第46話 水底の救難信号
船が北岸の調査区域へ近づくにつれて、それまで甲板のあちこちで交わされていた会話は自然と消えていった。
エイルは船首近くに片膝をつき、右手を木板へ押し当てながら、船体を通して届いてくる振動だけへ意識を絞っていた。
水面を叩く細かな波や、船員が甲板を歩く足音、その奥に混じっているのは、三度続けて何かを打ち、少し間を置いてから再び三度打つ、明らかに自然のものではない規則的な振動だった。
「まだ続いてるか?」
背後からレイアに聞かれ、エイルは手を離さないまま頷く。
「はい。ただ、さっきより弱くなっています。距離のせいもあると思いますけど、叩いている本人の力が落ちている可能性もあります」
その言葉にレイアの表情が険しくなった。
行方不明になった兵士が、自分の居場所を知らせるために壁や床を叩いているのなら、今も生きている可能性は高い。しかし同時に、その振動が弱まっているということは、残された時間がそれほど多くないことも意味している。
「位置は絞れそうか?」
「やってみます」
エイルは目を閉じ、余計な振動を一つずつ意識の外へ追い出していく。
船体を擦る水音、岸へ寄せる波、背後で潜水員たちが装備を整える微かな金属音を避け、そのさらに下、黒い穴の奥から伝わる小さな反応を追う。
「入口から第一空洞へ入って……真っ直ぐ奥じゃなくて、少し右だと思います」
近くに広げられていた簡易図へ手を伸ばし、昨日確認された第一空洞と人工壁、その先へ続く未調査部分を見比べてから、空洞右側の壁際を指した。
「多分、この辺りです」
「そこは昨日ほとんど確認できていない場所だな」
軍の潜水班長が図を覗き込む。
四十代ほどの男で、昨日の潜水班とは別の部隊を率いているらしく、水中用の革鎧の背には細長い呼吸具を固定していた。装備には細かな傷が多く、少なくとも訓練だけをしてきた人間ではないことが分かる。
「壁越しに聞こえている可能性は?」
「あります。距離までは正確には分かりませんけど、少なくとも真下ではないです」
「なら第一空洞へ入ったところで二班に――」
「いや、分けない」
班長の提案をレイアが止めた。
「今日は調査じゃない。救助が最優先だ、全員で信号源へ向かえ。周辺確認は兵士を回収してからでいい」
「了解」
潜水員たちはすぐに装備確認へ戻った。
昨日の事故を受けて命綱は太いものへ交換され、それぞれが一本ずつ独立して船へ繋がれている。縄の芯には細い金属線まで仕込まれているらしく、昨日のように途中で切断される危険を減らすための対策だという。
「昨日とかなり変えたんですね」
エイルが言うと、潜水班長が腰の金具を締めながら頷いた。
「何に切られたのか分からん以上、同じ装備で入るわけにはいかん。多少重くなるが、そこは訓練でどうにかする」
話している間にも、その手は止まらない。
金具の位置を確かめ、呼吸具を試し、武器が抜けるかを一度確認してから命綱を引く。一つ一つの動きに迷いがなく、昨日から水中訓練を始めたエイルとは、積み重ねてきた時間そのものが違っていた。
自分が一緒に潜れないのは当然だ。
そう分かっていても、下で誰かが助けを待っていると思うと、胸の奥に落ち着かないものは残った。
「エイル」
レイアがこちらを見る。
「潜水班が入った後も、船上から位置を追えそうか?」
「実際にやってみないと分かりませんけど、できる限り追います」
「無理になったらすぐ言え。分かったふりをされる方が危ない」
「はい」
やがて五人の潜水員が順番に湖へ入り、最後に班長が水面の下へ消えた。
甲板にはそれぞれへ繋がる命綱だけが残り、船員たちが適度に弛みを持たせながら送り出していく。
◇
エイルは再び甲板へ手をついた。
水中へ入った人間の振動は、これまで追ってきた大型魔物と比べれば驚くほど小さい。しかも泳いで進む以上、地面を踏む足音のような分かりやすい反応もなく、腕や脚が水を押した時の揺れが、船体や湖底を通して微かに伝わってくるだけだった。
それでも、昨日までより感覚は明らかに鋭くなっている。
五人。
先頭に二人、その少し後ろへ二人が続き、最後尾に班長がいる。
「……追えます」
エイルが呟くと、すぐ横にレイアが来た。
「今どの辺だ?」
「まだ下降中です。十メートルを越えて……十五より下に行っています」
自分が訓練で潜ったのは十メートルまでだった。
そこからさらに深く、二十メートル近い湖底へ向かって潜水班は降りていく。
しばらくして五人の反応がほぼ同時に止まった。
「入口に着いたと思います」
「確かか?」
「ほぼ。少なくとも、さっきまでの下降は止まりました」
数秒後、再び五つの反応が動き始める。
その瞬間、《危機感知》が弱く鳴った。
「待ってください」
「どうした?」
「さっき感じていた細長いやつが動き始めました」
潜水班とは別の反応が、第一空洞の周辺に散らばっている。
入口の外側に三つ、内部に四つほど。そのどれもが岩壁に沿うような軌道で動いており、魚のように水中を自由に泳いでいるというより、何かへ張り付いて這っているような感覚に近かった。
「潜水班へ知らせられますか?」
エイルの言葉に、軍兵の一人がすぐ水中信号器を用意する。
金属板を湖へ浸し、専用の柄で三度叩くと、ゴン、ゴン、ゴン、と鈍い振動が船体まで伝わってきた。
「危険接近の合図だ」
レイアが説明するより早く、潜水班側の動きが変化した。
「伝わっています。少し速度を落としました」
「敵との距離は?」
「入口の中にいる一体が近いです。右から……来ます!」
再び警告信号が送られ、その直後、水中から硬質な振動が連続して届いた。
金属と、もっと硬い何かがぶつかっている。
「接触しました。戦っています」
ダリオが船縁から水面を睨みながら舌打ちした。
「何も見えねえのが一番気持ち悪いな」
「二体目も近づいています」
「知らせろ!」
信号が飛ぶ。
潜水班の動きは止まったままで、行方不明者が送っている三度の振動はその奥からまだ続いている。距離は近づいているはずなのに、敵がその間へ割り込んでいた。
エイルは無意識に長剣の柄へ手を置いた。
「僕が船から《衝撃》を流したら、届きますか?」
「届いたとしてもやるな」
レイアは即座に答えた。
「今は潜水班と敵の位置が近すぎる。水中で衝撃を散らせば、味方まで巻き込む可能性がある」
「……分かりました」
使える手段があっても、使えば状況を悪くする。
昨日までなら、単純に攻撃が届かないことへもどかしさを覚えたかもしれないが、今は少し違った。やれることと、やっていいことは同じではない。
エイルは剣から手を離し、再び振動だけへ集中した。
◇
戦闘は長く続かなかった。
一つの反応が激しく揺れた後に止まり、もう一つは潜水班から離れていく。
「一体は倒したと思います。もう一体も退きました」
「潜水班は?」
「動きました。そのまま奥へ進んでいます」
第一空洞へ入り、右側へ。
救難信号は近い。
ただし三回の振動は、最初に聞いた時よりずっと弱くなっていた。
潜水班の五人がまとまって進み、やがて全員がほぼ同じ場所で止まる。
「……着いた」
「見つけたのか?」
「多分です。今、一人だけ右へ寄って……他の四人も同じ場所へ移りました」
そして三度。
弱い振動が最後に届き、それ以降、救難信号は聞こえなくなった。
甲板にいた何人かが安堵したように息を吐いたが、レイアはまだ表情を緩めない。
「生存までは分かるか?」
「そこまでは無理です。でも、信号が止まった直前に潜水班が重なったので、合流した可能性は高いと思います」
「なら帰還を待つ。警戒は続けろ」
しかし、一分経っても潜水班は戻らず、二分、三分と時間だけが過ぎていった。
「まだ動きません」
「負傷者の応急処置をしているんだろう」
そうであってほしい。
だが、その間にも別の反応が穴の奥から集まり始めていた。
「……増えてます」
ダリオが振り向く。
「何体だ?」
「十……いや、まだ来ます。十二、十三」
「冗談だろ」
「全部、潜水班の方へ向かっています」
レイアが水中信号を強く送らせる。
三回、少し間を空け、さらに三回。
潜水班が反応し、六つの振動が動き始めた。
「六人になりました。救助した兵士も一緒です」
「帰還速度は?」
「遅いです。一人を支えているからだと思います」
十三の反応は、その後ろから距離を詰めてくる。
泳ぎ慣れた軍兵より速い。
第一空洞の中なら、なおさら敵の方が地形を知っている。
「追いつきます」
エイルが言った直後、最後尾の反応が一つ止まった。
その周囲へ敵が集まる。
「接触した!」
潜水班全体の速度が落ちる。
二体目、三体目まで加わり、硬い振動が断続的に続いた。
「船から縄を引けねえのか?」
ダリオが軍兵へ向かって言う。
「まだ無理だ! 洞窟内で強く引けば岩に引っ掛かる、最悪の場合、負傷者ごと壁へ叩きつけるぞ!」
レイアは迷わなかった。
「予備班を入れる。三人、準備!」
待機していた潜水兵が即座に動き始める。
その横で、エイルは自分の手を見た。
水中訓練を始めて二日、十メートルなら潜れるようになり、《水中行動》も身についた。
だが、今いる兵士たちは二十メートル以上の湖底、そのさらに洞窟内で戦っている。敵は十を超え、視界も悪く、救助対象までいる。
今の自分が飛び込めば、状況を変えられる可能性より、助けなければならない人間を一人増やす可能性の方が高い。
「エイル」
ダリオが先に声を掛けた。
「何も言ってませんよ」
「言わなくても分かる。潜ろうとか考えるな」
「……少しだけ」
「駄目だ。今はお前がここから位置を見てる方が役に立つ」
レイアも同じように頷く。
「増援は訓練を積んだ潜水兵が行く。君は敵の動きを追え、それが今できる最善だ」
エイルはしばらく水面を見ていたが、やがて長剣から手を離した。
「分かりました。全部追います」
◇
予備の三人が湖へ入り、エイルは下降位置を見ながら指示を飛ばした。
「真下じゃなく、少し東へ寄ってください! 入口の正面に三体います!」
レイアがその情報を水中信号へ変換する。
増援は進路をずらし、二体を避けながら一体とだけ接触した。
「止まりました。一体です!」
「他は?」
「まだ離れています」
数秒後、その一体の反応が途切れた。
「倒した。進んでます!」
増援三人が第一空洞へ入り、先行班との距離を急速に縮めていく。
先行班ではまだ戦闘が続いているものの、一人が少し離れて敵を引きつけ、その間に他の者が救助兵を運んでいるらしい。
「もう少し……合流します!」
九人分の反応が重なった。
救助された兵士を含めれば十人。
人数が増えたことで動きが変わり、それまでのように完全に足を止めて敵を迎え撃つのではなく、互いに援護しながら一体ずつ押し退け、そのまま入口へ向かって進み始める。
「戻ってきてます。かなり進みました!」
船上の緊張が僅かに緩んだ。
入口まで、あと十数メートル。
このままなら間に合う。
そう思った瞬間、《危機感知》がこれまでとは比べものにならない強さで跳ねた。
「待ってください!」
レイアがすぐこちらを見る。
「何だ!」
「下から別のが来ます!」
細長い十三体とはまったく違う。
巨大ではあるが、昨日の深湖甲獣とも振動の質が違い、その何かは第二層よりさらに深い位置から、迷うことなく真っ直ぐ上へ向かっていた。
「大きさは!」
「正確には分かりません。でも、速い!」
その反応が上がってくるにつれて、第一空洞にいた細長い個体たちが一斉に散り始めた。
人間との戦闘をやめ、壁や奥の通路へ逃げていく。
「魔物まで逃げてるぞ」
ダリオの低い声に、誰も返さなかった。
潜水班も異変を察したのか、一気に移動速度を上げる。
「全員、引き上げ準備!」
レイアが叫び、船員たちが命綱を握る。
「入口へ出たらすぐ巻き取れ、ただし潜水員の浮上に合わせろ!」
「最初の一人、出ます!」
一人目。
続けて二人目、三人目。
洞窟から湖へ出た瞬間、命綱が巻き取られ、潜水員たちは自力で浮上しながら上へ引かれていく。
「四人、五人……救助者も出ました!」
「残りは!」
「あと二人!」
最後尾の二人が入口を抜ける。
ほぼ同時に、巨大な反応が第一空洞へ飛び込んだ。
「来ます!」
次の瞬間、黒い穴から大量の水が押し出され、湖面が大きく膨らんだ。
浮上中だった潜水兵たちの身体が水圧で押し上げられ、船上から何本もの縄が一斉に張る。
「引け!」
一人、二人と水面へ顔が出る。
中央には意識を失った若い兵士が二人に支えられており、船員たちが身を乗り出して腕を掴んだ。
「救助者を先に上げろ!」
「掴んだ!」
甲板へ引き上げる。
続けて潜水兵たちが上がり、最後の一人が船縁へ手を掛けた、その時だった。
エイルの《危機感知》が鋭く鳴り、水面のすぐ下を黒い影が走った。
「右から来ます!」
叫びと同時に、細長い怪物が水を裂いて飛び出した。
◇
それは蛇でも魚でもなかった。
灰白色の細長い胴に六本の脚を持ち、その先には黒く湾曲した爪が生えている。平たい頭部の中央には縦に裂けるような口があり、全長は三メートル近い。
「爪潜りだ!」
潜水兵の一人が叫んだ。
爪潜りは船縁へ取り付き、まだ完全には上がりきっていない兵士へ前脚を振り下ろす。
エイルは考えるより早く踏み込んでいた。
鞘から長剣を抜き、その爪へ横から刃を合わせる。
甲高い音とともに腕へ衝撃が返ってきたが、昨日戦った深湖甲獣の甲殻ほどではない。受け止める必要はないと判断し、力を流しながら爪の軌道だけを外す。
爪潜りがもう一方の脚を薙ぐ。
エイルは半歩だけ身体を落とし、頭上を通過させながら懐へ入った。
近づけば構造が見える。
脚の付け根と胴の境目では外殻が薄く、さらに《魔力感知》には、そこを通って全身へ広がる魔力の流れまで捉えられた。
「ここか」
長剣を狭い隙間へ差し込み、その先だけへ《衝撃》を集中させる。
大きく爆ぜさせる必要はない。
刃の先から、甲殻の内側へだけ通す。
鈍い衝撃が走ると、爪潜りの六本の脚が一斉に硬直した。
エイルが剣を引き抜くのとほぼ同時に怪物は船縁から剥がれ、そのまま水へ落ちていく。
「……思ったより硬くないですね」
周囲が一瞬だけ静かになった。
ダリオが沈んでいく怪物とエイルを見比べる。
「お前、昨日より剣が速くなってねえか?」
「そうですか?」
「見てから動くまでが明らかに早い。昨日の深湖甲獣の時とは違うぞ」
言われてみれば、エイル自身にも感覚はあった。
敵が遅くなったわけではない。
ただ、爪を見る、避ける場所を決める、剣を差し込む、その一連の動きの間にあった僅かな遅れが、以前より小さくなっている。
「学院で訓練したからじゃないですか?」
「水中訓練だろ」
「剣も少し使いましたよ」
「少しでそこまで変わるか普通」
ダリオが呆れたように言ったところで、レイアの声が飛んだ。
「その話は後にしろ! 負傷者を見ろ!」
全員の意識がすぐ救助兵へ戻る。
甲板に寝かされた若い兵士は顔色が青白く、左脚には深い傷があり、水中呼吸具も片側が破損している。
「呼吸は!」
「あります、かなり弱い!」
「意識なし、治療を始める!」
軍の治療役が膝をつき、すぐ応急処置へ入った。
エイルは邪魔にならないよう数歩離れ、ようやく長剣を鞘へ戻す。
助かった。
少なくとも、生きた状態で連れ戻すことはできた。
◇
だが、安堵できた時間は長くなかった。
甲板越しに、再び深い振動が届いたからだ。
「……まだいます」
レイアがすぐ振り返る。
「さっき上がってきた大型か?」
「はい。でも追ってきてはいません。第一空洞に入ったところで止まっています」
「何をしてる?」
「そこまでは分かりません。ただ、ほとんど位置が変わってないです」
エイルは黒い穴を見る。
相手の姿は見えない。
それなのに、第一空洞の一定位置から動かず、まるで入口の向こう側に人間たちがいることを理解しているように感じられた。
「……変だな」
「何がだ?」
ダリオが聞く。
「見えていないはずなのに、入口の位置を知ってる気がします」
「自分の巣なら知っててもおかしくないだろ」
「巣なら、ですけど」
人工的に加工された壁。
切断された命綱。
水中で規則的に動く爪潜り。
さらに下層から現れ、他の魔物まで逃げ出させた大型個体。
単純に水棲魔物の巣へ迷い込んだだけだと考えるには、引っかかるものが少しずつ増えていた。
◇
港へ戻ると、救助された兵士はすぐ軍の医療棟へ運ばれ、一時間ほどして命に別状はないという連絡が入った。
「よかった……」
ギルドの仮会議室でその報告を聞いたエイルは、ようやく椅子の背へ身体を預けた。
今日は爪潜りを一体斬っただけで、長い戦闘をしたわけではない。それでも数十分にわたって水中の人間と魔物を同時に追い続けていたため、頭の奥に鈍い疲れが残っている。
机を囲んでいるのはレイア、リューデン支部長代理のガレス、学院側の教官、それに潜水班長だった。
中央には、救助の際に回収された石片が置かれている。
「これが人工壁から剥がれたものか?」
ガレスが尋ねると、潜水班長が頷いた。
「ああ。行方不明だった兵士が逃げ込んでいた窪み、そのすぐ横にあった。昨日は泥と堆積物で見えなかったらしい」
表面には規則的な線が刻まれており、単なる傷ではなく、文字か模様を意図して刻んだように見える。
学院の教官が石片を慎重に持ち上げた。
「こちらで解析する。年代まではまだ何とも言えないが、自然に割れた岩ではないし、明確な加工痕もある」
「じゃあ、遺跡があること自体はほぼ確定ですか?」
エイルが聞く。
「遺構が存在することは間違いないだろう。ただし、それが一つの建物なのか、もっと大きな施設なのか、あるいは現在見えている空洞全体が人工物なのかは分からない」
「下にも続いてるんですよね」
「学院の測定では、その可能性が高い。少なくとも第一空洞の下に別の空間があり、さらに深い位置にも反応がある」
机上の簡易図には、湖底から第一空洞、その下へ続く縦穴らしき線、さらに二つ目の空間までが描かれている。
その先は空白だった。
エイルの視線が、自然とそこへ止まる。
つい数時間前まで、同じ場所で兵士一人が死にかけていた。
危険なのは分かっている。
それでも、地図にまだ何も書かれていない場所を見れば、その向こうを知りたい気持ちは消えなかった。
「エイル」
ガレスに呼ばれ、顔を上げる。
「明日から君にも正式な潜水装備を回すことになった」
「いいんですか?」
「ああ。ただし、すぐ遺構へ入れるわけじゃない。条件が一つある」
「何ですか?」
「軍が行っている潜水適性試験を受けてもらう。水中移動だけじゃなく、装備操作、緊急浮上、視界不良時の移動、それから負傷者の救助まで確認する」
エイルの目が僅かに輝いた。
「合格したら?」
「次回の遺構調査で、補助要員として参加候補に入れる。君の探知能力は、水中ではかなり価値が高い」
「試験は明日ですか?」
「明後日だ。明日は一日、学院で訓練を受けろ」
「明後日……」
少し残念そうな声が出た。
「一日くらい待て」
横にいたダリオが呆れたように言う。
「お前の場合、その一日でまた何か覚えてそうなのが怖いけどな」
「そこまで急には変わりませんよ」
「昨日から泳ぎ始めた奴が十メートル潜って、今日爪潜りを一撃で斬ってから言う台詞じゃねえ」
エイルは返事をしながらも、爪潜りを斬った時の感覚を思い出していた。
昨日より明らかに剣が軽く動き、相手の攻撃を認識してから身体が反応するまでの時間も短かった。
しかも、戦闘中には一瞬だけ技能上昇の表示が見えていた。
詳しく確認する余裕はなかったが、今までより伸び方が速くなっていることだけは、もう気のせいではない。
エイルは机の上に広がる湖底図をもう一度見る。
明日は訓練。
明後日は試験。
その先に、第一空洞。
さらに下には、まだ誰も地図を描いていない場所が続いている。
なら今は、焦って飛び込むよりも、そこへ辿り着いた時に動けるだけのものを身につけた方がいい。
ようやく、そう考えられるようになっていた。




