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第55話 湖の下の空

 湖底遺構から戻ったその日の夕方、学院と水上隊による合同会議では、縦穴の下に空気層が存在しているという一点だけで、予定されていた議題のほとんどが後回しになった。


 湖底からさらに八十メートル近く下った先に水面があり、その下には少なくとも数十メートル以上の空間が続いている。測定器が拾った反響だけなら巨大な自然洞窟という可能性も残っているものの、縦穴そのものが明らかな人工構造へ接続している以上、誰も単純な地下空洞だとは考えていなかった。


「問題は、そこへどう入るかだ」


 レイアが机へ広げられた断面図を見ながら言った。


「縦穴を八十メートル近く降り、その途中で下向きの水流まで受ける。今までの潜水深度とは比べものにならないし、呼吸具への負担も増えるから、今日見つけたからといって明日すぐ全員で降りるわけにはいかない」


「先に測定器だけ落として、空気の成分を確認するべきです」


 学院研究者の提案に、リサもすぐ頷いた。


「水面があるからって、その下で普通に呼吸できるとは限らないからね。長期間閉じた区画なら空気そのものが悪くなってる可能性もあるし、古い魔導施設なら魔力濃度が高すぎることもある」


「毒みたいなものですか?」


 エイルが聞くと、リサは少し考えてから答える。


「毒というより、息ができる空気かどうかって話かな。酸素が足りないだけでも人は倒れるし、遺跡によっては長年溜まったガスが危険なこともあるから、下へ着いてから調べるんじゃ遅い」


「なるほど」


 行けそうな場所が見つかったからといって、すぐに飛び込めるわけではない。そのことを以前のエイルなら少しもどかしく感じていただろうが、今では準備を怠って戻れなくなる方が遠回りだと分かっているため、素直に頷けた。


 隣ではフィンが古い地図へ新しい線を書き込みながら、断面図と見比べている。


「それでもすごいよな。湖の下を抜けた先に空気があるなら、そこだけ見ればもう一つ空があるみたいなもんだろ」


「空ですか?」


「だって、下の空間から上を見たら、水面が天井になるんだぞ。普通の湖とは逆じゃん」


 そう言われて断面図を眺めてみると、確かに湖の底から縦穴を抜けた先に別の世界が吊り下がっているようにも見えた。


「行ってみたいですね」


「知ってた」


 フィンが笑い、リサも呆れたように肩をすくめた。


     ◇


 翌朝、エイルは湖ではなく学院の地上訓練場へ向かった。


 縦穴下部への本格調査は、空気成分や水圧、水流の確認が終わるまで二日ほど掛かる予定になったため、その間に水中装備の調整と《身体強化》の扱いを進めておくことになったのだが、訓練場へ着くとカイルだけでなく、昨日のC級昇格審査で模擬戦をしたヴァルトまで待っていた。


「何でヴァルトさんまでいるんですか?」


「ガレスに呼ばれた。昨日の審査で、お前の戦い方が筋力の伸びに追いつき始めてるのは分かったが、それがどこまで変わってるか一度整理しとけって話だ」


 ヴァルトはいつもの片手剣ではなく木製の長剣を肩へ担ぎ、軽く首を回している。


「カイルさんじゃ駄目なんですか?」


「俺は水中担当だ。地上で剣を振るなら、そこの元B級に任せた方がいい」


「元を強調するな」


「膝やったのは事実だろ」


「朝から喧嘩しないでください」


 エイルが間に入ると、二人とも少しだけ不満そうな顔をしながら黙った。


 どうやら本気で仲が悪いわけではないらしい。


「とりあえず、最初は身体強化なしで振れ」


 ヴァルトが木剣を渡す。


「的は?」


「俺でいい」


「昨日もやりましたよね」


「昨日より力が上がってるかもしれない相手に、固定された板を叩かせても分からんだろ。俺が受けた方が早い」


「分かりました」


 エイルは木剣を握り、数歩離れて構えた。


 合図はなかった。


 視線が合った瞬間、エイルはいつも通り一歩踏み込み、斜め上から木剣を振り下ろす。


 ヴァルトは真正面から止めようとはせず、剣を斜めに合わせて軌道を流そうとした。


 しかし、木剣同士が触れた瞬間、ヴァルトの腕が予想以上に下がった。


「……待て」


 エイルはすぐに止めた。


「強すぎましたか?」


「いや、まだ《身体強化》使ってないよな?」


「使ってません」


 ヴァルトが自分の木剣を見てから、もう一度エイルへ視線を戻す。


「昨日より重くなってるぞ」


「そうですか?」


「受けた俺が言ってるんだから間違いない。もう一回来い」


 二度目は横薙ぎ。


 ヴァルトは先ほどより早く剣を合わせ、今度こそ外へ流そうとしたが、エイルの剣は途中で止まらず、そのままヴァルトの木剣ごと押し込んだ。


 ヴァルトが一歩下がる。


「昨日の夜、何かしたか?」


「寝ました」


「それだけか?」


「朝ご飯も食べました」


「そういう話じゃない」


 後ろで見ていたカイルが声を出して笑った。


「昨日一気に伸びた筋力が、一晩で身体へ馴染んだんじゃないか?」


「そんな早く馴染むもんじゃない」


「こいつの場合、その常識を出しても仕方ないだろ」


 ヴァルトは一度黙り、エイルの立ち方を見直した。


「……確かに、昨日は力を出そうとしてた。今日は普通に振っただけで乗ってるな」


 エイル自身にも、その違いは分かった。


 昨日までは増えた力を意識して使っていたが、今朝になると脚で踏み、腰を回し、背中から腕へ力を流す一連の動きが自然になっていて、わざわざ「強く振ろう」と考えなくても以前より重い一撃になる。


     ◇


 そこからヴァルトは訓練方法を変え、正面から打ち合うのではなく、受け流しや間合いのずらしを多く使うようになった。


 以前のエイルなら、剣へ横から力を加えられると軌道がわずかに崩れ、そのまま次の動きへ繋げにくくなることがあった。しかし今は肩や腕だけで振っているわけではないため、少し押された程度では剣の線が簡単には逸れない。


「速さも落ちてないな」


 何度か打ち合ったあと、ヴァルトが距離を取りながら言う。


「むしろ一歩目は前より速くなってる」


「筋力が増えたからですか?」


「脚力も筋力のうちだ。地面を蹴る力が増えれば、身体の重さが同じでも加速は上がるし、その速度を腰と背中で支えられるなら剣にも乗る」


 エイルは一度木剣を下げ、自分の脚を見る。


 敏捷が高いから速い。


 今までは、それで十分だと思っていた。


 しかし、筋力が増えたことで、敏捷という数字が表していた速さまでさらに引き出しやすくなっているらしい。


「《身体強化》も使ってみていいですか?」


「昨日使った半分くらいでやれ。いきなり全力にするな」


「分かりました」


 脚と腰へ少し多めに魔力を流し、背中と肩へ必要な分だけ繋げる。


 全部を均等に強くしない。


 動作に必要な部分へだけ配分するやり方も、昨日よりずっと自然になっていた。


 エイルが踏み込む。


 ヴァルトが受ける。


 木剣同士がぶつかった瞬間、ヴァルトの身体が一歩では止まらず、そのまま二歩後ろへ滑った。


 エイルは追わず、その場で剣を止める。


「……今ので半分くらいか?」


「多分、それくらいです」


「多分でそれは困るな」


 ヴァルトは腕を軽く振り、痺れを抜きながら苦笑した。


「もう俺を的にするのはやめよう」


「さっき、固定された板じゃ分からないって言ってませんでしたか?」


「分かったからもういいんだよ」


 カイルが横でまた笑う。


 エイルは特に得意げになるでもなく、木剣を下ろした。


 昨日までなら、元B級の審査官を剣ごと押したことへ自分でももう少し驚いていたかもしれない。


 今は違う。


 できるようになったのなら、それをどう使うか考えればいい。


     ◇


 次に移ったのは、訓練場の端に固定された大型の打撃柱だった。


 太い木材を何本も束ね、その外側を厚い革と鉄帯で補強したもので、騎士や上位冒険者が重い武器の打撃を確認するために使う設備らしい。


「まず《身体強化》なし、《衝撃》もなしで一発だけ入れろ」


 ヴァルトに言われ、エイルは木剣を返して自分の長剣を抜いた。


「壊してもいいんですか?」


「そう簡単に壊れないよう作ってある。刃を立てず、腹寄りで当てればいい」


「分かりました」


 エイルは柱の横へ立ち、一度だけ足場を確認した。


 全力ではない。


 特別に力もう込めない。


 普段通り踏み込み、腰を回して長剣を振る。


 鈍い衝撃音が訓練場へ響いた。


 打撃柱全体が大きく揺れ、地面へ打ち込まれていた固定杭の一本が数センチ浮き上がる。


 周囲で訓練していた学生の何人かが手を止めた。


 エイルも剣を戻しながら、柱より杭の方を見る。


「……抜けましたね」


「見れば分かる」


 ヴァルトが近づき、打撃位置を確認する。


 厚い革が裂け、その下の木材まで深く凹み、鉄帯にも僅かな歪みが出ていた。


「今の、全力じゃないよな」


「はい」


「《身体強化》は?」


「使ってません」


「《衝撃》も?」


「使ってません」


 ヴァルトが黙ってカイルを見る。


「だから昨日からまた変わってるって言っただろ」


「昨日の筋力上昇だけで、ここまで一気に馴染むか普通」


「普通じゃないから困ってるんだろ」


「本人に言うなよ」


「僕、聞いてますけど」


 エイルは苦笑しながら柱へ近づいた。


 今の一撃で強く感じたのは、単純な力の大きさよりも、無理なく全身を使えたことだった。


 脚で踏み、腰が回り、背中から肩へ力が抜けずに繋がり、その最後だけが剣へ乗る。


 以前なら、強い一撃を出すために意識していた動作が、今では普通に剣を振っただけでまとまっている。


【《剣術 Lv.17 → Lv.18》】


【《身体強化 Lv.7 → Lv.8》】


 視界へ表示が浮かぶ。


 エイルは一度確認すると、特に手を止めることもなく長剣を鞘へ戻した。


「もう一回やらないのか?」


 後ろからライネルの声がした。


 振り返ると、いつの間にか何人かの学生と一緒に見ている。


「杭が抜けたので、これ以上やったら設備を壊しそうです」


「今の見て気にするとこ、そこなのかよ」


「壊したら困るでしょう」


「まあ、それはそうだけど……」


 ライネルは打撃柱とエイルを交互に見たあと、ヴァルトへ視線を移した。


「C級って、みんなこれくらい強いんですか?」


「違う」


 ヴァルトが即答した。


「一緒にするな」


「元B級がそこまで言うんですね」


「等級の話じゃない。こいつはもう、C級の中で強いか弱いかを測ってる段階じゃなくなり始めてる」


 エイルは少し首を傾げた。


「昨日C級になったばかりですよ」


「だから等級の話じゃないって言ってるだろ」


 ヴァルトはそれ以上説明せず、浮いた杭を戻すため管理員を呼んだ。


 エイルも深く考えなかった。


 C級になったことは嬉しいが、等級そのものを強さの答えにするつもりはない。


     ◇


 昼過ぎ、訓練を切り上げたエイルは、そのまま学院の研究棟へ向かった。


 縦穴下部へ落としていた測定器が戻り、空気成分と内部構造についてある程度の結果が出たと聞いたからだ。


 部屋へ入るとフィンとリサがすでに資料を見ており、机の上には細長い記録紙と断面図が何枚も並べられていた。


「どうでしたか?」


「空気は今のところ問題なさそう」


 リサが最初に答える。


「測定できた範囲では、人間が呼吸できる割合の空気が残ってるし、すぐ危険になるようなガスも検出されてない。ただし、実際に人が降りる時は現地でもう一度測るけどね」


「それなら入れそうですね」


「空気だけ見ればね。ただ、今度は空間の大きさが問題になってる」


 フィンが新しい断面図を広げる。


 縦穴を降りた先に水面があり、そのさらに下へ巨大な空洞が描かれている。


「測定器の音波が届いた範囲だけでも高さは三十メートル以上あって、横幅は片側が測定限界を越えてる。少なくとも百メートル以上は続いてるはず」


「かなり広いですね」


「それだけじゃない。反響の中に、平らな壁みたいな返りがいくつもある」


 リサが別の紙を指した。


「自然洞窟だけなら、こんな揃った平面は出にくい。まだ断定できないけど、建造物が残ってる可能性が高いと思う」


 湖の下に、空気のある巨大空間。


 しかも、その中に建物らしきものまである。


 エイルの視線は自然と断面図の奥へ向かった。


「もう一つある」


 フィンが記録用の小さな魔道具を机へ置く。


「下に落とした測定器が、一度だけ妙な音を拾った」


「どんな音ですか?」


「聞いた方が早い」


 魔道具が起動し、小さな雑音が流れる。


 水が揺れる音。


 装置そのものの振動。


 その奥に、金属同士がゆっくり触れるような音が混じった。


 一度鳴り、少し間を空けてもう一度鳴る。


 一定の周期ではない。


「守衛機ですか?」


「可能性はあるけど、これだけじゃ何とも言えない」


 リサが首を振る。


「水のない場所で何かが動いてる、ということくらいしか分からない」


「明日の朝、第一降下班を出すことになった」


 フィンが言う。


「軍の潜水員四人と学院研究者一人、それにエイルも候補へ入ってる」


「候補なんですか?」


「正式決定は夕方だけど、多分入るよ」


 リサが少し笑う。


「今さら外す理由もないでしょ。水中での探知は軍の潜水員より広いし、戦闘までできるんだから」


 エイルは断面図を見た。


 湖底へ潜れるようになった時、それだけでかなり先へ進んだと思っていた。


 しかし、湖底そのものが入口なら、その認識すら早かったのかもしれない。


 水が終わっても、その先を歩ける。


 そこに何があるのかは、まだ誰も知らない。


     ◇


 夕方になる頃には、エイルの第一降下班への参加が正式に決まった。


 ただし、これまで一緒に潜ってきたダリオは今回の班から外れることになった。


「俺は潜水までは何とかなるけど、八十メートル降りて、その先の地下遺跡まで動くとなると専門外だ」


 ギルドの食堂で向かいに座ったダリオが、特に悔しそうにするでもなく言った。


「珍しく素直ですね」


「俺は最初から自分の得意不得意くらい分かってる。水中でお前と競おうと思ってた時は、まだお前が三日でここまで来るとは思ってなかっただけだ」


「そういえば、最初はかなり疑われてましたね」


「当然だろ。D級の十六歳が北岸調査に混ざるって聞いたら、普通はそうなる」


 ダリオは水を一口飲み、少しだけ笑った。


「今はもう、その話したら俺の見る目がなかったみたいになるけどな」


「最初は本当に水中で何もできなかったので、間違ってないですよ」


「そこから数日で俺より動けるようになったのが問題なんだよ」


 エイルは何も言わずパンをちぎった。


 否定しようがない。


「そういや、今日も学院で何かやっただろ」


「訓練ならしました」


「打撃柱の杭を抜いたって聞いたぞ」


「抜いたというか、少し浮いただけです」


「お前の『少し』はもう信用しないことにした」


 ダリオはそこで一度笑ったが、すぐ少し真面目な顔になる。


「最初に会った時のお前と、今のお前、もう戦ったら別人だろうな」


「多分」


「そこは自覚あるんだな」


「ありますよ。前より力も速さもかなり変わってるので」


「ならいい」


 ダリオは椅子へ背を預けた。


「そのうち俺が初めて会った時のお前が、本当に同じ奴だったのか分からなくなりそうだ」


 冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。


 エイルにも、その感覚は少し理解できる。


 村を出た頃の自分と今の自分では、戦える相手も、歩ける場所も、受けられる依頼も大きく変わった。


 それでも、何のために強くなるのかまで変わったわけではない。


 見たい場所へ行くために必要だから力をつけ、行けるようになったら次の空白へ向かう。


 今のところ、それだけで十分だった。


     ◇


 翌朝、北岸の湖面は風も弱く、遠くから見れば何事もないように静かだった。


 第一降下班は六人で、軍の潜水員四人、学院研究者一人、それにエイルが加わる。


 エイルは呼吸具を背負い、長剣を斜めに固定してから、命綱と予備の魔石を順番に確認した。


 以前なら一つずつ確かめるのに時間が掛かっていた装備も、今ではほとんど迷わず扱える。


「下へ到達したら、まず空気を再確認する」


 レイアが最後の説明をする。


「問題がなければ呼吸具を外して行動していいが、帰還用装備は必ず携行すること。何か異常が起きた場合は、その場の調査より退路の確保を優先する」


「はい」


「それと、測定器が拾った金属音の正体は不明だ。守衛機と決めつけるな」


「分かりました」


 潜水班長が合図を出す。


 一人ずつ湖へ入り、エイルも最後に続いた。


 水面を抜け、湖底へ降り、第一空洞から中央導水路へ進む。


 数日前までなら、それだけで未知の場所を進んでいる感覚が強かったはずなのに、今ではそこまでの経路はすでに身体が覚えており、エイルは周囲の探知へほとんどの意識を回せていた。


 やがて巨大な縦穴へ到着する。


 暗い穴の底から、弱い水流が上がってくる。


 そのさらに先には、測定器でしか見ていない水面と、空気に満たされた巨大空間がある。


 潜水班長が先に縦穴へ身体を向けた。


 他の潜水員も続く。


 エイルは一度だけ下を見た。


 底は見えない。


 ただ、今はその暗闇の先に地面があると知っている。


 だから恐怖より先に、そこへ何があるのか確かめたい気持ちが勝った。


 エイルは長剣の固定具を確かめると、仲間たちの後を追って静かに縦穴へ身体を沈めていった。


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