第1話 地図の白い場所
エイル・アーネットは、地図の白い場所が好きだった。
山脈の向こう。
海の彼方。
森が途切れた、その先。
測量もされていなければ、街道も引かれていない。村の名前も、川の名前もない。ただ羊皮紙の色だけが残された場所を眺めていると、どうしても胸の奥が落ち着かなくなる。
何があるのだろう、と思う。
昔から、それだけだった。
「また見てるのか」
声をかけられて、エイルは顔を上げた。
村の外れ。低い石壁に腰掛けた彼の隣へ、荷車を引いていた老人が歩いてくる。
エイルは膝の上の地図を少し畳んだ。
「暇だったので」
「出発前に地図眺めてる奴があるか。忘れ物でも確認してこい」
「三回しました」
「なら四回やれ」
「それはもう、忘れ物を探すために荷物をひっくり返すことになりませんか」
老人が鼻を鳴らした。
エイルは小さく笑い、もう一度地図へ目を落とす。
北東。
天嶺山脈。
王国の地図では、その名が記された最後の場所だった。
幾重にも連なる峰。
一年の大半を雪に閉ざされ、山麓には大型の魔物が跋扈する。過去に幾度も調査隊が送られたらしいが、山脈を完全に越えたという記録は残っていない。
その向こうは白い。
「本当に行くつもりなのか」
老人が地図を覗き込む。
「どこまでです?」
「知らん。お前の頭の中にあるところまでだ」
エイルは少し考えた。
「とりあえず、ローデンまで」
「そういう話じゃない」
「分かってます」
畳んだ地図を革袋へしまう。
村を出るのは、今日が初めてではない。
山へ入ったこともある。近隣の町まで荷物を届けたこともある。森の向こうの川まで一人で行ったことだってあった。
だが、帰る日を決めずに出るのは初めてだった。
十六歳。
去年、十五歳を迎えた時に状態板が開いた。
それを機に冒険者になる者は珍しくない。
エイルも同じだ。
違うとすれば、冒険者になりたい理由が、討伐でも名声でも金でもなかったことくらいだろう。
「まあ、生きて帰ってこい」
「はい」
「危なそうなら逃げろ」
「そうします」
「お前はそう言って、妙なところに首を突っ込む」
「……そうでしたっけ」
「覚えてないなら余計に駄目だな」
老人が呆れたように笑う。
エイルも笑った。
名残惜しくないわけではない。
生まれてから十六年暮らした村だ。
知っている顔ばかりで、道も畑も、どこに大きな石が埋まっているかさえ分かる。
それでも。
村の外へ続く街道を見ると、足がそちらへ向いた。
「行ってきます」
「ああ」
それだけ言って、エイルは歩き出した。
◇
春の街道は歩きやすかった。
冬の雪解けも終わり、泥濘もほとんど残っていない。
緩い丘陵の間を土の道が延びている。左右には草原が広がり、その向こうに小さな森が点々と見えた。
エイルは背負い袋の紐を直しながら歩く。
荷物は多くない。
着替え。
保存食。
水筒。
火起こしの道具。
毛布。
細い縄。
簡単な薬。
腰には一本の剣。
村の鍛冶屋から安く譲ってもらった、何の変哲もない片手剣だ。
重すぎず、軽すぎず。
今のエイルにはそれで充分だった。
「……暑いな」
昼前には上着を一枚脱いだ。
木陰を見つけて休み、水を飲む。
街道沿いには時々、古い道標が立っている。
ローデンまで四十八キロ。
朝からそれなりに歩いたつもりだったが、まだ先は長い。
エイルは道標を見上げてから、自分の足を見る。
「今日中は無理か」
出発前は届くような気がしていた。
どうやら少し甘かったらしい。
別に急ぐ理由もない。
日暮れ前に野営場所を探せばいい。
そう決めると、気持ちが軽くなった。
再び歩き出してしばらくすると、後ろから車輪の音がした。
道の端へ寄る。
二頭立ての荷馬車だった。
御者台に座った中年男が、エイルの横を通り過ぎる時にちらりとこちらを見る。
十数メートルほど進んだところで、馬車が止まった。
「坊主」
呼ばれて、エイルは足を止める。
「ローデンか?」
「はい」
「乗ってくか。日暮れ前には着くぞ」
「あ……」
一瞬迷った。
ありがたい。
非常にありがたい。
足も少し疲れている。
だが。
「すみません。歩いていきます」
御者が妙な顔をした。
「金はいらねえぞ」
「いえ、そうじゃなくて」
エイルは少し言葉を探す。
「初めてなので、歩いてみたくて」
「……ローデンまでを?」
「はい」
御者はしばらくエイルを見たあと、肩を揺らして笑った。
「変わった坊主だな」
「よく言われます」
「暗くなる前に寝床探せよ。この辺でも夜は魔物が出る」
「ありがとうございます」
「死ぬなよ」
荷馬車が走り出す。
エイルはその後ろ姿を眺めた。
少しだけ後悔した。
「乗ればよかったかな……」
ぽつりと呟く。
もう遅い。
それに、歩きたかったのも本当だった。
風の匂いも。
遠くに見える森も。
村では見たことのない黄色い花も。
全部、自分の足で来たから目に入った気がする。
エイルは再び歩き出した。
◇
日が傾き始めた頃、街道から少し離れた場所に小川を見つけた。
周囲には背の低い木が多く、風も弱い。
地面も平らだ。
「ここでいいか」
独り言が増えていることに、本人は気づいていない。
荷物を下ろし、まず周囲を歩く。
獣の糞。
大きな足跡。
折れた枝。
そういったものがないか確認する。
村の猟師に何度も叩き込まれた。
一人で寝るなら、寝る前の方が大事だ。
眠ってから気づいても遅い。
少し離れた木の根元で、小さな蹄の跡を見つけた。
鹿か、その類だろう。
新しくはない。
問題なさそうだった。
小川で水を汲み、簡単な焚き火を作る。
火が安定したところで、固いパンと干し肉を取り出した。
「……昨日もこれだったな」
旅立ちだからと母が少しくらい豪華なものを持たせてくれるのでは、と期待していた。
甘かった。
『腐らないものが一番』
正論だった。
非常に正しい。
正しいが、二日連続の干し肉は干し肉である。
エイルは少し水に浸したパンを齧った。
「ローデンに着いたら、温かいもの食べよう」
決意する。
金はあまりない。
それでも一食くらいはいいだろう。
食事を済ませると、火のそばに座って革袋から地図を取り出した。
昼間も見た。
昨日も見た。
その前の日も見た。
それでも開く。
ローデンは、王国の北寄りにある地方都市だ。
そこからさらに北へ進めば、大森林。
西へ行けば山岳地帯。
東なら、いくつもの都市を越えた先に王都がある。
その全てを越えて、さらにずっと先。
天嶺山脈。
エイルの指先が、地図の白い部分に触れた。
今いる場所からすれば、気の遠くなるような距離だ。
今すぐ行ったところで、山麓にすら辿り着けないかもしれない。
魔物もいる。
金もいる。
装備もいる。
何より、今の自分では弱い。
それくらいはエイルにも分かっていた。
だから冒険者になる。
依頼を受ける。
金を稼ぐ。
色々な場所へ行く。
強くなる。
そうして、いつか。
「……見たいな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
白い場所の先を。
何もないなら、それでもいい。
本当に世界がそこで終わっているのなら、その景色を見てみたい。
エイルは地図を閉じた。
焚き火に枝を一本足す。
ぱち、と火の粉が飛んだ。
その時だった。
エイルの顔から、僅かに力が抜けた。
「……?」
何か。
はっきりしたものではない。
音も聞こえなかった。
視界に動くものもない。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
エイルは火を見たまま動かない。
しばらくして、右側の森へ視線を向ける。
暗い。
まだ完全な夜ではないが、木々の奥までは見通せない。
「……気のせいかな」
そう呟く。
けれど立ち上がった。
剣も手元へ寄せる。
こういう時、自分の感覚を無視していい思いをしたことがない。
去年、状態板が開いた時。
エイルには《危機感知》という技能があった。
珍しいものではないらしい。
猟師や冒険者なら持っている者も多い。
ただ、エイルの場合はステータスが現れるより前から、似たような感覚があった。
崖から石が落ちてくる前。
蛇が草むらにいる時。
山で獣に見られている時。
理由は分からない。
何となく嫌だと思った方向から、本当に何かが来る。
だから今も無視しない。
「……」
風が吹いた。
葉が擦れる。
それだけ。
エイルは数秒待った。
何も起こらない。
「考えすぎか」
少しだけ息を吐く。
座ろうとした。
その瞬間。
ぞくり、と。
首筋が冷えた。
さっきより強い。
エイルは剣を掴んだ。
森を見る。
暗がりの中。
二本の木の間で、何かが動いた。
低い。
人ではない。
獣にしては、大きい。
「……参ったな」
エイルは小さく呟いた。
怖くないわけではなかった。
むしろ、帰りたくなった。
まだ村を出て一日目だ。
初めての野営くらい、もう少し静かに終わってほしかった。
けれど、森の中の何かはこちらを見ている。
逃げるなら、荷物を捨てる必要がある。
それでも逃げ切れるかは分からない。
エイルはゆっくり立ち上がった。
鞘から剣を抜く。
焚き火の向こう。
木々の隙間から、土色の巨大な頭が現れた。
額から肩までを覆う灰色の甲殻。
大きく湾曲した二本の牙。
鼻から吐き出された息が、白く夜気へ溶けた。
エイルはそれを見上げた。
知っている。
本で見たことがある。
鎧猪。
確か、駆け出しが一人で戦っていい魔物ではなかったはずだ。
「……本当に?」
誰に問いかけたわけでもない。
鎧猪が一歩、前へ出る。
地面が僅かに鳴った。
エイルは剣を握り直した。
初めての旅は、どうやら思っていたほど穏やかには始まってくれないらしい。




