第54話 閉じた水門の向こう
C級へ昇格した翌朝、エイルは新しい冒険者証を腰袋へしまい込み、再び北岸行きの船へ乗っていた。
等級が変わったことで受けられる依頼は増えたものの、今すぐ別の町へ向かうつもりはなく、まずは目の前に残っている湖底遺構を確かめたい。昨日見つけた東湖域の依頼も気になっているが、その調査が北岸の結果待ちになっている以上、順番としてもこちらを終わらせる方が自然だった。
「C級昇格の翌朝から、また湖底か」
船縁で潜水装備を確認していたダリオが、エイルの腰袋へ視線を向ける。
「昨日聞いたんですか?」
「夕方にはな。リューデン支部であれだけ目立ってりゃ、遅かれ早かれ広まる」
「そんなに目立ってますか?」
「深湖甲獣へ突っ込んで、水の上走って、三日で潜水覚えて、湖底の守衛ぶっ壊して、水門を素手で止めた十六歳のD級がいたんだぞ。むしろ今まで名前まで広まってなかったのが不思議だ」
「最後はもうC級です」
「そこだけ訂正すんな」
ダリオは呆れた顔をしたものの、以前のように等級を理由にエイルを疑う様子はもうなかった。
今日の船には昨日より多くの人員が乗っている。
水上隊からレイアと潜水兵六人、学院から水中遺構を専門とする研究者二人、それに水流制御を得意とするリサまで同行していた。フィンは潜水技能が十分ではないため船上観測班に残っているが、朝から大量の図面を抱え、学院側の観測器を設置している。
今回の目的は、前回閉じてしまった水門を再び開くことだった。
「昨日の調査で、水門が閉じた理由はある程度絞れた」
レイアが甲板中央へ広げた図面を指す。
「守衛機から回収した円形部品を解析したところ、あれは単なる動力核ではなく、この施設の通行許可証に近い役割を持っていた可能性が高いらしい」
「通行許可証?」
「守衛機が部屋からいなくなったことで、施設側が異常と判断して水門を閉じたんじゃないか、っていうのが学院の仮説」
横からリサが補足する。
「昨日はその部品を窪みに入れなかったけど、今日は魔力だけを模倣した試験器を使う予定。いきなり本物を差し込んで壊れたら困るからね」
「それで開かなかったら?」
「別の方法を考える」
「また持ち上げろとか言うなよ」
ダリオがすぐに口を挟み、レイアが真顔で首を振った。
「言わない。前回は緊急時だったから結果的に助かったが、今回は設備を壊さず調べるのが仕事だ」
エイルとしても異論はない。
昨日一気に伸びた筋力と《身体強化》を試したい気持ちはあるものの、古代の水門を力任せにこじ開けるのは探索とは少し違う。
もっとも、必要になった場合に備えて身体の張りはすでに確認しており、昨日残っていた筋肉痛も今朝にはほとんど消えていた。
◇
潜水開始から第一空洞へ到達するまで、エイルはほとんど苦労しなかった。
少し前まで二十メートル近い湖底へ降りるだけでも未知の領域だったはずなのに、今では呼吸具の状態を確認しながら仲間の位置を追い、そのうえ周囲の魔物まで探知する余裕がある。
第一空洞へ入る直前、《振動感知》を広げると、壁際を這う小型の反応が三つ見つかった。
爪潜りより小さい。
こちらへ近づく様子もない。
エイルが場所を伝えると、潜水班は無理に倒さず進路を少し変え、そのまま人工壁の奥へ向かった。
前回閉じた水門へ続く通路には、新しく軍の目印が追加されている。途中にあった石壁の亀裂も記録され、帰還経路として使えるか確認するため細い誘導縄まで張られていた。
円形部屋の手前まで来ると、全員が一度止まる。
閉じた水門は、昨日のままだった。
分厚い石板が床まで完全に下がり、左右の溝へぴったり収まっている。あれを自分が押し止め、最後には僅かとはいえ持ち上げたのだと思うと、今さらながら少し変な気分になった。
学院研究者が水門脇の壁へ近づく。
昨日まで泥で見えなかった部分が掃除され、その奥から掌ほどの窪みが見つかっていた。
そこへ試験器を当てる。
細い金属輪に小さな魔石を組み込んだ道具で、守衛機から回収した部品の魔力波形だけを再現するらしい。
研究者が起動する。
最初は何も起きなかった。
十秒ほど経ったところで、エイルが足元の振動に気づいた。
小さい。
前回のような乱暴な動きではなく、壁の奥で何かの歯車が一つずつ噛み合っていくような規則的な振動だった。
エイルが研究者へ合図を送る。
直後、石板が動いた。
今度は下ではなく、上へ。
床との間に細い隙間が生まれ、そこから強い水流が噴き出す。十センチ、三十センチ、一メートルと少しずつ持ち上がり、やがて人間が立ったまま通れる高さまで開いたところで停止した。
ダリオがエイルの肩を叩き、水門を指したあと親指を立てる。
多分、今日は持たなくて済んだな、という意味だろう。
エイルも頷いた。
◇
水門の向こうへ入ると、昨日は見られなかった円形部屋の奥側まで確認できるようになった。
中央柱の裏にはさらに通路があり、そこから水が流れ込んでいる。壁面に刻まれた古い文字は入口側より多く、学院研究者が照明を当てるたび、縦に並んだ記号が浮かび上がった。
リサが一部を見て手を止める。
事前に古い文字をある程度覚えてきたらしい。
防水板へ何かを書き、エイルたちへ見せた。
【中央導水路】
その下には、まだ意味の分からない記号と数字らしきものが続いている。
研究者が確認し、さらに奥を指した。
どうやら、ここから先は単なる管理室ではなく、施設の中心へ水を送る通路だったらしい。
一行は隊形を整え直し、中央導水路へ入った。
通路はこれまでよりずっと広く、横幅だけでも十メートルほどある。床の中央には深い溝が伸び、その左右に人間が通れる通路が設けられているが、今では全体が完全に水没している。
エイルは泳ぎながら壁へ手を触れた。
《振動感知》を広げる。
通路の先。
かなり遠い。
何かがある。
空洞というより巨大な空間。
しかも、その奥から一定間隔で低い振動が届いていた。
ドン、と一度。
しばらく空いて、また一度。
以前フィンから聞いた東湖域の金属音とは違う。
もっと重い。
施設そのものが動く音に近い。
エイルがそのことを伝えると、研究者たちはすぐ記録し、レイアの代わりに潜水班を率いている隊長も慎重に進むよう合図した。
さらに百メートル近く進んだところで、通路が下り坂へ変わる。
その辺りから水流も強くなった。
奥へ吸い込まれている。
命綱が後方へ引かれ、普通に泳ぐだけでも少しずつ身体が奥へ流される。
ダリオが槍を壁へ当てて姿勢を保つ。
エイルは《身体強化》を脚と腰へ薄く流し、床を蹴る力を増やして流れへ逆らった。
昨日までは水中で身体強化を本格的に使ったことがない。
それでも、一度使えば感覚はすぐ分かる。
水を蹴った時の一押しが強くなり、脚から腰まで安定するため、《衝撃》を使わなくても流されにくい。
さらに少しだけ魔力を背中と肩へ配分すると、長剣を背負った状態でも身体がぶれにくくなった。
【《身体強化 Lv.4 → Lv.5》】
表示が浮かんだが、エイルは動きを止めず、そのまま前方の探知へ意識を戻した。
成長するたびに確認していた頃とは違い、今は戦いや探索の最中に上がること自体が珍しくなくなり始めている。
◇
通路を下った先には、大きな縦穴があった。
直径は三十メートル近くあり、中央導水路から流れ込んだ水が、そのまま下へ吸い込まれている。
底は見えない。
照明石を一つ落としてみると、青白い光が少しずつ小さくなり、かなり下まで沈んだところで曲がるように見えなくなった。
研究者が測定器を使う。
深さは少なくとも五十メートル以上。
さらに下へ続いている可能性がある。
エイルは穴の縁へ触れ、《振動感知》を下へ伸ばしてみた。
全部は分からない。
ただ、途中にいくつか横穴がある。
そして。
かなり下。
水のない場所があるような感覚がした。
最初は気のせいかと思った。
水中で空洞を探知するのは難しく、しかも距離が遠い。
それでも、下から返ってくる振動の一部が明らかに違う。
水で満たされた空間なら広く散るはずの反応が、ある高さから急に途切れ、その下に別の硬い床面らしき反応がある。
エイルは何度か確かめ、研究者へその可能性を伝えた。
学院側の二人が顔を見合わせる。
リサも驚いたように穴の下を覗き込んだ。
もし本当に空気のある区画が存在するなら、この遺構は単なる水没施設ではない。
湖底よりさらに下に、今も水から隔離された空間が残っていることになる。
研究者たちが測定器を準備し始めた、その時だった。
エイルの《危機感知》が強く反応した。
下。
縦穴の壁。
何かが上がってくる。
守衛機とは違う。
魔物とも違う。
複数。
エイルが警告を送ると、全員が縦穴から距離を取った。
数秒後、穴の中から二つの青い光が見えた。
守衛機。
ただし昨日倒した人型とは形が違う。
上がってきた二体は、身長こそ同じ三メートルほどだが、腕が異様に太く、両肩から石製の装甲が張り出している。脚も短く太いため、水中を高速で泳ぐ形ではなく、縦穴の壁を掴みながら登ってきていた。
胸には同じ円形の核。
頭部には一本の青い線。
学院研究者が慌てて後退する。
潜水班長が前衛を組ませる。
一体目が縁へ上がった瞬間、腕を振った。
速さは昨日の守衛機ほどではない。
代わりに。
重い。
軍兵の盾と拳がぶつかり、衝撃で兵士の身体が大きく後ろへ流された。
二人目の兵士が支える。
ダリオが側面へ槍を突き込むが、肩の装甲へ弾かれる。
もう一体も縁へ上がってきた。
エイルは長剣を抜く。
昨日までなら、正面から受ける相手ではないと判断しただろう。
この重量と腕の太さを見る限り、力比べでは明らかに向こうが有利に見える。
ただ。
今の自分なら。
どの程度なのか。
最初の守衛機が軍兵へ二撃目を振るう。
エイルは間へ入った。
身体強化を脚、腰、背中、肩へ繋げる。
長剣を両手で構える。
守衛機の巨大な拳が迫る。
避けずに。
受けた。
拳と剣の腹がぶつかる。
凄まじい衝撃が腕へ入った。
それでも。
エイルは飛ばなかった。
足が水底を滑り、半歩ほど後ろへ動いただけで止まる。
守衛機の腕も止まっている。
正面から。
拮抗した。
水中眼鏡越しに、ダリオの目が見開かれる。
エイル自身も少し驚いた。
昨日、水門を支えた時に得た力。
今日さらに身体強化を使っている。
その結果。
こういう相手の攻撃を。
真正面から止められる。
守衛機がさらに押し込んでくる。
エイルも押し返す。
腕だけではない。
脚から。
腰。
背中。
全部を繋げる。
石と金属でできた巨体の腕が、少しずつ戻り始めた。
エイルが一歩前へ出る。
守衛機が後ろへ押された。
ほんの僅か。
それでも。
今度は間違いなく。
力で勝った。
◇
そこからエイルは、無理に押し合いを続けなかった。
力で勝てると分かれば、それだけで十分だった。
守衛機が体勢を戻す前に長剣を滑らせ、肘の関節へ刃先を差し込む。昨日なら外装の隙間へ《衝撃》を入れることを優先したが、今はまず純粋な力で関節を開き、その状態から短い《衝撃》を内部へ通した。
外装が割れる。
右腕が落ちる。
そこへダリオの槍が入った。
傷口を一気に広げる。
一方、もう一体は潜水兵三人が抑えているものの、力が強すぎて押し切れない。
エイルは一体目の胸部核へまだ行かず、二体目へ向かった。
水中で身体強化を脚へ集中し、そこへ小さな《衝撃》を重ねる。
数メートルの距離が一気に消えた。
昨日ヴァルトとの模擬戦で掴んだ動き。
自分の脚力を身体強化で引き上げ、その速度の最後だけを《衝撃》で押す。
以前のように、魔法へ身体を運んでもらう感覚ではない。
自分で進み。
魔法が足す。
守衛機の横へ入る。
長剣を両手で握り、肩の装甲へ下から斬り上げた。
水中で大振りは不利。
それでも今の筋力と身体強化があれば、以前よりずっと水の抵抗を押し切れる。
刃が装甲へ食い込む。
完全には断てない。
エイルはそこから剣を引かず、腰を回してさらに押した。
硬い石材が軋む。
亀裂が走る。
最後に短い《衝撃》。
肩装甲が大きく砕けた。
潜水兵たちがすぐ反応し、露出した関節へ槍を集中させる。
二体目が腕を失う。
これで戦況が変わった。
エイルは最初の個体へ戻り、胸部へ魔力が集まる瞬間を狙う。
今回は正面から水圧攻撃を受ける必要はない。
肩の動きと核の魔力を見て、射線へ入る前に外れる。
そのまま脇へ回り、胸の円形部へ長剣を突き込んだ。
昨日と同じ場所。
ただし。
剣の入り方が違う。
筋力が増えたことで、硬い外装へ刃を押し込む段階から余裕がある。
刃先が半ばまで入る。
そこへ《衝撃》を通した。
核が内部から砕け、守衛機の青い線が消える。
続いてもう一体。
ダリオと潜水兵が膝を崩したところへ、エイルが上から長剣を突き込む。
外装を貫き。
胸部核まで届く。
今度は《衝撃》を使う前に。
刃そのものが核へ達した。
エイルは一瞬だけ目を見開いた。
以前なら。
硬さを突破するために技能が必要だった。
今は。
純粋な力でも届き始めている。
最後に少量の《衝撃》を流し、核を完全に停止させる。
二体目の巨体も力を失い、水底へ沈んだ。
◇
戦闘が終わると、ダリオが真っ先にエイルのところへ来た。
水中なので声は出せない。
ただ、さっき拳を受け止めた時の構えを大げさに真似し、そのあと守衛機とエイルを何度も指差した。
言いたいことは十分伝わる。
お前、あれと力比べしたのか。
エイルは少しだけ頷いた。
ダリオは両手で頭を抱えた。
潜水兵たちも似たような反応をしている。
昨日までなら。
エイルは速く、感知が鋭く、《衝撃》の扱いが異常に上手い若い冒険者だった。
今日。
そこへ。
力まで加わり始めた。
エイル自身にも、その変化がはっきり分かった。
【《身体強化 Lv.5 → Lv.7》】
【《剣術 Lv.16 → Lv.17》】
【《衝撃 Lv.18 → Lv.19》】
さらに少し遅れて。
【筋力が成長しました】
【耐久が成長しました】
表示を見ても、もう驚きより先に納得が来る。
強い相手と力を合わせ。
勝った。
なら。
身体はまた、その先へ追いつく。
◇
守衛機二体を倒した後、縦穴の調査が再開された。
今回は下へ降りることまではしない。
代わりに学院が測定具を吊り下げ、深さと水温、魔力濃度を記録していく。
結果が出たのは三十分ほど後だった。
縦穴は約八十メートル下まで続いている。
そして。
エイルが感じた通り。
その途中。
水面がある。
湖底よりさらに深い場所に。
もう一つ。
水面が存在していた。
研究者が何度も測定結果を確認する。
間違いではない。
縦穴の下部では水が途中で途切れ、その先に巨大な空気層がある。
つまり。
湖の下。
さらにその下に。
水没していない空間がある。
フィンたちが船上で待っている。
今日の調査結果を伝えれば、学院はまた騒ぎになるだろう。
エイルは暗い縦穴の底を見た。
今まで。
湖底が終点だと思っていた。
違った。
湖底は。
入口に過ぎなかった。




