第44話 水の中へ
翌朝、エイルが最初に向かったのは冒険者ギルドでも学院でもなく、鍛冶屋だった。
湖へ落ちた直後から、ミナに「絶対見せた方がいい」と言われ続けたせいもある。
リューデンの職人街は港から少し離れた東側にあり、船具を扱う店と武器屋が同じ通りに並んでいた。水気の多い土地だからか、看板には防錆処理や船上用装備を売りにした店も多い。
その中からギルドで紹介された店へ入る。
「長剣を見てもらいたいんですけど」
奥から出てきたのは、腕の太い四十代ほどの女性だった。
「修理?」
「確認です。昨日、湖に落ちました」
「それだけなら拭いて油差して終わりだよ」
「その前に大きい魔物へ《衝撃》を流しました」
「……最初からそっち言いな」
鞘ごと渡す。
女性は長剣を抜くと、まず表面を確認し、それから柄や鍔の緩みまで細かく調べ始めた。
「新しいね」
「作ってもらったばかりです」
「どこの仕事?」
「ローデンの《赤炉》です」
「グレイグ?」
「知ってるんですか?」
「武器職人なら名前くらい聞いたことあるよ」
どうやらグレイグは思っていたより知られているらしい。
女性は刀身を横から眺め、今度は小さな魔導器具を柄へ当てた。
弱い魔力が流れる。
「変わった芯だね」
「青鋼と魔鉄です」
「なるほど。だから流れが妙に綺麗なのか」
しばらく確認したあと、長剣が返された。
「問題なし。水も中まで入ってないし、歪みも出てない」
「よかった」
「ただし毎回湖に沈める使い方は勧めないよ」
「僕もです」
「本当かね」
最近、初対面の人間にまで信用されなくなってきた気がする。
「昨日どんな魔物とやった?」
「深湖甲獣って呼ばれてました」
女性の顔が止まった。
「……あんた、昨日の北岸にいたの?」
「はい」
「水面走った冒険者?」
今度はエイルが止まった。
「もう広まってるんですか?」
「港で軍と学院と冒険者があれだけ集まってたらね。朝からその話してる奴が何人もいるよ」
「二歩とか五歩くらいですよ」
「普通は一歩目で沈む」
もっともだった。
「名前までは?」
「私は今聞くまで知らなかった」
「ならよかった」
「目立つの嫌いなの?」
「面倒なのは嫌です」
「だったら人前で水の上走らない方がいい」
「必要だったので」
女性は少し笑った。
「グレイグが作った理由が分かる気がするよ、その剣」
◇
鍛冶屋を出たあと、エイルはギルドへ向かった。
昨日発見された湖底の穴は、すでに北岸危険区域として臨時封鎖されていた。
受付周辺にも簡易地図が貼られている。
【北岸第三水域・進入制限】
【軍・学院・ギルド合同調査準備中】
その下には、水棲魔物の出現区域も書き足されていた。
昨日まで点在していた赤印が、黒い穴を中心に広がっているようにも見える。
「エイルさん」
昨日の受付員に呼ばれた。
「ちょうどよかったです。支部長代理から話があります」
「湖底?」
「それも含めてです」
二階の小さな会議室へ通された。
中には五十代ほどの男性が一人待っていた。
短い銀髪で、左目の上に古い傷がある。
「リューデン支部長代理のガレスだ」
「エイルです」
「聞いてる。座ってくれ」
机には昨日の報告書が何枚も広げられていた。
「先に言っておくが、すぐ湖底へ行かせる話じゃない」
エイルが何も言っていないうちから釘を刺された。
「そんな顔してました?」
「昨日の報告を読めば性格くらい分かる」
「どんな報告だったんですか」
「『危険個体へ単独で接近』『水面上を衝撃魔法で移動』『撃破ではなく攻撃妨害に成功』『その後落水』」
「最後だけ書かなくてもよくないです?」
「一番大事だ」
否定できない。
ガレスは別の紙をエイルへ向けた。
「湖底の空洞は、学院側の測定でも存在がほぼ確定した。明日から軍の潜水班が入口周辺を確認する」
「潜水班」
「専用装備と水中活動技能を持つ連中だ。冒険者を入れるのは、その後になる」
「僕も?」
「候補には入っている」
意外だった。
「D級でも?」
「普通なら入れん」
はっきり言われた。
「昨日の深湖甲獣は、正式な査定がまだだが少なくともB級相当。あれの攻撃へ割り込んで生きて戻ったD級を、普通のD級として扱う方が危ない」
エイルは少し黙った。
ランクは上がれば受けられる依頼が増える。
それだけのものだと思っている。
「昇格?」
「その話も出てる。ただ、今すぐCへ上げるとは言わん。水域での実績だけを見て決めるわけにもいかないからな」
「別に急いでないです」
「そう言うと思った」
ガレスは苦笑した。
「問題は湖底だ。今の君には探知能力がある。昨日の報告を見る限り、軍の潜水技能持ちでも拾えない岩盤内部の振動まで分かっている可能性が高い」
「でも僕、水中だとほとんど動けません」
「そこだ」
ガレスが指を鳴らす。
「だから、潜れるようになってもらう」
「練習できる場所あります?」
即座に聞くと、逆に相手が黙った。
「……話が早いな」
「昨日かなり困ったので」
「学院に水中訓練槽がある。軍も使う大型施設だ。外部冒険者でも、今回の調査参加者なら臨時利用できるよう話を通してある」
「今日から?」
「今日から」
それは助かる。
「ただし、まず教官の指示に従え。いきなり剣から《衝撃》を出して水槽の壁を割るなよ」
「割りません」
「昨日の船長も似たようなこと言ってたぞ」
どうも信用がない。
◇
リューデン学院を間近で見るのは初めてだった。
丘の上を広く使って建物が並び、中央には船から見えていた白い塔が立っている。外周には高い壁こそないが、正門には守衛がおり、学生証か入構証がなければ中へ入れない。
エイルはギルドでもらった臨時札を見せる。
「冒険者用訓練施設は東棟裏だ」
「ありがとうございます」
中は思った以上に広かった。
訓練場だけでも複数あり、剣を振っている学生、魔法の的へ向かって杖を構える学生、荷物を背負って走っている集団までいる。
同じ年頃の人間ばかりが、まとまって訓練している。
それが少し珍しかった。
「エイル?」
聞き覚えのある声がして振り向く。
フィンだった。
「本当に来た」
「水中訓練です」
「図書館じゃないんだ」
「そっちも行きます」
「順番がおかしい」
フィンの隣にはリサもいる。
「昨日落ちたばっかりなのに、もう潜る練習?」
「落ちたからです」
「確かに理由としては正しいけど……」
二人も午後から水域調査の講義があるらしく、途中まで案内してくれることになった。
「潜水槽って大きい?」
「深い方は十五メートル」
「十五?」
村の川とは比較にならない。
「浅い訓練槽もあるよ。最初はそっち」
「よかった」
「ちょっと安心してる」
「十五メートルにいきなり沈められるのかと思ったので」
「学院を何だと思ってるの」
◇
水中訓練施設は、建物の中ではなく半屋外にあった。
石造りの巨大な水槽が三つ並び、一番大きなものは小さな池と呼んでもいいくらいだった。
すでに何人か訓練している。
重い装備を外し、水中で輪を潜る学生。
息を止めて底まで潜る者。
腰へ細い縄を付け、水中用の短槍を振っている者もいた。
「君がエイルか」
担当教官は、三十代後半ほどの男性だった。
日焼けした肌に短い金髪。学院の教官服ではなく、身体に張り付くような薄い水中装備を着ている。
「カイルだ。元水上隊。話は聞いてる」
「よろしくお願いします」
「泳げる?」
「川なら」
「湖と水中戦は別物だ。今日は武器を使わない。まず潜って、浮いて、移動する」
「はい」
外套。
革鎧。
長剣。
短剣。
全部外す。
薄い訓練着だけになり、最初の水槽へ入った。
深さは胸程度。
「まず歩け」
「歩く?」
「やれば分かる」
進む。
すぐ分かった。
水が邪魔だった。
脚を前へ出すだけで抵抗が掛かり、地上と同じ速さでは動けない。
「次、走れ」
「無理じゃ?」
「いいから」
試す。
さらに遅い。
力を入れるほど水を大きく押してしまい、その反動で身体がぶれる。
「地上の速さを忘れろ」
カイルが言う。
「水の中じゃ、力が強い奴ほど最初は下手なこともある。水を殴るな。押して、流せ」
今度は少し歩幅を小さくする。
抵抗が減った。
腕も使う。
地上とは違う身体の動かし方。
「次、潜れ」
息を吸う。
水へ入る。
音が遠くなる。
昨日落ちた時と違って、今度は自分から潜っている。
それだけでかなり余裕があった。
底を蹴り。
前へ。
しかし、身体が思ったほど進まない。
浮力で上へ引かれる。
姿勢を戻そうとして手足を動かすほど、今度は進行方向がずれる。
水面へ出る。
「全然駄目ですね」
「最初なら普通だ」
「もう一回」
カイルが少し笑った。
「そう言うと思った」
◇
一時間後。
エイルはまだ水槽にいた。
潜る。
進む。
浮く。
向きを変える。
何度も繰り返す。
【技能《水泳 Lv.1》を獲得しました】
最初の表示が出たのは、それほど時間が経っていない頃だった。
そこから。
【《水泳 Lv.1 → Lv.2》】
さらに。
【《水泳 Lv.2 → Lv.3》】
「……三?」
思わず水面で止まる。
「どうした?」
「いや、何でもないです」
普通が分からない。
けれど。
これはさすがに早い気がする。
最初は水へ潜るだけで姿勢を崩していた。
今は底へ向かって身体を伸ばし、必要な分だけ手足を使える。
一時間前とは明らかに違う。
「次、深い方行ける?」
カイルが聞く。
「行きたいです」
「なら五メートル。底まで行って戻れ。無理だと思ったら途中で上がれ」
隣の水槽へ移る。
水面から底を見る。
深い。
たった五メートル。
昨日の湖に比べれば浅い。
それでも、足が着かない水へ自分から入るのは少し緊張した。
息を吸い。
潜る。
下へ。
耳へ圧力が掛かる。
身体は浮こうとする。
腕で水を掻く。
脚を使う。
底が近づく。
あと少し。
そこで息が苦しくなった。
「……っ」
無理をしない。
向きを変え、水面へ戻る。
顔を出し、大きく息を吸った。
「途中まで」
「一回目なら十分。次は息を使いすぎるな」
「使いすぎる?」
「潜る前から身体に力が入りすぎだ」
なるほど。
二回目。
三回目。
少しずつ余計な力を抜く。
四回目で底へ手が触れた。
そのまま水面へ。
「できた」
「なら次は底で十秒」
「はい」
休む前に返事をして。
「少し休め」
止められた。
◇
昼を挟んで、午後。
ようやく《衝撃》を試す許可が出た。
武器はまだ使わない。
手だけ。
「昨日、水中で自分を押したんだろ?」
「はい。剣から《衝撃》を出して」
「今日は手からやれ。出力は最低」
水中へ潜る。
壁から十分離れる。
右手を後ろへ。
小さな《衝撃》。
身体が前へ出た。
同時に姿勢が崩れる。
横向きになる。
水面へ出る。
「強い」
「これでも?」
「水中じゃ反動がそのまま自分に返る。もっと小さく」
もう一度。
半分。
それでも大きい。
さらに落とす。
「……このくらい?」
今度は身体が少しだけ前へ進み、姿勢も保てた。
地上ならほとんど意味のない出力。
それが水中では十分に使える。
エイルは何度も試した。
右手。
左手。
足元。
方向転換。
止まる時。
少しずつ。
【《魔力操作 Lv.11 → Lv.12》】
続いて。
【《衝撃 Lv.13 → Lv.14》】
また。
今日だけで。
しかも、強敵と戦っているわけでもない。
まったく新しい環境へ適応するだけで、技能が追いついてくる。
エイルは水中で自分の手を見る。
《越境》。
境界を越えれば成長する。
今までなら、越えた後に大きく伸びていた。
今は。
越えようとする途中から。
もう成長が追いつき始めている。
水面へ上がる。
「もう一回いいですか?」
「まだやるのか?」
「今、かなり分かってきました」
カイルが少し眉を寄せた。
「エイル」
「はい」
「お前、午前中と動きが違いすぎるぞ」
初めて。
教える側から言われた。
「そうですか?」
「午前は普通の初心者だった。今はもう、潜水訓練を何日かやってる奴の動きになってる」
エイルは少し返答に困った。
「覚えるのが早いみたいです」
「早いで済むかね」
カイルはしばらく見ていたが、状態板を見せろとは言わなかった。
「まあいい。伸びるなら伸びろ。ただし、できるようになった直後が一番事故る」
「分かりました」
「分かってる奴は昨日大型種へ飛び込まん」
ここにも報告が回っていた。
◇
訓練を終えた頃には、日がかなり傾いていた。
髪を乾かし、装備を戻す。
長剣を腰へ。
外套を羽織る。
朝とは別人というほどではない。
けれど。
水への怖さはかなり減った。
まだ湖底へ潜れるほどではない。
長時間の潜水も。
水中戦も。
呼吸の問題も残っている。
それでも昨日は、湖へ落ちれば浮かび上がるだけで精一杯だった。
今日は自分から五メートル潜り、方向を選び、《衝撃》まで使える。
「明日も来ます?」
カイルに聞く。
「来い。次は装備を着けてやる」
「剣も?」
「まだだ」
「はい」
少し残念だった。
施設を出ようとしたところで、正門側からフィンが走ってきた。
「エイル!」
「どうしたんです?」
「湖底の穴、追加測定が出た」
「何か分かった?」
フィンが持っていた紙を広げる。
学院で作られた簡易断面図。
湖底。
その下。
大きな空間。
昨日エイルが感じた通りだった。
ただ。
図にはさらに下があった。
「空洞、一個じゃない」
フィンが言う。
最初の空洞の下に。
細い縦穴。
その先。
さらに広い空間が描かれている。
「二層?」
「最低でも」
「最低?」
「測定が下で切れてる。もっと続いてる可能性がある」
エイルは断面図を見る。
湖の下。
地図に何も書かれていない場所。
そのさらに下へ。
空間が続いている。
「……迷宮?」
「まだ分からない。でも教授たちは、古い水没遺構かもしれないって」
「遺構」
「明日、軍の潜水班が最初の空洞まで入る」
エイルは水中訓練槽の方を振り返った。
一日目。
まだ五メートル。
その先にある湖底は。
もっと深い。
「明日も練習します」
「今の話聞いて最初にそれ?」
「入れる時に入れないの嫌なので」
フィンが少し呆れたように笑った。
「本当に冒険者だな」
エイルは否定しなかった。
湖底へ続く。
まだ誰も地図を持っていない場所。
そこへ行ける日が来た時。
今度は。
落ちるのではなく。
自分から潜っていきたかった。




