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第37話 南へ続く街道

 翌朝、エイルは日の出より少し早く宿を出た。


 ローデンの街はまだ眠りから覚めきっておらず、大通りを歩く人影も少ない。市場では店を開く準備が始まっているものの、いつもの喧騒にはまだ遠く、荷車の車輪が石畳を転がる音だけがよく響いていた。


 背負い袋の重さを確かめながら南門へ向かう。


 腰には新しい長剣。


 反対側には青鋼短剣。


 歩いているだけなら、以前より少し重くなった程度で気になるほどではない。グレイグが鞘や帯の位置まで合わせてくれたおかげで、脚にも当たりにくかった。


 南門で冒険者証を見せると、門番が腰の剣をちらりと見た。


「新調したのか」


「昨日できました」


「朝から嬉しそうだな」


「そんなに分かります?」


「分かる分かる」


 最近似たことをよく言われる。


 エイルは自分では普段通りのつもりだったが、どうやら顔に出ているらしい。


「南へ?」


「はい。まずハルムまで行きます」


「大街道なら迷わん。昨日雨が降ったから、森沿いだけ泥に気をつけろよ」


「ありがとうございます」


 門を抜ける。


 ローデンの外へ出るのは、これで何度目になるだろう。


 最初は街へ辿り着くだけで精一杯だった。


 今では地図を持ち、行き先を自分で選び、次の土地へ向かっている。


 それだけの違いなのに、南へ伸びる道は妙に新しく見えた。


     ◇


 ローデンから南へ続く大街道は、北西へ向かう道より広かった。


 荷馬車が二台並んでも余裕があり、路面も比較的よく整備されている。道沿いには一定間隔で距離標が立ち、午前のうちから商人や旅人とも何度かすれ違った。


 森と農地が交互に続き、ときどき小さな集落も見える。


 エイルは歩きながら地図へ細かな情報を書き足していった。


 井戸のある休憩所。


 壊れかけた道標。


 雨の後に水が溜まりやすい窪地。


 大街道そのものは地図通りなので、道に迷う心配はない。


 それでも、自分で歩けば分かることは多かった。


 昼前、道沿いの小さな休憩所で足を止める。


 屋根だけの簡単な造りだったが、木製の長椅子と井戸があり、先に休んでいた行商人らしい男がパンを食べていた。


「南行きかい?」


「はい」


「ハルム?」


「まずはそこまで」


「なら今日中は無理しない方がいい。昨日の雨で、先の林道が少し荒れてるらしいぞ」


「通れない?」


「荷車は遅くなるって程度だ。歩きなら問題ないさ」


 門番から聞いた話と同じだ。


 エイルは礼を言い、水を補充してから簡単な昼食を取った。


 干し肉を挟んだ固いパンと、宿で買ってきた焼き芋。


 アルネアへ向かった時より食事の準備も少しだけ上手くなっている。旅の途中で食べるものとしては十分だった。


「一人か?」


 行商人が聞いてくる。


「はい」


「若いのに大変だな」


「慣れました」


「冒険者?」


「一応」


 冒険者証を見せる必要もないので、それ以上は話さなかった。


 相手も深く聞くつもりはなかったらしく、食べ終えると荷物を背負って先に立ち去っていった。


 エイルは少し遅れて休憩所を出る。


 急ぐ旅ではない。


 むしろ、急ぎすぎれば見落とすものが増える。


     ◇


 午後に入ると、聞いていた通り道が悪くなった。


 街道の片側に森が迫り、昨日の雨が低い場所へ流れ込んでいる。荷車の轍には泥水が溜まり、場所によっては道の端を歩いた方が早かった。


 エイルは《地形把握》を使いながら、硬い地面を選んで進む。


 以前なら足元を一つずつ確かめていたところでも、今は高低差や土の状態をまとめて捉えやすい。


 少し進んだところで、《危機感知》が弱く反応した。


 敵意ではない。


 何かが崩れる時に近い感覚だった。


 立ち止まり、周囲を見る。


 右は森。


 左は低い斜面。


 前方には荷馬車が一台止まっていた。


「そっちか」


 近づくと、荷車の後輪が泥へ深く沈んでいた。


 馬を引く男と、荷台の横に立つ女性が二人で押しているものの、車輪は空回りしてさらに沈み込んでいる。


「手伝います?」


 声を掛けると、男が振り返った。


「助かる! 車輪が完全に取られちまった」


 エイルは荷車の後ろへ回る。


 かなり重い。


 荷台には布を掛けられた木箱が何段も積まれている。


「僕が押すので、馬を少し前へ」


「一人で平気か?」


「やってみます」


 両手を荷台へ当てる。


 無理に持ち上げる必要はない。


 泥へ沈んだ車輪が一番抵抗になる瞬間だけ補助すればいい。


「お願いします」


 男が馬を引く。


 エイルは脚へ力を入れ、荷台を前へ押した。


 重い。


 だが、動かないほどではなかった。


 車輪が泥の縁へ掛かった瞬間、ごく小さな《衝撃》を斜め上へ入れる。


 荷台が僅かに浮き、そのまま車輪が窪みを乗り越えた。


「おおっ!」


 男が驚いた声を上げる。


 荷馬車は乾いた場所まで進み、ようやく止まった。


「助かったよ。本当に一人で押したのか?」


「馬も引いてましたから」


「それでもだよ」


 エイルは泥のついた手を布で拭う。


 力を出しすぎたつもりはない。


 それでも以前なら、もっと苦労していただろう。


「何かお礼を――」


「大丈夫です」


「いや、そういうわけにも」


「道で困ってただけなので」


 それでも相手が引かなかったので、結局焼き菓子を二つだけ受け取った。


 女性が包みを渡しながら笑う。


「ハルムへ行くなら、夕方前に着くと思うよ。ここから先は道も少しましになるから」


「ありがとうございます」


 少し得をした。


 エイルは焼き菓子を背負い袋へ入れ、荷馬車と別れて先へ進んだ。


     ◇


 街道が森の奥へ入り始めた頃、今度は《気配感知》に複数の反応が入った。


 道の外。


 左前方。


 四つ。


 大きさは狼ほど。


 こちらを追っている。


 エイルは足を止めなかった。


 街道にはまだ時折人が通る。


 そのまま放置すれば別の旅人を襲う可能性がある。


 道が少し広くなったところで、背負い袋を下ろした。


 数秒後。


 茂みから一体目が飛び出す。


 灰色の毛並み。


 背中に硬い棘。


「また棘狼か」


 ローデンの西で何度も戦った魔物だった。


 昔なら三体を相手にするだけでも地形を使い、何度も《衝撃》を使わなければ危なかった。


 今は四体。


 エイルは新しい長剣へ手を掛ける。


 抜いた瞬間、少しだけ感覚が変わった。


 訓練場では木剣。


 昨日は試し斬り。


 実戦で使うのはこれが初めてだ。


 一体目が正面から飛び込んでくる。


 エイルは半歩だけ外れ、すれ違いざまに剣を振った。


 重さが乗る。


 刃が首筋へ入り、そのまま止まらず抜ける。


 棘狼は着地する前に地面へ落ちた。


「……切れるな」


 思った以上だった。


 二体目と三体目が左右から来る。


 右へ踏み込み、先に片方へ剣を合わせる。


 棘を避けて前脚の付け根へ。


 そのまま剣の勢いを回転へ使い、左から来た個体へ身体を向ける。


 今までなら一度剣を戻していた。


 新しい重心なら、その必要がない。


 相手の牙が届く前に横薙ぎを入れる。


 硬い棘へ刃が触れた。


 弾かれる――と思ったが。


 芯へ魔力を通し、接触した瞬間だけ小さく《衝撃》を起こす。


 棘の根元が砕けた。


 刃がその奥まで入る。


 三体目も倒れた。


 最後の一体は、そこで動きを止めた。


 仲間が一瞬で倒されたからか、低く唸りながら距離を取る。


 逃げるなら追う必要はない。


 そう思った直後、棘狼は逆に森の中へ入り、大きく回り込んだ。


 《気配感知》には位置が残っている。


 さらに足元。


 湿った地面を踏む細かな振動が、《振動感知》へ薄く伝わってきた。


「そこか」


 背後へ回ろうとしている。


 エイルは振り向かず、一歩だけ前へ出た。


 背後から気配が近づく。


 飛びかかる直前、地面を蹴る振動が一度大きくなった。


 そこで身体を反転させる。


 長剣を斜めに振り上げた。


 刃が胸元へ入り、棘狼が横へ飛ばされる。


 戦闘はそれで終わった。


 エイルはしばらく長剣を見た。


 切れ味だけではない。


 《衝撃》を流した時の感覚が明らかに違う。


 今までは剣の中へ魔力を押し込むような意識が必要だったが、新しい剣なら通す場所を選ぶだけでいい。


 しかも、棘へ当たった瞬間だけ必要な量を出せた。


「これ、かなり楽だな」


 強くなったというより。


 今まで自分がやりたかったことへ、剣の方がついてくるようになった。


 グレイグが何度も「お前用」と言っていた意味が、少し分かった。


     ◇


 魔石だけを回収して街道へ戻る。


 四体を倒すのに、それほど時間は掛かっていなかった。


 少し前なら、この棘狼が十分に危険な敵だった。


 今では新しい剣を確かめる余裕まである。


 エイルはそれを不思議に思った。


 自分が急に別人になった感覚はない。


 昨日までと同じ身体で。


 同じように剣を振っている。


 それでも、以前苦労したものが少しずつ遠ざかっていく。


 その分だけ、もっと遠い場所へ行けるようになる。


 エイルは剣を鞘へ戻した。


 試したいことはまだ多い。


 剣先だけの《衝撃》。


 刃の途中だけへ流す方法。


 踏み込みと合わせた時の使い方。


 けれど、それを棘狼相手に全部試す必要もない。


 次に本当に必要な相手が出た時でいい。


     ◇


 夕方より少し前。


 街道の向こうに、低い石壁が見えてきた。


 ローデンほどではないが、思っていたより大きな町だった。


 南北へ伸びる街道を中心に建物が集まり、門の前には荷馬車が何台も並んでいる。


 道標を見る。


【ハルム】


「ここか」


 宿場町。


 リューデ湖へ向かう旅人の多くが一度立ち寄る場所。


 門へ近づくにつれて、馬と人の声が増えていく。


 ローデンとは違う。


 冒険者より商人の姿が多く、旅装の人間も目立った。


 門を抜けると、街道そのものが町の大通りへ変わる。


 左右には宿が何軒も並び、馬小屋、食堂、荷車の修理店、旅道具を扱う商店が続いていた。


「宿場町って本当に宿ばっかりだな」


 少し歩いただけで、看板が五つ見えた。


 どこへ入るか迷っていると、一軒の宿の前に地図が貼られていることに気づいた。


 ハルムから南。


 その先で街道が二つに分かれている。


 一方はリューデ湖方面。


 もう一方はさらに南西へ続いていた。


 自分の地図にも載っている道だ。


 ただ、宿の前の地図には新しく赤い線が引かれている。


【湖方面街道 一部迂回】


「迂回?」


 近くにいた宿の主人らしい男へ聞く。


「ああ、三日前に橋が落ちたんだ。大雨でな」


「通れないんですか?」


「街道そのものは通れる。川の上流へ回ればいい。ただ、徒歩でも半日くらい余計に掛かるぞ」


 エイルは地図を見る。


 赤線は川沿いを東へ迂回していた。


「こっちの細い道は?」


 現在の迂回路より手前。


 地図上には薄く、森を抜ける古い道が一本残っている。


 主人はそこを見ると、少し首を傾げた。


「昔の猟師道だな。今も使えるかは知らん」


「湖方面へ抜ける?」


「昔は抜けたらしい。ただ、十年くらい前からほとんど誰も通ってないぞ」


 エイルは地図へ顔を近づける。


 正式な迂回路は安全。


 少し遠い。


 古い猟師道は短い。


 今も通れるか分からない。


「……なるほど」


「その顔は何だ」


「何でもないです」


「一応言っとくが、普通は迂回路を使うからな」


「はい」


 普通なら。


 エイルは宿へ入り、先に部屋を取った。


 今日はもう歩かない。


 夕食を食べて、町の情報を少し集める。


 古い猟師道について考えるのは、それからでいい。


 部屋へ荷物を置き、新しい長剣を壁へ立て掛ける。


 ローデンから南へ一日。


 まだ湖は遠い。


 それなのに。


 地図にはもう。


 予定になかった道が一本増えていた。


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