第38話 古い猟師道
ハルムで取った宿は、旅人向けとしてはかなり大きかった。
一階が食堂と酒場を兼ねており、夕方になる頃には商人、護衛、荷運び人、それに街道を移動中らしい兵士まで同じ空間で食事をしている。
エイルは壁際の席で煮込みと黒パンを食べながら、昼間に見た地図をもう一度広げていた。
橋が落ちた場所。
正式な迂回路。
そして、森の中を抜ける古い猟師道。
距離だけなら、猟師道を使う方がかなり短い。
問題は十年ほどまともに使われていないことだった。
「そっちへ行く気か?」
声を掛けられ、エイルが顔を上げる。
隣の卓にいた老人が、酒の入った木杯を持ったまま地図を見ていた。
白髪混じりの髪に、日焼けした顔。服装は普通の旅人だが、椅子の横には古い弓が立て掛けられている。
「まだ決めてません」
「嘘つけ。さっきからそこばっかり見てる」
今日だけで似たようなことを何度言われただろう。
「昔は猟師道だったって聞きました」
「ああ。俺も若い頃は使った」
エイルは地図を少し老人側へ向けた。
「今も通れます?」
「道そのものは残ってるだろうな。ただ、昔から歩きやすい道じゃねえ。谷を二つ越えるし、途中の沢は雨が降ると面倒になる」
「昨日かなり降ったみたいですね」
「ならなおさらだ」
老人は地図の一点を指した。
「ここ。昔は丸太橋があったが、とっくに腐ってると思え。その先の斜面も、今はどうなってるか分からん」
「魔物は?」
「森狼に角鹿、それと運が悪きゃ大牙猪。街道沿いよりは多い」
どれも聞いたことのある魔物だった。
大牙猪だけは資料で見た程度だが、D級冒険者なら単独討伐が可能な場合もあるという分類だったはずだ。
「道を知ってる人は今も使う?」
「猟師がたまにな。ただ、湖へ行くだけなら上流の迂回路へ回る方が楽だぞ」
そこまで言ってから、老人はエイルの腰にある長剣を見た。
「まあ、その格好でわざわざ古道を聞くくらいだ。楽な方へ行けと言っても行かんか」
「まだ決めてませんよ」
「そういうことにしといてやる」
老人は笑い、酒へ口をつけた。
エイルは地図へ簡単な注記を加える。
沢。
旧丸太橋。
崩れやすい斜面。
その少し先で道は正式街道へ合流する。
「ありがとうございます」
「死ななきゃ礼はいらん」
「死ぬ予定はないです」
「冒険者はみんなそう言う」
もっともだった。
◇
食事を終え、部屋へ戻ろうとしたところで、宿の外が少し騒がしくなった。
馬の足音が続いている。
窓から覗くと、十騎ほどの騎兵が大通りへ入ってくるところだった。
全員が揃いの濃紺の外套を着ており、胸元には銀色の紋章が付いている。
その後ろには二台の荷車。
一台には木材や工具が積まれ、もう一台には鎧を着た兵士が数人乗っていた。
「あれ、何です?」
近くを通った宿の主人へ聞く。
「王国の街道管理隊だよ。落ちた橋を見に来たんだろ」
「軍?」
「軍属だな。道や橋だけじゃなく、街道で大きな魔物が出た時なんかも動く。冒険者だけに国中の道を任せるわけにもいかんからな」
エイルは騎兵たちを見る。
冒険者とは雰囲気が違った。
装備が揃っている。
馬も同じような体格のものが選ばれ、動きにも統一感がある。
先頭にいる男が宿の向かいにある役所らしい建物へ入り、残った兵士たちは荷車の確認を始めた。
ギルドとは別に。
当然、国には国の人間がいる。
考えてみれば当たり前のことだったが、村とローデン周辺しか知らなかった頃には、あまり意識したことがなかった。
さらに大通りの反対側を、同年代くらいの少年少女が数人歩いているのが見えた。
冒険者らしい雑多な装備ではなく、同じ意匠の灰色の外套を着ている。
「今度は?」
「あれか。南の学院の連中じゃないか?」
「学院?」
「王都ほどでかくはないが、リューデンにも学院がある。剣や魔術を学ぶ奴らが湖周辺へ実地訓練に来ることがあるんだ」
エイルは少しだけ興味を持った。
「冒険者になるため?」
「それだけじゃないさ。騎士になる奴もいれば、軍へ行く奴、宮廷魔術師を目指す奴、研究屋になる奴もいる。金のある家の子供ばかりってわけでもないらしいが、俺には縁がないね」
学院の生徒たちはそのまま別の宿へ入っていった。
今すぐ関わる理由はない。
ただ、世界には自分とはまったく違う形で力を身につけている人間もいるらしい。
「剣を教わったりするのかな」
「興味あるのか?」
「少しだけ」
「入学したいなら遅くはない年だと思うぞ」
「それはいいです」
エイルは即答した。
知らない土地へ行くために村を出たのに、今から何年も同じ場所へ通う姿はあまり想像できない。
けれど。
そこで学んだ人間と、いつか旅先で会うことはあるかもしれない。
それなら面白そうだった。
◇
翌朝。
エイルは正式な迂回路ではなく、古い猟師道を選んだ。
「やっぱりこっちか」
町の南門にいた門番に言われた。
「何で知ってるんです?」
「朝からそっちの古い標識見てる旅人なんて、お前くらいだ」
どうやら分かりやすかったらしい。
猟師道の入口は、大街道から東へ少し外れたところにあった。
古い石標が草の中に半分埋まっている。
地図ではここから南東へ進み、森を横切る。
入り口付近だけなら、道は思っていたより分かりやすかった。獣や猟師が今も使うのか、完全に草へ覆われているわけではない。
ただ、百歩も進めば街道の音は聞こえなくなった。
木々が高い。
昨日までの街道沿いの森より湿っており、地面には厚く落ち葉が積もっている。
エイルは歩く速度を少し落とした。
道があるからといって信用しすぎない。
《地形把握》で傾斜を確認し、《気配感知》も広げる。
右前方に小動物。
左奥にはやや大きな反応。
こちらから離れていくので、追う必要はない。
新しい長剣を使いたい気持ちはあるが、出会う魔物すべてへ戦いを挑むつもりもなかった。
しばらく進むと、古い道は森の斜面を登り始めた。
地面が昨日の雨を含んで滑りやすい。
足を置いた場所が沈みそうなら避け、木の根を使って高度を上げる。
途中で一度だけ土が崩れたが、《危機感知》が先に反応したため踏み込まずに済んだ。
「街道より面倒なのは確かだな」
それでも嫌ではない。
決められた道をただ歩くのとは違い、どこを通るか自分で選ぶ余地がある。
頂上近くまで来たところで振り返る。
木々の隙間から、遠くにハルムの町が見えた。
昨日泊まった宿も。
その向こうへ続く大街道も。
ほんの半日も歩いていないのに、もう小さい。
エイルは地図へ高度の変化を書き足し、先へ進んだ。
◇
最初の谷へ下りたところで、老人が言っていた沢に出た。
水量は多い。
普段なら膝より低い程度なのだろうが、昨日までの雨でかなり増水している。
地図には橋の印がある。
上流へ少し歩くと、確かにその跡があった。
二本の太い丸太が対岸へ伸びているものの、そのうち一本は中央から折れ、残った方も苔と腐食で黒く変色している。
「これは渡らない方がいいな」
足を掛けて確認するまでもない。
老人の言った通りだった。
沢幅は六、七メートルほど。
勢いをつけて《衝撃》で飛べば越えられるかもしれないが、着地点は濡れた斜面になっている。
以前なら試していたかもしれない。
今は先に周囲を見る。
上流。
下流。
倒木。
岩。
《地形把握》へ意識を向けると、百メートルほど下流で沢幅が狭くなっている場所がありそうだった。
「そっちか」
実際に進む。
沢が大きく曲がる場所で、中央に二つの岩が出ていた。
岸から一つ目。
一つ目から二つ目。
最後に対岸。
一回の大跳躍ではなく、三回に分ければ危険はかなり減る。
エイルは地図に渡河地点を書き込んだ。
背負い袋の紐を締め直す。
一歩目は普通に跳ぶ。
濡れた岩へ着地する直前、小さな《衝撃》で勢いを殺す。
二つ目も同じ。
最後だけ距離が長かったので、踏み切りに《衝撃》を足した。
対岸へ着地。
足場は少し沈んだが、転ぶほどではない。
「問題なし」
古い丸太橋よりずっと安全だった。
ただし、大荷物の商人や馬が使える道ではない。
だから街道の迂回路にはならないのだろう。
地図へそのことも書き加えた。
◇
沢を越えてから一時間ほどで、道が急に分かりにくくなった。
倒木が増え、草も深い。
昔の道らしい窪みを辿って進んでいたが、途中からそれすら消えている。
エイルは足を止めた。
「……こっちじゃないな」
方角だけなら南東。
だが、真っ直ぐ進めば斜面が急になりすぎる。
古い猟師道なら、もう少し歩きやすい場所を通していたはずだ。
周囲を探す。
木。
岩。
踏み跡。
すぐには見つからない。
こういう時、以前なら一度戻って目印を探し直していただろう。
今は《地形把握》がある。
周辺の高低差を意識すると、右側へ大きく回った先に、斜面が緩くなる帯が続いている。
「道を作るなら、あっちか」
進んでみる。
五十歩ほどで、古い石積みが見つかった。
自然にできたものではない。
斜面が崩れないよう、人が積んだ低い壁。
その横には道らしい平らな場所も残っていた。
「当たり」
【《地形把握 Lv.3 → Lv.4》】
表示が浮かぶ。
エイルは少し笑い、地図を修正した。
古い道をそのまま探すだけではなく、なぜそこへ道を作ったのか考える。
それだけで見え方が変わる。
この技能は、思っていた以上に旅向きだった。
◇
午後に入ってしばらくした頃、《振動感知》が先に異変を拾った。
地面を伝う重い震え。
一度。
少し間を空けて、また一度。
歩いている。
かなり重い。
《気配感知》へ意識を広げると、前方に大きな反応が一つあった。
「いるな」
逃げる方向を探すより先に、相手の位置を確認する。
道の先。
ちょうど狭い谷へ入る手前。
こちらへ向かっているわけではないが、このまま進めば鉢合わせる。
エイルは森へ少し外れ、木の陰から様子を見た。
数分後。
茂みが大きく揺れた。
現れたのは巨大な猪だった。
鎧猪より一回り以上大きい。
肩の高さだけでもエイルの胸近くまであり、口元から左右へ伸びる牙は短剣ほど長い。泥に汚れた毛の下には厚い筋肉が見え、一歩踏み出すたび地面が僅かに震えている。
「大牙猪か」
資料通りならD級。
ただ、個体差が大きい。
目の前のものはかなり育っている。
大牙猪はまだこちらへ気づいていない。
このままやり過ごせる。
エイルは長剣へ伸ばしかけた手を止めた。
新しい剣を試したいから戦う。
それは違う。
道を塞がれているわけでもない。
依頼でもない。
大牙猪は森の反対側へ向かって歩き、そのまま姿を消した。
「……まあ、また会うだろ」
必要なら。
もっと先で。
エイルは古道へ戻った。
少し前の自分なら、強そうな魔物を見つけた時、成長の機会だと考えて戦ったかもしれない。
《越境》がある以上、強敵へ挑むほど伸びる。
それは今も変わらない。
けれど、旅の目的は成長そのものではない。
強くなるために道を選び始めたら、いつか行きたい場所より敵ばかりを見るようになる気がした。
それは少し違う。
エイルは地図を開く。
今見るべきなのは。
この道の先だった。
◇
夕方前。
森が途切れた。
目の前に開けた土地が現れ、その向こうを正式な街道が横切っている。
「抜けた」
古い猟師道は残っていた。
途中で沢を迂回し、道を一度見失ったものの、結果として正式な迂回路よりかなり早く南側へ出られたはずだ。
エイルは地図へ最後の線を引いた。
今の状態なら徒歩で通れる。
ただし雨の後は沢の増水に注意。
旧橋は使用不可。
荷馬車、馬は不向き。
途中で道が消えている区間あり。
自分だけが分かればいい地図なら、ここまで書く必要はない。
けれど。
青晶洞でハルトから聞いた言葉を思い出す。
地図は、次に来る人間へ道を渡すもの。
エイルは線を一本追加し、日付も入れた。
「これなら分かるかな」
地図を閉じる。
正式街道へ出ると、南へ向かう旅人が何人か歩いていた。
遠くには軍の荷車らしきものも見える。
さらにその先。
地平に近い場所だけ。
空の色が少し違った。
青い。
まだ湖そのものは見えない。
けれど。
風の中に、山や森とは違う湿った匂いが混ざり始めていた。




