第5話 最初の依頼
冒険者になった、その日の午後。
エイルは依頼を受けなかった。
正確には、受けられそうな依頼を何度か眺めた。
街中の荷運び。
倉庫の整理。
薬草採取。
街道沿いに出る角兎の討伐。
F級向けの依頼は思っていた以上に多かった。
その中でも、薬草採取にはかなり惹かれた。
街の西にある森へ入る必要があるらしい。
知らない森。
知らない地形。
それだけで少し行ってみたくなる。
だが。
「……痛い」
依頼票へ伸ばしかけた右腕が止まる。
昨日、鎧猪の牙を剣で受けた腕だ。
朝よりは多少ましになっている。
それでも、剣を振るには不安があった。
「今日はやめとくか……」
口にすると、受付のミレイが少し笑った。
「良い判断だと思います」
「見てたんですか?」
「さっきから三回くらい薬草採取の依頼票に手を伸ばしては戻していたので」
「……そんなに」
「そんなにです」
エイルは少し気まずくなり、掲示板から離れた。
無理はしない。
昨日、自分でそう決めた。
まだ一日も経っていない。
ここで破るのはさすがに早すぎる。
「宿、探してきます」
「それがいいですよ」
ミレイへ軽く頭を下げ、ギルドを出る。
街は相変わらず賑やかだった。
道を歩いているだけでも、村では見ないものばかりが目につく。
染め布を並べる店。
香辛料。
奇妙な形をした果物。
武器屋。
防具屋。
地図を売っている店もあった。
エイルの足が止まる。
「……地図」
店先には何枚もの羊皮紙が吊られていた。
ローデン周辺。
王国南部。
主要街道。
隣国まで含めた広域図。
気になる。
かなり気になる。
だが値札を見て、そっと視線を逸らした。
「高いな……」
特に広域図。
今持っている金では買えなくはない。
ただし買えば、宿代と食費がかなり心細くなる。
旅立ったばかりで野宿生活へ逆戻りするのは避けたい。
「稼いでからだな」
それでも店の場所だけはしっかり覚えた。
◇
宿は、ギルドから歩いて十分ほどの場所に見つけた。
名前は《跳ね鹿亭》。
一階が食堂。
二階と三階が客室になっている。
安い部屋なら一泊銅貨八枚。
夕食と朝食をつけても銀貨一枚には届かない。
エイルは三泊分を先に払った。
部屋は狭かった。
寝台。
小さな机。
窓。
荷物を置く棚。
それだけ。
けれど、エイルには充分だった。
「……ベッドだ」
昨日は地面だった。
それだけで価値がある。
荷物を下ろし、寝台へ腰を下ろす。
柔らかい。
もう一度座り直す。
やはり柔らかい。
「すごいな」
別に高級な寝台ではない。
むしろ少し軋む。
それでも、野宿の翌日には素晴らしく感じた。
右腕の包帯を外す。
腫れは残っている。
腹の傷も見直す。
悪化はしていない。
宿の主人に聞いたところ、近くに治療院もあるらしい。
ただ、この程度なら数日休めば治るとも言われた。
エイルも同じ判断だった。
治療魔法は便利だが、当然金がかかる。
致命傷でもないのに使う余裕はまだない。
「冒険者って、結構お金かかるな……」
登録料。
宿代。
食費。
装備の手入れ。
薬。
地図。
考えるだけで増えていく。
昨日、鎧猪を置いてきたことへの後悔がまた強くなった。
その日の夕方。
後悔していた理由そのものが帰ってきた。
◇
「エイルさん」
夕食を食べに一階へ降りたところで、宿の主人に呼び止められた。
「冒険者ギルドから、戻ったら来てほしいって伝言が来てるぞ」
「ギルドから?」
「ああ。何か回収したとか何とか」
それだけで分かった。
「ありがとうございます。行ってきます」
夕食は後回し。
エイルはギルドへ向かった。
日が沈み始めていたが、大通りにはまだ人が多い。
ギルドへ入る。
昼より酒場側が賑やかだった。
受付を見ると、ミレイがこちらに気づく。
「エイルさん。ちょうどよかったです」
「鎧猪ですか?」
「はい」
ミレイが少し苦笑する。
「本当にそれしか気にしてませんね」
「お金になるって聞いたので」
「大事ですけど」
案内され、受付の端へ移動する。
そこには、赤茶色の髪を後ろで束ねた少女がいた。
レナ。
昼間より少し汚れている。
革鎧には泥。
肩には大きな袋。
「おかえりなさい」
エイルが言うと、レナが妙な顔をした。
「ただいま……でいいのかな?」
「多分」
「何その返事」
レナは肩の袋を床へ置いた。
重い音がした。
「確認してきたよ」
「どうでした?」
「いた」
「ですよね」
「いや、そうじゃなくて」
レナがエイルを見た。
「本当に一人で倒してるじゃない」
「そう言いましたけど」
「言ってたけど!」
声が少し大きくなる。
周囲から視線が集まり、レナがすぐに声を落とした。
「……現場見たら余計おかしいって分かった」
「何がですか?」
「まず、最初に木へぶつけたでしょ」
「はい」
「それから斜面の土を崩した」
「はい」
「そこで右前脚を傷めさせた」
「多分」
「最後、腹に剣を突き込んだ」
「そうです」
レナが腕を組む。
「それを戦いながら考えたの?」
「他に方法がなかったので」
「普通、レベル三が鎧猪と遭遇したら、方法を考える前に逃げるの」
「僕も逃げようとはしました」
「途中でやめたんでしょ」
「……はい」
「そこなんだよなあ」
レナが額を押さえた。
エイルとしても反論しづらい。
昨日の自分は確かに少しおかしかったと思う。
「まあ、それはいいとして」
レナが袋を軽く叩いた。
「牙と、甲殻の一部。あと魔石」
「魔石」
エイルの目が袋へ向く。
「綺麗に取れたよ。肉は時間が経ってたから、全部は無理だったけど」
ミレイが書類を出した。
「査定結果です」
エイルは覗き込む。
牙。
甲殻。
魔石。
肉の一部。
そこから回収依頼の手数料を引く。
最終的な金額は――。
「銀貨二十一枚?」
「はい」
エイルが固まる。
銀貨二十一枚。
今泊まっている宿なら、食事込みでもかなりの日数泊まれる。
「……そんなに?」
「成体の鎧猪ですから」
ミレイが説明する。
「牙は武器や加工品。甲殻は防具。魔石は魔道具の素材になります」
「昨日、置いてきたの……」
「相当もったいなかったね」
レナが言う。
「……勉強になりました」
本当に。
今後、倒した魔物は可能な限り素材を確認しよう。
エイルは心に決めた。
ただ。
銀貨を受け取る。
袋が少し重い。
それだけで気分も少し軽くなった。
「これで地図が買える」
「地図?」
レナが聞き返す。
「広域図が欲しくて」
「装備じゃなく?」
「剣も直します」
「宿代は?」
「三泊分払い済みです」
「薬は?」
「……買います」
「先に必要なもの買ってから地図にしなよ」
正論だった。
「分かってます」
「本当に?」
「多分」
「怪しい」
ミレイが笑いを堪えている。
エイルは少し不満だった。
「僕、そんなに無計画に見えます?」
レナとミレイが黙った。
「……」
「……」
「なんで黙るんですか」
「いや」
レナが視線を逸らす。
「初日に鎧猪へ一人で挑んだ人だから」
「挑んだわけではないです」
「途中から挑んでるでしょ」
「……それは」
否定できなかった。
◇
翌朝。
右腕の痛みはかなり引いていた。
エイルは宿の裏手で剣を抜く。
ゆっくり振る。
一度。
二度。
三度。
痛みはある。
だが、昨日のような鋭い痛みではない。
「これなら大丈夫かな」
軽く踏み込む。
剣を振る。
止める。
もう一度。
その時。
以前と少し感覚が違うことに気づいた。
剣が軽い。
昨日の朝、歩いていた時にも同じ感覚があった。
身体が自分の記憶より先へ動く。
踏み込みが深い。
腰を回せる。
剣先の止まりもいい。
「……」
エイルは剣を構え直した。
一度。
今度は少し速く。
振る。
風を切る音。
「やっぱり」
鎧猪と戦う前とは明らかに違う。
レベルが三つ上がった影響。
そして《剣術》も上がっている。
数字で見た時よりも、身体を動かした方がずっと分かりやすかった。
強くなっている。
それが少し嬉しい。
エイルは剣を鞘へ戻した。
「今日は行けるな」
宿で朝食を済ませる。
パン。
卵。
野菜のスープ。
温かい。
昨日よりずっといい。
食べ終わると、そのままギルドへ向かった。
昨日見ていた依頼票は、まだ残っていた。
【F級推奨】
【薬草《青露草》の採取】
【必要数 二十束】
【採取地 ローデン西部・ラグナの森周辺】
【報酬 銀貨三枚】
エイルは依頼票を取った。
受付へ持っていく。
今日の担当もミレイだった。
「おはようございます」
「おはようございます。腕は?」
「かなり良くなりました」
「無理はしないでくださいね」
「はい」
昨日から何度言われただろう。
それでも、今回は素直に頷く。
「青露草ですか」
「はい」
「採取経験は?」
「あります。似た薬草なら村の周りにも生えていたので」
「ラグナの森は初めてですよね?」
「初めてです」
少し声が弾んだ。
ミレイが気づいたのか、僅かに笑う。
「森の浅い場所なら危険度は高くありません。ただ、奥へ入りすぎないように」
「分かりました」
「特に北側は地形が変わりやすいです。古い地図を信用しすぎないでください」
エイルの目が少し輝いた。
「地形が変わるんですか?」
「……なんで嬉しそうなんです?」
「いえ」
隠すのが少し遅かった。
「崖崩れや増水が多いだけです。未知の大陸が生えてくるわけではありませんよ」
「そこまでは期待してません」
「少しは期待してました?」
「少し」
ミレイがため息をついた。
「本当に奥へ行かないでくださいね」
「はい」
今度は少しだけ強く念を押された。
◇
ラグナの森は、ローデンから西へ一時間ほど歩いた場所にあった。
街を出て。
畑を抜け。
小さな丘を越える。
その先。
木々が連なる。
故郷の村近くにある森より広い。
木の種類も少し違う。
エイルは入口で一度立ち止まった。
「……いいな」
知らない森。
それだけで気分が上がる。
依頼は薬草採取。
危険なことをする必要はない。
むしろ今日は、普通に終わらせたい。
エイルは森へ入った。
すぐに《気配感知》――は、まだ持っていない。
頼れるのは目と耳。
そして《危機感知》。
地面を見る。
獣の足跡。
小さい。
兎か。
少し先には蹄。
鹿。
さらに木の幹には爪痕。
これは古い。
「……」
歩きながら自然と周囲を確認する。
村で何年もやってきたことだった。
青露草は湿気のある半日陰を好む。
水気。
苔。
斜面の下。
そういう場所を探す。
十五分ほどで、最初の群生を見つけた。
「あった」
青緑色の細長い葉。
朝露のような透明な粒が、葉の縁に残っている。
青露草。
根まで抜く必要はない。
茎の途中から切る。
再び生えるように。
一本。
二本。
集めて束ねる。
【《採取》を獲得しました】
「……お」
視界の端に文字が浮かんだ。
《採取 Lv.1》
エイルは少し嬉しくなる。
新しい技能。
こうして増えるらしい。
技能を覚える条件は一つではない。
教わる。
繰り返す。
必要に迫られる。
人によっても違う。
エイルは青露草を採り続けた。
十束。
十五束。
思っていたより順調だった。
その時。
《危機感知》が反応した。
弱い。
鎧猪の時とは比べものにならない。
右。
エイルは振り向いた。
草が揺れる。
飛び出してきたのは、小型の魔物だった。
額から一本の角。
灰色の毛。
角兎。
エイルは剣へ手を伸ばす。
角兎が地面を蹴った。
「速――」
言いかけて。
途中で違和感を覚えた。
遅い。
いや。
角兎が遅いわけではない。
見える。
動きが。
鎧猪と戦った時より、ずっとはっきり。
突進してくる角の軌道。
着地する場所。
次に跳ねる方向。
全部、何となく分かる。
エイルは半歩だけ横へずれた。
角が脇を通る。
すれ違いざま。
剣を抜く。
一閃。
角兎が地面へ落ちた。
「……」
エイルは剣を構えたまま止まった。
動かない。
一撃。
「こんなに……?」
村の近くでも何度か戦ったことがある。
以前なら、もう少し慎重に動きを見ていた。
一度避け。
二度目で狙う。
場合によっては数度失敗する。
それが今は。
一度。
ただすれ違っただけ。
エイルは倒れた角兎を見る。
それから、自分の手を見る。
「……強くなってる」
昨日も分かっていた。
朝も感じた。
けれど。
相手がいると、もっとはっきり分かる。
以前なら少し怖かった相手が。
今は、怖くない。
「レベル三つで、こんなに変わるのかな」
疑問が浮かぶ。
普通の成長がどの程度なのか分からない。
ただ。
胸の奥で。
《越境》という名前が少しだけ引っかかった。
◇
結局、青露草は予定より多く採れた。
三十二束。
必要なのは二十。
余剰分も買い取ってくれるらしいので、そのまま持ち帰る。
角兎も二体。
今度は忘れない。
《解体》を使い、角と小さな魔石を取った。
「……よし」
少し成長した気分だった。
素材回収という意味で。
帰り道。
森の出口近くで、エイルは一度だけ振り返った。
もっと奥へ行ってみたい。
地図では、ここから先にも森は続いている。
北へ行けば谷。
さらに先には低い山。
今日は行かない。
依頼も終わっている。
怪我も完全には治っていない。
「また今度だな」
そう言って森を出た。
◇
「三十二束?」
ミレイが少し驚いた。
「ありました」
「初めての森ですよね?」
「はい」
「……まあ、採取経験はあるって言ってましたしね」
納得することにしたらしい。
青露草を確認してもらう。
状態も良い。
余剰分の買い取りを含め、銀貨四枚と銅貨五枚。
さらに角兎の素材。
合計銀貨五枚弱。
エイルは少し嬉しかった。
「これなら結構稼げますね」
「毎回これくらい順調とは限りませんよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……多分」
「そこは言い切ってください」
冒険者証へ依頼達成の記録が追加される。
初めての一件。
エイルは少しだけそれを眺めた。
F級。
依頼達成数、一。
本当に小さな数字だ。
でも。
悪くなかった。
◇
その夜。
宿の部屋。
エイルは寝台へ腰を下ろし、状態板を開いた。
昨日とは少し違う。
【エイル・アーネット】
【Lv.7】
【生命 56】
【魔力 44】
【筋力 37】
【耐久 34】
【敏捷 51】
【器用 48】
【感知 64】
【技能】
《剣術 Lv.3》
《危機感知 Lv.6》
《野営 Lv.4》
《追跡 Lv.2》
《解体 Lv.3》
《採取 Lv.2》
《衝撃 Lv.2》
《魔力操作 Lv.1》
【固有技能】
《越境 Lv.2》
「……七」
角兎二体。
薬草採取。
森を歩いた。
それだけで一つ上がった。
鎧猪の時ほどではない。
当然だ。
あれほどの危険はなかった。
ただ。
能力値を見る。
感知。
六十四。
昨日は五十八。
敏捷も上がっている。
器用も。
「結構上がってるな……」
《解体》も一つ。
今日覚えた《採取》は、もうLv.2になっていた。
覚えたばかりなのに。
エイルは状態板を見つめる。
「……普通、なのかな」
比較対象が欲しい。
だが、人に能力値を聞くのも変だ。
ギルドで聞けば、一般的な数値くらいは教えてもらえるだろうか。
今度聞いてみよう。
そう思う。
状態板を閉じかけて。
止めた。
《越境》。
Lv.2。
今日は変化していない。
当然だと思った。
今日、何かを越えた感覚はない。
角兎は強くなかった。
森も危険ではなかった。
つまり。
「……強い相手じゃないと、あまり働かない?」
鎧猪の時。
一気に三レベル。
いくつもの技能が上がった。
今日。
一レベル。
技能も少し。
差は大きい。
エイルはしばらく考えた。
もし。
自分より強い相手。
自分には難しい場所。
できないこと。
そういうものを越えるほど。
成長するのなら。
「……」
少しだけ。
怖いことを考えた。
強くなるために、危険へ入る。
それは違う。
目的が逆だ。
エイルが行きたいのは、知らない場所。
遠い場所。
誰も見たことがない場所。
強さは。
そこへ行くために必要なもの。
「間違えないようにしないとな」
自分へ言い聞かせる。
強くなることが目的ではない。
それでも。
状態板に並ぶ数字を見ていると。
少しだけ嬉しい。
昨日より遠くへ行けそうな気がする。
それは確かだった。
エイルは窓を開けた。
夜のローデン。
屋根。
灯り。
その向こう。
暗闇の先には、今日入ったラグナの森がある。
さらにその向こうにも。
道は続いている。
明日は。
何をしよう。
エイルは机の上に置いた冒険者証へ目を向けた。
F級。
依頼達成、一。
最果てまでは。
多分、途方もなく遠い。
だからこそ。
エイルは少しだけ笑った。
「……楽しみだな」
まだ。
始まったばかりだった。




