第47話 一日で変わる
宿へ戻ったエイルは、夕食を済ませてから部屋の机に地図と装備を広げた。
今日の救助では水中へ入っていないものの、長時間《振動感知》を使い続けたせいで、身体より頭の方に疲れが残っている。それでも眠る前に確認しておきたいことがあり、椅子へ腰を下ろすと状態板を開いた。
【エイル・アーネット】
【Lv.28】
昨日確認した時は二十七だったため、爪潜り一体を倒しただけでも一つ上がったことになる。
もっとも、レベル以上に目を引いたのは技能の方だった。
【《剣術 Lv.12》】
【《危機感知 Lv.15》】
【《衝撃 Lv.14》】
【《魔力操作 Lv.12》】
【《魔力感知 Lv.11》】
【《地形把握 Lv.7》】
【《振動感知 Lv.6》】
【《水泳 Lv.6》】
【《水中行動 Lv.3》】
エイルはしばらく《振動感知》の表示を見つめた。
昨日の朝には四だった。それが今日、ほとんど戦闘らしい戦闘をしていないにもかかわらず六まで上がり、実際に探知できる距離も大きく伸びていた。
爪潜りを一撃で倒した時も同じだった。
敵が弱かったわけではない。潜水兵を襲える程度には危険な魔物だったはずだが、その動きを見てから、どこを避けてどこへ剣を差し込むかを決めるまで、以前ほど時間が必要なくなっている。
剣術が上がったからなのか、感知が鋭くなったからなのか、それとも身体能力そのものが伸びたからなのか、一つには絞れない。
おそらく全部なのだろう。
「二十八か……」
村を出た時は三だった。
そこからまだ、それほど長い時間は経っていない。
以前なら数字を見て驚くだけだったが、今は少し違う。自分の伸び方が普通ではないことはもう理解しており、それを誰かへ軽々しく話すつもりもなかった。
状態板の下には《越境 Lv.4》が変わらず残っている。
技能そのもののレベルは変わっていないのに、その効果だけは経験を積むほど身体の中へ広がっているように感じられた。
エイルは状態板を閉じた。
明日は訓練、明後日は潜水適性試験があり、それに通れば湖底遺構へ入る候補になれる。
なら、今考えるべきなのは一ヶ月後の自分ではない。
明後日、水の中で何ができるかだった。
◇
翌朝、学院の水中訓練施設へ行くと、カイルはすでに訓練用の潜水装備を並べて待っていた。
昨日まで使っていた重りや水中眼鏡だけではなく、今日は背中へ固定する細長い金属筒と、そこから口元へ伸びる管が加わっている。
「これが軍の呼吸具ですか?」
「訓練用だが構造はほとんど同じだ。中に空気を入れてるわけじゃないぞ」
カイルは金属筒の側面を指で叩いた。
「水中の水から呼吸に使える空気を取り出す魔道具だ。高価だから冒険者が個人で持つことは少ないが、軍の潜水班や遺跡調査班じゃ標準装備になってる」
「ずっと息できるんですか?」
「魔石が保つ間はな。ただし深く潜るほど消耗も増えるし、壊れたら当然終わりだ。昨日助けた兵士も片側が破損してただろ」
エイルは装置を受け取り、重さを確かめる。
背負い袋よりは軽いが、金属製なのでそれなりに重い。
「今日はこれを使って十五メートルまで潜る。その後は装備脱着、命綱の処理、救助訓練までやるぞ」
「明日の試験と同じ?」
「近い。内容を全部教える気はないが、初見殺しをする試験じゃないからな」
「分かりました」
「それから今日は《衝撃》も使っていい。ただし、最初から頼るな」
「はい」
装備を着ける。
昨日までと違い、胸の前にも細い革帯が回り、背中の呼吸具を身体へ密着させるよう固定された。腰には重り、水中用の短剣、命綱を接続する金具が付く。
地上で歩くだけでも少し邪魔だった。
「重いですね」
「水に入れば少し変わる。それより、今のうちにどこへ何が付いてるか覚えろ。水中じゃ後ろ見えないからな」
エイルは目を閉じて、一つずつ手で触れた。
呼吸具の解除金具は胸の左、重りの緊急投棄は右腰、命綱は背中寄り。短剣は普段の位置より前へ寄せられている。
「長剣は?」
「今日は持たない。試験も基本は短剣だ」
「遺跡では?」
「長剣を持ち込みたいなら、合格してから自分に合う固定具を作ってもらえ。水中じゃ鞘が岩に引っかかるだけでも死ぬぞ」
グレイグの剣を置いていくのは少し心許ないが、カイルの言うことも分かる。
エイルは水槽へ降りた。
◇
初めて呼吸具を使って水中へ顔を沈めた時、最初に感じたのは妙な怖さだった。
息を止めない。
それだけなのに、身体がなかなか信じてくれない。
水中で息を吸えば水が入る、という感覚が染みついているため、口元の管を咥えていても無意識に呼吸を止めてしまう。
カイルが水面から指を二本立て、呼吸しろと合図した。
エイルは意を決して息を吸う。
少し抵抗があり、その後で乾いた空気が入ってきた。
「……!」
水中で息ができる。
当たり前のように聞いていたのに、実際にやると妙な感覚だった。
もう一度吸う。
今度は少し楽になる。
吐いた息は口元から泡になって浮かんでいった。
昨日までなら、息の残りを考えながら急いで動いていた深さでも、今日は止まって周囲を見る余裕がある。
ただし、楽になった分だけ別の問題も出てきた。
呼吸具は背中にあるため、身体を急に回すと遅れて引かれる。さらに命綱が水中を漂っており、何も考えずに動けば腕や脚へ絡みそうになる。
エイルは十メートル付近で一度止まり、身体をゆっくり回した。
命綱が左へ流れる。
なら、それを跨ぐような動きはしない。
身体の右側へまとめて流し、そのまま底へ向かう。
十五メートル。
石の床へ足が触れた。
息はできる。
焦りもない。
昨日、十メートルの水槽へ初めて潜った時とはまるで違った。
カイルも水中へ入り、少し離れた場所から手で合図する。
前進。
停止。
上昇。
下降。
方向転換。
エイルは順番に従った。
最初の一周では命綱が足へ当たり、二周目では呼吸具の重さに引かれて曲がるのが遅れたものの、三周目にはだいぶ分かってきた。
水を強く押さない。
装備まで含めて一つの身体として動かす。
昨日カイルに言われたことが、今日はもっとはっきり理解できる。
底に設置された柱の間を抜ける。
狭い。
正面から入れば背中の筒が当たりそうなので、身体を斜めへ向けた。
肩。
腰。
最後に呼吸具。
どこもぶつけず抜ける。
【《水中行動 Lv.3 → Lv.4》】
表示が視界に浮かんだ。
昨日までなら、その瞬間に少し驚いて動きを止めていたかもしれない。
今日は止まらない。
そのまま次の障害物へ向かった。
◇
一時間後。
カイルは水槽の縁で腕を組みながら、明らかに納得していない顔をしていた。
「昨日の午後、そこで荷袋ぶつけてたよな」
「ぶつけました」
「今日は呼吸具まで背負ってる」
「はい」
「何で昨日より速いんだ」
「慣れたから?」
「疑問形で返すな」
エイルは水中眼鏡を外しながら笑った。
「僕にもそれくらいしか分かりません」
「十五メートルの潜水自体は呼吸具があるから難しくない。だが、装備処理は別だぞ。昨日まで命綱なんて使ってなかった奴が、一時間で絡ませなくなるのは普通じゃない」
「絡みそうになったら分かるので」
「何で?」
「振動と……水の動き?」
カイルが眉を寄せた。
「お前、自分の背中側の縄まで感知してるのか」
「全部ではないです。でも金具に触れてるから、引かれたら分かります」
「それを初心者の発想って言っていいのかね」
エイルとしては、使えるものを使っているだけだった。
陸上で《危機感知》や《振動感知》を使うのと、水中で命綱を感じることに大きな違いはない。
「次は救助だ」
カイルが人型の訓練人形を指した。
「水中で意識を失った奴を一人連れて戻る。普通に抱えたら動けなくなるから、身体の支え方を覚えろ」
「昨日の潜水班がやってたやつですね」
「ああ。自分だけ速く泳げても意味がない場面は多い」
水槽の底へ人形が沈められた。
重量は人間に近く調整されているらしい。
エイルは再び装備を整え、水中へ入る。
十五メートルまで下降し、人形の横へ着く。
脇へ腕を回して持ち上げようとした瞬間、身体が大きく傾いた。
重い。
水中なので地上ほどではないが、相手の身体が抵抗になってまともに進めない。
カイルが首を振る。
一度人形を戻す。
考える。
昨日、救助兵は二人で行方不明者を支えていた。
一人の場合。
相手を自分の横へ置くのではなく、少し後ろへ。
頭だけ水中で安定させ、自分の身体と同じ方向へ流す。
もう一度。
今度は人形の背中側から腕を通し、胸の前を固定する。
動く。
遅いが、さっきよりずっといい。
さらに《衝撃》を使えば速くなる。
そう考えたものの、まずは自力で進んだ。
十メートル。
残り五。
その途中で人形の脚が障害物へ引っかかった。
無理に引けば動かない。
エイルは一度戻って脚を外し、身体の向きを変える。
水面へ戻る頃には、それなりに疲れていた。
「一回目としては悪くない」
カイルが人形を引き上げる。
「でも遅い」
「救助は速さより安全だ」
「それでも、昨日みたいに追われてたら間に合わないですよね」
「だから周りが守る」
「一人なら?」
「一人で全部やろうとするな」
即答された。
「潜水員には潜水員の仕事があって、護衛には護衛の仕事がある。何でも一人でできる奴なんかいない」
エイルは少し考える。
「今はいないだけかもしれない」
「何か言ったか?」
「何でもないです」
「お前、たまに怖いこと言うな」
◇
昼休み。
訓練施設脇の休憩所へ行くと、昨日会ったライネルたちが先にいた。
ライネルは水上実技の訓練を終えたらしく、濡れた髪を布で拭いている。
目が合った。
「また来たのか」
「試験が明日なので」
「潜水適性試験?」
「はい」
ライネルの手が止まった。
「軍の?」
「そうです」
「お前、昨日潜水始めたんだよな」
「一昨日です」
「ほとんど変わらないだろ」
向かいにいた女子学生が笑う。
「ライネル、昨日からそれ気にしすぎ」
「気になるだろ。俺たち水上実技取るまで基礎訓練何ヶ月やったと思ってるんだ」
「学院の訓練と軍の補助要員じゃ内容違うじゃない」
「それでもだ」
ライネルはパンを置き、エイルを見た。
「今どこまでできる?」
「十五メートルまで潜って、呼吸具を使った移動と救助訓練を少し」
「……十五?」
「はい」
「昨日十だったよな」
「今日は呼吸具があるので」
「問題そこじゃねえよ」
この反応は最近よく見る。
エイルは自分のパンを食べ始めた。
「明日の試験、学院の訓練水域使うらしいぞ」
「そうなんですか?」
「軍の深水槽だけじゃ狭いから、後半は湖岸でやる。俺たちの水上実技も同じ区域だ」
「じゃあ会うかもしれませんね」
「多分な」
ライネルはしばらく黙っていたが、やがて少し挑むような目で言った。
「落ちるなよ」
「試験に?」
「湖に」
「そっちですか」
「昨日まで初心者だった奴に救助されるのは嫌だからな」
馬鹿にしているというより、負けず嫌いなのだろう。
「大丈夫ですよ」
「その自信どっから来るんだ」
「落ちても上がれるようになってきたので」
「やっぱお前、話してると調子狂うな」
そう言いながらも、以前のような露骨な侮りはもうなかった。
◇
午後は、午前より実戦に近い訓練へ変わった。
水槽の水を魔道具で濁らせ、視界を数メートルまで落とす。
さらに途中の命綱へ意図的に障害物を絡ませ、気づかなければ先へ進めなくする。
「実際の湖底はこれより悪いこともある」
カイルが説明する。
「昨日の潜水班が襲われた時は、ほとんど手元しか見えなかったそうだ。目だけに頼るな」
「それなら少し得意かも」
「だろうな」
エイルは水中へ入った。
一メートル。
二メートル。
少し離れれば、もうカイルの姿もぼやける。
それでも不安は昨日ほど強くない。
水中眼鏡を通して見る。
《魔力感知》を重ねる。
そして、命綱を通して届く振動を拾う。
水槽の壁。
底。
障害物。
動く人間。
視界とは別の輪郭が、頭の中へ少しずつ組み上がる。
進む。
命綱が引かれた。
止まる。
後ろへ戻ると、縄が柱の角へ回り込んでいる。
身体を反転し、外す。
そのまま先へ。
今度はカイルが横から模擬短剣を伸ばしてきた。
見えていない。
それでも、腕が水を押した振動と魔力の気配で分かる。
身体を沈める。
短剣が頭上を通る。
反対へ回り込む。
カイルが再び突く。
二撃目も避ける。
今度はエイルから模擬短剣を出し、胸元で寸止めした。
カイルが水中眼鏡越しに目を細めた。
合図。
一度浮上する。
「……お前、今どこまで見えてた?」
「ほとんど見えてません」
「だよな」
「でも、カイルさんが動いたのは分かりました」
「それが問題なんだよ」
エイルは首を傾げる。
「試験だと有利ですよね」
「有利どころじゃない。視界不良が弱点になってない」
カイルはしばらく考えてから、水槽脇の板へ何かを書き込んだ。
「もう一回やるぞ。今度は俺以外にも二人入れる」
「はい」
二度目。
学院の訓練助手が二人、水中へ入った。
一人は動かない。
一人はゆっくり移動。
カイルだけが攻撃してくる。
どれがどれかを分ける。
最初は混ざった。
だが、一分も経つ頃には動きの違いが分かり始める。
大きさ。
速度。
水の押し方。
装備の振動。
一つ一つに特徴がある。
【《振動感知 Lv.6 → Lv.7》】
さらに。
【《水中行動 Lv.4 → Lv.5》】
身体が追いつく。
感覚が先に見つけ、その情報に合わせて動作が変わる。
三人の間を抜ける。
水中で身体を捻り、足元へごく小さな《衝撃》を入れる。
強く押さない。
進行方向を数十センチずらすだけ。
カイルの短剣が外れる。
その横へ。
エイルが抜けた。
「……速っ」
水面へ上がった訓練助手の一人が、思わず声を漏らした。
エイルも少し遅れて浮上する。
「今の、良かったですよね」
「良すぎるんだよ」
カイルが水面を拭う。
「午前に救助人形引きずってた奴と、同じ日の動きじゃない」
エイルは自分の手を見る。
疲れてはいる。
魔力も使っている。
それでも、まだ動ける。
しかも訓練を重ねるたび、次の失敗までの時間が伸び、できることだけが増えていく。
以前は強敵を倒した後に、自分が一段強くなったと感じることが多かった。
今は違う。
練習している最中から、身体の方が次へ進んでいく。
「もう一回できますか?」
「休憩してからだ」
「はい」
「そこで即答するくらいには聞き分け良くなったな」
「昨日止められたので」
「一日でそこも学ぶのか」
カイルが呆れたように笑った。
◇
訓練終了後、エイルは学院の更衣室で装備を外していた。
呼吸具。
重り。
命綱。
水中用短剣。
朝は一つずつ位置を確認していたのに、今は見なくても手が動く。
明日の試験に合格できるかは分からない。
軍の基準がどれほど厳しいのかも知らない。
ただ、昨日までよりできることが増えているのは確かだった。
「エイル!」
施設の外からフィンの声がした。
着替えを済ませて出ると、フィンとリサが待っていた。
「石片の解析、少し進んだ」
「昨日の?」
「そう」
フィンが紙を一枚広げる。
そこには石片の模様を書き写した図と、その横にいくつかの文字が並んでいた。
「完全には読めないけど、古いリューデ地方の文字と似てるらしい」
「何て書いてあるんですか?」
「一部分だけ」
フィンは指で一行をなぞった。
「教授の仮訳だと――『上層水門』」
エイルの視線が止まった。
「水門?」
「うん」
リサが続ける。
「つまり、あの第一空洞が単独の遺跡じゃない可能性がかなり高くなった。わざわざ上層って書くなら、その下があるはずだから」
「学院の測定とも合う」
「そういうこと」
エイルは紙を見る。
第一空洞。
第二層。
そのさらに下。
今まで湖底に自然にできた穴だと思っていた場所が、もし最初から何かの施設として作られたものなら、話は大きく変わる。
「もう一つある」
フィンの表情が少し真面目になった。
「『水門』の後ろに、別の単語があるんだけど、そこだけ古すぎて読めないらしい。ただ、同じ記号が学院に保管されてる別の遺物にもある」
「どこの遺物?」
「西部水上遺跡」
エイルが顔を上げる。
セレナへ着いた時から気になっていた、葦原の向こうにある遺跡。
「湖底と繋がってる?」
「まだ分からない。でも、同じ時代か、同じ文化圏だった可能性は出てきた」
リサが少し笑った。
「その顔、絶対西も行きたいって思ってるでしょ」
「行きたいです」
「即答」
「でも、先に下ですね」
エイルは湖の方を見る。
明日。
潜水適性試験。
それを越えなければ、第一空洞にすら入れない。
今朝までなら、それなりに緊張していただろう。
けれど一日訓練した今は、昨日よりできることが明らかに増えている。
そして明日の朝には。
今日より、もう少し先へ進める気がしていた。




