第42話 北岸の異常
翌朝、エイルが第六桟橋へ着いた時には、すでに二隻の小型調査船が準備されていた。
定期船よりはるかに小さく、全長は十メートルほど。帆もあるが、岸近くでは左右の櫂を使って細かく動かすらしい。甲板には魔物を引き上げるための鉤、救命用の縄、簡単な測量器具まで積まれていた。
「遅くはないな」
船の横で腕を組んでいたダリオが言う。
「時間通りです」
「知ってる」
昨日より敵意は薄い。
その代わり、まだ完全に信用されている感じでもなかった。
ダリオの仲間で弓を使う男はケイン、短杖を持つ女性はミナというらしい。さらに今日の調査には、別のC級二人組も加わっていた。
一人は短い槍を二本持った小柄な女性。
もう一人は大盾を背負った大男。
合わせて冒険者は六人。
「予定を確認します」
ギルドから来た職員が地図を広げた。
北岸沿いに三ヶ所の調査点がある。
「第一地点は浅瀬の魔物分布。第二地点は昨日、漁船が消息を絶った周辺。第三地点では学院側が魔力濃度の異常を確認しています」
「学院も今日入ってる?」
ミナが聞く。
「別船で東側から。領軍水上隊は主要航路側を確認中です。救難信号が上がった場合は、所属に関係なく近い班が向かいます」
エイルは地図へ目を落とした。
三つの組織がそれぞれ別方向から調べている。
同じ湖でも、見ているものは違う。
「僕は何をすれば?」
「まず船周辺の水中警戒をお願いします。異常な振動や接近があれば、すぐ船長へ」
「分かりました」
ダリオが横から口を挟む。
「昨日みたいにいきなり船へ《衝撃》流すなよ」
「必要なら流します」
「先に言え」
「時間があれば」
「お前な……」
ミナが笑いを堪えていた。
◇
二隻は少し間隔を空けて港を出た。
エイルたちが乗った一隻目には、ダリオ、ミナ、ケイン、それに船員三人。
残る二人組はもう一隻へ乗っている。
昨日より小さな船なので、揺れは明らかに大きかった。
最初の十分ほどは身体が勝手に反応してしまったが、昨日の経験と訓練台のおかげで、すぐに余計な力が抜けていく。
膝を柔らかくする。
船が傾く方向へ逆らいすぎない。
必要なら、その戻りを次の動きへ使う。
ダリオが横目で見ていた。
「昨日よりまともじゃねえか」
「練習したので」
「一日で?」
「はい」
「……そうかよ」
それ以上は聞かれなかった。
エイルは甲板へ片手をつける。
《振動感知》を使う。
昨日は水と船体の振動が混ざって、何を拾っているのか分かりにくかった。
今日は少し違う。
船底を撫でる水。
櫂が水を掻く振動。
船員の足音。
積み荷の揺れ。
一つずつ意識の中で分けられる。
その外側。
水の中から伝わる別の震えだけを探す。
何もいない。
少なくとも、今の範囲では。
「どこまで分かる?」
ミナが近くへしゃがんだ。
「まだそんなに遠くないです。船の近くなら」
「距離にすると?」
「……二十メートルくらいなら、動いてるものは分かると思います」
「昨日覚えたばかりの技能じゃないよね?」
エイルは一瞬だけ答えに迷った。
「最近です」
「最近でそこまで?」
「使う機会が多かったので」
嘘ではない。
むしろ使い始めてからの密度がおかしいだけだった。
ミナは少し不思議そうにしたものの、深追いはしなかった。
◇
第一地点へ着いたのは、港を出て一時間ほど後だった。
岸からそれほど離れていない。
水深も浅く、透明度が高いので船上からでも湖底の岩が見える。
「去年までは、この辺に刃鰭魚なんかほとんど来なかった」
船長が言う。
「何が多かったんです?」
「小魚と湖甲蟹。あとは季節によって水蛇くらいだ」
ダリオたちは岸近くへ船を寄せ、魔物の痕跡を確認する。
エイルは水中。
ケインは岸の茂み。
ミナは魔力の流れを担当した。
しばらくは何も起きなかった。
湖甲蟹らしい小さな反応が岩陰に二つ。
魚の群れ。
危険なものはない。
「本当にここで増えてるのか?」
ダリオが言った直後。
エイルの感覚に、少し妙なものが触れた。
「待って」
「何だ?」
「魚が動いてます」
「どっちだ」
「岸から離れる方へ」
小魚の群れが一斉に沖へ向かっている。
その後ろから何かが来ているわけではない。
むしろ、岸側から逃げている。
エイルは《魔力感知》も広げた。
水中は陸上より魔力の輪郭がぼやける。
それでも。
「……岸の下?」
水際。
湖底から陸へ繋がる岩盤の辺り。
そこだけ薄く魔力が濃い。
「ミナさん、あそこ見えます?」
「どこ?」
指差す。
ミナが杖を向け、しばらく集中した。
「確かに少し濃い。でも、これくらいなら誤差にも見える」
「魚は避けてます」
「なら近づくか」
ダリオが船長を見る。
「あと十メートル寄せられる?」
「岩が多い。半分までなら」
船がゆっくり進む。
水深が浅くなる。
その途中で、《振動感知》が拾った。
下。
岩の中。
「止めて!」
船長が反射的に櫂を止める。
次の瞬間。
湖底が割れた。
水柱が上がる。
灰色の長い何かが、岩の間から飛び出した。
「湖蛇!」
船長が叫ぶ。
だが、普通の水蛇とは大きさが違った。
胴回りだけで人間の腰ほどあり、全長は見えない。岩の下へ半分以上隠れている。
頭部には白く濁った二つの目。
そして首元から背にかけて、青黒い鱗が何列も並んでいた。
「こんなの聞いてねえぞ!」
ダリオが槍を抜く。
湖蛇は船そのものではなく、岸近くへ向かった。
頭を岩へ叩きつける。
砕けた石が水へ落ちる。
「何してる?」
ケインが弓を構えたまま言う。
エイルはその動きを見ていた。
襲ってこない。
こちらへ気づいていないわけでもない。
なのに岸の岩を何度も砕いている。
「逃げようとしてる?」
「何からだよ」
分からない。
ただ。
《危機感知》が反応した。
湖蛇ではない。
もっと下。
「船を下げて!」
「またか!」
「早く!」
今度はダリオも疑わなかった。
「下げろ!」
船員が一斉に櫂を動かす。
船が後退する。
直後。
さっきまでいた場所の湖底が大きく沈んだ。
岩。
泥。
水。
全部が下へ吸い込まれる。
まるで湖底に穴が開いたように。
「何だ、あれ……」
ミナの声が掠れる。
湖蛇も巻き込まれかけ、巨体を激しくうねらせた。
岸へ逃げようとする。
だが尾が沈み始めた穴へ吸われている。
「助ける?」
エイルが言う。
「魔物だぞ!」
「でも、これが浅瀬に逃げてきた理由が分かるかもしれない」
ダリオが一瞬迷った。
「……殺すなよ。引き剥がすだけだ」
「分かりました」
エイルは長剣を抜いた。
船から湖蛇までは十メートル近い。
届かない。
なら水そのものを使う。
剣先を湖面へ触れさせる。
新しい長剣の芯へ魔力を通し、先端だけへ《衝撃》を集める。
「何する気?」
ミナが聞く。
「尾の周りの流れをずらします」
「そんな細かいこと――」
やる。
強く叩けば湖蛇まで傷つける。
だから小さく。
一発。
水中で衝撃が弾け、吸い込まれる流れが一瞬だけ横へずれた。
湖蛇の尾が少し浮く。
「もう一回!」
二発目。
三発目。
同じ場所ではなく、少しずつ角度を変える。
湖蛇が自力で身体を捻り、穴から尾を引き抜いた。
そのまま岸近くの浅瀬へ逃げていく。
「……できるのかよ」
ダリオが呟いた。
エイル自身も少し驚いていた。
以前の長剣なら、こんな使い方は難しい。
強く出すか弱く出すか。
その程度しか選べなかった。
今は違う。
どこへ。
どれだけ。
どの方向へ。
剣がそれについてくる。
◇
湖底に開いた穴は、しばらくすると吸い込みを弱めた。
完全に消えたわけではない。
直径五メートルほどの黒い窪みが、湖底に残っている。
誰もすぐ近づこうとはしなかった。
「領軍に信号」
ダリオが言う。
船長が赤い筒状の道具を取り出し、空へ向けた。
光が上がる。
三度点滅。
異常発見の合図らしい。
「学院にも見えるはず」
ミナが湖底を見る。
「魔力濃度、上がってる。さっきまでと全然違う」
「穴の中?」
「多分」
エイルも《魔力感知》を使う。
確かに。
さっきまで薄かった反応が、今ははっきり分かる。
湖底の下から。
何かが漏れている。
「迷宮?」
「分からない」
ミナが首を振る。
「迷宮化なら、もっと安定した魔力の流れになることが多い。でもこれは……」
言葉を探している。
「噴き出してる感じ」
それが一番近かった。
◇
領軍の船が来るまで、三十分ほどかかった。
濃紺の外套。
船体側面には王国の紋章。
昨日まで遠くからしか見なかった軍の船が、今度はすぐ横へ並ぶ。
先頭にいたのは三十代半ばほどの女性だった。
短い黒髪。
軽量の金属鎧。
腰には細身の剣。
「リューデ領軍水上隊、副隊長のレイアだ。信号を上げたのは?」
「俺です」
ダリオが答える。
状況説明は短かった。
巨大化した湖蛇。
湖底の崩落。
吸い込み。
魔力反応。
レイアは一つずつ確認し、最後にエイルを見る。
「崩れる前に察知したのは君か?」
「はい」
「何を見た?」
「見たというか、振動です。湖底の岩の中で何か動いた感じがして」
「地中?」
「多分」
レイアは少し考えた。
「同じことをもう一度できる?」
「近ければ」
「なら船を一隻、穴の外周へ回す。危険を感じたら即座に言ってくれ」
「分かりました」
ダリオが小声で言う。
「軍相手でも普通だな、お前」
「何が?」
「いや、いい」
◇
調査はそこから大きく変わった。
冒険者の二隻。
領軍の三隻。
少し遅れて学院の調査船まで到着した。
その中にはフィンたちもいた。
「エイル!?」
「また会いましたね」
「何でいるの!?」
「依頼です」
「そうじゃなくて!」
説明する時間はなかった。
学院側は魔力測定。
領軍は周囲の封鎖。
冒険者は魔物警戒。
エイルだけは穴の近くを回りながら、湖底の振動を拾う役になった。
何度か試すうちに。
少しずつ分かってくる。
黒い穴は単純に崩れただけではない。
下に空洞がある。
かなり大きい。
そして。
その中で何かが動いている。
一つではない。
「下に空間があります」
レイアがすぐ反応した。
「規模は?」
「……分からない。でも広いです。穴よりずっと」
「魔物は?」
「複数」
「数は」
エイルは目を閉じる。
船体。
水。
岩。
そこを伝わってくる細かな震えを分ける。
以前なら無理だった。
情報が多すぎる。
けれど今は。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに奥。
「十以上」
周囲の空気が変わった。
「大きいのは?」
「二つ。いや……」
一つ。
さらに深いところ。
ほとんど動かない。
なのに。
一度動くたび、周囲の小さな振動が全部消える。
「三つ目がいます」
「大きい?」
レイアが聞く。
エイルは少し迷った。
「多分、一番大きいです」
◇
その瞬間。
水中から衝撃が来た。
船ではない。
湖そのものが持ち上がった。
「伏せろ!」
誰かの声。
エイルは手すりへ掴まる。
数秒遅れて、黒い穴から大量の水が噴き上がった。
その中に。
巨大な影。
先ほどの湖蛇よりさらに太い。
青白い甲殻。
六本の長い脚。
頭部から伸びた二本の鎌状器官。
「湖底鎌蟹!」
領軍の兵士が叫ぶ。
「でかすぎる!」
通常個体を知らないエイルでも分かった。
これは普通ではない。
甲殻の幅だけで五メートル以上。
穴から這い出した上半身だけで、小型船とほとんど変わらない。
さらに。
その後ろから。
二体目。
三体目。
小型の個体まで次々に出てくる。
「全船、距離を取れ!」
レイアが叫ぶ。
「学院船は後退! 冒険者は左右! 水上隊、前へ!」
命令一つで軍船が動いた。
三隻が並び、学院船との間へ入る。
兵士たちが長槍と大型弩を構える。
「撃て!」
弦音が重なった。
太い矢が湖底鎌蟹へ突き刺さる。
だが大型個体の甲殻には浅い。
「硬い……!」
次の瞬間、鎌が振られた。
水面ごと裂く。
軍船一隻が急旋回し、ぎりぎりで避ける。
波が冒険者船まで届いた。
甲板が大きく傾く。
エイルは足元へ《衝撃》を入れず、船の傾きをそのまま身体へ流した。
立てる。
以前なら踏ん張っていた。
今は自然に。
「エイル!」
ダリオの声。
右から小型個体が来ている。
水中。
船腹へ狙いをつけている。
「三秒後、右!」
「ケイン!」
「見えた!」
水面へ出た瞬間、矢が目へ刺さる。
ミナの水流魔法が身体を押し返し、ダリオの槍が甲殻の隙間へ突き込まれた。
一体。
だが次が来る。
エイルは長剣を抜いた。
水上戦。
昨日までは知らなかった。
それなのに。
足元はもう怖くない。
振動も。
魔力の流れも。
敵の位置も。
少しずつ一つに繋がり始めている。
大型個体の鎌が再び上がる。
今度は学院船へ向いていた。
「そっちは駄目だ!」
エイルが船縁を蹴った。
「おい!」
ダリオの声が背後へ消える。
足元へ《衝撃》。
水面へ落ちる直前、もう一度。
剣先から下へ衝撃を放ち。
水を踏むように。
一歩。
身体が前へ飛ぶ。
「……は?」
誰かが声を漏らした。
エイル自身も、できる確信があったわけではない。
だが。
昨日、船を通して水中へ《衝撃》を流した。
さっき、湖蛇の尾の周りだけ流れを変えた。
なら。
自分の体重を一瞬支える程度なら。
二歩目。
沈む前に、さらに前へ。
大型個体の側面へ届く。
鎌が振り下ろされる。
エイルはその内側へ潜り込んだ。
甲殻。
硬い。
普通に斬っても通らない。
だが《魔力感知》には、鎌を動かす瞬間だけ首元へ集まる流れが見えていた。
その付け根。
甲殻が重なる狭い隙間。
長剣を差し込む。
新しい芯へ魔力を通す。
剣先だけ。
狭く。
深く。
「《衝撃》!」
水上で音が弾けた。
甲殻の内側へ衝撃が抜ける。
大型個体の身体が大きく傾いた。
鎌の軌道が外れ、学院船の横へ落ちる。
「今だ!」
レイアの声。
軍の大型弩が二本。
エイルが作った隙間へ突き刺さった。
青白い体液が噴き出す。
大型個体が激しく暴れた。
エイルは反動で水面へ落ちる。
落ちた瞬間。
剣を下へ向ける。
もう一度《衝撃》。
身体が半ば水へ沈みながらも横へ飛ぶ。
近くまで来ていたダリオたちの船へ手を伸ばす。
「掴まれ!」
ダリオが槍の柄を差し出した。
掴む。
引き上げられる。
甲板へ転がり込んだ。
「お前……」
ダリオが呆然とする。
「何で水の上走ってんだよ」
「二歩だけです」
「歩数の話してねえ!」
言い返す前に、再び《危機感知》が強く鳴った。
エイルは顔を上げた。
「まだ来る!」
黒い穴。
奥。
さっき感じた、一番大きな反応。
それが。
ようやく動き始めていた。
湖底鎌蟹たちが急に散る。
軍船から離れる。
岸へ逃げる。
まるで。
自分たちも追われているように。
「全船離れろ!」
レイアも気づいた。
だが。
遅い。
湖面が。
大きく盛り上がった。




