第67話 限界の向こう側
巨大個体が吐き出した青白い水圧と、エイルが左手から放つ《衝撃》は第五管理区の中央で激突したまま拮抗し、両者の間では圧縮された水が絶えず弾けて白い霧へ変わり、その余波だけで周囲の石床へ新しい亀裂が増え続けていた。
最初の数秒だけなら互角に見えたものの、実際には巨大個体の方が明確に上だった。
深層循環核から供給されている魔力が途切れないため、口内から放たれる水圧は少しずつ強さを増しており、対するエイルは自分の体内にある魔力だけで押し返している。圧縮率を上げても、魔力量を増やしても、押し込まれる速度を遅らせることしかできない。
靴底が割れた石床を削り、エイルの身体が少しずつ後方へ滑っていく。
【固有技能《越境》が境界を認識しました】
視界に残る表示を見ながら、エイルは奥歯を噛んだ。
以前にも似た感覚はあった。
自分より遥かに強い相手へ挑み、普通なら越えられない場所へ手を掛けた時、《越境》はそこに存在する限界そのものへ反応する。
ただし、認識されたからといって勝手に強くなるわけではない。
境界まで来ただけだ。
越えるのは、自分でやらなければならない。
「だったら……今のまま押してても駄目か」
水圧の向こうに巨大個体の姿を見ながら、エイルは左手へ込めていた魔力を僅かに減らした。
当然、《衝撃》が押される速度は増す。
青白い水の塊が数メートルこちらへ迫った。
それでもエイルはもう一度同じ出力へ戻そうとはせず、空いた魔力を全身へ巡らせながら、先ほどまで使っていた《身体強化》の感覚を見直した。
今までは脚、腰、背中、肩、腕という具合に、必要な場所へ必要な量を配っていた。
それだけでも通常の身体能力を大きく引き上げられる。
しかし《魔力圧縮》を覚えてから、魔力は同じ量でも密度によって働き方が変わることを知った。
《衝撃》へ使えるなら。
感知へ使えるなら。
当然、《身体強化》へも使えるはずだった。
エイルは左脚へ流していた強化魔力を一度集め直し、筋肉を広く覆うのではなく、踏み込むために使う部分へ細く、高密度に押し込んだ。
その瞬間、脚の内側へ熱が走った。
「っ……!」
力が増えた。
それと同時に、筋肉そのものへ掛かる負担まで一気に増えた。
普通の《身体強化》が身体を外側から支えて能力を押し上げるものだとすれば、今のやり方は身体が本来出せる力より先へ無理やり引きずり出している感覚に近い。
危険なのはすぐ分かった。
それでも、今は試す価値がある。
エイルは右脚にも同じ圧縮を行い、さらに腰、背中へ順番に魔力を集めていった。
【《魔力圧縮 Lv.10 → Lv.11》】
【《身体強化 Lv.16 → Lv.17》】
身体が軽くなるのではなく、自分の中から押し出せる力そのものが増える。
エイルは一度息を吸い、押し込まれていた左腕を前へ伸ばした。
足元が止まった。
先ほどまで一方的に後退していた《衝撃》も、そこで押される速度を失う。
巨大個体が低く唸った。
「これなら、まだ上げられる」
肩と腕にも圧縮した強化魔力を流す。
右肩には先ほど脱臼したばかりの痛みが残っているため、強化した瞬間には関節の奥から鋭い痛みが返ってきたが、それでも動かせないほどではない。
身体を守るための強化ではなく、壊れる手前まで使うための強化。
今までとは明らかに違う。
【《身体強化 Lv.17 → Lv.18》】
エイルは左手をさらに押し込んだ。
《衝撃》の前面が動く。
今度は巨大個体の水圧が、僅かに後ろへ押し戻された。
◇
崩落した通路の向こうでは、グランが瓦礫の隙間へ身体を寄せながら、第五管理区から響く轟音を聞いていた。
ボルクが肩を掴む。
「戻るなよ」
「分かってる」
「今のお前、戻る顔してるぞ」
「……あいつ一人残して、素直に帰れる顔ができると思うか?」
少し離れた場所ではレイアが負傷者の確認を終え、兵士たちへ退路を確保させている。
誰もさらに奥へ戻ろうとはしていない。
戻ればエイルが全力を出せなくなると、本人から怒鳴られたばかりだからだ。
「グラン」
レイアが呼ぶ。
「さっき、お前が正面から受けた時はどの程度だった?」
「ほぼ全力だ。少なくとも身体強化は出し惜しみしてねえし、《重断》も大型相手に使う出力で撃った。それでも一発で飛ばされた」
「エイルは止めた」
「ああ」
グランはそれ以上続けなかった。
自分よりエイルの方が強い、と単純に言える話ではない。
技術も経験も、正面からの継戦能力も、まだ自分が勝っている部分はいくらでもある。
それでも、あの一瞬に限れば、エイルは自分が止められなかった質量を止めた。
そして、その後も戦いながら成長している。
「……本当に、昨日より強くなってやがる」
「昨日どころか、さっきよりだろ」
ボルクの言葉に、グランは苦笑すら返せなかった。
瓦礫の向こうから、さらに大きな衝撃音が響いた。
◇
第五管理区では、エイルが水圧を押し返し始めていた。
ただし、楽になったわけではない。
圧縮した《身体強化》を使うほど筋肉と関節への負担は増え、特に一度傷めた右肩は少し動かすだけでも痛む。
それでも、身体の出力は明らかに今までの限界を越えている。
エイルは左脚を一歩前へ出した。
水圧がさらに後退する。
もう一歩。
巨大個体が押し戻される。
青白い水流の衝突点が、第五管理区の中央へ向かって少しずつ移動していく。
「押し切るだけじゃ……駄目だ」
このまま競り勝ったとしても、魔力を使い切れば次がない。
相手には深層循環核から供給がある以上、長引くほど不利になる。
なら、相手の攻撃を正面から上回るのではなく、この一撃そのものを利用して懐へ入る。
エイルは《近域感知》を強めながら、巨大個体の口内へ流れている魔力を読む。
水圧を維持するため、頭部から首、胸部へ繋がる魔力の流れが一方向へ集中している。
今なら他の部分は僅かに薄い。
エイルは左手の《衝撃》を維持しながら右脚へ圧縮強化を集中させ、さらに足裏へ小さな《衝撃》を準備した。
やることは単純だった。
自分の攻撃を突然消し、その直後に水圧の外側へ抜ける。
一瞬でも遅れれば直撃する。
《危機感知》が強く反応している。
それでも今までのエイルなら見えなかった細かな揺らぎまで、《近域感知》が拾っていた。
巨大個体の頭が僅かに右へ向く。
水圧の中心も動く。
そこだった。
エイルは《衝撃》を切った。
押し返すものを失った青白い水圧が、一気に前へ走る。
同時にエイルは右脚を踏み込んだ。
石床が大きく陥没し、圧縮された身体強化と足元の《衝撃》が重なったことで、身体そのものが視界から消えたような速度で横へ飛ぶ。
水圧が外套の端を削った。
背後の石壁が一瞬で抉れる。
エイルはすでに巨大個体の左側面へ回っていた。
「速……」
自分でも声が漏れた。
今までの最高速度より明らかに上だった。
ただし右脚の筋肉にはすぐ強い痛みが返ってくる。
同じ使い方を何度もすれば、先に身体が壊れる。
それでも一回で十分だった。
巨大個体の首へ刺さったままの長剣が目の前にある。
エイルは跳び上がり、柄を掴んだ。
そのまま体重だけで抜こうとしても動かないため、両脚を首の甲殻へつき、《身体強化》を背中と腕へ圧縮して一気に引く。
硬い音とともに長剣が抜け、傷口から黒い血が大量に噴き出した。
巨大個体が首を振る。
エイルはその動きへ逆らわず、空中へ放り出される直前に首の甲殻を蹴り、自分から離れた。
着地と同時に膝を曲げる。
長剣が戻った。
「やっぱり、こっちの方がいい」
青鋼の短剣も腹部へ刺さったままだが、主武器さえ戻れば戦い方は大きく増える。
◇
巨大個体は首の傷から血を流しながら、今までより荒々しく身体を振った。
背中に並ぶ巨大な甲殻が床へぶつかり、そのたびに周囲の石材が砕ける。
さらに深層循環核から魔力が流れ込み、脚元を走る青白い線が強く輝いた。
エイルはそれを《魔力感知》で追う。
供給は常に全身へ均等に入っているわけではない。
床から脚。
脚から腹部。
そして胸部へ集まり、そこから各部へ分配されている。
「だったら、そこを止めればいいのか」
巨大個体そのものを倒す前に、循環核との接続を切る。
それができれば、少なくとも無尽蔵に魔力を補充される状況は終わる。
問題は、その経路が巨大個体の身体内部にあることだった。
外から《衝撃》を撃つだけでは、厚い甲殻にかなり威力を奪われる。
なら、また刺す。
ただし今度は、腹部より深い場所まで。
エイルは長剣を構え、巨大個体へ向かって走った。
相手も前脚を持ち上げる。
今度は避ける。
《近域感知》が爪の軌道を捉え、《危機感知》が直撃範囲を知らせるより早く身体を内側へ滑らせる。
巨大な爪が背後の床を砕く。
次の後脚が横から来る。
エイルは跳ばず、地面すれすれまで身体を落として抜ける。
頭部が戻る。
それも見える。
視界だけでは追い切れない巨大な攻撃が、今は身体へ届く前に情報として入ってくる。
【《危機感知 Lv.21 → Lv.22》】
【《近域感知 Lv.7 → Lv.8》】
巨大個体の攻撃が速くなっているのに、エイルの回避も同じ速度で精密になっていく。
戦いながら。
さらに。
追いついている。
巨大個体の腹部へ入る。
先ほど短剣を刺した傷がある。
エイルはそこへ長剣を重ねた。
甲殻が一度割れているため、今度は深い。
刀身が三分の一。
さらに押す。
圧縮身体強化を脚、腰、背中、肩へ順番に繋ぐと、硬い抵抗が少しずつ崩れ、長剣が半分近くまで巨大個体の内部へ沈んだ。
「もっと奥……!」
《振動感知》を刀身から流す。
骨格。
筋肉。
太い血管。
さらに奥。
巨大な魔力の流れ。
あった。
深層循環核から入ってきた魔力が一度集まる場所。
エイルは胸元で《魔力圧縮》を始めた。
今回はこれまでより多い。
採石場で試した内部衝撃より。
岩甲牙獣へ使ったものより。
さっき巨大個体の腹を傷つけた時より、さらに上。
魔力を狭く押し込みすぎたことで、胸の内側まで痛み始める。
【《魔力圧縮 Lv.11 → Lv.12》】
それでも止めない。
長剣が魔力の通り道になる。
青鋼。
魔鉄。
三角角獣の角根。
グレイグが組み上げた構造が、今までで最も大きな魔力を受け止める。
刀身が低く震えた。
「耐えてくれ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
剣か。
自分の身体か。
それとも両方か。
圧縮した《衝撃》を流した。
巨大個体の身体内部で、これまでとは比較にならない爆発が起こった。
腹部が内側から大きく膨らみ、甲殻の隙間という隙間から黒い血と青白い魔力が同時に噴き出す。
巨大個体が悲鳴に近い咆哮を上げ、前脚が力を失ったように一度沈んだ。
同時に、床を走っていた青白い魔力線が何本も消える。
「切れた!」
供給が弱くなった。
全部ではない。
それでも確実に減った。
エイルが長剣を引き抜こうとした瞬間、巨大個体の腹部が大きく収縮する。
《危機感知》。
間に合わない。
後脚が直接当たったわけではなかった。
ただ、巨体が倒れかけた反動で身体そのものが横へ振れ、その甲殻がエイルへぶつかった。
強い衝撃を受ける。
長剣を握ったまま身体が飛び、石床へ背中から叩きつけられる。
今度は息だけでは済まなかった。
口の中へ鉄の味が広がる。
咳と一緒に血が落ちる。
右脚も痛い。
圧縮身体強化を使いすぎた筋肉が、自分の力に耐えきれず傷み始めている。
それでも。
巨大個体も。
初めて片膝に近い姿勢まで崩れていた。
◇
エイルは長剣を杖代わりにして立ち上がった。
右脚へ体重を掛けると痛むものの、まだ走れる。
肩も。
肋骨も。
身体のあちこちが限界へ近づいている。
巨大個体も、首と腹部から大量の血を流している。
深層循環核からの魔力供給は弱まり、先ほどまで全身を覆っていた青白い光も明らかに薄くなった。
ここまで来て。
ようやく。
同じ場所へ立った。
【固有技能《越境》が境界突破を確認しました】
表示が変わった。
その下へ、新しい文字が続く。
【《越境 Lv.4 → Lv.5》】
エイルは息を止めた。
直後、身体の奥で何かが変わった。
突然傷が治ったわけではない。
魔力が全回復したわけでもない。
それでも、今まで限界だと思っていた場所のさらに先へ、身体が伸びられる余地が生まれたような感覚がある。
圧縮した《身体強化》が、さっきまでより滑らかに筋肉へ馴染む。
《魔力圧縮》も。
《近域感知》も。
長剣を握る指の感覚まで。
全部が少しずつ違う。
【筋力が大きく成長しました】
【耐久が大きく成長しました】
【敏捷が大きく成長しました】
【魔力が大きく成長しました】
【《身体強化 Lv.18 → Lv.20》】
【《魔力圧縮 Lv.12 → Lv.14》】
【《魔力操作 Lv.22 → Lv.23》】
複数の表示が重なっていく。
普通なら、一つずつ確認したくなる。
今は必要ない。
身体で分かる。
さっきまで無理をしなければ届かなかった出力が、今はもう少し自然に出せる。
壊れかけた右脚へ圧縮身体強化を流しても、魔力が負傷箇所を避けながら周囲の筋肉へ分配される感覚まで分かった。
エイルは長剣を持ち上げた。
巨大個体も身体を起こす。
青白い目がこちらを捉える。
さっきまでなら、それだけで《危機感知》が逃げろと訴えるほどの相手だった。
今も危険であることは変わらない。
それでも。
もう。
届かない相手には見えなかった。
「もう一回」
エイルは長剣を構える。
「今度は、さっきより強く」
巨大個体が咆哮し、残っている魔力を口元へ集め始める。
エイルも動いた。
右脚へ圧縮した《身体強化》を流し、さらに一歩目へ《衝撃》を重ねる。
さっきまで石床を蹴るたび足へ返ってきていた負荷が、今は魔力の流れそのものによって少し抑えられている。
速い。
以前の自分なら反応できないほど。
巨大個体の青白い水圧が完成するより先に、エイルはその懐へ入り込んだ。
長剣を下段へ。
魔力を圧縮する。
身体も。
剣も。
《衝撃》も。
今までより一段深く。
巨大個体が頭部を下げる。
エイルはその動きを《近域感知》で拾いながら、剣を握る両手へさらに力を込めた。
長い死闘の中で初めて、巨大個体よりエイルの方が先に攻撃へ入っていた。




