったから」


「避けられそうだったので」


「そういう返事をする人の『気をつける』は、あまり信用できない」


 ハインが吹き出した。


「会って半日で分かったか」


「隊長もそう思ってるんですね」


「俺は最初から思ってる」


 エイルは少し困った。


「ちゃんと危なかったら逃げますよ」


「その基準が普通と同じならね」


 リヴィアはそう言って地図へ視線を戻した。


 口調は少し厳しいが、嫌味という感じではない。


 単純に測量隊の人間として、未知の土地で無茶をする者を警戒しているようだった。


 少しして、同じ焚き火を囲んでいた槍使いのB級冒険者が思い出したようにエイルを見る。


「そういや、お前ってリューデ湖ででかい奴倒したA級だろ?」


「大きい魔物なら倒しました」


「やっぱりそうか。ローデンの酒場で《湖底の剣士》って呼んでる奴がいたぞ」


 エイルは眉を寄せた。


「何ですか、それ」


「知らないのか?」


「今初めて聞きました」


「本人に届く前に二つ名だけ歩いてるのか」


 槍使いが笑う。


「普通に名前でいいんですけど」


「こういうのは自分で決めるもんじゃないからな」


 ハインも少し笑っている。


 リヴィアだけは地図から顔を上げ、エイルを1度見てから小さく首を傾げた。


「《湖底の剣士》は、今の格好にはあまり合わない」


「そうですか?」


「黒いコートで山を歩いてる人に湖底って言われても、知らない人は分からないでしょ」


「僕もそう思います」


「本人が1番乗り気じゃないんだな」


 それで話は終わった。


 《湖底の剣士》という呼び名も、まだ酒場の一部で面白半分に使われている程度なのだろう。


 正式な二つ名でもなく、広く知られているわけでもない。


 ただ、本人が知らない場所で噂だけが少しずつ先へ進み始めていることは確かだった。


     ◇


 旧測量路を奥へ進むにつれて、出会う魔物の種類は急速に増えていった。


 3日目には地中から体長6メートル近い無眼の長い個体が現れ、4日目には翼を広げると5メートルを越える黒色飛行種が上空から隊列へ急降下してきた。


 どちらも記録にはない。


 危険度も分からない。


 地中種は厚い表皮を持っていたが、地面の振動を頼りに獲物を追っていると分かれば対処は難しくなく、エイルは足元へ小さな《衝撃》を流して位置を誘導し、狙った場所から頭部が現れた瞬間に長剣を通した。


 黒色飛行種の方は予想以上に速かった。


 最初の急降下では、エイルも完全には軌道を読み切れず、新しいコートの左肩部分を爪で浅く裂かれた。


 布の下に入った傷は小さい。


 《自己治癒》が自然に反応し、魔力を意識して流す前から出血が弱まり始める。


 上空で飛行種が旋回する。


 エイルは追わず、その動きを《危機感知》と《魔力感知》で見る。


 2度目。


 今度は避けた。


 翼を畳む瞬間。


 重心。


 魔力の偏り。


 どの程度まで近づくと方向転換が難しくなるか。


 情報が揃う。


 3度目の急降下では、エイルは後ろへ退かなかった。


 《近域感知》へ入った瞬間、飛行種の翼の付け根と胸部へ流れる魔力が鮮明に見える。


 頭部を僅かに外し、自分から1歩踏み込む。


 黒銀の長剣が胸部へ深く刺さった。


 新しい刀身は圧縮魔力をほとんど滞らせず、そのまま敵の内部へ《衝撃》を通す。


 飛行種の身体が空中で大きく震えた。


 そのままエイルの頭上を越えることもできず地面へ落ち、土を長く削りながら止まる。


 エイルは長剣を引き抜いて血を払い、最初にコートの肩を確認した。


「仕立てたばかりなのにな」


 小さく裂けている。


 身体の傷よりそちらの方が気になった。


「そこなの?」


 近くから声がした。


 リヴィアだった。


「身体はほとんど治ってるので」


「さっき傷ついたばかりでしょ」


「回復する技能があるんです」


 コートの裂け目を指で確認しながら答えると、リヴィアはエイルの肩と、地面に倒れている飛行種を見比べた。


「剣から変な衝撃を入れて、傷は勝手に治って、そのうえ本人は服の方を気にするのね」


「気に入ってるので」


「そう」


 リヴィアの口元が僅かに緩んだ。


「似合ってるとは思う」


 思いがけない言葉に、エイルは1度だけ瞬きをした。


「ありがとうございます」


「別に褒めるために言ったわけじゃないけど」


 そう言いながら、リヴィアはすぐ測量兵の方へ戻っていった。


 距離を詰めてくるわけではない。


 それでも、最初の日より少しだけ会話は増えている。


     ◇


【Lv.48 → Lv.50】


【《剣術 Lv.27 → Lv.28》】


【《危機感知 Lv.24 → Lv.25》】


【《近域感知 Lv.17 → Lv.19》】


【《衝撃 Lv.31 → Lv.32》】


【《自己治癒 Lv.12 → Lv.14》】


 旧測量路へ入ってから数日しか経っていないにもかかわらず、数字はまた動いている。


 以前ならLv.2上がっただけでも、かなり大きな変化として状態板を何度も確認していたはずだった。


 今は表示を見ても、そのまま閉じることが増えた。


 名前のない魔物。


 危険度の分からない敵。


 誰も「A級相当」「B級相当」と教えてくれない土地。


 それでも戦えば、今のところ倒せている。


 その事実が少しずつエイル自身の基準を変え始めていた。


 旧測量路はさらに北西へ伸びている。


 地図上では実線だった道が途中から点線へ変わり、さらにその先では完全な空白へ消えていた。


 夜営の準備を終えたあと、エイルがその地図を眺めていると、隣へリヴィアが来た。


「そこ、気になる?」


「かなり」


「私も」


 リヴィアは自分の地図を開き、点線が途切れる場所へ指を置いた。


「軍の記録では、ここから先へ最後に入った測量隊が17年前。それ以降は正式な地図が更新されてない」


「17年も?」


「だから今回の基準標確認が終わったら、その先を調べる計画もある。ただし今の任務とは別」


 エイルは空白を見る。


「行ってみたいな」


「そう言うと思った」


「リヴィアさんも行きたいんですよね?」


「私はそのために測量斥候になったから」


 初めて、彼女自身の目的らしいものを聞いた。


 王国西部の地図を更新する。


 誰も歩いていない場所へ道を繋ぐ。


 それはエイルが旅を続ける理由と完全に同じではないが、かなり近いところにある。


「じゃあ、また会うかもしれないですね」


 エイルが言うと、リヴィアは空白部分へ視線を置いたまま小さく頷いた。


「西へ行くなら、多分ね」


 その程度の約束だった。


 次に会う日も決めない。


 一緒に旅をすると決めたわけでもない。


 それでも、今まで1人で眺めることの多かった地図の空白を、同じように見ている人間が隣にいることは、エイルにとって少し新鮮だった。


 そして翌朝。


 黒いコートの裾を朝風に揺らしながら、エイルは黒銀の長剣を腰に下げ、名前も危険度も分からない魔物が待つ旧測量路のさらに奥へ進んでいった。


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