第43話 湖底から来るもの
盛り上がった湖面は、波というより壁に近かった。
黒い穴を中心に水が持ち上がり、その高さが軍船の甲板を越える。レイアの号令とほとんど同時に各船が向きを変えたが、小型の調査船では逃げ切れない。
「船首を波へ向けろ!」
船長が怒鳴る。
エイルたちの船が急旋回し、横腹ではなく正面から波を受ける形になる。
直後、水が叩きつけた。
甲板が大きく持ち上がり、次いで落ちる。
エイルは手すりを掴まず、足元の傾きと《振動感知》で船体の動きを拾った。左足へ体重を移し、沈む方向へ身体を預け、戻りに合わせて姿勢を立て直す。
隣ではダリオが片膝をつき、ミナが船縁へ肩をぶつけていた。
「っ……本当に昨日が船初めてかよ!」
「昨日はもっと転びそうでした!」
「成長が早すぎんだろ!」
言い返す暇もなく、《危機感知》がさらに強く鳴った。
「まだです!」
波が崩れた向こう。
水面から何かが現れた。
最初に見えたのは背中だった。
暗い青灰色の甲殻が、湖面を押し分けるように持ち上がってくる。さっきの大型の湖底鎌蟹など比較にならない。船一隻より長い背が現れても、まだ全身ではなかった。
次に頭部。
扁平な頭から左右へ太い角が伸び、口元は岩を並べたような歯で埋まっている。前脚だけでも人間の胴ほど太く、甲殻の隙間から水が滝のように流れ落ちていた。
「……深湖甲獣」
レイアの声が聞こえた。
初めて、僅かに緊張が混じっていた。
ダリオが顔を向ける。
「知ってんのか!?」
「記録だけだ! 湖の深部に棲む大型種、通常は岸から何十キロも離れた水深域から出ない!」
「何でこんな浅瀬にいる!」
「それを調べていたんだろう!」
もっともだった。
深湖甲獣が首を動かす。
こちらを狙っている様子はなかった。
巨大な頭が向いた先は、湖底に開いた黒い穴。
低い唸り声が湖面を震わせる。
エイルの足裏へ、その振動が船体越しに届いた。
「……こいつも」
「何だ!」
「穴を見てます」
深湖甲獣は人間を追って出てきたのではない。
湖蛇も。
湖底鎌蟹も。
全部。
下から逃げてきた。
その考えが浮かんだ瞬間、穴の奥で再び振動が走った。
深湖甲獣が大きく身を翻す。
「来る!」
湖底から何かが噴き出したわけではない。
穴そのものが広がった。
周囲の岩盤が崩れ、水が渦を巻いて吸い込まれる。深湖甲獣の後脚が流れに取られ、その巨体が僅かに傾いた。
すると深湖甲獣は、近くにいた軍船へ前脚を伸ばした。
「避けろ!」
悪意のある攻撃ではない。
身体を支えようとしただけだ。
だが、その一撃だけで船の側面が砕けた。
木板が飛び、兵士が二人湖へ投げ出される。
「救助!」
別の軍船がすぐ動く。
学院船も後退していたが、渦の影響で思うように速度が出ていない。
エイルは船底へ片手をつけた。
情報が一気に入ってくる。
船の振動。
水。
小型魔物。
深湖甲獣。
崩れていく湖底。
多すぎる。
少し前なら、全部が混ざって終わっていた。
今は違う。
一つずつ分ける。
近いものから。
大きいものから。
危険なものだけ。
【《振動感知 Lv.1 → Lv.2》】
表示が浮かぶ。
だが、それで終わらなかった。
感覚が一段鮮明になる。
深湖甲獣の足。
崩落。
渦。
そのさらに下。
「……違う」
エイルは思わず呟いた。
「何がだ!」
ダリオが聞く。
「下で何か動いてると思ってた。でも違う」
巨大な一個体が穴の底を動いているのではない。
振動の発生点が広すぎる。
もっと。
下全体。
「地面そのものが動いてる」
ミナの顔色が変わった。
「それ、どういう意味?」
「分からない。でも魔物一匹の大きさじゃないです」
答えながら、《魔力感知》を重ねる。
穴の奥から漏れている魔力。
最初は噴き出しているように見えた。
今は少し違う。
地下に何かがある。
広い空間。
そこから、湖へ魔力が染み出している。
そして崩落が進むたび、漏れる量が増えている。
「レイアさん!」
エイルが声を張る。
距離はあるが、軍船からこちらを見る。
「穴を塞いだ方がいいかもしれません!」
「理由は!」
「広がるほど魔力が強くなってます! 下に大きな空洞がある!」
レイアは即座に学院船を見る。
「測定!」
学院側の教官らしい男が魔導器を確認し、叫び返した。
「上昇中! 三分前の一・七倍!」
「総員、討伐中止!」
レイアの判断は早かった。
「魔物を追うな! 救助を優先し、全船を穴から離せ! 学院班は観測継続!」
深湖甲獣ほどの魔物が目の前にいる。
普通なら討伐対象になるのだろう。
それでも軍は戦うことを選ばなかった。
今危険なのは、魔物そのものではない。
エイルは少しだけ感心した。
だが。
深湖甲獣の方は、こちらの事情を待ってくれなかった。
渦から逃れようと暴れ、巨大な尾を振る。
「左!」
エイルが叫ぶ。
軍船が動く。
一隻は避けた。
二隻目。
間に合わない。
尾が船腹を捉える。
木が砕けた。
船が半回転し、甲板にいた兵士たちが倒れる。
「ちっ!」
ダリオが槍を構えた。
「援護するぞ!」
「どこを?」
「足止めだ! 軍船が逃げる時間を作る!」
エイルも長剣を握る。
深湖甲獣を倒す必要はない。
注意をこちらへ向けるだけでいい。
「ミナ、目か顔! ケインは隙間狙え!」
「了解!」
ミナが杖を振る。
湖面から太い水流が持ち上がり、深湖甲獣の顔へぶつかった。
威力はほとんどない。
ただ、巨大な頭がこちらへ向く。
「来たぞ!」
エイルの《危機感知》が強烈に鳴った。
深湖甲獣が前脚を振り上げる。
届く距離ではない。
そう思った直後。
「下!」
前脚が湖面へ落ちた。
巨大な水塊が飛ぶ。
「伏せろ!」
エイルは横へ跳んだ。
ただの水。
それなのに、質量が大きすぎる。
甲板を叩いた水塊で木板が割れ、船員一人が吹き飛ばされた。
エイルも肩へ受ける。
「ぐっ……!」
身体が船縁まで流された。
左肩が痺れる。
骨は。
動く。
折れてはいない。
「エイル!」
「大丈夫!」
立ち上がる。
深湖甲獣はすでに二撃目へ入ろうとしていた。
今度は口。
魔力が集まる。
「何か来ます!」
甲殻の内側。
喉。
そこから頭部へ。
魔力が一気に上がっていく。
レイアも気づいた。
「散開!」
深湖甲獣が口を開いた。
水が吸い込まれる。
次の瞬間。
圧縮された水流が一直線に放たれた。
学院船の横を掠める。
石造りの湖岸へ当たり、岩が砕けた。
「……あれは当たりたくないな」
ダリオの声が低い。
同感だった。
だが。
エイルには見えた。
放つ直前。
喉から口へ魔力が集まるまで、ほんの僅かに時間がある。
しかも。
その時だけ。
首の下側。
甲殻の隙間が広がる。
「次、止められるかも」
「何?」
「水を撃つ前、首の下が開きます」
「だから何だ!」
「そこに《衝撃》を入れれば」
「近づく気か!?」
「遠くから届かないので」
「待て待て待て」
ダリオが槍を掴んだまま近づく。
「さっき二歩水の上走ったからって、何でもできると思うなよ」
「思ってません」
「顔が行く気だ!」
「次の一撃が軍船に向いたら行きます」
「話聞け!」
その時。
深湖甲獣の頭が動いた。
狙いは。
損傷して動きの遅い軍船。
「……行きます」
「エイル!」
船縁を蹴る。
一歩目。
《衝撃》を下へ。
昨日より強くしない。
同じ出力。
ただし、無駄を減らす。
水面へ足が触れる瞬間だけ。
沈む前に次。
二歩。
三歩。
昨日は二歩で限界だった。
今は三歩目でも身体が沈みきらない。
【《衝撃 Lv.11 → Lv.12》】
表示が浮かぶ。
構わず進む。
四歩。
そこで水面が大きく沈んだ。
「まだ!」
左足。
小さく。
身体を上へ押すのではなく、前へ。
五歩目。
深湖甲獣の側面へ届く。
巨体が動く。
首。
喉。
魔力が集まり始めている。
間に合う。
エイルは水面を蹴り、最後だけ大きく跳んだ。
剣を両手で握る。
甲殻の隙間。
狭い。
動いている。
普通に斬り込めば弾かれる。
だから。
刃を差し込む瞬間にだけ。
芯へ魔力を集中させる。
今までより速く。
今までより細く。
「《衝撃》!」
衝撃が内側へ抜けた。
深湖甲獣の首が跳ねる。
口から放たれかけた水流が逸れ、空へ向かって噴き上がった。
成功。
だが。
深湖甲獣の反応も速かった。
前脚が来る。
「っ!」
避けきれない。
エイルは長剣を横へ構え、同時に足元へ《衝撃》を入れる。
直撃は外した。
それでも前脚の端が身体へ触れた。
視界が回る。
湖へ叩き込まれた。
◇
冷たい。
上も下も、一瞬分からなくなった。
水。
泡。
光。
身体が沈んでいく。
肩。
脇腹。
痛い。
剣は。
握っている。
離していない。
《危機感知》が鳴る。
左。
水中。
小型の湖底鎌蟹が近づいている。
「……っ」
声は出せない。
泳ごうとする。
だが、外套と装備が重い。
川で泳いだ時とはまるで違う。
フィンの言葉を思い出す。
湖へ落ちても大丈夫だと思うな。
本当にその通りだった。
鎌蟹が近づく。
エイルは剣を振るのではなく、先端をそちらへ向けた。
水中では身体が踏ん張れない。
なら反動も使う。
短い《衝撃》。
水が弾ける。
鎌蟹が横へ流されると同時に、エイル自身の身体も反対へ押された。
「……!」
これ。
使える。
剣先を下へ。
小さな《衝撃》。
身体が上へ動く。
強くすれば姿勢が崩れる。
細く。
連続で。
一度。
二度。
三度。
光が近づく。
【《魔力操作 Lv.10 → Lv.11》】
また表示。
今度は。
【《衝撃 Lv.12 → Lv.13》】
連続。
戦闘の最中に。
しかも同じ技能が。
エイル自身が驚くほど速い。
けれど。
今は考えない。
水面を破る。
「ぷはっ!」
息を吸う。
「エイル!」
船が近い。
ケインが縄を投げている。
エイルは掴み、引かれる。
途中で水中からまた振動。
「下にいる!」
「分かってる、早く上がれ!」
ダリオまで手を伸ばし、二人掛かりで甲板へ引き上げられた。
仰向けになる。
咳。
肺に少し水が入った。
「死ぬかと思った……」
「こっちの台詞だ!」
ダリオが怒鳴る。
「何で真正面から大型種に飛び込む!」
「止められたから」
「止められた後落ちてんだろうが!」
それも正しい。
エイルは起き上がり、深湖甲獣を見る。
首元から青い体液が流れている。
大きな傷ではない。
しかし、攻撃を中断させるには十分だった。
損傷した軍船はすでに安全圏へ離れ始めている。
「目的は達成してるのが余計腹立つ……!」
ダリオが頭を押さえた。
◇
深湖甲獣はそれ以上追ってこなかった。
エイルの一撃で怯んだというより、軍船が離れたことで攻撃する理由がなくなったらしい。
そのまま岸寄りへ進み。
浅瀬を横切り。
やがて北側の岩場へ消えていく。
湖底鎌蟹たちも散っていた。
残ったのは、黒い穴。
そして傷ついた船。
負傷者。
軍兵二人が重傷。
冒険者側も、別船にいた大盾使いが鎌で腕を裂かれていた。
死者はいない。
それでも、平穏に終わったとは言えなかった。
「本日の調査は中断する」
レイアが全船へ告げる。
「穴の位置を封鎖指定。学院は採取済みの測定値を持ち帰れ。ギルド班も撤収。深湖甲獣は追跡禁止だ」
「穴は?」
エイルが聞く。
「今の装備で中を見る気はない」
レイアがはっきり答える。
「湖底の下に何があるか分からない。潜水班と封鎖用の術具を揃えてからだ」
エイルは穴を見る。
行ってみたい。
かなり。
けれど今、水中へ落ちただけでまともに動けなかった。
装備もない。
呼吸もできない。
水上を少し走れたからといって、水の中まで自由になったわけではない。
「……分かりました」
レイアが少し意外そうに見る。
「もっと食い下がるかと思った」
「僕、さっき溺れかけたので」
「自覚があるなら結構」
横からダリオが深く頷いた。
「もっと言ってやってくれ」
「ダリオさんまで」
「お前は今日から一回止めたくらいじゃ足りねえ」
昨日までとは別の意味で面倒になった気がした。
◇
港へ戻った頃には、昼を大きく過ぎていた。
負傷者が先に運ばれ、船員と軍が損傷した船を確認している。
エイルもギルドへ戻る前に、濡れた外套を絞った。
「剣は?」
ミナが聞く。
「多分大丈夫」
「多分じゃなくて後で鍛冶屋に見せなよ。湖に沈めたんだから」
「そうします」
グレイグに知られたら怒られそうだった。
新しい剣を受け取って、まだ数日。
すでに大型魔物へ突き刺し、湖へ一緒に落ちた。
「……黙ってたら分からないかな」
「誰に?」
「鍛冶屋」
「絶対見せなよ」
「はい」
ダリオまでこちらを見る。
「何だ」
「いや」
少し考えてから、エイルは言った。
「昨日、僕が邪魔になるって言ってましたよね」
「ああ」
「今日どうでした?」
ダリオは数秒黙った。
「邪魔じゃなかった」
「じゃあよかった」
「ただし無茶する馬鹿だった」
「そっちは聞いてないです」
「俺が言いたかった」
ケインが横で笑った。
「ダリオがここまで認めるの珍しいぞ」
「認めてねえ。使えるってだけだ」
「同じようなものじゃない?」
ミナが言う。
「違う」
どうやら本人の中では違うらしい。
エイルは気にしなかった。
最初から仲良くなるために依頼を受けたわけではない。
役に立てたなら十分だった。
◇
宿へ戻り、着替えを済ませてから状態板を開く。
戦闘中に何度も表示が出ていた。
確認できていないものもある。
【エイル・アーネット】
【Lv.27】
そこで最初に止まった。
「……二十七?」
朝は二十三だった。
四つ。
一日で。
坑砕鬼の時に三つ上がった。
青殻百足でも伸びた。
今回は、それをさらに上回っている。
続きを見る。
【生命 154】
【魔力 174】
【筋力 108】
【耐久 105】
【敏捷 171】
【器用 161】
【感知 231】
感知が二百を超えた。
以前見たC級のマルクやセリアは、七十前後だった。
単純に数字だけで全てが決まるわけではない。
技能。
経験。
装備。
相性。
それでも。
「……三倍以上?」
感知だけなら。
もう比較する相手が違い始めている。
技能欄を下へ追う。
【《剣術 Lv.11》】
【《危機感知 Lv.14》】
【《衝撃 Lv.13》】
【《魔力操作 Lv.11》】
【《魔力感知 Lv.10》】
【《地形把握 Lv.7》】
【《振動感知 Lv.4》】
エイルの指が止まった。
「四……?」
朝は。
《振動感知 Lv.2》になったところまでは見た。
その後の戦闘で、さらに二つ上がっている。
剣術も。
危機感知も。
地形把握も。
昨日上がったばかりの技能が、もう次へ進んでいる。
最後。
【固有技能】
【《越境 Lv.4》】
こちらは変わっていない。
なのに。
明らかに速度だけが上がっている。
Lv.4になった時の説明。
【境界を越えた経験の一部を蓄積し、以後の成長効率へ反映する】
一度越えれば。
次が速くなる。
その次は。
さらに速い。
今日の戦闘で初めて水上を五歩進み。
水中で《衝撃》を移動に使い。
大型種の攻撃を止め。
湖底の異常を探った。
新しいことをするたび。
技能が追いつくまでの時間が短くなっている。
エイルは状態板を閉じなかった。
少しだけ。
静かに考える。
「このまま行ったら……」
一ヶ月後。
半年後。
一年後。
自分はどのくらい変わっているのだろう。
想像できなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
でも。
それ以上に。
今朝まで行けなかった場所へ、夕方にはもう少し近づいている。
その感覚の方が強かった。
エイルは視線を窓へ向ける。
向こうには湖がある。
その下には。
今日見つけた巨大な空洞。
まだ誰も中を見ていない場所。
「……潜れるようにならないとな」
まず思ったのは。
やはり、それだった。




