第3話 最初の街
結局、エイルが眠れたのは夜がかなり深くなってからだった。
鎧猪を倒した場所から、街道沿いに一時間ほど歩いた。
傷のせいもあって、普段よりずっと遅い。
途中で二度ほど《危機感知》が反応したが、どちらも森の奥を移動する小さな獣だった。
それでも、そのたびに剣へ手が伸びた。
さすがに今夜もう一度、あれと同じようなものが出てきたら困る。
いや、困るどころではない。
「……今度こそ逃げよう」
誰もいない街道で呟いた。
宣言しておかないと、自分でまた余計なことを考えそうだった。
新しい野営場所に選んだのは、街道から少し外れた小高い場所だった。
木は少ない。
視界が広い。
水場は遠くなったが、水筒にはまだ余裕がある。
血の臭いが残っている服を脱ぎ、腹の傷を改めて確認した。
「浅い……よな」
牙が掠めただけだった。
血は出ているが、傷口は深くない。
村から持ってきた薬草を潰し、清潔な布で押さえる。
右腕の方が酷かった。
見た目には何もない。
だが、手首から肩まで鈍く痛む。
鎧猪の牙を剣で逸らした時の衝撃が残っているらしい。
少し動かすだけでも痛かった。
「……明日は剣、振れないかも」
それは困る。
冒険者になるために街へ向かっているのに、到着した初日から腕を痛めている。
格好がつかない。
もっとも、誰に格好をつけるわけでもなかった。
エイルは片手で火を起こし直し、毛布へ包まった。
鎧猪のことを考える。
怖かった。
今思い返しても、よく勝てたと思う。
もし最初の突進をまともに受けていたら。
地面を崩すのに失敗していたら。
最後の《衝撃》が剣へ上手く伝わっていなかったら。
どこか一つ違っていれば、結果は逆だった。
勝ったからといって、自分が鎧猪より強かったわけではない。
それくらいは分かる。
ただ――。
エイルは目を閉じる。
意識を向けると、半透明の板が浮かび上がった。
【エイル・アーネット】
【Lv.6】
【生命 52】
【魔力 41】
【筋力 34】
【耐久 31】
【敏捷 46】
【器用 43】
【感知 58】
【技能】
《剣術 Lv.3》
《危機感知 Lv.6》
《野営 Lv.4》
《追跡 Lv.2》
《解体 Lv.2》
《衝撃 Lv.2》
《魔力操作 Lv.1》
【固有技能】
《越境 Lv.2》
数字を眺める。
やはり、以前より上がっている。
ただ。
「……これ、高いのかな」
比較するものがなかった。
村にも状態板を持つ大人は大勢いたが、他人の能力値を見せてもらう機会などほとんどない。
技能ならまだしも、能力値は身体能力そのものだ。
冒険者でもなければ、わざわざ見せ合うものではなかった。
エイル自身も、自分の数字を人へ見せたいとは思わない。
少なくとも、《越境》だけは黙っていた方がいい気がした。
理由は上手く説明できない。
ただ、固有技能は珍しい。
珍しいものを持っていると知られれば、余計なことを聞かれる。
それは面倒だった。
「……冒険者登録って、全部見せる必要あるのかな」
もしそうなら少し嫌だ。
そう思いながら、状態板を閉じた。
火が小さく爆ぜる。
その音を聞きながら、エイルはゆっくり目を閉じた。
◇
翌朝。
鳥の声で目を覚ましたエイルは、しばらく毛布の中から出られなかった。
「……痛い」
身体中が重い。
特に右腕。
昨日より悪化している気さえする。
寝ている間に固まったらしい。
腹の傷も少し引き攣る。
生き残った代償としては軽い。
分かっているが、痛いものは痛い。
何とか起き上がり、朝食を取る。
また固いパン。
また干し肉。
エイルは無言でそれらを眺めた。
「……ローデンでは絶対、温かいものにしよう」
昨日も同じことを決意した気がする。
むしろ今日は昨日より決意が強かった。
食事を終え、荷物をまとめる。
昨夜の戦いで服は一着駄目になった。
剣にも小さな刃こぼれがある。
金がかかりそうだ。
冒険者になる前から出費ばかり増えている。
「まず稼がないとな……」
旅をするにも金がいる。
地図もただではない。
装備も。
宿も。
食事も。
遠くへ行くなら、もっと必要になる。
そう考えると、冒険者という仕事を選んだのは間違っていなかった。
多分。
エイルは街道へ戻った。
朝の空気は冷たく、昨日より足が軽い。
いや。
エイルは数歩進んだところで止まった。
「……?」
もう一度歩く。
右腕は痛い。
腹も痛い。
なのに、身体そのものは妙に軽かった。
一歩が大きい。
足を出すだけで、昨日より身体が前へ進む。
試しに少し走ってみる。
「……速い」
明らかに違う。
昨日までの感覚で地面を蹴ると、想像より半歩ほど前へ出る。
慌てて速度を落とした。
鎧猪との戦いで《敏捷》が上がった。
その影響だろう。
「レベルが上がるって、こういう感じなんだ」
少し感動した。
数字だけでは分からなかった。
身体が実際に変わっている。
昨日できなかったことが、今日は少しだけできる。
それは素直に嬉しかった。
もっとも。
「……昨日みたいなのは、しばらくいいかな」
強くなるために毎回死にかけるつもりはない。
少なくともエイル本人は、そのつもりだった。
街道を進む。
昼前には人通りが増えてきた。
荷馬車。
商人。
旅人。
武器を持った者もいる。
昨日までの静かな道とは明らかに違う。
遠くへ視線を向けると、平原の先に大きな壁が見えた。
「……あれか」
ローデン。
北方街道の中継地として栄える地方都市。
村とは比べものにならない。
近づくにつれ、外壁の大きさが分かってくる。
人の背丈の三倍どころではない。
その上を兵士が歩いている。
正面の門には、何台もの荷車が列を作っていた。
エイルは思わず歩みを緩めた。
「大きいな……」
知識としては知っていた。
絵でも見た。
だが、自分の目で見るとまるで違う。
門だけでも、故郷の村にある倉庫より大きい。
壁の向こうからは無数の屋根が見える。
煙突から煙も上がっていた。
人の声。
馬の鳴き声。
鐘の音。
それらが混ざって、街そのものが一つの大きな生き物のように感じられた。
エイルはしばらく立ち止まっていた。
「おい、兄ちゃん。進まねえなら横寄ってくれ」
「あ、すみません」
後ろの商人に言われ、慌てて列へ加わる。
少し恥ずかしかった。
門では兵士が一人ずつ簡単な確認をしていた。
「名前」
「エイル・アーネットです」
「用件は?」
「冒険者登録を」
「初めてか?」
「はい」
兵士がエイルを見る。
背負い袋。
剣。
傷んだ服。
腹へ巻いた布。
最後に顔。
「……街道で何かあったか?」
「少し」
「少し?」
兵士の視線が腹の包帯へ落ちる。
エイルは一瞬迷った。
鎧猪の話をして、何か面倒になるだろうか。
昨日倒した場所は街道から大きく外れてはいない。
子供の個体も残っている。
危険がないとは言えない。
「鎧猪がいました」
兵士の顔が変わった。
「どこだ」
「南西の街道から少し森へ入ったところです。ここからだと……歩いて半日ほどだと思います」
「一頭か?」
「大きいのが一頭と、子供が二頭」
「親は?」
「死にました」
兵士がエイルを見る。
「死んでた?」
「いえ」
言いたくない。
何となく、嫌な予感がした。
だが嘘をつく理由もない。
「僕が倒しました」
「……一人で?」
「はい」
兵士は黙った。
エイルも黙った。
後ろでは列が少しずつ長くなっている。
「ちょっと待て」
「はい」
兵士が別の兵を呼んだ。
エイルは心の中で小さく息を吐いた。
やはり言わなければよかったかもしれない。
とはいえ、子供が残っていることを考えれば報告は必要だった。
少し待たされた後、年上の兵士がやってくる。
「鎧猪を見たのはお前か」
「はい」
「討伐したと?」
「……はい」
年上の兵士はしばらくエイルを見た。
疑っている。
当然だと思う。
「冒険者か?」
「これから登録します」
「……そうか」
明らかに納得していない。
それでも、これ以上門を塞ぐわけにはいかなかったらしい。
「場所だけ詳しく教えてくれ。巡回隊を出す」
エイルは道中の特徴を思い出しながら説明した。
小川。
斜面。
古い道標。
そこから森へ少し入ったところ。
年上の兵士は頷く。
「分かった。行っていい」
「ありがとうございます」
「待て」
一歩進んだところで呼び止められた。
「鎧猪の死体から、何か持ってきたか?」
「何も」
「牙も?」
「大きかったので……」
疲れていて解体する気力がなかった。
そもそも、どこをどう取ればいいのかも曖昧だった。
《解体》を持っているとはいえ、小動物や普通の猪で覚えた程度だ。
兵士が何とも言えない顔をした。
「もったいないな」
「……高かったんですか?」
「状態にもよるがな」
エイルは少しだけ後悔した。
旅立ってすぐ金が必要だと思ったばかりである。
「次から気をつけます」
「次がある前提なのか……」
兵士が何か呟いたが、聞き取れなかった。
◇
門を越えた瞬間、エイルは足を止めそうになった。
人が多い。
とにかく多い。
石畳の道を荷馬車が行き交い、その両側には店が並んでいる。
果物。
肉。
布。
武器。
見たことのない色の瓶を並べた店まであった。
建物も高い。
二階建てが普通に並んでいる。
三階建てもある。
「……すごいな」
目移りする。
右を見ても知らないもの。
左を見ても知らないもの。
危うく道の真ん中で立ち止まりかけ、慌てて端へ寄った。
まずは冒険者ギルド。
その前に宿を取るべきか。
いや。
その前に。
香ばしい匂いがした。
エイルの顔がそちらへ向く。
店先の大きな鉄板。
肉が焼かれている。
薄く切った肉と野菜。
何かのたれ。
昨日から干し肉と固いパンしか食べていない。
「……」
冒険者登録。
大事だ。
宿。
それも大事。
だが。
エイルは少しだけ考えた。
◇
「美味しい……」
結局、負けた。
木皿に盛られた焼き肉と野菜を頬張る。
味が濃い。
温かい。
肉が柔らかい。
それだけで昨日の苦労が少し報われた気がした。
店の脇に置かれた簡素な席。
目の前を知らない人々が行き交う。
食事をしながら、それを眺める。
悪くない。
むしろ、とてもいい。
知らない街。
知らない人。
知らない料理。
地図の上では小さな点だったローデンに、これだけのものが詰まっている。
では。
もっと遠くには何があるのだろう。
北の森。
西の山。
王都。
さらにその向こう。
エイルは小さく笑った。
やはり、村を出てよかった。
まだ何も始めていない。
冒険者にすらなっていない。
それでも。
来てよかったと思えた。
「よし」
最後の肉を食べる。
代金を払い、立ち上がった。
店主に冒険者ギルドの場所を聞く。
大通りを北へ。
二つ目の広場を右。
大きな看板があるから、すぐ分かるらしい。
教えられた通りに歩く。
十分ほどで、それは見つかった。
大きな三階建ての建物。
入口の上には、剣と杖を交差させた紋章。
人の出入りも多い。
鎧姿の男。
弓を背負った女。
大きな盾を持つ集団。
ローブ姿の老人。
エイルは建物の前に立った。
ここから。
ようやく始まる。
地図の白い場所まで続く道が、どんなものなのかはまだ分からない。
ただ、最初の一歩くらいは分かっている。
冒険者になる。
依頼を受ける。
金を稼ぐ。
色々な場所を見る。
そして、少しずつ遠くへ行く。
エイルは扉へ手をかけた。
その直前。
中から勢いよく扉が開いた。
「おっと」
「わっ」
ぶつかりそうになり、エイルは咄嗟に半歩下がる。
出てきたのは、赤茶色の髪を後ろで束ねた少女だった。
エイルより少し年上に見える。
腰には細身の剣。
革鎧。
左肩には、浅い傷。
少女は一度エイルを見て、
「ごめん」
「いえ、大丈夫です」
それだけ言って通り過ぎようとした。
エイルも特に気にせず扉へ向き直る。
だが。
少女が二歩進んだところで止まった。
「……ねえ」
呼ばれて振り向く。
「はい?」
少女の視線は、エイルの腰にある剣へ向いていた。
正確には。
刃を収めた鞘の口元。
完全には拭き取れていなかった、黒っぽい血。
「それ」
少女が眉を寄せる。
「何と戦ったの?」
エイルは一瞬だけ黙った。
街へ入ってから、まだ一時間も経っていない。
静かに冒険者になりたかった。
本当に。
「……猪です」
嘘ではない。
少女は怪訝そうな顔をした。
「猪?」
「はい」
「ふうん……」
まだ何か言いたそうだったが、結局それ以上は聞いてこなかった。
「まあいいや。ごめん、呼び止めて」
「いえ」
少女は今度こそ歩いていく。
エイルはその背中を少しだけ見送った。
そして、自分の剣へ視線を落とす。
「……ちゃんと拭いたつもりだったんだけどな」
小さく呟き。
冒険者ギルドの扉を開いた。




