第66話 孤軍奮闘
巨大個体の口元へ集まり始めた青白い魔力を見た瞬間、エイルは背後で続いている退避作業の進み具合と、次の一撃が放たれるまでに残された時間を同時に測っていた。
崩落した通路を通り抜けられていないのは、ボルクとグラン、それに最後まで瓦礫を動かしている領軍兵が一人だけで、他の者たちはすでに狭い隙間の向こう側へ抜けている。全員が通過するために必要なのは長くても十数秒だが、巨大個体の口内で渦を巻く魔力は、それより明らかに早く完成へ近づいていた。
「僕が一回止めます。その間に抜けてください」
エイルがそう告げて第五管理区側へ戻ると、グランは瓦礫へ掛けていた手を止め、すぐにこちらへ向き直った。
「待て、一回止めるって何する気だ。さっきのを正面から受けるつもりじゃないだろうな」
「受けません。撃たせる前に崩します」
「相手はさっきお前と俺をまとめて吹き飛ばせるような奴だぞ」
「だから急いでください」
話している間にも、巨大個体は通路へ近づいてくる。
三十メートル近い巨体が一歩進むたび、その周囲にある石床が割れ、壁から細かな破片が落ちていた。深層循環核が起動してからは身体内部の魔力反応まで増大しており、先ほど首へ叩き込んだ内部衝撃で生まれた傷も、黒い血を流してはいるものの動きを鈍らせるほどには至っていない。
今の自分では、普通に戦えば勝てない。
その認識は、エイルの中ではっきりしている。
それでも十数秒なら作れる。
エイルは胸元で《魔力圧縮》を進めながら、巨大個体の頭部へ《魔力感知》を集中させた。
口内へ集まる魔力は水と混ざり、一ヶ所へ圧縮されている。
なら、完成する前にその均衡を崩せばいい。
「エイル!」
「行ってください!」
グランの制止を振り切るように地面を蹴ると、《身体強化》で増幅された脚力へ《衝撃》を重ね、数十メートルの距離を一息に詰めた。
巨大個体も反応する。
青白い目がエイルを捉え、口元に集めていた魔力を維持したまま前脚が横から振られた。
巨大な壁が迫るような一撃だったが、《危機感知》が動き始める瞬間を先に拾っている。
エイルは身体を低く沈め、甲殻に覆われた爪の下へ潜り込むように抜けると、そのまま頭部の側面へ回った。
狙うのは首ではない。
口元。
より正確には、外から集められた魔力が喉の奥へ流れ込んでいる場所だった。
《近域感知》を一気に濃くする。
巨大個体の表面を走る魔力。
筋肉が動く振動。
呼吸とともに膨らむ喉。
複数の感覚を狭い範囲へ圧縮すると、普段なら巨大すぎて一つの塊にしか見えない相手の身体が、今だけはいくつもの細かな動きへ分かれて見えた。
エイルは長剣を逆手気味に持ち直し、口の付け根にある甲殻の隙間へ刃を突き込む。
数センチ。
それで十分だ。
あらかじめ圧縮していた《衝撃》を刀身へ流し、口内へ集まっている魔力そのものを狙って内部で放出した。
低く鈍い破裂音が響く。
巨大個体の頭部が跳ね上がり、完成寸前だった青白い光が口の外ではなく横方向へ漏れた。
次の瞬間、制御を失った水圧が第五管理区の壁面へ向かって暴発し、幅十メートル以上にわたって石壁を削り飛ばす。
まともに通路へ入っていれば、退避中の全員を巻き込んでいた。
「よし……!」
エイルは剣を抜こうとした。
そこで《危機感知》が強く鳴った。
巨大個体の頭部が振られる。
間に合わない。
エイルは剣を引き抜くことを諦めて柄から手を離し、両腕を身体の前へ上げた。
硬い甲殻が横から激突する。
身体強化を最大近くまで引き上げていても、受け切れる力ではなかった。
エイルの身体は石床から浮き上がり、そのまま二十メートル以上を飛ばされ、途中で一度床へ肩から叩きつけられたあと、さらに何度か転がってようやく止まった。
胸の奥から空気が全部抜ける。
「……っ、は……」
右肩に強い痛みがある。
肋骨も何本か怪しい。
それでも動ける。
エイルは片膝をつきながら顔を上げる。
長剣は巨大個体の口元へ刺さったままだった。
そして、その向こうにある崩落通路では、最後の兵士が瓦礫の隙間を抜けようとしている。
あと少し。
「エイル! 戻れ!」
グランがまだこちら側にいた。
「何してるんですか! 早く行ってください!」
「お前の剣も回収する! 一人で残すわけにいくか!」
「剣は僕が取ります!」
「そういう話じゃねえ!」
グランがエイルの方へ走ろうとする。
その後ろではボルクまで戻ろうとしていた。
巨大個体の頭部が再びエイルへ向く。
先ほど魔力を崩されたことを理解しているのか、青白い目に明確な敵意が宿っていた。
ここで二人が戻れば、また守る対象が増える。
その状態では、採石場で試したような《衝撃》は使えない。
広範囲へ放てば二人まで巻き込む。
巨大個体だけへ集中すれば、今の出力では足りない。
「エイル、お前も来い! 危険すぎる! 今ならまだ――」
グランの声を聞いた瞬間、エイルの中で何かが切れた。
「――早く行けって、言ってるだろッ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
グランだけではなく、ボルクまで動きを止める。
普段なら、もっと違う言い方をしていたはずだった。
お願いします。
先に行ってください。
僕なら大丈夫です。
いつも通りなら、そう言う。
しかし今は、その数秒すら惜しい。
巨大個体が一歩進むたび、次の攻撃まで残された時間が減っている。
「こっちは全力を出せないんだよ! 邪魔だ! 早く行け!」
地下通路へエイルの怒声が響いた。
グランの表情が固まる。
ボルクも何も言わない。
エイルは呼吸を乱したまま、それでも二人から目を逸らさなかった。
「全員向こうへ行ったら、僕も逃げます。だから今は……早く行ってください」
最後だけ、いつもの口調へ少し戻った。
グランは歯を食いしばるようにエイルを見ていたが、やがて後ろにいるボルクへ視線を向ける。
「……行くぞ」
「でも――」
「こいつがここまで言ってるんだ。俺たちが残った方が邪魔になる」
納得したわけではない。
それでも二人は崩落通路へ向かって走り、最後にグランだけが一度振り返った。
「死ぬなよ!」
「分かってます!」
ボルクが隙間へ入り、続いてグランが身体を滑り込ませる。
向こう側へ消える直前、グランはもう一度エイルを見た。
それから。
誰もいなくなった。
◇
背後から人の気配が完全に消えたことを、《近域感知》と《振動感知》の両方で確認する。
エイルはゆっくり息を吐いた。
右肩が痛い。
胸も呼吸するたび軋む。
長剣は相手に刺さったまま。
目の前には、自分より遥かに強い巨大個体がいる。
普通なら、状況はさっきより悪くなったはずだった。
それでもエイルの表情は、ほんの少しだけ変わった。
「……これなら」
巨大個体が頭部を低くする。
刺さった長剣を振り落とそうと首を大きく振るが、刃は甲殻の隙間へ深く噛み込んだまま抜けない。
エイルは左手を巨大個体へ向ける。
「もう、遠慮しなくていい」
魔力を集める。
今まで敵へ使ったどの《衝撃》より多く。
採石場で岩壁を抉った時よりさらに深く。
《魔力圧縮》で胸元へ魔力をまとめながらも、今回は細い一点へ絞らない。
周囲には誰もいない。
壊してはいけない建物も、守らなければならない研究者も、近くで戦う仲間も存在しない。
あるのは巨大個体と、古代施設の石壁だけだった。
地面に転がる小石が震え始める。
エイルの前にある空気が歪み、集まり続ける魔力の圧力で外套の裾が後ろへ揺れる。
【《魔力圧縮 Lv.8 → Lv.9》】
【《魔力操作 Lv.21 → Lv.22》】
巨大個体が異変を感じた。
頭部をエイルへ向ける。
青白い目が細くなる。
次の瞬間、三十メートル近い巨体が真正面から走り出した。
エイルも左手を前へ押し出す。
「《衝撃》!」
放出した。
音が遅れて聞こえた。
目の前の空気そのものが巨大な塊となって前方へ叩きつけられ、巨大個体の頭部から胸部までをまとめて呑み込む。
石床が左右へ砕け飛び、近くを流れていた水路の水まで衝撃だけで数メートルの高さへ巻き上がった。
巨大個体の突進が止まる。
それどころか、三十メートル近い巨体が前脚を浮かせ、そのまま数メートル後方へ押し戻された。
採石場で岩壁を抉った時より。
強い。
明らかに。
エイル自身がその威力へ一瞬だけ目を見開く。
【《衝撃 Lv.23 → Lv.25》】
だが、まだ終わっていない。
土煙の奥から巨大な爪が突き出した。
エイルはすぐ横へ跳ぶ。
前脚が石床へ叩きつけられた瞬間、さっきまで立っていた場所が丸ごと陥没し、半径数メートルの床が崩れる。
全力の《衝撃》を正面から受けても、巨大個体は倒れていなかった。
甲殻には大きな亀裂が入り、頭部から黒い血が流れている。
確かに効いている。
それでも動く。
「やっぱり……これでも足りないか」
エイルは口元の血を手の甲で拭った。
怖い。
それは認める。
全力に近い一撃を当てても倒れず、逆に自分は一度攻撃を受けただけで肩と肋骨を傷めている。
真正面から殴り合えば、先に身体がもたない。
しかし、さっきまでとは条件が違う。
もう誰かを庇う必要はない。
攻撃を避ければ、その後ろで誰かが死ぬという状況でもない。
だったら、全部避ければいい。
巨大個体が二度目の突進へ入る。
エイルは《近域感知》を限界近くまで高めた。
広い感知は捨てる。
今必要なのは目の前の一体だけだ。
前脚が踏み込む位置。
頭部の傾き。
甲殻の内側で動く筋肉。
魔力が流れる方向。
それらを《魔力圧縮》の感覚で自分の周囲へ凝縮する。
視界だけなら巨大すぎて全体を見ることが難しい相手が、感知の中では逆に細かく分解されていく。
【《近域感知 Lv.6 → Lv.7》】
頭部が来る。
右。
エイルは半歩だけ左へ動いた。
巨大な牙が外套の端を掠める。
続く前脚。
跳ばない。
床を蹴って内側へ入り、爪が落ちるより先に巨大個体の懐へ潜り込む。
そこから見上げた腹部にも甲殻はあるが、背中ほど厚くはない。
エイルは青鋼の短剣を抜いた。
長剣はまだ首へ刺さっている。
「これなら届く」
短剣へ《身体強化》で生み出した力を乗せ、腹部の甲殻の隙間へ突き込む。
刃が入る。
長剣より短い。
その代わり、青鋼の魔力伝導はいい。
胸元ではすでに《魔力圧縮》が始まっている。
先ほどの広域放出とは反対に、今度は極限まで細くする。
短剣の刃先。
そのさらに奥。
内部へ。
《振動感知》を短剣から流すと、巨大な身体の内側に硬い構造がいくつも感じられた。
骨。
筋肉。
太い血管。
そして。
それらとは違う。
魔力が集中している場所。
「そこか」
エイルは圧縮した《衝撃》を一点へ流した。
腹部の奥で爆発する。
巨大個体の身体が大きく跳ねた。
今度は確かな手応えがあった。
黒い血が短剣を刺した隙間から一気に噴き出す。
ただし、エイルが短剣を抜くより相手の反応の方が速かった。
腹部が大きく捻られる。
振り払われる。
エイルは短剣を手放して横へ飛んだが、巨大個体の後脚が肩へ僅かに触れた。
直撃ではない。
それでも人間の身体を吹き飛ばすには十分だった。
エイルは石床を転がり、壁際まで飛ばされた。
今度はすぐ立てない。
左手を床へついたところで、右腕から力が抜けた。
「……肩、外れたかな」
痛みを確認する。
完全には動かない。
右肩。
さっきの一撃で痛めていたところへ、今の衝撃が重なったらしい。
巨大個体は腹部から血を流している。
こちらも傷を与えている。
しかし。
自分の方も確実に削られている。
◇
エイルは左手で右腕を掴み、肩の位置を確認した。
脱臼している。
幸い骨そのものが砕けた感触はない。
巨大個体がこちらへ向き直るまで、数秒ある。
壁へ右肩を押しつける。
息を止め。
一気に入れる。
鈍い音とともに関節が戻り、視界が一瞬白くなった。
「……痛いな」
動く。
まだ剣は振れる。
エイルは立ち上がった。
巨大個体の傷も浅くはない。
首には長剣が刺さったまま残り、腹部では内部衝撃を受けた場所から黒い血が流れ続けている。
今までなら、それで十分な傷だった。
相手が普通の魔物なら。
巨大個体が低く咆哮する。
深層循環核から青白い光が伸び、床の下を走る古い魔力路を伝って、その一部が巨大個体の脚元へ集まっていく。
「……何、それ」
エイルの《魔力感知》が強く反応する。
巨大個体の内部へ。
外から魔力が流れ込んでいる。
さっき与えた傷そのものが塞がっているわけではない。
しかし、明らかに身体内部の魔力が補充されていた。
この施設。
そして。
この魔物。
やはり無関係ではない。
巨大個体が口を開く。
再び水と魔力が集まる。
エイルも左手を前へ向けた。
次は正面から撃ち合う。
相手がどれだけ強いか。
自分の《衝撃》がどこまで届くか。
確かめるためではない。
勝つために必要だから。
魔力を圧縮する。
先ほどより速い。
【《魔力圧縮 Lv.9 → Lv.10》】
巨大個体の口内で青白い光が完成する。
エイルの左手前でも空気が歪む。
同時に放たれた。
圧縮水流と。
《衝撃》。
双方が第五管理区中央で激突した。
凄まじい音とともに水が爆発し、周囲へ白い霧となって広がる。
最初の一瞬は拮抗していた。
しかし。
少しずつ。
エイルの《衝撃》が押される。
「……まだ、上か」
左腕へ負荷が来る。
魔力を増やす。
足が滑る。
さらに圧縮する。
それでも押し返せない。
今の最大出力でも。
足りない。
その事実へ《越境》が反応した。
【固有技能《越境》が境界を認識しました】
久しぶりに現れた表示だった。
エイルの目が僅かに見開かれる。
まだ上がらない。
ただ。
ここが。
今の自分の限界だと。
技能が認識した。
巨大な水圧が《衝撃》をさらに押し込んでくる。
後ろには誰もいない。
逃げてもいい。
それでもエイルは足を止めたまま、真正面から巨大個体を睨んだ。
今の全力で届かないなら、ここから先へ行くしかない。
自分がずっとやってきたのは、そういうことだった。




