第21話 帰る前に
翌朝、エイルが《山鳩亭》の食堂へ降りると、レナたちはすでに奥の席に集まっていた。
卓上には朝食と一緒に、昨日仕留めた三角狼の素材を売却した際の明細が置かれている。
「ちょうどよかった。分配するよ」
レナに呼ばれ、エイルも空いている椅子へ座った。
三角狼を含む角狼の素材は、昨夜のうちにベルクのギルドへ預けてある。毛皮や魔石、牙などはそのまま売却し、四人で分配することになったらしい。
「それで、これ」
レナが卓上から一本の角を持ち上げた。
三角狼の額から伸びていた三本のうち、右側に生えていた小角だった。小角といってもエイルの前腕ほどあり、根元には青黒い筋が走っている。
「もらっていいんですか?」
「エイル、欲しがってたでしょ。中央の大角は結構な値段になるから売却したけど、こっちなら取り分から差し引いても問題ないって」
明細を見ると、角の評価額を引いた分だけエイルの現金取り分が減らされている。
「ありがとうございます」
「礼ならドガンとシードにもね」
「俺は金になりゃどっちでもいい」
「俺も」
二人とも特に異論はないらしい。
エイルは角を持ち上げてみた。見た目より軽いが、指先へ僅かに魔力を感じる。
青鋼短剣ほど素直ではないものの、何かが内部へ蓄えられているような感覚だった。
「剣に使えるといいですね」
「まだ本当に使うつもりだったんだ」
「そのためにもらったので」
レナが呆れたように笑う。
実際に使えるかはグレイグへ見せなければ分からない。ただ、こうして旅先で一つずつ素材を持ち帰るのは悪くなかった。
全部を店で買って揃えるよりも、ずっと自分の剣らしくなる気がする。
朝食を済ませると、レナたちは今日の昼前にベルクを出ると言った。
「ローデンへ戻るんですよね?」
「うん。帰りは護衛依頼じゃないけど、ちょうど戻る商隊に同行させてもらえることになったから」
「僕も行っていいですか?」
「もちろん。向こうも昨日の護衛がそのまま付いてくるなら歓迎だって」
エイルもローデンへは戻る必要がある。
ギルドから話があるうえ、《赤炉》にも三角狼の角を持っていきたい。
それに、ローデンへ置いてきた荷物もあった。
ただ、出発までにはまだ時間がある。
「じゃあ、ちょっと出てきます」
「地図屋?」
「はい」
「昨日行ったよね?」
「聞き忘れたことがあるので」
レナはもう止めなかった。
◇
昨日の地図屋へ入ると、店主の女性は同じ机で紙を修復していた。
「また来たのかい」
「昨日聞き忘れました」
「何を?」
「アルネアのことです」
女性は手を止めてエイルを見ると、小さく息を吐いた。
「やっぱり気になったか」
「地図も買ったので」
「買ったから行く、じゃなくて、行きたいから買ったんだろう?」
「そうです」
「なら同じだね」
店主は壁際の棚から一枚の古い地図を抜き、机へ広げた。
昨日買ったアルネア周辺図より古い。
ベルクから北西へ分かれる旧街道が今より太く描かれ、その終点近くに《アルネア》と記されている。
さらに町の西側。
山肌へ何本もの細い線が伸びていた。
「鉱山ですか?」
「昔はね。この辺りじゃそこそこ名の知れた鉱山町だった。鉄、青銀、それから少量の魔鉄も出たらしい」
「魔鉄」
思わず地図へ身を寄せる。
グレイグから聞いた素材の一つだ。
「今も採れます?」
「期待しない方がいいよ。主要坑道は二十年近く前に閉じてる。掘りやすい場所を採り尽くして、残った鉱脈も細くなったからね」
「じゃあ、今は何で町が残ってるんですか?」
「山仕事の人間と、薬草採り、それに古い坑道へ入る冒険者が少し」
エイルの視線が止まる。
「入れるんですか?」
「全部じゃない。一部は魔物が住み着いて、ギルド管理の探索地になってるよ」
「迷宮?」
「迷宮化した場所もあるって話だね。ただ、青晶洞みたいに町の主産業になるほどじゃない」
それだけでも十分だった。
古い鉱山。
使われなくなった道。
魔物が入り込んだ坑道。
さらに魔鉄の採掘記録まである。
エイルは地図を見ながら尋ねた。
「ベルクから何日くらいですか?」
「今の道なら一日半。ただし古い街道は整備されてないから、雨の後はもっとかかる」
「宿は?」
「ある。食事もできる。ただ、大きな町を想像しない方がいいね」
旅をするには十分だ。
「冒険者ギルドも?」
「出張所程度なら。大きな依頼はベルクかローデンへ回されるよ」
エイルは頷きながら地図を見る。
アルネアへ向かう道は、昨日見た分岐から始まっている。
まだ自分が歩いていない線。
しかも、その先にはさらに山が続いていた。
「行くつもりかい?」
「一度ローデンへ戻ります。その後は……」
言いながら、答えはほとんど決まっていた。
「多分、来ます」
「その顔なら来るだろうね」
店主は机の引き出しを開け、一枚の小さな紙を取り出した。
「持っていきな」
「何ですか?」
「アルネアの古い坑道配置図の写し。全部じゃないし、今も通れる保証はないけど」
「もらっていいんですか?」
「昨日あれだけ買った客へのおまけさ」
エイルは受け取った。
小さな紙の中に、坑道の線が蜘蛛の巣のように伸びている。
途中から途切れている線も多い。
「ありがとうございます」
「坑道へ行くなら現地で最新情報を聞きなよ。その地図は二十四年前のものだから」
「分かりました」
古い。
だからこそ。
今とは違う場所があるかもしれない。
紙を地図筒へ大切にしまい、エイルは店を出た。
◇
昼前には、ローデンへ戻る荷馬車がベルクの南門を出た。
今回は正式な護衛ではないため、エイルたちは荷馬車と一定の距離を保ちながら気楽に歩いている。
昨日と同じ道でも、進む方向が逆になるだけで景色は少し違って見えた。
エイルは新しく買った山麓図を時々確認しつつ、道標や小さな脇道の位置を書き足していく。
「仕事じゃないのにやるんだ」
レナが横から地図を覗いた。
「忘れるので」
「何を?」
「ここに道があったこと」
「それ全部覚えるつもり?」
「できるだけ」
レナは少し笑って前へ戻った。
昨日、三角狼と戦った場所を通った時には、街道脇にまだ血の跡が残っていた。
エイルは足を止めずにその場所を見る。
あの時。
自分は三角狼の突進へ追いついた。
今思えば、少し前の自分にはできなかった動きだった。
試しに走ってみたくなる。
だが荷馬車の横で急加速する意味もないため、歩きながら足元へごく小さな《衝撃》だけを流した。
魔力。
押し出す方向。
強さ。
昨日より、また少し感覚が軽い。
以前は発動するたびに一つずつ意識していたものが、今は歩く動作の中へ自然に混ざり始めている。
「……」
もう一度。
今度は衝撃を出さず、魔力だけを足元へ送って止める。
それから進行方向を変え、再び戻す。
無駄が減っている。
「何してるの?」
レナだった。
「魔力操作の練習です」
「歩きながら?」
「暇なので」
「護衛じゃないと急に自由だね」
「今は守るものないですから」
「荷馬車はあるよ」
「依頼じゃないです」
「そういう問題かな……」
エイルは少し考えたが、練習は続けた。
◇
午後。
街道を進んでいると、少し先から冒険者らしい三人組が歩いてきた。
軽く挨拶を交わしてすれ違う。
その直後。
「……?」
エイルが振り返った。
気配。
三人。
それは普通。
ただ。
さらに奥。
林の向こう。
一つ。
人ではない。
それほど強い反応でもない。
「何かいるな」
立ち止まる。
レナたちも気づいてこちらを見る。
「魔物?」
「多分。林の奥です」
「街道には出てきそう?」
少し意識を広げる。
反応は動いていない。
「今のところは」
「じゃあ行こ。向こうもこっちに用がないならそれでいい」
「はい」
そのまま歩き出す。
それだけだった。
以前なら、正体が気になって林へ視線を向け続けていたかもしれない。
今でも気にはなる。
けれど、全てを確認しなければ先へ進めないわけではない。
行きたいところは、もう十分すぎるほどある。
◇
その日の野営は、行きと同じ場所になった。
夕食後。
ドガンとシードが三角狼の売却金を確認している横で、エイルは一本の角を布へ包み直していた。
「そんな大事にするほどか?」
ドガンが聞く。
「折れたら困るので」
「角だぞ。そう簡単に折れねえよ」
「剣に使うかもしれないので」
「まだ言ってんのか」
「使えなかったら売ります」
「多分売らねえ顔してるぞ」
エイルは否定しなかった。
使えないなら。
別の使い道を探すかもしれない。
グレイグに見せれば何か分かる。
「新しい剣、いつできるの?」
レナが聞く。
「分かりません。素材も全然ないので」
「今の剣じゃ駄目?」
「今は使えます。でも、少し前に中が傷んでました」
「いつ買った剣?」
「ローデンに来てからです」
「……まだ十日も経ってなくない?」
「多分」
レナがエイルの腰の長剣を見る。
「何したらそんなに早く傷むの?」
「色々」
「便利な言葉だね、それ」
実際、説明すると長くなる。
硬い魔物を斬り、《衝撃》を通し、急激に伸びた身体で振っていた。
どれか一つが原因ではない。
ただ。
自分が強くなるなら。
今の剣では足りなくなる。
「次は長く使えるといいね」
「多分、また作り直します」
「もう壊す前提なんだ」
「そうじゃなくて」
エイルは少し考えてから、布に包んだ角を見る。
「旅しながら素材を足していけたらいいなって」
「素材を?」
「今よりいいものを見つけたら、また打ち直すんです」
レナは少し意外そうに瞬いた。
「それ、いいね」
「ですよね」
「最初の剣が最後には全然別物になってそうだけど」
確かにそうかもしれない。
刀身が変わり。
素材が増え。
柄まで交換したら。
最初の部分はほとんど残らない可能性もある。
それでも。
「同じ剣だと思います」
「何で?」
「僕がずっと使ってたら」
レナは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「そっか」
それ以上は続かなかった。
◇
翌日の昼過ぎ。
ローデンの外壁が見えた。
数日ぶり。
本当に数日しか離れていないのに、門が見えた瞬間には妙な安心感があった。
「帰ってきたな」
シードが言う。
「はい」
「どうだった、初めての遠出」
エイルは少し考える。
ベルク。
地図屋。
山。
アルネア。
使われなくなった街道。
三角狼。
夜の野営。
「行きたい場所が増えました」
「聞いた俺が悪かった」
シードが笑う。
門をくぐると、見慣れ始めた街並みが広がった。
最初に来た時は何も知らなかった場所。
今は宿も。
ギルドも。
鍛冶屋も。
地図屋も知っている。
ほんの少しだけ。
帰ってきた、と思った。
◇
冒険者ギルドへ入ると、ミレイは受付からすぐにエイルを見つけた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「護衛報告はベルクから届いています。三角狼まで出たそうですね」
「出ました」
「無事なら十分です」
ミレイはそう言って冒険者証を受け取ると、依頼完遂の記録を確認した。
そのまま奥へ目を向ける。
「それと、支部長補佐がお待ちです」
「やっぱりですか」
「心当たりが?」
「ベルクで聞きました」
「では二階へどうぞ」
エイルは少しだけ足を止めた。
「今から?」
「今からです」
「先に鍛冶屋へ――」
「角は逃げませんよ」
「……それもそうですね」
反論できなかった。
二階へ上がる。
案内されたのは、資料室とは反対側にある小さな応接室だった。
扉を開けると、一人の男が机の向こうに座っている。
四十代ほど。
短く整えた茶髪。
派手さのない紺色の上着。
机には何枚もの報告書が重ねられていた。
「エイル・アーネットだな」
「はい」
「座ってくれ」
促されるまま椅子へ座る。
男は一番上の報告書を持ち上げた。
「俺はローデン支部長補佐のバルガスだ。早速だが、君のここ十日ほどの記録を確認した」
十日。
言われてみれば。
まだ、それくらいしか経っていない。
「F級登録」
一枚。
「青露草採取。旧道調査。棘狼の生息域報告」
次。
「特例試験を経てE級昇格」
さらに。
「青晶洞新規区画発見。守護体討伐。第二層南区画の地図更新」
そして最後。
「商隊護衛。三角狼を含む群れとの交戦。依頼人からの評価も問題なし」
バルガスが紙を置いた。
「正直、俺も最初は記録の日付を疑った」
「僕も最近ちょっと思います」
「本人が言うのか」
僅かに笑ってから、男は一枚の紙をエイルの前へ滑らせた。
「本来なら早すぎる」
紙の上部。
そこには。
【D級昇格審査】
と書かれていた。
エイルは文字を見つめる。
「ただ、F級やE級に置いておく理由も薄くなってきた」
「……もうD級ですか?」
「まだ決定ではない。だが支部として、審査に上げる」
D級。
青晶洞のより深い階層。
崩落した旧経路。
受けられる探索依頼。
そして。
もっと遠く。
エイルの頭に浮かんだものを見透かしたわけではないだろうが、バルガスが続けた。
「君の場合、昇格した方が行動範囲はかなり広がる」
エイルは紙から顔を上げた。
「審査って、何をするんですか?」
「今回は試験を追加する予定はない」
「ない?」
「もう材料が揃っているからだ」
バルガスは報告書の束を指で叩いた。
「戦闘、探索、護衛、野営、情報提出。短期間とはいえ、必要なものは一通り実地で確認できている」
エイルは少しだけ驚いた。
前回。
E級へ上がる時は試験を受けた。
今回は。
普段やっていたことが、そのまま審査になっている。
「明日、正式に決裁を回す。問題がなければ数日以内にはD級だ」
「数日……」
思っていたより早い。
それでも。
エイルの中に以前ほどの戸惑いはなかった。
行ける場所が増える。
それなら。
「お願いします」
「随分あっさりしてるな」
「D級なら行ける場所が増えるので」
「やっぱりそっちか」
バルガスが苦笑する。
「ひとつだけ言っておく。D級からは依頼の範囲が一気に広がる。街の近場だけじゃなく、複数日の探索や他地域への護衛、迷宮中層も普通に入ってくる」
「はい」
「好きそうだな」
「かなり」
今度は隠す必要もなかった。
バルガスは少し笑い、書類をまとめた。
「なら、次にどこへ行くかくらい考えておけ」
「もうあります」
「早いな」
「アルネアに行こうと思ってます」
バルガスの手が止まった。
「……あの旧鉱山町か」
「知ってるんですか?」
「当然だ。ローデン支部の管轄外ではあるが、記録は来る」
「何かあるんですか?」
「何もない町なら、今も地図に名前は残らんよ」
バルガスは机の端にあった地図を引き寄せ、北西へ指を滑らせた。
ベルク。
その先。
古い街道。
アルネア。
「行くなら、ベルクで最新情報を集めてからにしろ。古い鉱山は道も坑道も変わる」
「分かりました」
「それと」
指がアルネアの西側で止まった。
「さらに先へ進むなら、そこから山地が始まる」
地図。
まだ自分が歩いていない場所。
その先に続く山。
エイルは小さく息を吸った。
「……いいですね」
「何がだ」
「ちゃんと先があるので」
バルガスは呆れたような顔をした。
エイルは気にしなかった。
ローデンへ帰ってきたばかりだというのに。
もう。
次に出ていく道が見えていた。




