第20話 地図の端の町
翌朝、エイルが目を覚ました時には、焚き火の跡から細い煙が上がっていた。
見張りを交代したあと数時間は眠れたらしく、身体に重さはほとんどない。昨日三角狼の尾を受けた腕には軽い痛みが残っているものの、動かす分には問題なかった。
外套を羽織って立ち上がると、すでにドガンが馬の状態を確認し、シードは荷車の車輪を見ている。商隊の人間たちも手早く荷物を整えており、旅の朝は思っていたより慌ただしい。
「おはよう」
「おはようございます」
レナから渡された湯気の立つ器を受け取る。
中身は昨日の豆と肉の残りを薄く煮直したものだった。
「朝から温かいもの食べられるんですね」
「夜営するなら鍋一つくらい持つよ。エイルは普段どうしてるの?」
「パンと干し肉が多いです」
「一人旅っぽい」
「楽なので」
「味は?」
「……そこはあまり考えてませんでした」
レナが少し笑う。
こうして比べてみると、自分の野営は生きるための最低限にかなり寄っていたらしい。
一人ならそれでいい。
けれど長い旅を続けるつもりなら、食事も少しくらい覚えた方がいいのかもしれない。
エイルは温かい朝食を食べながら、そんなことを考えた。
◇
出発して一時間ほどすると、街道は緩やかな丘陵地へ入った。
昨日まで多かった林は減り、代わりに背の低い草原が広がっている。遠くまで見通せるため護衛としては楽だが、エイルの視線はその向こうに連なる山へ何度も向いていた。
青みがかった稜線。
ローデンから見えていたものよりずっと近い。
「ベルクの向こうって、あの山ですか?」
隣を歩いていたシードが頷いた。
「さらに向こうだな。あれはまだ前山。越えた先にも町がいくつかある」
「道は?」
「あるぞ。商人が使う街道もあるし、古い道もある。ただ冬場は通れないところが多い」
エイルは地図筒へ手を伸ばしかけ、護衛中なのを思い出してやめた。
後で見る。
ベルクに着けば、もっと広い地図を買える。
それで十分だった。
昼前には小さな石橋を渡った。
その先で街道が二つに分かれている。
右はベルク。
左はもっと北へ。
分岐の中央に立つ古い道標には、いくつかの地名が刻まれていた。
その一つだけ、エイルの持つ地図には載っていない。
「アルネア?」
「昔の鉱山町だな」
ドガンが答えた。
「今はほとんど使われてない道だ」
「町自体はあるんですか?」
「あるにはあるらしいが、俺は行ったことねえ」
「何で使われなくなったんです?」
「新しい街道ができたとか、鉱山が閉じたとか、その辺じゃなかったか?」
エイルは道標を振り返った。
左へ伸びる道は、少し進んだところから草に覆われている。
ローデン西の旧道と似ている。
地図から消えた道。
使われなくなった町。
旅を始めてから、そういうものが妙に目につくようになった。
「また見てる」
レナに言われる。
「道があるので」
「街道なら今歩いてるよ」
「使われてない方です」
「知ってた」
エイルは少しだけ笑い、前へ向き直った。
◇
ベルクが見えたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
ローデンほど大きな街ではない。
高い城壁もなく、町の周囲を低い石壁と木柵が囲んでいる程度だった。
それでも街道沿いには何台もの荷馬車が並び、門前には宿の看板がいくつも見える。
「宿場町って感じですね」
「そのまんまだよ」
レナが答える。
「山側とローデンを行き来する商隊がよく泊まるから、町の大きさの割に宿と倉庫が多いの」
門を通り抜けると、その意味がすぐに分かった。
大通り沿いに並ぶのは、宿屋、酒場、馬小屋、修理屋、荷運び商会。
旅人向けの店ばかりだ。
ローデンより道幅が広く、歩いている人間も冒険者より商人や御者が多い。
「到着だ!」
商隊主の声に、荷馬車の周囲から小さな歓声が上がった。
二日。
短い旅だった。
それでもエイルにとっては、冒険者になって初めて別の町まで人を守って歩いた依頼になる。
指定された商会倉庫まで荷馬車を送り届けると、依頼主が一人ずつ冒険者証を確認し、完遂の印を入れていった。
「助かったよ。昨日の狼どもは、正直どうなることかと思った」
商隊主がエイルを見る。
「荷馬車を守ってくれてありがとう」
「僕だけじゃないです」
「分かってるさ。それでも礼は一人ずつ言うもんだ」
「……ありがとうございます」
言われ慣れていないわけではない。
ただ、こういう形で真正面から感謝されると少し落ち着かなかった。
依頼完遂。
それだけなのに。
悪くない。
◇
ベルクの冒険者ギルドは、ローデン支部の半分ほどの大きさだった。
レナたちが報告をしている間、エイルも自分の冒険者証を出す。
受付の男性が内容を確認し、昨日の戦闘報告へ目を通した。
「三角狼を含む角狼群、か。これはローデンにも共有しておく」
「よく出るんですか?」
「角狼は珍しくないが、三角狼が街道付近まで群れを率いて出るのは少ないな。北側で何か動いてるのかもしれん」
最近。
似た話が多い。
ローデン西では棘狼。
今度は北西街道で角狼の上位個体。
ただ、これだけで何か大きな異変だと決めつけるのは早い。
エイルは場所だけ覚えておくことにした。
「それと、君がエイルか」
「はい」
「ローデンから連絡が来ている。帰ったら支部長補佐と話をしてくれ、だそうだ」
「僕が何かしました?」
「今回の護衛評価も含めて話があるらしい」
何となく察した。
「昇格ですか?」
「そこまでは書いてない」
受付の男性は笑った。
「ただ、E級になったばかりの人間をわざわざ呼ぶ理由は、そう多くないだろうな」
「……早いですね」
「自分で言うか」
エイルとしてもそう思う。
F級になったのが、まだそれほど前ではない。
けれど、ランクが上がれば入れる場所も受けられる依頼も増える。
以前ほど、昇格そのものをどうでもいいとは思わなくなっていた。
数字を上げたいのではない。
数字の向こう側に道がある。
それなら、少し話は違う。
◇
報告が終わったあと、レナたちは宿を探しに向かった。
エイルも一緒に行くつもりだったが、大通りへ出たところで足が止まった。
斜め向かい。
木製の看板。
そこに描かれているのは。
地図。
「……」
レナが数歩進んでから振り返る。
「ああ」
「ちょっと行ってきます」
「やっぱり」
「宿は?」
「《山鳩亭》。大通りを真っ直ぐ行って右」
「分かりました」
エイルはそのまま地図屋へ入った。
◇
店内は狭かった。
ただし壁という壁に地図が掛かっている。
ベルク周辺。
北方街道。
山麓。
鉱山。
河川。
さらに奥には、ローデンの店では見なかった広域図もある。
「……」
エイルは入口で立ち尽くした。
「買わないなら塞がないでくれるかい」
奥から声が飛んできた。
「すみません」
慌てて中へ入る。
店主は五十代くらいの女性だった。
片眼鏡をかけ、机の上で古い紙を修復している。
「初めて見る顔だね」
「今日ローデンから来ました」
「冒険者?」
「はい」
「ならこっちの方がいい」
女性は棚から一枚を抜き出した。
【北西街道・山麓広域図】
エイルが持っている地図より、明らかに広い。
ローデン。
ベルク。
その先。
山沿いに三つの町。
さらに西へ向かう街道。
北側には大きな森林。
そして。
地図の左端。
途中から線が急激に減っている。
「……ここから先は?」
「山地だよ」
「地図が少ないです」
「人が少ないからね」
「その向こうは?」
店主が顔を上げた。
「何を探してるんだい」
「まだ知られてない場所です」
少し考えてから。
「最終的には、最果てまで」
女性は片眼鏡越しにエイルを見た。
笑われるかと思った。
だが。
「なら、その地図じゃ小さすぎるね」
「え?」
店主は立ち上がり、奥の棚から筒を一本持ってきた。
広げる。
古い地図だった。
ローデンも。
ベルクも。
ずっと小さい。
山脈。
国境。
海。
見たことのない地名がいくつも並んでいる。
そして西の端。
巨大な山脈。
【天嶺山脈】
その向こう。
白い。
何もない。
エイルの指が止まった。
「……これ」
「古い大陸西部図の写し。今の地図じゃ、もう少し先まで書かれてるけどね」
「越えた人は?」
「いるとも、いないとも言われてる」
「記録は?」
「信頼できるものは少ない」
女性は紙の端を押さえながら続ける。
「天嶺山脈のさらに向こうから来たっていう旅人の話もあるし、山を越えた遠征隊が戻らなかった記録もある。けど、地図として残せるほど確かな情報はほとんどない」
エイルは白い部分を見た。
村で見ていた古地図にも。
似た空白があった。
ただ。
今までより。
少し近く感じる。
まだ遠い。
とても遠い。
ローデンからベルクへ来ただけで、何を言っているのかと思うくらいには。
それでも。
道は続いている。
「この地図、売ってますか?」
「それは見本」
「写しは?」
「あるよ。銀貨十二」
「買います」
「早いね」
「欲しいので」
迷う理由はなかった。
さらにベルク周辺図と山麓街道図も買う。
出費は大きい。
けれど装備を買った時より惜しく感じなかった。
「それと」
エイルは今日見た道標を思い出す。
「アルネアって町、知ってますか?」
店主の手が止まった。
「よくその名前を見たね」
「街道の分岐に道標がありました」
「古い鉱山町さ。町というより、今は集落に近いかもしれない」
「行けます?」
「行ける。ただ、今の主要街道から外れるし、わざわざ向かう人間は少ない」
「地図はありますか?」
店主が少し笑った。
「あるよ」
やはり。
この店は好きだ。
◇
宿へ着く頃には、エイルの地図筒が少し太くなっていた。
「買いすぎじゃない?」
部屋の前で会ったレナに言われる。
「必要なので」
「その量が?」
「はい」
反論する気はなかった。
夕食まで少し時間がある。
部屋へ入ると、エイルは真っ先に机へ地図を広げた。
ローデン。
ベルク。
アルネア。
山麓の町。
さらに遠く。
天嶺山脈。
その先の白。
「……遠いな」
今度は、少し笑いながら言った。
遠い。
だからいい。
すぐ着くような場所なら、こんなに見たくはならなかったかもしれない。
そのまま状態板を開く。
【エイル・アーネット】
【Lv.16】
【生命 94】
【魔力 88】
【筋力 64】
【耐久 62】
【敏捷 93】
【器用 87】
【感知 121】
【技能】
《剣術 Lv.6》
《危機感知 Lv.9》
《野営 Lv.5》
《追跡 Lv.4》
《解体 Lv.5》
《採取 Lv.2》
《採掘 Lv.2》
《衝撃 Lv.7》
《魔力操作 Lv.6》
《気配感知 Lv.3》
《魔力感知 Lv.4》
《地図作成 Lv.2》
《罠察知 Lv.2》
【固有技能】
《越境 Lv.3》
「十六……」
青晶洞へ初めて入った時は十一。
それから、まだ数日しか経っていない。
ステータスも以前より明らかに高い。
特に敏捷と感知。
昨日、三角狼の突進へ追いつけた理由が数字にも表れている。
ただ。
それより目についたのは技能だった。
《剣術 Lv.6》
《衝撃 Lv.7》
《魔力操作 Lv.6》
青晶洞へ入る前より、かなり上がっている。
「これなら……」
新しい長剣。
作る頃には、今考えている形からまた変わっているかもしれない。
グレイグが言っていた。
自分がどう戦うか分からない奴に、良い剣は作れない。
今は。
少しずつ分かってきた。
相手を見る。
危険を先に拾う。
正面から勝てないなら崩す。
必要な時だけ《衝撃》を足し、届かないなら移動にも使う。
それでも。
まだ途中だ。
エイルは状態板を閉じた。
代わりに。
広域図をもう一度見る。
ベルクから先。
知らない町。
山。
使われなくなった道。
そのずっと向こう。
地図の白い場所。
冒険者になってから。
少しずつ、そこへ近づいている。
まだほんの少し。
けれど。
確かに。
エイルは指先でベルクから西へ続く線をなぞった。




