第40話 水の上の道
翌朝、エイルは朝食を済ませると、そのまま東の船着場へ向かった。
昨日より風は弱く、湖面も穏やかだった。早朝だというのに桟橋ではすでに多くの人が動いており、漁から戻った小舟と、これから出る輸送船が狭い水路を入れ替わるように行き交っている。
エイルが乗ることにしたのは、セレナから東岸のリューデンへ向かう定期船だった。
湖の北側を沿うように進み、途中で二つの小さな船着場へ寄る。天候が良ければ半日ほどで着くらしい。
「片道で?」
「銀貨三枚。荷物はその背負い袋だけ?」
「はい」
「武器は抜かなきゃそのままでいいよ」
受付の女性に料金を払い、木札を一枚受け取る。
そこには船名と番号が書かれていた。
【白帆三号】
桟橋の先を見ると、それらしい船が停まっている。
エイルが想像していたよりずっと大きかった。
全長は二十メートルを超えているだろう。中央には一本の太い帆柱が立ち、左右には荷物を固定するための縄が張られている。後部には屋根付きの客室もあったが、晴れているので甲板にいる乗客の方が多い。
「これが船……」
昨日も遠くから何艘も見た。
だが、自分がこれから乗ると思うと見え方が違う。
木札を船員へ渡し、板を渡って甲板へ上がる。
その瞬間。
「うわ」
足元が僅かに動いた。
大きく揺れたわけではない。
ただ、地面だと思って踏んだものが自分の体重とは関係なく上下する感覚が、思っていた以上に気持ち悪い。
「初めてか?」
荷物を運んでいた船員が笑った。
「分かります?」
「最初の一歩で大体分かる」
「もっと安定してると思ってました」
「今日は静かな方だぞ」
これで静か。
エイルは少し不安になった。
歩けないほどではないが、一歩ごとに足元が僅かにずれる。
陸なら無意識に固定されていた基準が、ここにはない。
《地形把握》へ意識を向けてみた。
反応はする。
ただし妙だった。
今までなら地面の高低差を捉えていた感覚が、船そのものの傾きを拾い続けるせいで落ち着かない。
「これは慣れないと駄目だな」
面白い。
エイルは空いている場所を探しながら、わざと少しゆっくり歩いた。
◇
出航までにはまだ時間があった。
甲板には商人らしい男が二人、老夫婦、旅装の女性が一人。それとは別に、昨日セレナの街で見た灰色の外套と同じものを着た若者が五人ほど集まっていた。
年齢はエイルとそれほど変わらない。
腰に剣を下げた者。
短い杖を背負った者。
大きな鞄を持ち、地図らしい紙を広げている者。
全員の胸元には同じ銀色の徽章がある。
リューデン学院の学生だろう。
「だから北岸の第四測点は昨日見たって」
「水深だけだろ。魔力濃度は取ってない」
「船が出なかったんだから仕方ないじゃない」
「じゃあ今日やればいい」
「今日は帰還日」
聞くつもりはなかったが、近いので会話が自然と耳へ入る。
どうやら昨日までセレナ周辺で何かを調べていたらしい。
エイルが少し気になって見ていると、地図を持っていた少年と目が合った。
「何?」
「いや。学院の人かなと思って」
「そうだけど」
「探索科?」
少年が少し驚いた。
「よく分かったね」
「昨日ギルドで聞きました。湖に来るのは探索科と魔術科が多いって」
「俺たちはその混成班」
そう言ってから、少年はエイルの格好を見る。
「冒険者?」
「はい」
「湖の依頼?」
「今日は船に乗ってみたかっただけです」
「……それだけ?」
「それだけ」
杖を持った少女がこちらを見た。
「船に乗るためにセレナまで来たの?」
「違います。南へ来たら湖があったので」
「もっと分からなくなった」
エイル自身はそれほどおかしなことを言ったつもりはなかった。
地図を持っていた少年が笑う。
「まあ、いいんじゃない。俺たちも最初に湖へ来た時は船が楽しかったし」
「慣れます?」
「すぐ慣れるよ。荒れなきゃ」
その言葉を聞いた直後。
船が少し大きく傾いた。
エイルは反射的に足を開く。
学生たちは誰も気にしていない。
「……すぐ?」
「多分」
少し信用できなくなった。
◇
やがて係留用の縄が外された。
船員が声を掛け合い、帆がゆっくり上がっていく。
風を受けた瞬間、船全体が前へ押された。
「おお……」
思わず手すりへ寄る。
桟橋が離れていく。
自分は立ったままなのに、町の方が後ろへ流れていくように見えた。
船は水面を裂きながら速度を上げる。
街道を歩くのとはまったく違う。
足を動かさなくても進む。
しかも、思った以上に速い。
セレナの家々が少しずつ小さくなり、やがて町全体が湖岸の一部へ変わった。
エイルは手すりから身を乗り出さない程度に湖面を見る。
船首から左右へ白い波が広がっている。
下には何メートルも水がある。
そう考えた途端、少しだけ足が落ち着かなくなった。
「泳げる?」
横から声がした。
先ほどの探索科の少年だった。
「一応。村の川で」
「じゃあ湖に落ちても大丈夫とは思わない方がいいよ」
「そんなに違う?」
「岸が遠いから」
「なるほど」
単純だが重要だった。
「それに魔物もいる」
「そっちもあるんですね」
「普通の航路なら滅多に襲われないけどね。船の方が大きいし」
少年は手すりへ背を預ける。
「俺はフィン」
「エイル」
「どこから?」
「ローデン」
「結構歩いたね」
「途中でアルネアにも行きました」
「アルネア?」
今度は地図を持った手が止まった。
「旧鉱山の?」
「知ってるんですか?」
「探索科で知らない奴の方が少ないよ。古坑道が一部迷宮化してるところだろ」
「距離も変わりました」
「……何が?」
「坑道の」
フィンが黙った。
少し離れたところにいた仲間までこちらを見る。
「詳しく」
「長くなりますよ」
「船はあと何時間もある」
学院の人間は、そういう話が好きらしい。
◇
旧西坑の話を全部したわけではない。
ギルドへ報告した範囲の内容だけを、簡単に話した。
古い地図と現在の地形が合わないこと。
本来なら遠く離れた第二採掘区へ短い坑道で到達したこと。
同じ道でも、往路と復路で測った距離が違ったこと。
そこまで聞いた時点で、学生五人は完全にこちらへ集まっていた。
「測距具は?」
「使いました」
「歩測も?」
「一緒にいた人がやってました。結果はほぼ同じ」
「魔力濃度は?」
「そこまでは測ってません。《魔力感知》だと、途中に薄い層みたいな場所はありました」
杖を持った少女がすぐに口を挟む。
「空間系の迷宮反応に近いかも」
「でも旧西坑って完全迷宮じゃないよな」
「部分形成ならあり得る」
「坑道自体が触媒になってる可能性も――」
急に専門的な話が始まった。
エイルは少し面白くなって聞いていた。
自分たちは「道がおかしい」で終わったものを、この学生たちは別の言葉で考えている。
学院へ入る気はない。
それでも、そこで何を学んでいるのかには興味が湧いた。
「学院って、こういうのを勉強するんですか?」
「探索科はね」
フィンが答える。
「地図作成、遺跡構造、迷宮学、魔物生態、測量、古代文字。最低限の戦闘もやる」
「全部?」
「最初は全部。そこから専門を選ぶ」
「楽しそう」
「入る?」
「入らないです」
「即答だな」
「何年ですか?」
「基本四年」
「四年は長い」
「冒険者ならそう思うかもな」
四年間。
エイルにはまだ想像できない。
四年もあれば、どこまで歩けるのだろう。
けれど、四年間同じ分野を学んだ人間がどれほど詳しくなるのかも少し気になった。
「図書館だけ使えたりします?」
「学院外の人間でも、一部なら。紹介か利用料はいるけど」
「それは行ってみたい」
「入学より先に図書館か」
フィンが笑った。
リューデンへ着いたら、見る場所が一つ増えた。
◇
船へ乗って一時間ほど。
エイルはようやく揺れに慣れ始めていた。
最初は船の傾きへいちいち身体を合わせていたが、全部に反応する必要はない。小さな動きなら膝を少し緩めておくだけで勝手に吸収できる。
《地形把握》も最初ほど邪魔には感じなくなった。
固定された地面を探すのではなく、今立っている船全体を一つの足場として考える。
すると。
【《地形把握》Lv.4 → Lv.5】
「……これでも上がるんだ」
「何か言った?」
「何でもないです」
近くにいたフィンへ返し、表示を消す。
地形ではない。
少なくとも、今までのエイルならそう思っていた。
けれど技能の方は、動く船の上で安定することまで同じ延長として扱ったらしい。
さらにエイルは甲板へ手を触れてみた。
《振動感知》。
無数の振動が返ってくる。
船員の足音。
帆柱の軋み。
水が船体へぶつかる細かな震え。
最初は情報が多すぎて何も分からない。
「……難しいな」
陸上なら地面はほとんど動かない。
だから異物の振動だけを拾えた。
船はそれ自体が常に振動している。
なら、その中から違うものだけを分けなければならない。
エイルは何度か試した。
右舷を歩く船員。
荷箱がずれる音。
船底を流れる水。
少しずつ違いが分かってくる。
そして。
その中に。
一つだけ妙なものが混じった。
「……?」
船底。
後ろ寄り。
水が当たる振動とは違う。
何か硬いものが、一度だけ船体を擦った。
エイルは甲板へ手を置いたまま待つ。
数秒。
何もない。
気のせいかと思った時。
今度は反対側。
ゴッ、と小さく船が揺れた。
船員が顔を上げる。
「今の何だ?」
客の何人かも周囲を見る。
エイルは手を離さなかった。
水の中。
何かが船の周囲を回っている。
「船の下にいます」
近くにいたフィンが振り向く。
「何が?」
「分からない。でも一つ……いや」
もう一つ。
さらに別方向。
「三ついる」
「見えるの?」
「振動です」
フィンの表情が変わった。
「船長!」
声が飛ぶ。
ほぼ同時に、船の右側で水が大きく跳ねた。
青灰色の背中が一瞬だけ湖面へ出る。
船員の一人が叫んだ。
「刃鰭魚だ!」
◇
船上の空気が一気に変わった。
「客は中央へ! 手すりから離れろ!」
船員たちが動く。
乗客を屋根付き区画へ寄せ、甲板に置かれていた長い鉤槍を取る。
学院の学生たちも、先ほどまでの軽い雰囲気を消していた。
「手伝う!」
フィンが短剣を抜く。
杖を持った少女は船員へ確認を取ってから船縁へ移動した。
「船体への魔法使用は?」
「火と雷は禁止! 水流系ならいい!」
「了解!」
エイルも長剣へ手を掛けたが、すぐには抜かなかった。
水中にいる相手へ剣は届かない。
まず位置を知る方が先だ。
甲板へ片膝をつき、掌を押し当てる。
船そのものの揺れ。
船員の足。
波。
その全部を意識の外へ押しやる。
三つ。
さっきと同じ。
一体が右から船首へ。
二体目は左後方。
三体目だけ深い。
「右前、来ます!」
エイルが声を上げる。
船員が鉤槍を構えた直後、水面が割れた。
全長三メートル近い魚が飛び出す。
背中から伸びた刃のような鰭が、船縁を狙って横へ振られた。
「せっ!」
船員が鉤槍を突き出し、軌道を逸らす。
刃鰭が木板を浅く削り、魚体は再び水へ落ちた。
「分かるなら次も言え!」
「はい!」
今度は左。
エイルが位置を告げると、杖を持った少女が先に魔法を放った。
水面が横へ盛り上がる。
飛び出そうとしていた刃鰭魚が体勢を崩し、半分だけ水から出た。
フィンがそこへ踏み込む。
短剣ではない。
腰にもう一本下げていた細身の長剣が抜かれ、魚の目元へ突き込まれた。
深追いせず、すぐ戻る。
「一体!」
「まだ二つ!」
エイルは船底へ意識を戻した。
一体は負傷して離れた。
残り二つ。
そのうち。
「下!」
強い振動。
「真下から来る!」
船員たちが動くより早く、船底へ何かがぶつかった。
大きな衝撃。
甲板が傾く。
乗客から悲鳴が上がった。
エイルも一歩流されたが、《衝撃》を足元へ小さく入れて踏み止まる。
「船底狙ってる!」
「二度やらせるな!」
船長の声。
だが、水の下へ攻撃する手段が少ない。
エイルは長剣を抜いた。
魚へは届かない。
なら。
「次に来る場所、分かればいいんですよね」
「何する気だ!」
「追い返します」
甲板へ剣先を触れさせる。
強く打てば船を傷める。
だから必要なのは攻撃ではない。
水中の相手が嫌がる程度の振動。
青晶洞。
旧西坑。
鉱脈の内部を探った時と同じ。
ただし今度は、船体全体へ広げる。
エイルは魔力を芯へ流した。
新しい長剣なら、流す場所を選べる。
刃先で爆発させず。
ごく低い《衝撃》を、甲板から船体へ渡す。
ドン、と船が僅かに鳴った。
「おい!」
「壊してません!」
「そういう問題じゃ――」
水中の反応が一瞬止まった。
「効いた」
もう一度。
今度は相手が船底へ近づく瞬間に合わせる。
小さく。
鋭く。
船体を通して水へ抜く。
振動が伝わった直後、下にいた刃鰭魚が急に進路を変えた。
「離れた!」
「もう一匹は?」
右後方。
こちらも距離を取っている。
学院の少女が水面を見ながら魔法を構えていたが、やがて杖を下ろした。
「……逃げてる」
フィンが船縁から水を覗く。
数十秒待っても戻ってこなかった。
船長はすぐ船員へ船底の確認を命じた。
大きな浸水はない。
最初の体当たりで一部が傷んだものの、航行に問題はないらしい。
「助かった……のか?」
船長がエイルを見る。
「多分」
「今の何だ」
「《衝撃》です」
「衝撃魔法って船の中から魚追っ払う魔法だったか?」
「普通は違うと思います」
「思いますじゃねえよ」
怒っているというより、困惑しているらしい。
◇
落ち着いたあと、刃鰭魚について船員から話を聞いた。
「この辺まで出ることはあるんですか?」
「一匹ならな。三匹で定期船を狙うのは珍しい」
船長が船縁の傷を見ながら答える。
「こいつらはもっと沖か、北岸の岩場にいることが多い」
「北岸……」
昨日ギルドで聞いた話と繋がる。
浅瀬まで出てきている水棲魔物。
漁場周辺の異常。
今度は航路。
フィンたち学院生も同じことを考えたらしい。
「やっぱり昨日の調査、途中で切り上げるべきじゃなかったんじゃない?」
杖の少女が言う。
「天候で船が出なかったんだから仕方ないだろ」
「でも三体は多い」
「帰ったら報告だな。水上隊にも情報行くだろ」
エイルは湖面を見る。
見た目はもう穏やかだった。
さっきまで魔物がいたとは思えない。
「湖の下って、見えないんだな」
思わず呟く。
フィンが隣で笑った。
「当たり前だろ」
「森なら木の向こうくらいは分かる。でも湖って、下に何がいるか全然見えない」
「だから探索科でも専門が分かれるんだよ。水域探索は別物だから」
「水の中にも遺跡あるんですよね」
「ある。沈んだ町もあるって話だよ」
エイルが顔を向ける。
「沈んだ町?」
「……その顔やめろ」
「どんな顔?」
「絶対行きたくなってる顔」
否定はしなかった。
◇
午後。
湖の向こうに街が見え始めた。
最初に見えたのは建物ではなかった。
高い塔。
その次に、岸へ沿って伸びる石造りの防波堤と、何十艘もの船。
セレナとは規模が違う。
近づくほど街が横へ広がっていき、湖岸だけでは収まらず、緩やかな丘の上まで家々が続いているのが分かった。
「リューデン?」
「ああ」
フィンが答える。
「あの白い塔が学院。左の湖沿いに並んでる低い建物が領軍の水上隊。中央の大きい港が商業港」
エイルは順番に見る。
学院。
軍の船着場。
商船。
さらに奥には大きな建物がいくつもあり、セレナより遥かに多くの人間が動いている。
湖に面した大都市。
ローデンとも違う。
アルネアとも。
ハルムとも。
また別の場所だった。
「大きいな」
「北部じゃ有名な街だよ」
「地図屋あります?」
「最初に聞くのそれ?」
「大事なので」
「あるよ。何軒も」
「何軒も」
それはかなりいい。
船が港へ近づく。
船員が帆を調整し、速度が落ちる。
岸には初めて見る街。
その向こうには学院。
湖にはまだ行ったことのない島や葦原があり、水の下にも何かがあるらしい。
そして。
さっき襲ってきた刃鰭魚は、普段と違う場所にいた。
エイルは船着場へ近づいていく景色を見ながら、新しい地図をどこから探すか考えていた。




