第51話 重さを越える
湖底遺構から戻った翌日、エイルは再び北岸の調査船に乗っていた。
昨日の時点では第二層への本格的な進入を急がない方針だったものの、夜の間に第一空洞奥の水流が大きく変化し、学院の観測でも遺構内部を流れる魔力に周期的な揺らぎが確認されたらしい。このまま放置すれば湖底の崩落が再び起きる可能性まで指摘されたため、予定を前倒しし、原因となっている場所だけを確認することになった。
とはいえ、今回も目的は探索そのものではなく、第一空洞の奥にある機構を確認し、水流が変化した原因を調べたらすぐ戻るという限定的なものだった。
「昨日の今日でまた潜るとは思わなかったな」
呼吸具の留め金を締めながら、ダリオが少し嫌そうに湖面を見る。
「僕は嬉しいですけど」
「知ってるから言ってんだよ。お前の場合、依頼じゃなくても潜りそうだろ」
「さすがに軍が封鎖してる場所へ勝手には入りませんよ」
「そこは信じてる。ただ、封鎖されてなかったら入るだろ」
エイルは答えず、背中へ固定した長剣の位置を確かめた。
否定しづらい。
昨日見つかった図や、第二管理区と呼ばれていたらしい水門、その先へ続く通路はずっと気になっている。西部水上遺跡との関係も、湖全体に何らかの巨大施設が存在していた可能性も、まだ何一つ分かっていない。
ただ、昨日の守衛機との戦闘で、遺構そのものが今も部分的に動いていることは理解した。知らない場所へ進みたいからこそ、準備もせず突っ込んで戻れなくなるのは避けたい。
今回の潜水班は昨日より小規模で、軍の潜水兵五人、学院の研究者一人、冒険者はエイルとダリオの二人だけだった。レイアは船上で指揮を執るため残り、潜水班長を中心に八人で第一空洞へ入る。
「今日もエイルは探知優先だ」
レイアが簡易図を広げながら言う。
「昨日の守衛機と同型が一体だけとは限らないし、爪潜りも完全にいなくなったわけじゃない。異常を感じた場合は、敵かどうか判断できなくても先に知らせろ」
「分かりました」
「ダリオは前衛補助、学院員は中央に置く。奥の機構を確認したら、それ以上は進まない」
「了解」
確認を終えると、先頭の潜水兵から順番に湖へ入っていった。
◇
湖底へ降りる動作は、もう数日前とは比較にならないほど自然になっていた。
呼吸具から入る空気の僅かな抵抗も、背中に固定した長剣の重さも、命綱が水中で流れる感覚も、それぞれを意識して処理しなくても身体が勝手に合わせてくれる。
十五メートルを越え、二十メートル近い湖底へ向かっても呼吸は乱れず、周囲を泳ぐ仲間の位置も《振動感知》と《魔力感知》を重ねれば、視界に入っていない相手まで大まかに把握できた。
昨日より、さらに感覚が広がっている。
第一空洞の内部には爪潜りらしき反応が二つあるものの、かなり奥にいてこちらへ向かう様子はない。守衛機ほど大きな反応もなく、少なくとも入口付近は安全そうだった。
黒い穴へ入ると、淡い照明石の光の中に人工壁が現れ、その奥には昨日倒した守衛機の巨体がまだ横たわっていた。
胸部の周囲には回収予定を示す杭が打ち込まれ、割れた装甲の隙間から内部の構造が少し見えている。
エイルはそこを通過しながら、昨日ここで戦った時のことを思い出した。
あの時は三メートル近い守衛機がかなり大きく感じられたはずなのに、今日見ると昨日ほどの圧迫感がない。
相手が小さくなったわけではない。
自分の方が変わったのだろう。
潜水班長の合図に従い、さらに人工壁の奥へ向かう。
昨日開いた石扉は一晩の間にさらに広がっており、以前なら一人ずつ抜ける必要があった隙間を、今では二人が並んで通れそうなほどだった。
そこから、はっきり分かるほど強い水流が外へ流れ出している。
学院の研究者が測定器を向け、魔力濃度と流れを確認してから問題ないと合図を出したため、一行は慎重に内部へ入った。
◇
扉の向こうは、幅の狭い石造通路だった。
壁も床も規則正しく組まれ、天井近くには太さの違う管のような構造が何本も走っている。その一部から細かな気泡が漏れ、奥から入口へ向かう水流が通路全体を満たしていた。
流れへ正面から逆らうと余計な力を使うため、エイルは床近くまで身体を下げ、抵抗を減らしながら進んでいく。
数十メートルほど進むと通路が一気に広がり、その先に大きな円形の部屋が現れた。
中央には巨大な柱状の機構が立ち、その周囲を石造りの環が何重にも取り囲んでいる。床には深い溝が何本も走り、壁面にはこれまで見つかったものと同系統の文字が刻まれ、天井には幅四メートルを超える巨大な石板が埋め込まれていた。
学院の研究者が中央へ近づこうとしたところで、潜水班長が手を上げて止める。
まず安全確認。
エイルも《振動感知》と《魔力感知》を広げた。
動いている生物は感じない。
ただし、中央の機構内部にはかなり大きな魔力が残っており、それは一定ではなく、ゆっくりと脈を打つように強弱を繰り返している。
研究者へそのことを合図で伝えると、すぐに測定器が向けられた。
やはり何らかの機構が動いている。
潜水班長が部屋の外周を確認したあと、ようやく全員が内部へ入った。
エイルも床へ足をつける。
その瞬間、身体に妙な重さを感じた。
水流のせいかと思ったが、それだけではない。
試しに指先へ魔力を集め、小さな《衝撃》を出そうとしたところ、身体の外へ出た魔力が一気に薄まり、普段なら十分な出力になる量を込めても、ほとんど水を動かせなかった。
エイルはすぐ仲間へ合図する。
ダリオも槍へ魔力を通して確かめたらしく、驚いたようにこちらを見る。
学院研究者が中央機構を指差した。
どうやら、この部屋そのものに魔力干渉が掛かっているらしい。
技能が完全に封じられているわけではないものの、身体の外へ放つ種類の魔法は大幅に弱められる。
つまり、これまで多くの場面で身体能力を補ってきた《衝撃》も、ここでは普段通りには使えない。
エイルは長剣の柄へ一度触れた。
少し不安はあったが、それと同時に、自分の身体そのものが今どこまで動くのか確かめてみたいという気持ちも生まれていた。
◇
研究者は中央装置の基部まで近づくと、石環の表面に刻まれた文字を確認し始めた。
いくつか並んでいる記号の中には《第二管理区》と同じものがあり、その横には円形の窪みが作られている。
守衛機の胸から回収した部品と、ほぼ同じ大きさだった。
潜水班長が部品を入れるつもりなのかと確認したが、研究者はすぐ首を振った。
今日は観測だけで、正体の分からない機構を動かすつもりはない。
判断としては正しかったはずだ。
しかし、人間側が何もしていないのに、装置の方から動き始めた。
最初に異変を捉えたのはエイルだった。
足裏から低い振動が伝わり、中央柱の中を流れていた魔力が、それまでの緩やかな脈動から一転して急激に増えていく。
《危機感知》も同時に強く反応したため、エイルはすぐ全員へ退避の合図を送った。
潜水班長も迷わず入口を指す。
その直後、床に刻まれた溝から大量の気泡が噴き出し、白く濁った水が視界を覆った。
さらに天井から重い振動が響く。
エイルが見上げると、先ほどまで天井へ収まっていた巨大な石板が、通路を塞ぐように下がり始めていた。
水門。
この部屋そのものが、水路を開閉するための設備なのだろう。
潜水兵たちが入口へ向かう中、一人だけ動きが止まった。
学院の研究者だった。
腰へ繋がった命綱が中央装置から伸びる突起へ回り込み、強く引っかかっている。
ダリオが即座に戻り、潜水班長も一人を救助へ向かわせた。
エイルは下降している石板を見る。
動きは想像以上に速く、このままなら数秒で通路が完全に塞がる。
研究者の命綱を切ればいい。
潜水兵が短剣を抜き、金属線の入った縄へ刃を当てた。
しかし、昨日の事故を受けて強化された命綱は簡単には切れない。
ダリオも突起へ槍を入れ、縄を外そうとする。
石板が半分近くまで下がった。
このままでは研究者だけではなく、助けに戻った者まで部屋へ閉じ込められる。
潜水班長が撤退を指示し、装備を捨ててでも研究者を先に抜けさせろと合図する。
エイルは石板を見た。
幅は四メートルを超え、厚みも人間の腕よりはるかにある。中には金属構造まで通っているようで、まともに考えれば人間一人が支えられる重量ではない。
ただし、完全に自由落下しているわけではなく、両端の溝に沿って駆動機構が下降させている。
石板全体の重量を持ち上げる必要はない。
ほんの数秒でも動きを止められれば。
その間に、後ろの三人が抜けられる。
エイルは水底へ足をつけると、下がってくる石板の下へ両手を入れた。
潜水班長が大きく手を振り、やめろと示している。
エイルにも分かっている。
この部屋では《衝撃》が使えない。
普段なら足元や刃へ流していた補助も、今はほとんど期待できない。
使えるものは、自分の身体だけだった。
石板が両掌へ触れた瞬間、全身へ凄まじい圧力が落ちてきた。
◇
腕だけでは到底支えられなかった。
肩から背中へ、さらに腰と脚まで一気に負荷が流れ、エイルの膝が大きく沈む。
それでも石板の下降は僅かに遅くなった。
完全には止まらない。
さらに押し込まれ、腕が震え始める。
水底を踏んでいる両足にも重さが掛かり、靴底の下で石が軋む振動まで伝わってきた。
エイルは腕だけで持とうとするのをやめた。
長剣を振る時と同じように、身体を一つの繋がった力として使う。
脚で床を押し、腰を伸ばし、その力を背中から肩へ通して両腕へ送る。
下降がさらに遅くなる。
もう少し。
エイルは息を整えた。
呼吸具があるので、息そのものは苦しくない。
苦しいのは身体だった。
肩の奥が痛み、腕の筋肉が焼けるように熱くなり、腰まで震え始める。
それでも、ここで離せば研究者たちが間に合わない。
なら支えるしかない。
石板が数センチ下がった。
エイルは一度深く沈み込み、今度は受けるのではなく押し返すように脚へ力を込めた。
全身を使う。
支えるだけではなく、上へ。
石板の下降が止まった。
ほんの僅かな時間だったが、機構が下へ押す力とエイルの身体が拮抗する。
潜水班長も、ダリオも、一瞬こちらへ目を向けた。
エイルは研究者の方へ顎を動かした。
見ている暇があるなら早くしろ、という意味は伝わったらしい。
潜水兵がさらに短剣を入れ、ダリオが金属線を槍の柄へ絡めて捻る。
その間にも石板は押し続けている。
腕の震えが強くなり、身体の内側で何かが限界へ近づいていく感覚があった。
その時、視界へ表示が浮かんだ。
【筋力が大きく成長しました】
だが、今は確認している余裕などない。
さらに数秒耐える。
石板がまた僅かに沈む。
エイルは歯を食いしばり、足へ力を込め直した。
続いて、別の表示が現れる。
【技能《身体強化 Lv.1》を獲得しました】
同時に、身体の内側を流れる魔力の感覚が変わった。
これまで《衝撃》として身体の外へ出そうとすると、部屋の干渉によってほとんど削られていた魔力が、筋肉や骨の内側へ流した場合には消えずに残っている。
エイルはほとんど反射的に、その流れを腕だけではなく、肩、背中、腰、脚へ薄く広げた。
身体そのものを内側から支える。
石板が軽くなったわけではない。
それでも、さっきまで押し潰されそうだった力へ、もう一度抗える。
エイルは腰を伸ばした。
止まっていた石板が、ごく僅かに上へ戻る。
潜水班長の目が大きく見開かれた。
ダリオも手を止めかけたが、エイルが睨むと慌てて縄へ意識を戻した。
金属線が一本ずつ切れ、最後に強く捻られた部分が弾ける。
研究者の命綱が自由になった。
潜水兵が身体を引き寄せ、そのまま通路の向こうへ押し出す。
ダリオも続いて抜けた。
残るのは潜水班長とエイルだけ。
班長がこちらへ手を伸ばす。
先に行けとエイルが首を振り、入口を示す。
隙間はもう、人一人がぎりぎり抜けられる高さしか残っていない。二人同時に動けば、石板を支える者がいなくなる。
潜水班長は一瞬迷ったものの、エイルの両腕がまだ石板を止めていることを確認すると、先に通路へ滑り込んだ。
全員抜けた。
残るのは自分だけ。
エイルは一度深く息を吸い、身体の内側へ流している魔力をさらに整えた。
【《身体強化 Lv.1 → Lv.2》】
技能が上がった瞬間、さっきよりも全身へ力を伝えやすくなる。
腕だけで押している感覚が薄れ、脚から入れた力がほとんど途切れず両手まで届く。
なら、最後に一度だけ上げればいい。
エイルは膝を曲げ、そのまま一気に身体を伸ばした。
石板が十センチほど浮いた。
その瞬間、力を抜いて身体を横へ投げる。
通路の隙間へ滑り込む。
背中の長剣の鞘が石板の端へ軽く触れたが、身体を捻って抜けきった。
直後、背後で巨大な石板が床へ落ち、重い振動が通路全体を揺らした。
◇
衝撃で数メートル流されたエイルの腕を、ダリオが掴んだ。
止まってみると、全身が痛い。
特に両腕と背中の負担が大きく、指先も少し痺れている。
ただ、動かせる。
骨が折れた感覚もない。
潜水班長がすぐ近づき、肩から肘、手首まで確認する。エイルが大丈夫だと合図すると、班長はそれでも納得しきれない様子で何度か腕を動かさせた。
少し離れたところでは、ダリオが妙な顔をしている。
水中なので声は聞こえないが、両腕を広げてさっきの石板の大きさを示したあと、信じられないようにエイルを指した。
お前、本当にあれを止めたのか。
おそらくそんな意味だろう。
エイル自身も、自分の両手を見た。
最初は支えるだけで限界だった。
それが最後には、僅かとはいえ持ち上げた。
途中で覚えた《身体強化》の影響も大きいが、それだけではなく、石板を支えている最中に身体そのものが変化していった感覚がある。
今まで使っていなかった力の出し方を、身体が急速に覚えていったようだった。
◇
調査はその時点で中止になった。
水門が閉じて先へ進めなくなったことに加え、研究者の命綱が引っかかった原因も、装置が突然動き始めた理由も分かっていない。今の状態で無理に再起動を試すより、一度戻って情報を整理した方がいいという潜水班長の判断に、誰も反対しなかった。
湖面へ戻り、船へ上がる。
呼吸具を外した瞬間、ダリオが我慢していたものを全部吐き出すように声を上げた。
「お前、何なんだよあれ!」
「水門ですか?」
「水門の説明を求めてんじゃねえ! 何でお前が下がってくる水門を素手で止めてんだ!」
「誰かが止めないと間に合わなかったので」
「理由じゃなくて、どうやったか聞いてる!」
近くにいた潜水兵たちまで集まってくる。
研究者はまだ少し青い顔をしていたが、エイルの前まで来ると深く頭を下げた。
「本当に助かった。あのままなら装備を捨てても間に合わなかったかもしれない」
「縄が外れてよかったです」
「いや、だからお前はそこじゃねえって」
ダリオが頭を抱える。
潜水班長も装備を外しながら、改めてエイルを見る。
「あの水門、構造全体なら数トンどころじゃ済まん。実際にお前が受けていた荷重は駆動機構や浮力でかなり減っていたはずだが、それでも人間一人が正面から止めるようなものじゃない」
「全部の重さじゃないとは思ってました」
「そういう判断ができたことと、実際に止められることは別だ」
「最後、少し持ち上げてたよな」
別の潜水兵が言う。
「見間違いじゃなかったですよね?」
ダリオがすぐ食いつく。
「俺も見た。上がったぞ、あれ」
「十センチくらいです」
「十センチ上げる時点でおかしいって言ってんだ」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
エイルは自分の右手を握ってみた。
強い負荷を受けたせいで筋肉は疲れているはずなのに、力そのものが抜けた感じはしない。
むしろ、身体の奥に今まで存在を意識していなかった部分まで繋がったような、不思議な感覚が残っていた。
◇
学院へ戻ると、軍から連絡を受けていたカイルにすぐ捕まった。
「水門を持ち上げたって聞いたんだが」
「最後に少しだけです」
「その『少しだけ』って言い方、本当にやめた方がいいぞ」
「でも、本当に少ししか上げてません」
「数トン級の水門相手に使う言葉じゃないんだよ」
カイルは呆れながらも、エイルの肩や腕の動きを細かく確認し、そのまま学院の治療科へ連れていった。
診察の結果、筋肉へかなり強い負荷が掛かっているものの、大きな断裂や骨の損傷はない。今日は訓練禁止で、明日も痛みが残るなら休むよう言われた。
治療科を出たところで、カイルが思い出したように聞く。
「そういや、身体強化系の技能は前から持ってたのか?」
「今日覚えました」
カイルの足が止まった。
「今日?」
「水門を支えてる途中です」
「覚えた直後に使ったのか?」
「身体の外へ出す魔力は消えたけど、中へ流す分は残ったので、使えそうだと思って」
「それで実際使えて、あの水門を押し返したと」
「はい」
カイルはしばらく何も言わずエイルを見ていたが、やがて額を押さえた。
「お前、技能を覚える速さもおかしいけど、覚えた直後に使い方を見つける方も大概だからな」
「最近は僕も、前より早くなってる気はします」
「前より、で済ませられる差じゃない気がするが……まあいい。今日は本当に休め」
「分かりました」
◇
宿へ戻る頃には、腕の痛みも少し落ち着いていた。
夕食を食べ、身体を温めてから部屋へ戻ると、エイルは机の前へ座って状態板を開いた。
最初に目へ入ったのは、今日まで遅れていた筋力だった。
【筋力 129 → 171】
「……かなり上がったな」
四十二。
一度の経験で、これまでとは明らかに違う幅の伸びを見せている。
耐久も同じように上がっていた。
【耐久 125 → 151】
さらに今日習得した技能。
【《身体強化 Lv.2》】
水門を支えている最中に覚え、その場で一段上がった技能が、もう自分の状態板へ当然のように加わっている。
他にも成長はあった。
【Lv.32 → Lv.34】
【《剣術 Lv.14 → Lv.15》】
【《魔力操作 Lv.15 → Lv.16》】
【《水中行動 Lv.9 → Lv.10》】
ただ、エイルが何度も見直したのは筋力の数字だった。
今まで敏捷や感知が急速に伸びていく一方で、純粋な力はそこまで突出していなかった。
戦闘でも、正面から押し合うより避け、流し、《衝撃》を使って足りない力を補うことが多かった。
それが今日。
《衝撃》をほとんど使えない場所で、今までの身体では到底支えきれない重さへ真正面から抗った結果、遅れていた部分が一気に追いつき始めた。
エイルは右手を握る。
見た目だけなら、昨日より腕が急に太くなったわけではない。
それでも握り込んだ時の感覚は明らかに違い、指先から腕、肩、背中まで力が繋がる感覚が以前よりずっとはっきりしている。
机の端へ手を掛け、ほんの少しだけ持ち上げてみる。
宿に置かれている頑丈な木机が、思っていた以上にあっさり片側を浮かせた。
「軽い……いや、壊したらまずいな」
すぐ元へ戻す。
試すなら訓練場でやるべきだ。
それでも、今日起きたことは理解できた。
《越境》は、得意な能力だけを伸ばすものではない。
今まで避けてきた種類の限界へ本当にぶつかり、それを越えれば、遅れていた身体の部分まで急激に追いついてくる。
敏捷や感知だけではない。
筋力も、耐久も。
そして身体強化まで加わった。
エイルは状態板を閉じると、壁へ立て掛けている長剣へ目を向けた。
これまでは硬い敵の攻撃を受ければ、真正面から止めずに流すのが当たり前だった。
もちろん、技術としてそれを捨てるつもりはない。
ただ次に重量級の敵とぶつかった時は、避けなければならないから避けるのではなく、受けるか流すかを自分で選べるようになっているかもしれない。
速さで先に入り、感知で相手の動きを読み、《衝撃》で崩し、そのうえ純粋な力でも押し負けない。
そこまで行けば、これまでとは戦い方そのものが変わる。
しかも、今日の伸びを見る限り、筋力の成長はここで終わるどころか、ようやく始まったばかりなのだろう。
エイルは右手をもう一度握り、自分の中に増えた力を確かめてから、明日は大人しく休もうと決めた。
少なくとも、今夜宿の机を壊して弁償するよりは、その方がずっといい。




