第52話 力の使い方
翌朝、目を覚ましたエイルが最初に感じたのは、両腕から背中にかけて残っている鈍い痛みだった。
昨日より悪化しているわけではなく、むしろ眠る前よりかなり軽くなっている。ただ、身体を起こして肩を回すと、普段ほとんど意識しない場所まで使ったことが分かる程度には張りが残っていた。
水門を支えた時の負荷を思えば、この程度で済んでいる方がおかしいのかもしれない。
エイルは窓際で軽く身体を伸ばし、腕を上げたり腰を捻ったりしてみたが、動かせない場所はなかった。治療科からは痛みが残っているなら休めと言われているので、今日は湖へ潜るつもりもなければ、長時間の訓練をするつもりもない。
ただ、一つだけ確かめたいことがあった。
昨日一気に伸びた筋力と、新しく覚えた《身体強化》を、自分がどれくらい扱えるようになっているのか。
朝食を済ませて学院へ向かうと、訓練施設の入口でカイルに見つかり、開口一番で肩を掴まれた。
「お前、今日は休めって言われたよな」
「激しい訓練はしませんよ」
「その言い方をする奴は大抵何かする」
「身体の確認だけです。力がかなり変わったので、このまま放っておく方が危ないと思って」
カイルはすぐには答えず、エイルの肩から腕へ視線を移した。
「どのくらい変わった?」
「昨日までの感覚で物を持つと、思ったより軽いです」
「具体的には?」
「宿の机が簡単に持ち上がりました」
「宿で試したのか」
「少しだけです」
「またそれか」
呆れられたものの、話自体には納得したらしい。
身体能力が急に変化した場合、自分の力加減を把握しないまま日常生活へ戻る方が危険だ。普通は一晩でそこまで変わらないため滅多に起きない問題だが、今のエイルには当てはまらなかった。
「水には入るな。剣も振らせない。重量訓練場で確認するだけなら付き合ってやる」
「ありがとうございます」
「昨日の今日で石でも投げ飛ばしたら、その時点で終わりだからな」
「気をつけます」
「その返事が一番怖いんだよ」
◇
学院の北側には、剣術や魔術とは別に、身体能力そのものを鍛えるための訓練場があった。
大きさの異なる石塊、鉄製の棒、重りを増減できる運搬具などが並び、剣士科だけではなく、水上実技や探索科の学生も使うらしい。
朝の訓練時間だったため学生の姿も多く、エイルがカイルと一緒に入ると何人かがこちらを見た。
その中にはライネルもいた。
「今日は潜らないんじゃなかったのか?」
「潜りませんよ」
「じゃあ何しに来た」
「力加減の確認です」
「力加減?」
事情を知らないライネルが首を傾げる横で、カイルは訓練場の管理員から木箱を借りてきた。
中には同じ大きさの鉄塊が入っており、一つずつ追加して重量を変えられる。
「まずこれを持て。身体強化は禁止、普通に持ち上げるだけでいい」
最初は百キロほどだという。
以前のエイルでも持ち上げられない重さではなかったが、余裕を持って扱えるほど軽くもなかった。
両手で取っ手を掴む。
持ち上げる。
「……」
軽い。
本当に百キロあるのか疑いたくなるほど簡単に床から離れた。
勢いをつける必要もなく、腰を落として立ち上がるだけで胸の高さまで持ってこられる。
カイルが眉を寄せる。
「降ろせ」
ゆっくり戻す。
「もう一つ追加」
二百キロ。
さすがに重さを感じる。
それでも持ち上がった。
呼吸もほとんど変わらない。
周囲で訓練していた学生の何人かが、いつの間にか手を止めている。
「三百」
鉄塊が追加される。
今度は腰を落とし、両腕だけではなく脚まで使う。
床から離れた。
昨日、水門を支える前の自分なら、この時点でかなり厳しかったはずだ。
それが今は、重いとは感じても、持ち上げられないという感覚がない。
「まだいけます」
「そう言うと思った。四百」
ライネルが横から口を挟む。
「待て、四百って剣士科でも普通は――」
「静かに見てろ」
カイルが止める。
四百キロ。
さすがに手へ食い込む重さが違った。
エイルは一度息を整え、腰を落としてから持ち上げる。
腕に負荷が掛かり、昨日使った筋肉へ少し痛みが走ったため、無理に高くまでは上げず、膝の高さで止めた。
「そこまで」
カイルの声ですぐ戻す。
重い音を立てないよう慎重に床へ置いた。
「痛みは?」
「少しだけ背中にあります」
「なら今日はこれ以上増やさない」
「まだ持てそうですけど」
「持てるかどうかと、持っていいかどうかは別だ」
昨日の治療科でも似たようなことを言われたので、エイルは素直に手を離した。
ライネルは鉄塊とエイルを交互に見ている。
「……お前、前からそんな力あったか?」
「昨日増えました」
「昨日増えた?」
「いろいろあって」
「筋力って一日でそんな増え方するものじゃないだろ」
「僕もそう思います」
「本人が一番普通の顔してるのが腹立つな」
ライネルがぼやいた。
◇
重量そのものを上げる確認が終わると、次は力加減を調整する訓練になった。
カイルが持ってきたのは、探索科が崩落現場の訓練に使う木製の支柱だった。太さは腕ほどあり、普通に扱えば簡単には折れない。
「これを握れ。ただし壊すな」
「握るだけ?」
「今のお前に必要なのは、どこまで力を入れればどのくらいになるか覚えることだ。昨日より筋力が増えたなら、剣の柄を握る力も、人の腕を掴む力も全部変わってる」
言われてみればその通りだった。
今朝も扉を開ける時、取っ手が妙に軽く感じた。
エイルは支柱を両手で持つ。
「まず普段通り」
握る。
特に変化はない。
「少し強く」
力を増すと、木が僅かに軋んだ。
以前なら、この程度では音など出なかったと思う。
さらに少しだけ強くした瞬間、表面へ細い亀裂が走った。
エイルはすぐ力を抜いた。
「……危ない」
「だからやってんだ」
カイルは壊れかけた支柱を取り上げ、別の一本を渡した。
「今度は同じところまで行かず、ぎりぎり手前で止めろ」
二回目。
木の感触を確かめながら少しずつ握る。
どこから軋み始めるのか。
どこまでなら戻るのか。
指先だけでなく、手首から腕へ力が流れる感覚まで意識していく。
今度は亀裂を作らず止めた。
「もう一回」
三回。
四回。
繰り返すうちに、昨日までとは違う身体の出力が少しずつ自分の感覚へ馴染んでいく。
力が増えたこと自体は嬉しい。
ただ、強くなるというのは単純に最大値が上がることではなく、その大きな力を必要なだけ使えることも含まれるのだろう。
エイルが支柱を置くと、カイルは今度は片手で扱える小さな石球を渡した。
「投げるなよ」
「分かってます」
「今の間は何だ」
「何でもないです」
掌へ乗せてみると、以前より明らかに軽い。
少し上へ放り、受け取る。
力を入れすぎない。
次は隣の台へ置く。
その動作を繰り返す。
地味な訓練ではあるが、思っていた以上に難しかった。
全力で物を持つことより、壊さず扱う方が神経を使う。
しばらく続けていると、身体の内側を流れる魔力へ意識が向いた。
昨日覚えた《身体強化》。
今は使っていない。
それでも、自分の筋肉が動く感覚を意識しているせいか、魔力が自然と身体の内側へ寄ろうとしていた。
「カイルさん」
「何だ」
「《身体強化》を少し試してもいいですか?」
「痛みが出たら即止める。それと最大出力は禁止だ」
「はい」
エイルは呼吸を整え、身体の内側へ魔力を流した。
昨日は水門に押し潰されそうになりながら、ほとんど感覚だけで全身へ広げた。
今日はもっとゆっくりできる。
腕だけではなく、肩から背中、腰、脚へ均等に流す。
そこで一つ気づいた。
昨日は身体を強くすることしか考えていなかったが、全身へ同じ量を流す必要はない。
石球を持っている右腕へ少し多く。
他は最低限。
握る力だけを上げる。
石球がさらに軽く感じられた。
今度は右腕を弱め、脚へ。
一歩踏み出す。
地面を蹴る力が増える。
ただし身体全体がそれについてこないため、上半身が少し遅れた。
エイルはすぐ止まった。
「局所だけ強くすると、他が追いつかない」
カイルの表情が変わる。
「もうそこ試してんのか?」
「全部に同じ量を使うより、必要な場所だけ強くできた方が魔力が減らないですよね」
「理屈ではそうだが、普通は身体強化を覚えた翌日に考えることじゃない」
「でもできそうです」
「できそうなのが一番困るな」
止められなかったので、エイルは続けた。
脚へ強く入れるなら、腰と背中にも少し流して姿勢を支える。
腕へ力を出すなら、肩まで繋げる。
長剣を振る時の身体の使い方と同じで、必要な場所だけを単独で強化するのではなく、その力を受ける部分まで繋いで補う。
何度か試しているうちに、最初のぎこちなさが消えていった。
【《身体強化 Lv.2 → Lv.3》】
表示が浮かぶ。
昨日覚えたばかりなのに、もう三。
それでも驚いて手を止めることはしなかった。
「次、右脚だけ少し強めます」
「待て、何でお前が勝手に次へ進めてる」
「危なくない範囲で」
「俺が決める」
結局、カイルの監督付きでさらに一時間ほど調整を続けることになった。
◇
昼前になる頃には、腕の張りが少し強くなったため、そこで訓練は完全に止められた。
それでも成果は大きかった。
《身体強化》は単純に全身へ魔力を流すだけではなく、配分を変えれば動きそのものを補助できる。
まだ短時間しか使えないものの、《衝撃》とは役割が違う。
《衝撃》は外へ力を出し、加速や軌道変更、敵の内部への攻撃に使える。
《身体強化》は自分自身を強くする。
二つを同時に使えばどうなるのか。
そこまで考えたところで、カイルから「今日は絶対やるな」と先回りして言われた。
「顔に出てましたか?」
「ここ数日で分かるようになった」
「じゃあ明日なら?」
「身体の痛みが消えてたら考える」
「分かりました」
「……本当に聞き分け良くなったな」
「僕も怪我したいわけじゃないので」
「それを最初から覚えてくれ」
◇
学院の食堂で昼食を取っていると、フィンが紙束を抱えてやってきた。
リサも一緒だった。
「いた」
「何か分かりましたか?」
「まず飯食わせて」
フィンは向かいへ座るなりパンを取り出し、スープを一口飲んでからようやく紙束を机へ置いた。
「昨日閉じた水門、教授たちが古い記録と照合してたんだけど、かなり面白いことになってる」
「どんな?」
「第二管理区って名前、やっぱり単なる場所の番号じゃないかもしれない」
リサが横から一枚の図を広げる。
湖底で見つかった古い図を、現在のリューデ湖の地図へ重ねたものだった。
「昨日まで、北岸の施設が第二管理区で、西部水上遺跡が別の管理区かもしれないって考えてた。でも、古い水位記録と合わせると少し合わないの」
「位置が?」
「うん。北岸は第二管理区の中にある《上層水門》の一つであって、第二管理区そのものはもっと広い可能性が高い」
フィンが地図上へ指を置く。
北岸から湖の中央寄りへ。
さらに東へ。
一つの大きな範囲。
「教授の仮説だと、この辺り全部が第二管理区」
「そんなに広いんですか?」
「まだ仮説だけどね。もし合ってるなら、昨日入った遺構は巨大施設の入口ですらなくて、いくつもある制御設備の一つに過ぎない」
エイルは地図へ目を落とした。
これまで、湖底に大きな遺跡があるのだと思っていた。
しかし、その考え方すら小さかった可能性がある。
「じゃあ第一管理区は?」
「それがまだ分からない」
リサが西側へ指を移す。
「西部水上遺跡が第一かもしれないし、別の場所かもしれない。それと東側に描かれてた大きな印について、ちょっと気になる記録が見つかった」
「東?」
「四十年くらい前、漁師が湖の東で『水の下から鐘みたいな音がする』って何度も報告してる」
エイルが顔を上げた。
「鐘?」
「正確には金属音。季節も時間もばらばらで、調査隊が行った時には何も見つからなかったから、長いこと水中の岩がぶつかる音だと思われてた」
「場所は?」
フィンが笑う。
「聞くと思った」
地図の東側へ小さな印がつく。
昨日、古代の図に描かれていた大きな記号と近い。
「完全には一致しないけど、この辺」
「行ってみたい」
「即答だね」
「でも北岸の調査が先ですよね」
「そこはちゃんと学んでる」
リサが少し笑った。
エイルとしても、今すぐ東へ向かうつもりはない。
北岸の第二管理区だけでも、まだ閉じた水門の向こうへほとんど進めていない。
ただ、行きたい場所の候補がまた一つ増えた。
◇
午後。
学院からギルドへ寄ると、受付でそのまま二階へ上がるよう言われた。
案内された部屋にはガレスがいた。
「身体は?」
「少し張ってますけど、大丈夫です」
「水門を支えた翌日に学院で重量訓練してたそうだな」
「確認だけです」
「カイルからも同じ説明を聞いた。まあ、治療科の許可範囲なら何も言わん」
ガレスは机の上の書類を一つ閉じる。
「今日は別件だ。君の昇格について正式に話が進んだ」
「C級ですか?」
「ああ」
以前にも検討が始まったとは聞いていたが、今回はもう少し具体的らしい。
「北岸の一件だけで昇格させるつもりはなかった。ただ、その後の潜水救助支援、湖底遺構での守衛機撃破への貢献、それに昨日の救助まで加わった。D級として扱い続ける方が、依頼を割り振る側にとって危険になってきた」
「危険?」
「君へ出せる依頼の上限と、実際に君が関わっている現場が合っていない。D級だからと低危険度の情報しか渡さず、そのまま君が独断で高危険区域へ入る方が困る」
「独断では入ってませんよ」
「今はな」
ガレスまで同じようなことを言う。
「昇格には最終確認が必要だが、もう大掛かりな戦闘試験をするつもりはない。実績は十分だ。明後日、支部の昇格審査を受けてもらう」
「何をするんですか?」
「判断力、依頼記録、簡単な対人確認、それからC級として扱って問題ないかを見るだけだ」
「対人確認は戦う?」
「軽くだ。昨日、水門を持ち上げた人間相手に、今さら普通のD級試験官を出して何を確認するんだ」
エイルは少し考えた。
「C級になると、もっと遠くの依頼を受けられますか?」
「そこが気になるのか」
「はい」
「増える。未調査区域への護衛や、地方間の長距離依頼、規模の大きい遺跡調査も受けやすくなる」
「じゃあ受けます」
「予想通りだな」
ガレスは苦笑しながら書類をエイル側へ寄せた。
◇
宿へ戻る途中、エイルは昨日より自分の歩幅が少し変わっていることに気づいた。
筋力が増えたせいだけではない。
今日覚えた《身体強化》の使い方を意識すると、地面を踏む感覚そのものが以前よりはっきりしている。
普通に歩く時には使わない。
ただ、必要な瞬間だけ脚、腰、背中へ魔力を流せば、昨日までとは違う加速ができるはずだ。
そこへ《衝撃》を重ねれば、さらに先へ行ける。
今まで敏捷が大きく伸びていても、身体が生み出す力そのものはそこまで追いついていなかった。
これからは違う。
速さを支える脚の力が増え、剣を振るための背中と腕も強くなり、そのうえ《身体強化》まで覚えたことで、今まで《衝撃》に任せていた部分を自分の肉体でも補えるようになり始めている。
エイルは人通りのある道では試さず、そのまま宿へ戻った。
次に本気で身体を動かせる時、自分がどれくらい速く、どれくらい強くなっているのかはまだ分からない。
ただ、水門を支える前の自分と同じではないことだけは、状態板を開かなくてもはっきり分かっていた。




