第2話 越えるということ
鎧猪は、焚き火の向こうで動かなかった。
灰色の甲殻に覆われた頭を低く下げ、二本の牙をこちらへ向けている。
火に照らされた巨体は、遠目で見るよりずっと大きかった。
肩まででもエイルの胸ほどある。横幅に至っては、小型の荷車と大差ない。
あれが全速力で突っ込んでくる。
そう考えただけで、背中に冷たい汗が伝った。
「……困ったな」
エイルは剣を握り直した。
鎧猪。
森や山地に生息する大型の魔物。
硬い頭部と肩を盾のように使い、その巨体のまま獲物へ突進する。二本の牙に引っ掛けられれば、人間など簡単に宙を舞う。
詳しい討伐難度までは覚えていない。
ただ、村の猟師が以前言っていた。
山中で鎧猪を見つけたら、一人なら戦わない。
その言葉だけは覚えている。
つまり少なくとも、今のエイルが正面から勝負するような相手ではなかった。
問題は。
逃げられるのかどうか。
鎧猪の前脚が地面を掻いた。
ぞわり。
首筋を冷たいものが撫でた。
「っ」
考えるより先に、エイルは横へ飛んだ。
直後。
地面が鳴った。
先ほどまで立っていた場所を、巨大な影が突き抜ける。
焚き火が踏み潰され、火の粉が夜空へ舞った。
「速……!」
予想していたより遥かに速い。
避けられた。
だが、見てからではなかった。
鎧猪が動き出すより前に、身体が反応していた。
《危機感知》。
間違いない。
しかし、安心している暇はなかった。
十数メートル先。
鎧猪が土を削りながら速度を落とす。
そのまま巨体を巡らせ、再びエイルへ頭を向けた。
止まるのも速い。
あれだけの身体で、もう次の突進へ移ろうとしている。
エイルは剣を正面に構えた。
手が微かに震えていた。
怖い。
逃げたい。
当たり前だった。
死にたくないのだから、怖くない方がおかしい。
ただ。
怖いからといって、頭まで止まるわけではなかった。
「正面から受けるのは……無理だな」
小さく呟く。
村で剣を振ってきた。
猪狩りについていったこともある。
だから分かる。
あの突進を剣一本で受け止めようとすれば、剣が折れる前に腕が駄目になる。
避けるしかない。
鎧猪が再び地面を蹴った。
来る。
今度は目でも追う。
一直線。
やはり速い。
それでもエイルは動かなかった。
三歩。
二歩。
一歩。
右へ。
身体を投げる。
太い牙が服の端を掠めた。
「っ……!」
地面へ転がり、その勢いのまま起き上がる。
鎧猪が背後へ抜けていく。
今度は見えた。
「曲がるのは……あまり得意じゃない」
突進そのものは速い。
だが、走り出してから急激に向きを変えることはできない。
あれだけ重い身体だ。
当然と言えば当然だった。
それからもう一つ。
止まるまでにも、ある程度の距離が必要になる。
エイルは周囲へ視線を走らせた。
踏み潰された焚き火。
木。
小川。
斜面。
大きな岩。
月明かりと散った火の明かりだけでは、昼間ほど周囲を見通せない。
それでも何もないわけではなかった。
三度目。
鎧猪が駆ける。
エイルも走った。
今度は横へ避けない。
木々の方へ向かう。
背後から、重い足音。
距離が見る間に縮まっていく。
――来る。
《危機感知》が強く反応した。
エイルは左の木へ向かって踏み込んだ。
幹へ左手をつく。
「――《衝撃》」
掌から魔力が弾けた。
ドンッ、と低い音。
木を押した反作用で、エイルの身体が横へ大きく跳ねる。
「うわっ」
想像より強い。
着地に失敗し、肩から地面へ転がった。
直後。
背後で轟音が響いた。
鎧猪が木へ激突した。
幹が大きく震え、頭上から葉が降り注ぐ。
エイルはすぐに起き上がった。
「……効いてない」
期待はしていた。
あの勢いで木へぶつかれば、もしかすると倒れてくれるのではないか。
甘かった。
鎧猪は頭を数度振っただけだった。
額の甲殻には、傷らしい傷すら見えない。
むしろ怒らせたらしい。
荒い鼻息。
地面を掻く脚にも、先ほど以上の力が入っている。
「まあ……そうなるよな」
エイルは少しだけ後退した。
そこで、あることに気づく。
鎧猪がこちらへ身体を向ける時。
右前脚へ強く体重が乗っている。
木へ激突したせいではない。
先ほども同じだった。
重い身体を旋回させるために、外側の前脚で地面を強く蹴っている。
「……だったら」
視線が鎧猪の脚へ落ちた。
考える。
倒す必要はない。
逃げられれば、それでいい。
荷物を捨てて森へ入る。
木の密集した場所なら、あの巨体では速度を出し切れない。
多分、それが一番安全だった。
エイルの視線が荷物へ向く。
水。
食料。
毛布。
金。
そして地図。
全部、あそこだ。
命と比べるものではない。
分かっている。
「……逃げよう」
声に出して決めた。
荷物は諦める。
村まで戻ることになっても構わない。
生きていれば、また出発できる。
そう思った時だった。
鎧猪の後ろ。
暗い森の中から、低い鳴き声が聞こえた。
エイルの動きが止まる。
一つ。
もう一つ。
「……まさか」
鎧猪が僅かに振り向いた。
木々の奥。
小さな影が二つ見えた。
目の前の個体よりは遥かに小さい。
それでも普通の猪より大きい。
子供。
エイルはしばらく黙った。
やがて、力なく息を吐く。
「そういうことか……」
鎧猪が街道近くまで出てきた理由。
単に獲物を探していたわけではない。
子を連れて移動していた。
そこへエイルが火を焚いた。
どちらかといえば、向こうの進路へ入り込んだのはこちらだったのだろう。
分かったところで状況が良くなるわけではない。
鎧猪はこちらを敵と認識している。
ただ。
「荷物だけ取って、離れれば……」
追ってこない可能性はある。
エイルは剣を下げないまま、ゆっくり横へ動いた。
荷物の方へ。
鎧猪も動く。
進路を塞ぐように。
「……駄目か」
子供との間へ入らせるつもりがないらしい。
なら迂回する。
一歩。
もう一歩。
前脚が土を掻いた。
ぞくり。
首筋が冷えた。
「っ」
来る。
エイルは走った。
荷物とは逆方向へ。
鎧猪が追う。
背後から、地面を叩く振動が近づく。
速い。
さっきよりも荒い。
怒っている。
前方には緩い斜面。
雨で削られた土が露出している。
木の根。
小さな窪み。
エイルの目がそこへ止まった。
避ける。
違う。
使える。
エイルは窪みの横を駆け抜けた。
背後の振動が大きくなる。
目前まで来ている。
エイルは右へ身体を投げた。
鎧猪も追って進路を変える。
その右前脚が、窪みの縁へ乗った。
「《衝撃》!」
エイルは地面へ掌を向けた。
バンッ、と乾いた音が響く。
土が弾けた。
大きく崩れたわけではない。
ほんの少し。
だが、全速力で走る鎧猪には充分だった。
右前脚が沈んだ。
巨体が傾く。
鎧猪が吠えた。
そのまま斜面へ横倒しになり、地面を削りながら滑っていく。
最後に肩から木へ激突した。
「……!」
今なら逃げられる。
エイルは荷物を見た。
鎧猪はまだ立てない。
走れば取れる。
そこから森へ入ればいい。
一歩。
エイルの足が動いた。
そして止まる。
鎧猪が起き上がろうとしていた。
右前脚を庇っている。
折れてはいない。
だが、明らかに傷めた。
「……」
エイルはその姿を見つめた。
逃げられる。
多分。
なのに。
頭の中に別の考えが浮かんでいた。
今なら。
倒せるかもしれない。
「……何を考えてるんだ」
自分へ言う。
逃げると決めた。
それが正しい。
鎧猪は自分より強い。
わざわざ戦う理由など何もない。
それなのに、剣を握る手は緩まなかった。
倒せるかもしれない。
そう思ってしまった。
そして。
ここで逃げたら。
次に同じような相手と出会った時も、また逃げるしかない。
エイルは眉を寄せた。
「……馬鹿だな」
自分でも分かっている。
それでも視線は鎧猪から離れなかった。
右前脚。
庇っている。
頭と肩は硬い。
腹には甲殻がない。
剣を入れるなら、そこ。
ただし近づけば牙がある。
どうする。
鎧猪が立ち上がった。
傷めた右前脚を地面につく。
僅かに巨体が傾いた。
エイルは剣を構え直した。
「一回だけ」
それで駄目なら逃げる。
自分へ言い聞かせるように呟いた。
鎧猪が吠える。
四度目の突進。
明らかに速度が落ちている。
それでも充分に速い。
エイルは動かなかった。
見る。
脚。
牙。
頭。
肩。
身体の傾き。
《危機感知》がざわつく。
まだ。
鎧猪が迫る。
まだ。
牙が大きく見える。
身体の奥が逃げろと叫んでいる。
――今。
エイルは左へ踏み出した。
鎧猪もそちらへ進路を変えようとする。
傷めた右前脚へ体重が乗る。
身体が僅かに沈んだ。
その瞬間。
「――《衝撃》」
右足の後方へ魔力を放つ。
ドンッ!
反作用で、エイルの身体が一気に前へ押し出された。
速すぎる。
視界が流れた。
「っ!」
姿勢を保つだけで精一杯だった。
それでも剣は離さない。
鎧猪の横を抜ける。
腹。
甲殻のない場所。
剣を振る。
刃が毛皮を裂いた。
血が飛ぶ。
浅い。
「足りない……!」
身体は既に鎧猪の横を通り過ぎている。
鎧猪が急旋回した。
牙が来る。
《危機感知》が強く反応する。
分かっている。
分かっているのに。
身体が追いつかない。
「っ!」
エイルは咄嗟に剣を立てた。
牙が刃へ当たる。
凄まじい衝撃。
「ぐっ……!」
身体ごと弾き飛ばされた。
地面へ落ち、二度転がる。
右腕が痺れていた。
指先の感覚が薄い。
剣は。
ある。
まだ握っている。
「痛……」
立たなければならない。
鎧猪が来る。
エイルは片膝をついた。
息が苦しい。
今のは真正面から受けたわけではない。
牙の軌道を、剣で僅かに逸らしただけだ。
それでもこれほどの差がある。
力が違いすぎる。
正面から勝つのは無理だ。
「なら……」
正面から戦わなければいい。
最初から分かっていたことだ。
問題は、どうやって剣を深く通すか。
《衝撃》。
足へ使えば、瞬間的に身体を加速させられる。
地面へ使えば、足場を崩せる。
木へ使えば、自分を押し返せる。
なら。
剣に使えば。
そこまで考えた瞬間、鎧猪が来た。
エイルは横へ逃げる。
負傷した脚のせいで、先ほどより遅い。
今度は余裕を持って避けられた。
すれ違いざまに剣を振る。
また浅い。
斬れる。
傷はつく。
だが、倒せるほどではない。
鎧猪が振り返る。
エイルも振り返った。
肩で息をしている。
腕も痛い。
腹の奥が気持ち悪い。
もう逃げてもいい。
むしろ逃げた方がいい。
それでも目だけは鎧猪を追っていた。
エイルは剣へ魔力を流してみる。
《衝撃》は、触れているものへ瞬間的な力を加える魔法だ。
なら。
刃が食い込んだ瞬間に発動させれば。
「……できるかな」
試したことなどない。
当然だった。
そもそもエイルが《衝撃》を覚えたのは、倒木を動かす時に便利だと聞いたからだ。
戦闘用として覚えたわけではない。
まして剣に使う魔法でもない。
だが。
理屈では、できる。
鎧猪が地面を蹴った。
エイルは小さく息を吐く。
「来い」
怖さが消えたわけではない。
手もまだ震えている。
けれど、やるべきことが決まった。
それだけで頭の中が静かになった。
突進。
右前脚。
沈む。
そこへ合わせて動く。
「《衝撃》」
足元で魔力が弾ける。
身体が前へ滑る。
鎧猪の牙の内側。
腹の下。
エイルは剣を振らなかった。
両手で握り。
突き込む。
「っ……!」
刃が入る。
だが、浅い。
毛皮と筋肉の抵抗で止まる。
ここから。
柄を握った手へ魔力を集める。
刃の先ではない。
剣そのものへ。
「――《衝撃》!」
魔力が弾けた。
ドンッ!!
手の中で爆発したような衝撃。
剣身が一気に沈んだ。
鎧猪が絶叫した。
「っ……!」
エイルも歯を食いしばる。
反動が腕へ返ってきた。
手首が軋む。
肩まで痺れる。
それでも剣を離さない。
鎧猪が暴れた。
巨体が大きく捻れる。
まずい。
抜く。
抜けない。
「こんな時に……!」
鎧猪の頭がこちらを向いた。
牙が来る。
エイルは剣を諦めた。
柄から手を離し、後方へ跳ぶ。
湾曲した牙が腹の前を掠めた。
服が裂ける。
「っ……!」
熱。
腹に一本、浅い傷が走った。
エイルは数歩下がる。
鎧猪も前へ出た。
一歩。
もう一歩。
腹には剣が突き刺さったままだ。
傷口から血が流れ落ちている。
そして。
鎧猪の前脚が折れた。
巨体が地面へ沈む。
エイルは動かなかった。
剣はない。
近づくこともできない。
息を殺して見守る。
鎧猪が荒い呼吸を繰り返していた。
まだ生きている。
エイルは待った。
一分。
二分。
酷く長く感じた。
やがて呼吸が弱くなる。
最後に一度、巨体が震えた。
それきり。
動かなくなった。
「……」
エイルはしばらく立ったままだった。
本当に死んだのか。
《危機感知》に反応はない。
それでもすぐには近づかなかった。
落ちていた枝を拾う。
少し距離を取りながら、鎧猪の身体を突く。
反応はない。
もう一度。
動かない。
「……勝った?」
自分で口にしても、実感が湧かなかった。
剣を回収しようと一歩踏み出す。
その瞬間。
足から力が抜けた。
エイルはその場へ座り込んだ。
「……怖かった」
呟いた途端。
身体が震え始めた。
手。
肩。
脚。
呼吸も上手く整わない。
戦っている間は、震える余裕すらなかっただけらしい。
エイルは膝へ額をつけた。
「死ぬかと思った……」
実際、何度か死にかけた。
逃げればよかった。
途中までは逃げるつもりだった。
なのに、自分から引き返した。
「次は……ちゃんと逃げよう」
反省する。
少なくとも、その時のエイルは本気だった。
しばらくして。
息が少し落ち着いた頃。
視界の端に淡い光が浮かんでいることへ気づいた。
半透明の文字。
【レベルが上昇しました】
エイルはぼんやりとその表示を見る。
【Lv.3 → Lv.6】
「……三つ?」
疲れ切っていた頭が、少しだけ動いた。
一度の戦いで三つ。
そんなに上がるものなのだろうか。
少なくとも村で聞いた話とは違う。
表示はまだ続いた。
【《剣術》Lv.2 → Lv.3】
【《危機感知》Lv.4 → Lv.6】
【《衝撃》Lv.1 → Lv.2】
【《魔力操作》Lv.1を獲得しました】
「……」
エイルは瞬きをした。
多い。
それが普通なのかどうか判断できるほど、他人の成長を見たことはない。
だが、何となく。
普通ではない気がした。
そして最後。
見慣れた名前が浮かぶ。
【固有技能《越境》の条件を満たしました】
【《越境》Lv.1 → Lv.2】
エイルは少しだけ姿勢を正した。
意識を向ける。
【《越境》Lv.2】
【自己の能力を大きく上回る困難を克服した際、成長に補正を得る】
以前より、説明が僅かに増えている。
「大きく上回る……」
エイルは倒れた鎧猪を見る。
そこに疑問はなかった。
間違いなく、自分より強かった。
何も考えず正面から戦っていれば、地面へ転がっていたのは自分の方だ。
エイルは半透明の文字を見つめる。
《越境》。
十五歳で状態板が開いた時から存在していた、唯一の固有技能。
今まで発動したという実感はほとんどなかった。
山を登った時。
少し危険な獣から逃げ切った時。
以前より身体が軽くなったような気がしたことはある。
技能が伸びやすいと感じたこともあった。
けれど。
「……こんなに?」
自分の状態板を開く。
いくつもの数字が並んだ。
以前の数値を一つ一つ覚えているわけではない。
それでも分かる。
明らかに上がっている。
特に感知。
敏捷。
魔力。
鎧猪との戦いで何度も使った能力ほど、大きく伸びていた。
「これ……」
思っていたより、ずっと強い技能なのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
だが。
エイルはしばらく状態板を見つめた後、静かに閉じた。
「……今はいいか」
眠い。
身体中が痛い。
腹も減った。
技能について考えるのは、明るくなってからでも遅くない。
まずは傷の手当て。
それから剣を抜く。
消えた焚き火もどうにかしなければならない。
荷物も確認する必要がある。
やることはいくらでもあった。
エイルはゆっくり立ち上がる。
そこで。
鎧猪の向こう側へ視線を向けた。
森の中。
二頭の子供が、まだこちらを見ていた。
「……」
エイルは何も言えなかった。
親を殺した。
襲われたからだ。
こちらも死にかけた。
戦わなければ、自分が死んでいたかもしれない。
頭では分かっている。
それでも、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。
勝った嬉しさはある。
生き残った安堵もある。
そのどちらとも違うものが、胸の奥に少しだけ残っていた。
「……ごめん」
小さく呟く。
当然、言葉は通じない。
二頭はしばらくこちらを見ていた。
やがて一頭が動く。
もう一頭も続き、木々の奥へ消えていった。
エイルはその姿が見えなくなるまで見送った。
それから荷物を拾う。
今夜、ここで野営を続ける気にはなれなかった。
血の臭いも強い。
このままでは、別の魔物が寄ってくるかもしれない。
少しでも離れた方がいい。
鎧猪の腹から剣を引き抜く。
思った以上に力が必要だった。
血を布で拭い、鞘へ戻す。
肩に荷物を背負った。
歩き出す前。
エイルはもう一度だけ鎧猪を振り返った。
怖かった。
強かった。
何度も逃げたいと思った。
それでも。
勝った。
そして。
確かに強くなった。
胸の奥に、小さな熱が残っている。
もっと強くなれば。
もっと遠くへ行ける。
今はまだ行けない場所にも。
地図の、もっと先にも。
「……行こう」
エイルは夜の街道へ戻った。
木々の隙間から見える空には、数え切れない星が瞬いていた。
そのどれもが、まだ知らない場所まで続いているように見えた。




