第39話 湖の見える町
正式街道へ戻ってからは、道に迷う心配もなくなった。
古い猟師道とは違い、路面はよく踏み固められており、両脇の草も定期的に刈られている。橋が落ちた影響で普段より人通りは少ないらしいが、それでも南へ向かう荷馬車や旅人の姿は途切れなかった。
エイルは歩きながら、先ほどまで使っていた古道の位置を地図へ書き直す。
途中で見つけた石積み。
増水した沢。
使えなくなった丸太橋。
大牙猪を見かけた場所には、小さく印だけ付けておく。
魔物は移動する。
今日そこにいたからといって、次も同じ場所にいるとは限らない。
だから地図には、日付も添えた。
しばらく進むと、前方から馬の蹄と車輪の音が聞こえてきた。
道の端へ寄る。
やってきたのは、昨日ハルムで見たものと同じ濃紺の外套を着た兵士たちだった。
先頭に騎兵が二人。
後ろには木材と工具を積んだ荷車が三台続いている。
橋の修理へ向かう部隊だろう。
「止まれ」
すれ違うだけかと思ったが、先頭の兵士が軽く手を上げた。
エイルも足を止める。
「ハルム方面から来たのか?」
「はい」
「橋の手前は通った?」
「正式な迂回路は使ってません。森の古い猟師道を抜けました」
兵士の眉が少し動いた。
「猟師道?」
「昔の道が残ってました」
「通れる状態なのか?」
「徒歩なら。ただ、沢が増水してます。古い橋は使えません」
兵士は後ろを振り返り、別の男を呼んだ。
「地図を持ってるなら見せてもらえるか?」
「いいですよ」
エイルは自分の地図を開いた。
昨日買ったものではなく、古道を歩きながら書き足した方だ。
兵士は馬上から少し身を乗り出す。
「ここで渡ったのか」
「はい。岩が二つ出てるので、歩きなら渡れます。ただ、荷車は無理です」
「斜面は?」
「この辺が少し崩れてます。道も途中で一度消えます」
指で位置を示すと、兵士は真剣に地図を見ていた。
「随分細かいな。測量をやってるのか?」
「冒険者です。《地図作成》を少し」
「なるほど」
兵士は隣にいた男へ何か伝え、その男が小さな手帳へ内容を書き込んだ。
「助かった。橋の復旧まで時間が掛かるようなら、徒歩用の仮道として使えるか確認してみる」
「でも、雨がもう少し降ったら沢は危ないと思います」
「その辺も含めて調べる」
エイルは地図を畳む。
ギルドへ出す地図ではない。
それでも、自分が歩いた道が別の誰かに使われるかもしれないというのは少し不思議だった。
「ところで」
兵士がエイルの腰へ目を向ける。
「その剣、新しいな」
「分かります?」
「鞘がほとんど擦れてない」
「昨日できたばかりです」
「そうか。大事に使えよ」
「はい」
今度こそ兵士たちは北へ向かっていった。
エイルはその背中を少し見送る。
冒険者が依頼を受けて動くのとは違う。
道が壊れれば国の人間が直しに来る。
当たり前ではあるが、昨日から急にそういうものが目に入るようになった。
旅する範囲が広がれば。
見えるものも増えるらしい。
◇
午後に入る頃には、風の匂いが明らかに変わっていた。
湿っている。
川とも雨とも違う。
街道の左右に広がっていた林も少しずつ低くなり、遠くまで空が見えるようになる。
さらに一時間ほど歩いたところで。
エイルは足を止めた。
「……大きいな」
丘の向こう。
地平近くまで青が広がっている。
最初は空と繋がっているように見えた。
けれど、よく見れば下側だけ色が濃く、光を受けて細かく揺れている。
リューデ湖。
地図では何度も見た。
それでも実際に目の前へ現れると、想像していたよりずっと大きかった。
向こう岸は見える。
ただし遠い。
小さな山のように見える影が、その向こう側に浮かんでいる。
湖面には白い点がいくつもあり、目を凝らせば船だと分かった。
「船って、あんなにあるんだ」
水の上を道のように行き交っている。
村の近くに川はあったが、船と呼べるほどのものはほとんど見たことがなかった。
エイルはしばらくその場に立っていた。
早く町へ入りたい気持ちもある。
だが、今は少しだけ見ていたかった。
風が吹く。
湖面が光る。
自分が歩いてきた道とは、まったく違う景色だった。
地図で青く塗られた場所の中にも。
ちゃんと世界がある。
◇
湖が見えてから、セレナまではそれほど遠くなかった。
街道は丘を下り、そのまま湖の北側へ沿うように曲がっていく。
途中から荷車だけでなく、魚を積んだ籠を担ぐ人間や、網を持った漁師の姿も増えた。
空気には少し生臭い匂いが混じっている。
そして。
町の手前まで来たところで、今度は別の匂いがした。
「煙?」
火事ではない。
何かを燻している。
門近くの小屋で、大量の魚が吊るされていた。
干物か燻製らしい。
ローデンともハルムともまったく違う。
町へ入る前から、その土地で何を食べて生きているのか分かる。
セレナには大きな外壁がなかった。
低い石塀と簡単な門があるだけで、その向こうへ湖沿いの建物が広がっている。
門番へ冒険者証を見せる。
「ローデンから?」
「はい」
「橋、落ちてたろ」
「古い猟師道から抜けました」
「……あそこまだ使えたのか」
今日二度目の反応だった。
「徒歩なら」
「へえ。まあいい、入っていいぞ。宿は中央通りに三軒。安いのは《水鳥亭》、飯がいいのは《青鱗亭》。船に乗るなら東の桟橋へ行け」
「ありがとうございます」
「初めてか?」
「はい」
「なら先に湖見てこい。町は後でも見られる」
言われなくてもそのつもりだった。
◇
門を抜け、中央通りへ入る。
建物は石より木造が多く、屋根も急な角度ではない。道の横には水路が走り、小さな橋が何本も掛かっている。
店先には魚。
網。
浮き。
防水加工された外套。
見たことのない品が多い。
エイルはつい立ち止まりそうになるが、まずは真っ直ぐ湖の方へ向かった。
道の先が急に開けた。
そこには。
水があった。
丘の上から見るのとは違う。
目の高さから見る湖は、さらに広い。
波が岸へ寄せては戻り、石造りの桟橋に小さくぶつかっている。
何艘もの船が停泊していた。
小さな手漕ぎ船。
帆を張った細長い船。
荷物を積み込んでいる大きな輸送船。
船員たちが声を掛け合い、縄を引き、木箱を運んでいる。
「……すごいな」
素直に声が出た。
海を見たことはない。
だから比べようもない。
それでも。
水だけでここまで遠くまで続く場所があるということが、少し信じられなかった。
桟橋の近くには大きな案内板が立っている。
【セレナ船着場】
【東岸リューデン行き】
【南岸ミオラ行き】
【西岸ラウル港行き】
その下には細かい時刻表と料金。
さらに別の板には、注意書きがあった。
【西部葦原方面は水位上昇中】
【小型船のみ通行可】
【案内人なしでの進入非推奨】
エイルの目が止まる。
地図屋で聞いた場所だ。
水位によって道が変わる。
小舟で入れば迷う。
しかも今は水位が上がっている。
「……やっぱりあるんだな」
ただ、すぐ行く気はない。
船にすら乗ったことがないのに、いきなり迷路のような葦原へ入るのは無茶だ。
まずこの町。
そして湖。
順番に見ればいい。
◇
宿は《青鱗亭》を選んだ。
飯がいいと聞いたからだ。
部屋を取ると、夕食まで少し時間がある。
エイルは荷物だけ置き、再び町へ出た。
最初に向かったのは冒険者ギルドだった。
どこへ行っても一度は情報を集めた方がいい。
セレナ支部はローデンより小さいが、ハルムのような出張所よりは大きかった。
中へ入ると、受付より先に掲示板が目に入る。
ローデンでは森や青晶洞関連が多かったが、こちらは明らかに内容が違う。
【湖岸・水棲魔物討伐】
【船舶護衛】
【浅瀬遺失物回収】
【西部葦原・水路標識確認】
【湖底青貝採取】
「湖の依頼ばっかりだ」
「湖の町ですからね」
横から声がした。
受付にいた若い男性が笑っている。
「初めて見る顔ですが、登録済みですか?」
「ローデンで登録してます」
冒険者証を出す。
確認した男が少しだけ眉を上げた。
「D級ですね。エイルさん……ローデン支部から情報は来ています」
「何かしました?」
「悪い意味じゃありません。最近昇格した方が南へ向かったとだけ」
どうやら支部間の連絡は思っていた以上にしっかりしているらしい。
「セレナは初めて?」
「今日着きました」
「でしたら、湖上依頼だけは注意してください。冒険者等級とは別に、船を扱えるかどうかが重要なので」
「船、乗ったことないです」
「なら最初は乗客か護衛からですね」
「小舟も?」
「一人で借りるなら講習が必要です。漕ぎ方も知らない人を湖へ出すわけにはいきませんから」
「講習あるんですね」
「半日で基本だけなら。ただし、受けたから葦原へ一人で行っていいわけじゃないですよ」
視線の先を読まれたらしい。
「まだ何も言ってません」
「初めて来た冒険者があの依頼を見た時、大体同じ顔します」
どうも本当に顔へ出やすいらしい。
◇
「それと」
受付の男が掲示板の端を指した。
「今はこの辺りの依頼が少し混み合ってます」
そこには青い印の付いた依頼が何枚かまとめられている。
【北岸水路・魔物調査】
【漁場周辺・異常波確認】
【沈没標識再設置】
「何か起きてるんですか?」
「大きな事件というほどではありません。ここ数日、北岸で水棲魔物が浅い場所まで上がってきてるんです」
「珍しい?」
「数が少し多いですね。学院の実地班と、領軍の水上隊も調べています」
昨日聞いた学院。
そして軍。
ここではもう、実際に同じ場所で動いているらしい。
「ギルドも一緒に?」
「役割は別です。領軍は船の安全と主要航路、学院は研究と実地訓練、ギルドは依頼単位で漁場や岸辺を調べています。情報は必要に応じて共有しますけど」
「同じことをしてるわけじゃないんですね」
「全部一つの組織でやる方が無理ですよ」
確かにそうだ。
ローデンにいた頃は、外で何かあれば冒険者が依頼を受けるという形ばかり見ていた。
だが湖には漁師がいて。
船乗りがいて。
領軍がいて。
学院の人間もいる。
それぞれ違う理由で同じ場所を見ている。
「学院って、どんな人が来てるんです?」
「リューデン学院ですね。剣士科、魔術科、治療科、探索科……他にもありますけど、湖周辺へ来るのは探索科と魔術科が多いです」
「探索科」
少し興味を引かれる名前だった。
「遺跡調査とか、地図とか?」
「そういうものも。迷宮や遺跡、魔物の生態、古代文字なんかも学ぶらしいですよ」
「面白そう」
「入ります?」
「入りません」
昨日と同じく即答した。
受付の男が笑う。
「興味はあるけど学生にはなりたくないタイプですね」
「多分」
学ぶことは嫌いではない。
むしろ知らないことは知りたい。
ただ、何年も同じ場所にいるより、自分で歩きながら覚える方が性に合っている。
◇
その日の夕食は、門番の言葉通りかなり良かった。
白身魚を香草と一緒に焼いたもの。
貝と根菜の入った濃いスープ。
ローデンではあまり見なかった柔らかい白パン。
エイルは思っていた以上に食べた。
窓の外には、暗くなった湖が見える。
昼間ほど広さは分からない。
代わりに船の灯りが点々と浮かび、ゆっくり動いていた。
机には新しく買ったセレナ周辺の簡易図を広げている。
東へ行けばリューデン。
西へ行けば葦原。
湖を船で南へ渡ることもできる。
それとは別に、北岸には今、魔物の異常が出ている。
行きたい場所が多い。
だが、全部を一度に見る必要はない。
「明日は……まず船だな」
乗ったことがない。
なら一度乗る。
その後に何を見るか決めればいい。
エイルは地図の端へ、小さく予定を書いた。
【船】
その一文字だけで。
明日が少し楽しみになった。




