第48話 潜水適性試験
潜水適性試験の朝、エイルは普段より少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、開けていた隙間から湖特有の湿った風が入り込んでいる。昨日までなら起きてすぐ装備へ手を伸ばしていたところだが、今日はまず肩や腰を軽く動かし、連日の水中訓練で張りが残っていないことを確かめてから、机の上へ並べておいた荷物を整えた。
長剣は試験中には使わないため宿へ置いていくよう言われている。青鋼短剣だけはいつも通り腰へ差したものの、これも会場へ着けば軍から支給される水中用短剣へ持ち替える予定だった。
宿の一階で簡単な朝食を済ませ、学院方面へ向かう頃には空もだいぶ明るくなっていた。
今日の試験会場は、これまで使っていた学院の訓練槽ではなく、湖岸に設けられた軍と学院の共同訓練区域だった。石造りの桟橋が三本並び、その内側を高い柵と浮標で囲い、岸近くの浅い場所から二十メートル近い深水域まで段階的に使えるようになっている。
すでに軍兵や学院の教官が何人も動いており、その中にはカイルの姿もあった。
「来たか。体調は?」
「問題ありません」
「なら先に装備を確認する。今日は試験だから、昨日までみたいに自分で勝手に試すなよ。何か思いついても、許可を取ってからだ」
「分かりました」
「特に《衝撃》だ」
「そこまで言いますか?」
「二日前に湖へ落ちて、翌日には水中移動へ使い始めた奴には言う」
言い返しにくかったので、エイルは素直に準備区画へ向かった。
並べられていた潜水装備は昨日使った訓練用とほとんど同じ構造だったが、呼吸具や金具の作りはこちらの方が頑丈で、各所に水上隊の刻印が入っている。呼吸具、腰の重り、命綱、水中眼鏡、短剣を順に確認していると、少し離れた場所から聞き覚えのある声が飛んできた。
「本当に受けるんだな」
振り向くと、ライネルが仲間二人と一緒に立っていた。
今日は学院の外套ではなく、水上実技用らしい軽装を身につけている。
「おはようございます」
「普通に挨拶するんだな」
「何だと思ってたんですか?」
「もうちょっと緊張してるかと思った」
「してますよ」
嘘ではない。
これまでの訓練と違い、今日は合否がある。その結果次第では、湖底遺構の調査に加われるかどうかも変わってくる。
「ライネルさんたちも試験ですか?」
「俺たちは別の水上実技だ。向こうの区画で戦闘訓練と救助演習があるから、途中までは同じ場所を使う」
そう答えたライネルの目が、エイルの潜水装備へ向いた。
「昨日、十五メートルまで普通に潜ってたって聞いたぞ」
「呼吸具があれば、ですけど」
「いや、そこじゃなくて、お前が潜水訓練始めたの一昨日だろ」
「そうですね」
「学院じゃもう結構話になってるぞ」
「何でそんなに広まるんですか」
「一昨日まで初心者だった奴が、昨日には深水槽で動いてたら広まるに決まってるだろ」
自分のこととして聞くと実感が薄いが、他人の話なら確かに少し妙かもしれない。
「まあ、今日は落ちるなよ」
「試験にですか?」
「今度こそ試験にだ」
「頑張ります」
「その返しだとやっぱり緊張してるように見えないんだよな……」
ライネルは少し呆れたように言いながらも、以前のように露骨に見下してくることはなかった。
◇
試験を担当するのはカイルではなく、水上隊から派遣された二人の試験官だった。
一人は四十代ほどの女性で、名前をオルガという。潜水班で十年以上活動しているらしく、もう一人の痩せた中年男性と一緒に記録板を確認していた。
「エイル・アーネット、D級冒険者。潜水訓練歴は二日で間違いないな?」
「はい」
「水泳系技能は持っているか?」
「あります」
「具体的な技能レベルまでは申告しなくていい。こちらが見るのは数字ではなく、実際にどこまで安全に動けるかだ」
それはエイルにとってありがたかった。
状態板の細かな内容を見せるつもりはなかったので、最初から数値を求められないなら余計なやり取りも必要ない。
「試験は四項目。基本潜水と装備操作、視界不良区画の移動、緊急時対応、最後に救助だ。君は遺構内で護衛役を兼ねる可能性があるから、終了後に簡単な水中戦闘も確認する」
「分かりました」
「合格基準は速さではない。安全かつ確実にこなせることを優先する。速くても装備を雑に扱えば落とすし、多少遅くても危険を増やさず完了できれば問題ない」
エイルは頷いた。
速さを競うなら経験の差が大きく出るが、安全性を求められるなら昨日まで教えられたことを一つずつ守ればいい。
「では始める」
◇
第一試験は十五メートルまで潜り、水中に設置された三つの標識を順番に回った後、底で呼吸具を一度外して再接続し、命綱の接続位置を変更してから浮上するという内容だった。
言葉だけ聞けば難しくはない。
ただ、水中で自分から呼吸具を外すとなると、実際には少し緊張した。
装備を整え、桟橋から静かに湖へ入る。
訓練槽と違って湖の水は少し濁っており、数メートル潜っただけで地上の光が弱くなっていった。
呼吸を一定に保ちながら下降し、五メートル、十メートルと深さを増していく。耳に掛かる圧力を調整しつつ、重りへ任せきりにせず姿勢を保っていると、やがて十五メートル付近に固定された最初の標識が見えてきた。
一つ目へ触れ、そのまま横へ移動して二つ目を確認し、水底に沿って進んだ先で三つ目の杭にも手を触れる。
ここからが装備操作だった。
エイルは一度ゆっくり呼吸を整え、胸の金具を確認してから口元の管を外した。
当然、もう空気は入ってこない。
息を止めたまま接続部を指先で探り、指示された通り一度位置をずらしてから、正しい向きへ戻して固定する。昨日までは手元を確かめるため身体ごと傾けることが多かったが、今は装備の位置そのものがかなり身体へ馴染んでいた。
管を咥え直して息を吸うと、少し遅れて乾いた空気が肺へ入ってくる。
次は命綱だった。
水中では縄がゆっくり流れているため、何も考えず金具を外せば背中側へ回り込む可能性がある。エイルは左手で縄を押さえたまま右手だけで金具を外し、腰の反対側へ付け直した。
接続を確認してから上を向き、浮上を始める。
水面へ顔を出す頃にも呼吸は大きく乱れなかった。
桟橋へ上がると、オルガが記録板へ何かを書き込む。
「呼吸具を外す判断が少し早かった。次に同じことをするなら、一呼吸置いてから触れ」
「分かりました」
「それ以外は問題ない。次へ進め」
少なくとも最初は通ったらしい。
◇
第二試験では、水中に泥を混ぜて視界を二メートル程度まで落とした区画を進むことになった。
途中には倒れた柱や網、身体を斜めにしなければ抜けられない狭所が用意されており、命綱を絡ませず出口まで辿り着かなければならない。
「ここでは速さを求めるな。分からなくなったら止まれ。迷った状態のまま進む方が危険だ」
オルガの説明を聞き、エイルは再び湖へ入った。
少し潜るだけで周囲の輪郭が曖昧になり、正面にある黄色い標識も数メートル離れればぼやけてしまう。
それでも、昨日ほど不安はなかった。
視界だけに頼らず、《魔力感知》と《振動感知》を同時に広げる。
水槽より広い湖では返ってくる情報も散りやすいが、自分の呼吸具から出る細かな振動、腰に繋がる命綱、底の岩、水が障害物へ当たる流れなどを一つずつ拾っていけば、完全な暗闇というわけではない。
正面やや左に柱があり、その奥に通路がある。
エイルは無理に真っ直ぐ進まず、身体を斜めにして隙間を抜けた。
命綱が柱へ軽く触れた瞬間には腰の金具を通じて微かな引きが伝わってきたため、そのまま進まず一度戻り、縄が柱を回り込まない位置へ直してから先へ進む。
次に現れたのは低い障害物だった。
上を通れば呼吸具が当たりそうなので、底へ身体を近づけて下を抜けようとしたところで、前方の水が僅かに揺れた。
誰かが来る。
おそらく試験官だ。
右前方から腕が水を押した感覚があり、エイルは身体を少し左へ流す。直後、ぼやけた視界の中を模擬短剣が通過し、続けて二撃目が下から伸びてきた。
今度は膝を畳みながら身体を回し、刃先を外へ流すように避ける。
反撃はしない。
今は戦闘試験ではなく、視界の悪い場所を安全に通過する試験だからだ。
襲撃役の気配が離れたことを確認してから再び進み、最後の標識へ触れて浮上すると、岸にいたカイルが腕を組んだままこちらを見ていた。
「どうだった?」
「思っていたより動けました。見えない分、最初から他の感覚に集中しやすかったです」
「普通の初心者は、見えなくなった時点で動きが固くなるんだがな」
少し離れた場所では、オルガが男性試験官と何かを話していた。
やがてこちらへ向き直る。
「さっきの攻撃は見えていたか?」
「ほとんど見えてません」
「なら、どうやって避けた?」
「相手が水を動かしたのと、振動です。技能の補助もあります」
オルガは短く頷き、再び記録板へ書き込んだ。
「次の試験内容を少し変える」
「難しくなるんですか?」
「君の場合、予定通りの内容では確認にならない部分がある。それだけだ」
その言い方が、少し嫌だった。
◇
本来の第三試験は、呼吸具の故障を想定した緊急浮上だった。
しかしエイルには少し条件が追加され、十五メートル地点で呼吸具を停止した後、腰の重りを一部外し、水面へ真っ直ぐ上がるのではなく、横へ十メートル移動して指定地点へ到達してから浮上することになった。
「遺跡の中で呼吸具が壊れた場合、頭上に天井がある可能性もある。真上へ上がれば助かる状況だけを想定していても意味がない」
説明されれば納得できる。
エイルは深く呼吸を整えてから潜った。
十五メートル地点へ到達すると、試験官の合図に合わせて呼吸具を止める。空気が入ってこなくなった瞬間、昨日までの訓練で何度も味わった息を止めている感覚が戻ってきた。
ここから横へ十メートル。
強く水を掻けば速くは進めるが、その分だけ酸素を消費する。エイルは身体を細く伸ばし、腕を大きく動かさず、脚も必要以上に蹴らないよう一定の速度で進んだ。
半分を越えた頃には、少しずつ胸が苦しくなってくる。
それでも残りはまだある。
さらに進み、八メートル付近で身体の動きが僅かに鈍ったところで、初めて《衝撃》を使った。
足元からごく弱い衝撃を後方へ流し、身体を大きく飛ばすのではなく、一度の蹴りを少し補う程度に使う。
一メートル進み、もう一度。
指定された標識へ手が届いた。
ここからようやく浮上できる。
身体を上へ向けると、残った息はかなり少なくなっていたので、今度は自力だけに拘らず、足元へ短い《衝撃》を繰り返し入れて上昇を補助する。
昨日のように大きく身体を押し上げるのではなく、水を蹴った直後だけ少し勢いを足す感覚で使えば、姿勢を崩さず上へ進める。
光が強くなる。
最後の数メートルは自力で泳ぎ切り、水面へ出た瞬間に大きく息を吸った。
「はあ……っ」
さすがに少し苦しかった。
桟橋へ上がると、男性試験官がエイルをじっと見ている。
「今の《衝撃》は水中移動用の技能ではないんだな?」
「普通の《衝撃》です」
「普通の《衝撃》をああいう使い方する奴は、少なくとも俺は見たことがない」
「最近よく言われます」
カイルが横で笑いを堪えていた。
◇
午前最後の項目は救助だった。
今度は人形ではなく、軍兵一人が意識を失った役として水底へ入り、エイルが単独で指定地点まで運ぶ。
途中には狭い柱の間と、上へ浮上できない屋根付き区画があり、昨日の訓練より条件はかなり厳しくなっていた。
「救助対象の装備を壊さず、自分も事故らず、指定地点まで連れてこい。速さは二の次だ」
「はい」
エイルは水へ入り、水深十二メートル付近で倒れている兵士を見つけた。
まず呼吸具が動いていることを確かめ、命綱が途中で切れている設定になっていることも確認する。そのまま慌てて抱えず、周囲へ装備が引っかかっていないかを見てから背後へ回り、胸元へ腕を通した。
昨日、訓練人形を横から持ち上げて動きにくくなった失敗がある。
今日は相手の身体を自分と同じ方向へ流し、頭が不自然に曲がらない位置で固定してから進み始めた。
最初の柱は二人分の身体を並べたままでは抜けられないため、救助対象を少し先へ押し出すように斜めへ通し、自分はその後ろから続く。
次の屋根付き区画では上へ逃げられず、途中で救助対象の脚が床の出っ張りへ触れた。
そのまま引けば足首や膝へ負担が掛かる。
エイルは一度止まり、少しだけ戻って脚の位置を持ち上げてから、角度を変えて進み直した。
そこへ、背後と右側から同時に水の揺れが来た。
試験官が二人。
救助対象を抱えたまま戦うことを求めているわけではないだろうが、妨害を避ける必要はあるらしい。
右から来た攻撃に対して、エイルは救助対象を盾へするのではなく、自分が外側へ回り込むよう身体を入れ替え、模擬短剣を肩の横へ通す。
もう一人は左後方から接近してきた。
完全に避ければ相手を抱えている腕が崩れそうだったので、片手だけ一瞬離して攻撃側の手首を押し、軌道を外したところですぐ元の持ち方へ戻す。
ここから指定地点までは五メートルほど。
二人の妨害役はまだ追ってくる。
普通に泳いでいては救助対象を抱えている分だけ速度が足りないため、エイルは身体の向きを崩さない範囲で足元へ《衝撃》を二度使い、泳ぐ力を補助しながら出口へ進んだ。
指定地点へ着き、そのまま浮上する。
水面へ出ると、救助役の兵士が自分で姿勢を戻しながら笑った。
「俺なら通すな」
「試験官じゃないですよね?」
「そうだった」
岸からオルガの声が飛ぶ。
「勝手に結果を決めるな」
「すみません!」
救助役が笑いながら謝り、周囲の兵士からも少し笑いが起こった。
◇
昼休憩を挟んだ後、最後に水中戦闘の確認が行われることになった。
潜水適性試験自体は午前の内容で十分判断できるらしいが、エイルが湖底遺構へ入る場合、探知役だけでなく護衛として動く可能性もあるため、最低限の戦闘能力を見ておきたいという。
借りた水中用短剣は青鋼短剣よりやや短く、刃も厚い。水の抵抗を受けにくいよう幅や形まで考えられており、握った感覚も地上用とはかなり違った。
「相手は二人だ」
オルガが示した先には、学院の訓練助手とライネルが立っていた。
「俺も?」
「学院側から水上実技に慣れた学生を一人出してもらうことになっている。三年の中では上位らしいな」
ライネルは一度驚いた顔をしたが、すぐに口元を上げた。
「分かりました」
そしてエイルを見る。
「やっと直接やれるな」
「別に戦いたかったわけじゃないですよ」
「俺はちょっとやりたかった」
「そうなんですか?」
「そういうところなんだよ、お前」
試験では胸と腰に小さな布札を一枚ずつ付け、どちらか一方でも取られた時点で負けになる。《衝撃》の使用は移動補助のみ許可され、相手を直接攻撃するためには使えない。
相手は二人で、エイルは一人。
「二対一なんですね」
「遺跡で敵が一体ずつ出てくる保証はない」
オルガの言葉に納得し、エイルは水へ入った。
深さは八メートルほどなので、先ほどまでの試験より浅い。
向かい側からライネルと訓練助手も入水し、三人が所定の位置についたところで開始の合図が出る。
最初に距離を詰めてきたのは訓練助手だった。
水中での動きに無駄がなく、地上の剣士のように大きく足で踏み込むのではなく、身体全体を滑らせながら一気に間合いを詰めてくる。
狙いは胸の札。
エイルは身体を少し横へ流して避けたが、その回避先にはすでにライネルが回り込んでいた。
二人で挟む形を最初から作っている。
エイルはそのまま横へ逃げず、一度深く沈んだ。
ライネルの手が頭上を通り、その直後に助手が下へ追ってくる。
速い。
ただ、二人の位置は見失わない。
助手が右下から上がり、ライネルは左上から回り込んでいる。水を押す動きも魔力の気配も別々に拾えるため、視界が多少濁っていても混ざらなかった。
二人が距離を詰め切る前に、エイルは正面の空いた場所へ足元から短い《衝撃》を入れ、その間を抜ける。
ライネルがすぐ向きを変えて追ってきた。
助手も遅れて続く。
昨日までなら、まず逃げてから次の動きを考えていたかもしれない。
今日は追ってくる二人の位置を感じながら、どちらを先に崩すかまで考える余裕があった。
先に届くのはライネル。
水中での加速は助手より僅かに速い。
なら先にこちら。
エイルは差し出された短剣を外へ避け、すれ違いざまにライネルの手首へ軽く触れた。
その位置からなら胸の札へ手が届く。
ただし、背後から助手が迫っているため、無理に一枚取りに行けばその瞬間に自分の腰を狙われる。
エイルは札を取らずに一度離れた。
助手の攻撃へ短剣を合わせるが、正面から受け止めることはしない。水中で力比べをすれば自分まで流されるので、一瞬だけ刃を触れさせて軌道を外し、身体を斜めへ逃がす。
その横から、ライネルが再び入ってきた。
今度は先ほどと動きが違う。
一度身体を大きく回し、胸へ手を伸ばすように見せてから、途中で角度を変えて腰の札へ向かってきた。
フェイントだ。
エイルは後ろへ退かず、逆に距離を詰めた。
相手の腕の内側へ入れば、短剣も札を取る手も使いにくくなる。ライネルの肩へ手を添えて身体を少し回し、その動きで互いの位置が入れ替わった瞬間、胸元の札を取った。
ライネルの目が見開かれる。
これで一人。
残った助手はすぐに動きを変え、正面から無理に来ることはせず、エイルの視界から外れるよう下へ沈んでいった。
追う必要はない。
エイルはその場で姿勢を整え、見えない相手の動きだけを待った。
水底近くから微かな振動が伝わり、次いで背後の水が押される。
助手は下から回り込み、そのまま背中側へ上がってきている。
振り返って迎えれば相手も軌道を変える。
なら、ぎりぎりまで待つ。
距離が詰まった瞬間だけ足元へ小さな《衝撃》を入れ、身体を横へ半メートルほど滑らせた。
助手の手が何もない場所を通過する。
そこでエイルは初めて身体を反転させ、相手の脇へ回りながら腰の札を取った。
直後、水上から試験終了の鐘が鳴った。
◇
水面へ上がったライネルは、髪を掻き上げながら大きく息を吐いた。
「……一昨日から潜水始めたんだよな?」
「はい」
「何で俺が負けるんだよ。こっちは学院入ってからずっと水上訓練やってるぞ」
「二対一だったので、普通に厳しかったですよ」
「勝った奴が言うと嫌味に聞こえるんだよ」
「そんなつもりないです」
「それも分かってるから余計腹立つ」
ライネルは悔しそうではあったが、以前のような敵意はなかった。
「地上戦なら、まだ俺の方が上かもしれないからな」
「そうかもしれません」
「そこは少しくらい張り合えよ」
「まだ戦ったことないので分からないです」
数秒黙ったあと、ライネルが吹き出した。
「本当に調子狂うな、お前」
◇
試験がすべて終わったのは午後の半ばだった。
エイルは装備を返却して着替えた後、軍の仮設詰所へ呼ばれた。
中にはオルガとカイルのほか、レイア、さらに冒険者ギルドの支部長代理であるガレスまで揃っている。
少し緊張しながら椅子へ座ると、オルガが記録板を机へ置いた。
「結果から伝える。合格だ」
「よかった」
思っていた以上に素直に安心した。
「ただ、補助要員としての最低基準を満たしたというだけではない。基本潜水、装備操作、視界不良時の移動、緊急対応、救助はいずれも十分で、水中戦闘についても今回想定していた水準を明確に上回っている」
エイルは少し目を見開いた。
「そんなに良かったんですか?」
「自覚が薄いな」
カイルが呆れたように言う。
「二日前のお前なら、今日の試験は途中で止めてたぞ」
「それは分かります」
「問題は、その二日前から今日まででここまで変わったことなんだが」
レイアが机へ腕を置いた。
「軍の正式な潜水員と同等とは言わない。長時間潜水の経験も、装備故障への対応も、深い水圧の中で動く経験も足りていないし、複数人救助のような訓練もまだ必要だ。ただ、第一空洞の調査へ補助要員として入るなら十分な水準に達している」
「ということは」
「ああ。次回の湖底遺構調査に参加してもらう」
エイルの表情が僅かに明るくなる。
「いつですか?」
「明後日だ」
「明日ではないんですね」
「昨日からそればかりだな」
ガレスが苦笑する。
「軍も学院も装備と人員を整える必要がある。昨日みたいに救助を優先した最低限の編成で入るわけにはいかない」
机の上へ新しい湖底図が広げられた。
第一空洞、人工壁、行方不明だった兵士が見つかった窪み、その先へ続く未調査部分が以前より細かく書き込まれている。
「今回の目的は第一空洞を安全に確保し、その先の構造と下層へ続く経路を確認することだ。深く入り込むつもりはない」
「昨日いた大きい反応はどうなりましたか?」
「そこが問題だ」
レイアが図の奥を指す。
「昨日、潜水班を追って第一空洞まで上がってきた大型反応は、その後しばらく同じ場所から動かなかった。ところが今朝、学院が遠隔測定を行った時には反応が消えていた」
「どこへ行ったか分からないんですか?」
「分からない。下へ戻ったのか、別の通路へ移ったのか、それとも測定範囲の外へ出たのかも不明だ。ただ、爪潜りの数は昨日より減っている」
エイルは図を見ながら考える。
大型個体を恐れて逃げたのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。
「それから、学院側の解析も少し進んだ」
ガレスが別の紙を出した。
昨日フィンから見せてもらった石片の模様と、その横へ追加の文字が書き込まれている。
「《上層水門》という仮訳は変わらない。その後ろに続いていた記号は、どうやら管理番号に近いらしい」
「番号ということは、一つだけじゃない?」
「その可能性が高い」
学院側から来ていた教官が頷いた。
「『第一』『第二』のように場所を区別するための番号だったとすれば、湖のどこかに同種の施設が複数存在していたことになる」
「西部水上遺跡と同じ記号もあるんですよね」
「それもほぼ確定した。同一文化圏、あるいは同一施設群の一部だった可能性が出てきている」
湖底と、西の葦原。
これまで地図の上では離れていた二つの場所が、少しずつ同じものへ繋がり始めていた。
「明日は学院で最終訓練だ」
カイルが言う。
「次は短剣だけじゃなく、お前の長剣も持ち込む。実際に遺構へ入るなら、水中と狭所で普段の武器をどう使うか確認しておいた方がいい」
「やっと使えるんですね」
「嬉しそうだな」
「せっかく作ってもらったので」
「湖へ持ってく前に固定方法も変える。今の鞘のままじゃ壁に引っかかるぞ」
「分かりました」
エイルはもう一度、机上の湖底図へ目を落とした。
試験中には何度か技能上昇の表示も見えている。
《水中行動》も《振動感知》も、おそらくまた伸びた。
今日の最後にライネルたちと戦った時には、昨日までとは明らかに違う余裕まであった。
水中へ入るたびに、できなかったことができるようになるまでの時間が短くなっている。
それがどこまで続くのかは分からない。
ただ、今はその答えを考えるより先に、明後日へ向けて準備することの方が大切だった。
第一空洞の先には、まだ誰も地図へ線を引いていない場所がある。
そこへ今度は事故で落ちるのではなく、自分の意思で入っていける。
エイルにとっては、それだけで十分に明日を待つ理由になっていた。




