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第56話 水底の下にあるもの

 縦穴へ入り、最初の十メートルほどを降りる間は、それまでの潜水と大きな違いはなかった。


 円筒状に掘り抜かれた石壁が周囲を囲み、その表面には一定間隔で古びた金属枠が埋め込まれている。照明石の青白い光を下へ向けても底までは届かず、六人分の呼吸具が発する小さな音と、装備が水を押し分ける振動だけが、狭い縦穴の中で普段より強く返ってきていた。


 エイルは最後尾から少し前の位置を保ち、先を降りていく四人の潜水員と学院研究者の位置を《振動感知》で追いながら、壁の向こう側へも意識を広げていく。


 この縦穴は、ただ一本の巨大な筒として下へ続いているわけではないらしい。


 二十メートルほど降りた辺りから、左右の石壁の奥に細い空間が現れ、それが数メートル続いて途切れたかと思えば、さらに下には別の横穴らしき反応が見つかる。どれも現在の縦穴側からは石材で塞がれているものの、もともとは点検路や別区画へ繋がる通路だった可能性が高かった。


 エイルがそのことを潜水班長へ合図すると、班長は壁を確認したあと、後で調査できるよう小さな目印を残す。


 今回は途中へ寄らない。


 目標は、縦穴の最下部にある空気層だ。


 さらに深くなるにつれ、水圧はこれまでよりはっきり身体へ掛かるようになり、呼吸具そのものは対応していても、吸い込む空気には僅かな重さが混じり、耳や胸にも今までとは違う感覚が出始めた。


 エイルは焦らず、カイルから教わった通り呼吸を一定に保ち、姿勢を崩さないよう水流へ身体を合わせながら下降を続ける。


 水深四十メートルを越えた辺りで、先頭の潜水員が一度停止した。


 壁へ設置されていた古い金属枠の一部が崩れ、縦穴中央へ斜めに突き出している。


 人一人なら脇を通れる程度の隙間はあるが、背中へ呼吸具を固定した状態では少し狭く、先頭の二人は身体を横へ向けながら慎重に抜け、学院研究者も続いていった。


 四人目の潜水員が通ろうとしたところで、背面の金具が枠の先端へ噛み込んだ。


 無理に前へ出れば呼吸具そのものを傷める可能性があるため、その兵士はすぐ動きを止め、自分で外そうと手を伸ばす。


 ただ、縦穴の中では下向きの水流が続いており、姿勢を保つだけでも少しずつ身体が引かれていく。


 エイルはその横へ寄り、絡んでいる部分を確認した。


 金属枠はかなり太く、長い年月で錆びてはいるものの、簡単に折れるような細さではない。


 以前なら、どこへ《衝撃》を入れれば外れるか先に考えただろう。


 今は一度だけ、何も使わず片手で押してみる。


 金属が低く軋んだ。


 思ったより動く。


 エイルは身体を安定させるためもう片方の手を壁へつき、少しだけ力を増やして枠を外側へ押し戻した。


 固定されていた根元が石材の中でずれ、金属枠全体が数センチほど曲がる。


 それだけで潜水員の背中に十分な隙間ができた。


 兵士が身体を抜いたあと、驚いたように曲がった金属枠へ視線を向け、それからエイルを見る。


 エイルは問題ないという合図だけ返し、先を指した。


 ここで立ち止まる理由はない。


 潜水班長も一瞬だけ枠を確認したものの、何も言えない水中では小さく首を振るだけで下降を再開した。


     ◇


 五十メートルを越える頃には、水の流れ方そのものが変わり始めた。


 それまで縦穴の中央へ向かって下へ引かれていた水が、壁際では逆に上向きへ流れ、中央部だけが緩やかに下降している。


 一本の流れではなく、施設の内部で水が循環しているらしい。


 エイルはその違いを身体で確かめながら、流れの境目を選んで降りていく。


 《水中行動》を覚えたばかりの頃なら、流れが変わるたび大きく姿勢を修正していたが、今は腰の角度を少し変え、脚の蹴り方を一度調整するだけで自然に中央へ戻れる。


 その動きを見ていたらしい後方の潜水員も、途中からエイルと同じ角度で身体を傾けるようになった。


 数日前までなら、軍の専門潜水員が自分の動きを参考にするなど考えもしなかった。


 それでもエイル自身は特に気にせず、さらに下へ《振動感知》を伸ばしていく。


 水面まで残り二十メートルほど。


 その先にある空間の輪郭も、以前よりはっきり分かるようになってきた。


 硬い床面らしき反応があり、その上には複数の大きな構造物が立っている。


 壁際だけではなく、中央にも何かが存在しており、測定器から想像していたより内部はずっと複雑そうだった。


 そしてもう一つ、明らかに動いている反応がある。


 エイルは手を上げた。


 班全体がその場で止まる。


 潜水班長へ下を示し、そのあと指を二本立てる。


 二つ。


 正確な形までは分からないものの、その反応は水面よりさらに下、つまり空気層側を移動している。


 水棲魔物ではない可能性が高い。


 潜水班長が学院研究者を見ると、研究者は測定器を確認したうえで、こちらから拾える魔力反応は今のところ弱いと合図を返した。


 守衛機のような大型魔導機械ではないらしい。


 予定通り、下降を続けることになった。


 さらに十メートルほど降りると、縦穴の色が変わり始める。


 下から弱い光が上がってきていた。


 自然光ではなく、青とも緑とも言い切れない淡い光が水中の細かな塵を照らしている。


 やがて先頭の潜水員が止まり、その下を指した。


 そこに水面があった。


     ◇


 初めて見る光景だった。


 自分たちは水中にいて、そのさらに下に空気がある。


 縦穴の途中で水が途切れ、透明な膜のような境界を作り、その向こうには石造りの床が見えていた。


 普通の湖なら水面の上に空がある。


 ここでは、その関係が完全に逆になっている。


 先頭の潜水員が慎重に片腕を境界へ入れると、水を抜けた手がそのまま下の空間へ落ちた。


 問題なし。


 一人ずつ降りる。


 頭が水面を抜けた瞬間、呼吸具越しではなく、直接耳へ音が届くようになった。


 天井から落ちる水滴の音、遠くで何かが擦れるような低い音、それらが巨大な空間の中で何度も反響している。


 エイルも境界を抜ける。


 身体の半分が空気側へ出た途端、それまで水に支えられていた装備の重さが一気に戻り、背中の呼吸具や長剣が急に重く感じられた。


「重いですね」


 久しぶりに、自分の声が普通に耳へ届いた。


「着地に気をつけろ!」


 先に降りていた潜水班長が声を上げる。


 水面から床までは四メートルほどあり、壁には古い梯子が残っているものの、途中が何ヶ所も欠けている。


 軍兵たちは縄を使って降り始めた。


 エイルも同じように降りようとしたが、床までの距離を見て少しだけ考える。


 四メートル。


 今の身体なら問題ない。


 エイルは壁から手を離した。


「おい!」


 班長の声が飛ぶ。


 そのまま落下し、床へ着く直前に膝を曲げ、脚へ薄く《身体強化》を流しながら衝撃を全身へ逃がす。


 石床へ靴が触れ、鈍い音が響いた。


 身体はほとんど沈み込まず、そのまま姿勢を戻せた。


「問題ありません」


「問題ないかどうかじゃなくて、急に飛ぶな。お前の大丈夫と俺たちの大丈夫が、最近かなり違ってきてる」


 潜水班長が額を押さえ、後ろから降りてきた兵士の一人が小さく笑った。


 全員が床へ降りたところで、まず学院研究者が空気を測定する。


 数ヶ所で採取した空気を小型器具へ通し、しばらく数値を確認したあと、研究者はようやく頷いた。


「問題ありません。地上より少し酸素量は低いですが、長時間でなければ呼吸できます。危険なガスも今のところ検出されていません」


 その言葉を受け、全員がようやく呼吸具を外した。


 もちろん背中の装置そのものを置いていくわけではなく、帰りに必要になるため口元の管だけ外して固定する。


 エイルも水中眼鏡を額へ上げ、改めて周囲を見る。


 そこで、誰もすぐには言葉を出さなかった。


     ◇


 地下にあったのは、単なる大きな部屋ではなかった。


 巨大な街路のような空間が、目の前いっぱいに広がっている。


 天井は三十メートルを超え、中央には幅の広い石造道路が真っ直ぐ奥まで続き、その左右には二階から三階ほどの高さを持つ建物がいくつも並んでいた。


 窓や入口らしき開口部も残っている。


 ただし、普通の街とは構造が違う。


 建物の間には太い水路が走り、壁や床の一部には巨大な管が露出し、遠くには塔のような構造物まで見えている。


 しかも、完全な暗闇ではない。


 壁へ一定間隔で埋め込まれた青緑色の結晶が、弱いながら今も光を放ち続け、街路や建物の輪郭をぼんやり照らしていた。


「……これ、全部まだ動いてるのか?」


 潜水員の一人が思わず呟く。


 学院研究者は返事もせず、目の前の光景を見ながら記録板へひたすら書き込んでいた。


 エイルは少しだけ前へ出る。


 ここまで広いなら地図が欲しい。


 すぐにでも。


 そう思うくらいには、見える範囲だけでも複雑だった。


「エイル」


 潜水班長に名前を呼ばれ、足を止める。


「先走るなよ」


「分かってます」


「顔が完全に行きたがってる」


「それは否定しません」


 班長は苦笑した。


「まず入口周辺だけ確認する。今日は街一つ探索できる人数じゃないし、帰りだけでもかなり時間を使う」


 その通りだった。


 エイルも頷き、今いる場所を中心に《振動感知》と《魔力感知》を広げる。


 水中より圧倒的に情報が拾いやすい。


 床を通して建物の位置や柱の形が伝わり、その間を移動する反応もはっきり分かる。


「さっき感じた二つ、近づいてきています」


「方向は?」


「正面右側、建物の向こうです。数は二体のまま」


 全員がすぐ武器を準備した。


 水中用の短槍から通常の槍へ持ち替える者もおり、エイルも背中へ固定していた長剣を抜く。


 水中では大きな抵抗を受けていた剣が、空気の中へ戻っただけで驚くほど軽く感じられた。


 筋力が伸びた影響も大きい。


 以前の長剣と同じ重さとは思えない。


 建物の陰から石を引っ掻くような音が聞こえ、やがて一体の魔物が姿を現した。


 灰色の甲殻に覆われた四足獣で、狼ほどの高さがあるものの、胴はそれより長く、頭部は平たい。口元からは二本の牙が前へ伸び、脚は地上の獣より細長く見えた。


 少し遅れて、もう一体も後ろから出てくる。


 学院研究者が息を呑んだ。


「岩牙獣に似ています。ただ、地上種とは形が少し違う」


「危険度は?」


 潜水班長が聞く。


「通常ならD級上位からC級下位程度。ただし、地下適応個体なら分かりません」


 説明が終わるより早く、一体が走った。


 かなり速い。


 ただ、エイルには特別速くは見えなかった。


 真正面からこちらへ来る。


 以前なら一度横へ避け、相手の動きを確かめてから斬っていたかもしれない。


 今はその必要がない。


 エイルは一歩前へ出た。


 《身体強化》も《衝撃》も使わず、接近してくる岩牙獣へ長剣を下から斜めに振り上げる。


 刃は前脚と首の境目へ入り、そのまま勢いを失わず抜けた。


 岩牙獣の身体がエイルの横を通り過ぎ、数メートル先で崩れ落ちる。


 もう一体が足を止めた。


 潜水兵たちも一瞬だけ動きを止めたが、エイルは特に構えを変えず、刃についた血を軽く払って残った一体を見る。


「もう一体、来ます」


 岩牙獣が低く唸り、今度は真正面から来ずに右側へ回り込もうとする。


 エイルは追わなかった。


 相手が動く先へ一歩だけ位置を変える。


 岩牙獣は途中で進路を変え、そのまま跳びかかった。


 エイルは長剣を立て、振り下ろされた前脚を剣の腹で受ける。


 重い衝撃は来た。


 しかし、腕は下がらない。


 そのまま少しだけ剣を押し返すと、岩牙獣の身体が横へ傾き、首元が開いた。


 エイルはそこへ刃を滑らせる。


 それだけで終わった。


 《衝撃》も《身体強化》も必要なかった。


 潜水班長は倒れた二体を見たあと、エイルへ視線を向ける。


「……これ、C級になったから急にできるようになったわけじゃないよな」


「等級は関係ないと思います」


「だろうな」


 班長はそれだけ言うと、すぐ周辺警戒へ戻った。


 エイルも特別なことをしたつもりはなく、刃を拭いて鞘へ戻す。


 少し前までなら、岩牙獣級の相手と一対一で戦えば、技能を使うか、最低でも動きを見てから仕留めていた。


 今は、普通に剣を振るだけで十分だった。


     ◇


 倒した二体を学院研究者が簡単に確認した結果、やはり地上で知られている岩牙獣と完全に同じではないことが分かった。


 甲殻は僅かに薄い代わりに脚が長く、暗所で動くためか目もかなり大きい。長期間この地下空間で生きた結果、地上種から少しずつ変化した可能性が高いらしい。


「ということは、ここに独立した生態系があるんですか?」


 エイルが聞くと、研究者は死骸を確認しながら頷いた。


「少なくとも一時的に迷い込んだ個体ではなさそうです。これが繁殖しているなら餌となる生物も必要ですし、水や空気がどう維持されているのかも調べる必要があります。想像していたよりずっと大きな環境かもしれません」


「面白いですね」


「危険でもあるけどな」


「それは分かってます」


 研究者は苦笑し、それ以上は言わなかった。


 一行は入口から百メートルほどの範囲に限定し、街路と周辺建物の確認を進めていく。


 街路の両側に並ぶ建物は、住居というより作業所や管理施設に近かった。


 内部には人間の背丈を超える歯車や、水路を操作するためと思われる金属棒、壁一面に並んだ古い計器類が残っている。


 ほとんどは停止しているものの、一部の結晶は今も弱く明滅しており、この地下施設が完全に死んでいるわけではないことだけは明らかだった。


 二軒目の建物を出たところで、エイルは足を止める。


「どうした?」


 潜水班長が聞く。


「もっと奥から大きな振動が来ています。さっきの魔物とは全然違います」


「動いてる何かか?」


「多分、生き物じゃないです。建物よりもっと大きくて、地面そのものに近い感じです」


 班長の表情が変わる。


 エイルはその場へしゃがみ、石畳へ掌をつけた。


 水中より感覚が通りやすい。


 街路の下へ。


 建物の基礎へ。


 水路へ。


 さらに奥へ。


 意識を伸ばしていく。


 かなり遠い。


 少なくとも、今いる場所から百メートルや二百メートルでは届かないほど奥にある。


 それでも、その振動だけは大きすぎて分かる。


 一定ではない。


 ゆっくりと。


 巨大な何かが周期的に動くたび、街全体へ低い振動が伝わっている。


 エイルはしばらく集中し、その感覚を以前の記憶と重ねた。


「……同じだ」


「何が?」


「北岸で最初に感じた反応です。湖底で魔物が動いてるんじゃなくて、地面そのものが動いてるみたいだって言ったやつ、多分ここから来てます」


 学院研究者の顔色が変わる。


「距離は分かりますか?」


「正確には無理です。ただ、かなり奥です。前に湖の上から感じた時より、今はずっとはっきり分かります」


 全員が街路の先へ視線を向けた。


 青緑色の灯りが等間隔で奥まで続き、その先は暗闇へ溶け込んでいる。


 この地下空間のどこかで、巨大な何かが今も動き続けている。


 魔物なのか。


 機械なのか。


 それとも、この街全体を動かすような施設なのか。


 今の距離では、そこまで分からない。


     ◇


 今日の調査はそこまでになった。


 入口周辺の簡易地図を作り、岩牙獣から必要な部位を採取し、現在も動いている設備の位置を記録したところで、潜水班長が帰還を決めた。


 エイルとしては、さらに奥へ行って確かめたい気持ちは強かった。


 ただ、今感じた大きな振動の正体が分からない以上、六人だけで何百メートルも先へ進むのは無理がある。


 戻るためには、ここから縦穴まで移動し、さらに八十メートル近く水中を上がり、その後も湖底遺構を抜けなければならない。


 行きより帰りの方が危険になることもある。


 そこまで考えたうえで、エイルも素直に撤収へ従った。


 縦穴の下へ戻る。


 見上げると、頭上には水面が天井のように浮かんでいる。


「次は人数増えるだろうな」


 潜水班長が呼吸具を装着しながら言った。


「いつ頃になりますか?」


「帰って報告してからだ。今日のうちに次の日程を聞くな」


「気になっただけです」


「知ってるよ。それに、次は入口周辺の調査じゃ済まないだろうから、戦力も研究員も増やす必要がある」


 エイルも呼吸具を着け、金具と命綱を確認する。


「奥の振動、調べに行きますよね」


「最終的にはな。ただし、先にこの地下区画の地図を作る。退路も知らないまま奥へ行って、何か起きた時に戻れないのが一番まずい」


「分かりました」


 以前なら少し残念そうな顔をしたかもしれない。


 今は、地図を作ってから進むという順番そのものが、むしろ楽しみになってきていた。


 知らない場所がある。


 そこへ道を作る。


 その先へ進む。


 エイルは最後に一度だけ地下街の方を振り返った。


 青緑色の光に照らされた古い街路が、暗闇の奥まで続いている。


 湖底へ辿り着いた時は、そこがこの場所の終点に近いのだと思っていた。


 実際には、その下へさらに八十メートル近く降りた先に街が残り、その街の奥からは、まだ正体の分からない巨大な振動まで届いている。


 地図の空白は、思っていたよりずっと広い。


 そして深い。


 エイルはそのことに少しだけ笑いながら、仲間たちと一緒に頭上の水面へ身体を沈めていった。


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