第156話 第55標の先客
第54標を出発してから2時間ほどで、岩の台地は終わった。
西側へ広がっていたのは、記録に残された通りの森林だった。
ただし、その輪郭は絶えず変化している。
高さ50メートルを超える巨木が、地中へ張った根を引き寄せながら、岩盤の上をゆっくりと移動していた。幹そのものが歩くわけではない。進行方向へ新しい根を伸ばし、反対側の根を土から抜くことで、数時間から数日のうちに位置を変えている。
森の外縁では、地面が波のように盛り上がっていた。
太い根が岩盤の下を通るたび、石が押し退けられ、昨日まで存在しなかった小さな尾根が作られる。反対に、巨木が去った場所では支えを失った地面が沈み、深い窪地へ変わっていた。
第55標は、この移動森林帯の手前へ設置されたと記録されている。
しかし70年以上も森が動き続けているなら、今も外側に残っているとは限らない。
エイルは第54標から続く古い方向を確かめ、森の中へ入った。
最初のうちは、木々の間に十分な空間があった。
巨木の幹同士は数十メートルずつ離れ、地面も比較的平らである。太い根を越える必要はあるものの、歩行を妨げるほど密集してはいない。
それでも、真っ直ぐ進むことはできなかった。
前方へ伸びていた道が、数分後には根によって塞がれる。
右へ回ろうとすれば、別の巨木が進路を変え、枝と幹の間隔を狭める。
森はエイルを追い払おうとしているわけではない。
ただ、地形そのものが歩く者の都合とは無関係に変わり続けていた。
エイルは《分岐予見》を使い、数秒先の地形を重ねて捉えた。
左へ進んだ場合。
前方の根が持ち上がり、足場が傾く。
中央を選んだ場合。
右側の巨木が進路へ入り、遠回りになる。
一度下がって高所へ上がれば、2本の根が離れた直後に、短い通路が開く。
確定した未来ではない。
エイルが選ぶ道によって木々へ伝わる振動も変わり、その結果として巨木の動きが僅かに変化する。
それでも、何も見ずに進むより遥かに速い。
エイルは足を止めず、まだ開いていない場所へ向かった。
数秒後。
左右へ重なっていた根が離れ、人1人が通れる隙間を作る。
エイルはそこを抜け、持ち上がる直前の岩を踏み台にして、次の斜面へ移った。
移動森林の動きと、エイルの歩調が重なっていく。
閉じる前に通り。
沈む前に跳び。
根が持ち上げる岩へ先に足を置く。
森の中を歩いているというより、数秒後に現れる道を選びながら、絶えず変化する地形の上を流れているようだった。
◇
森へ入ってから約1時間後。
エイルは第55標に使われているものと同じ、微かな金属の反響を捉えた。
西へ約3キロ。
ただし反応は地面の上ではなく、深さ20メートルほどの場所から返っている。
移動してきた巨木の根に覆われ、岩盤ごと下へ押し込まれた可能性が高い。
エイルが反応へ向かおうとした時、周囲を流れていた魔力が変化した。
森の魔力は、地中の根を通して緩やかに循環している。
巨木同士が同じ流れを共有し、一方が岩盤から吸い上げた魔力を、別の木へ送ることもあるらしい。
その流れの一部が、北側へ強く引かれ始めた。
木々が自ら集めているのではない。
何かが根の途中へ食い込み、周囲から魔力を奪っている。
《警戒圏》へ、複数の生物反応が入った。
数は34。
細長い身体を持ち、根の表面を滑るように移動している。1体ずつの大きさは2メートルほどだが、森の魔力を取り込むたび、外皮へ木質の装甲を作っていた。
頭部は細く、口の周囲から4本の針が伸びている。
針を根へ刺し、内部を流れる魔力を吸い上げているらしい。
エイルは仮に《根吸い》と呼んだ。
根吸いたちは、まだエイルを見つけていない。
しかし、群れの中心にいる別の個体が、周囲へ細い魔力を送り続けていた。
高さは18メートルほど。
6本の脚を持つ鹿に似た体形で、胴体を分厚い樹皮状の甲殻へ覆われている。頭部から伸びた巨大な角は、樹木の根のように枝分かれし、その先端が周囲の巨木へ接続されていた。
群れの主は、自分の魔力だけで身体を維持していない。
移動森林の循環へ角を繋ぎ、森全体から力を吸い上げている。
《遷根角獣》。
エイルはそう名付け、長剣へ手を掛けた。
放置すれば、周囲の巨木が魔力を失う。
すでに北側では数本の枝が枯れ始め、移動に使われる根の動きも鈍くなっていた。
遷根角獣が頭部を上げる。
枝分かれした角へ、エイルの足音が伝わった。
34体の根吸いが、一斉に向きを変えた。
◇
最初に動いたのは、地表にいた12体だった。
木の根を蹴り、異なる高さからエイルへ跳び掛かる。
残る22体は、巨木の裏側と地中へ分かれた。
直接襲うだけではない。
前方へ敵を集め、その間に背後へ回り込もうとしている。
《分岐予見》へ、数秒後の動きが重なった。
正面の群れを斬った場合、右後方から4体。
上へ逃れた場合、頭上の枝へ隠れている6体。
その場で受ければ、根の下を通る12体が足元から現れる。
エイルは、どの分岐も選ばなかった。
長剣を抜き、正面ではなく足元の根へ切っ先を向ける。
《魔力掌握》を広げた。
森を流れる魔力。
根吸いたちが奪った魔力。
遷根角獣から群れへ送られる指示。
以前なら、それぞれを感知することしかできなかった。
今は、流れそのものへ触れられる。
エイルは根吸いの内部へ入り込んでいた森の魔力だけを捉え、外へ引いた。
木質の甲殻から、赤緑色の光が一斉に抜ける。
正面から跳んできた12体の装甲が薄くなり、空中で姿勢を崩した。
《遠衝斬》が横へ走る。
衝撃の刃は12体の頭部を同時に断ち、その奥にいた巨木へ触れる直前で消えた。
地中を進んでいた個体も動きを止める。
身体を支えていた魔力を失い、根の下で前脚を取られていた。
エイルは左へ歩く。
数秒先の分岐では、巨木の裏側にいた6体が、その位置へ同時に現れる。
まだ姿は見えない。
エイルは先に剣を振った。
斜めへ走った遠衝斬が、巨木の幹すれすれを通過する。
直後。
木の陰から飛び出した6体が、斬撃の中へ自ら入った。
胴体へ同じ角度の線が走り、地面へ落ちる。
残る根吸いは逃げようとした。
だが遷根角獣が角から強い魔力を送り、群れの動きを強制的に変える。
森の魔力を吸い上げた甲殻が、再び身体へ作られていく。
エイルは、その供給も掴んだ。
流れてきた魔力を押し返すのではない。
途中で進路を変え、吸い上げられた元の根へ戻す。
遷根角獣の角から放たれた光が、群れへ届く前に反転した。
森の根へ魔力が戻り、枯れかけていた枝へ薄い緑が広がっていく。
根吸いたちには何も残らない。
木質の装甲を失った個体を、エイルは短い剣閃で順番に仕留めた。
34体の反応が消える。
遷根角獣は、自分が送り出した魔力を奪われたことを理解したらしい。
6本の脚で地面を踏み、巨大な身体を根の中へ沈めた。
◇
遷根角獣の反応が、森全体へ分かれた。
正面の巨木。
右側の地中。
背後の岩盤。
頭上へ伸びる太い枝。
角を接続した無数の根へ、自分と同じ魔力を流し、どこから現れるかを隠している。
輸送隊を襲った潜行種より、偽装の規模は遥かに広い。
反応は50を超えていた。
しかも森が動くたび、地形そのものも変化する。
《分岐予見》へ映る数秒先の像が、幾重にも枝分かれした。
右から角を突き出す動き。
地面を割り、真下から身体を持ち上げる動き。
巨木の幹へ一度姿を移し、背後へ落ちてくる動き。
根吸いの死骸へ魔力を流し、囮として動かす可能性まである。
数が多い。
だが、すべての分岐を個別に追う必要はなかった。
遷根角獣が森のどこから現れるとしても、巨大な身体を作り直すためには、周囲の根から魔力を集めなければならない。
エイルは剣を下げ、森へ広がる魔力を見た。
遷根角獣へ向かう流れは、細いものまで含めれば数百本ある。
そのすべてを断てば、森の循環まで傷つく。
必要なのは、森から角獣へ向かう部分だけを一時的に支配することだった。
《魔力掌握》の範囲を広げる。
自分の魔力を大量に流し込んだわけではない。
感知へ入っている森の魔力へ、進む方向を与える。
角獣へ向かっていた流れが止まった。
次の瞬間。
数百本の魔力経路が、すべて逆向きへ動き始める。
遷根角獣が作っていた偽の反応から、光が抜けた。
50。
32。
16。
森の各所へ散っていた反応が、急速に消えていく。
《分岐予見》へ重なっていた未来も、魔力の供給を失ったものから薄れた。
残ったのは、1つ。
エイルの左前方。
2本の巨木の間にある、幅10メートルほどの地面。
3秒後。
そこから遷根角獣が現れる。
エイルはまだ動かない。
2秒。
地面の下で6本の脚が岩盤を押す。
1秒。
枝分かれした角が、地表へ触れる。
黒い岩盤が割れ、遷根角獣が巨体を持ち上げた。
角の先端には、残された魔力が集まっている。
現れた瞬間に正面を薙ぎ払い、エイルごと巨木を折るつもりだった。
だが、その時にはすでに。
エイルは角獣の懐へ立っていた。
《空衝歩》を1度だけ使い、振り始める前の巨大な角を越える。
遷根角獣の胸部。
樹皮状の甲殻の奥で、森から奪った魔力を蓄える器官が動いている。
エイルは長剣を振り上げた。
大技を使う必要はなかった。
抜刀から続く斬線が、甲殻の継ぎ目へ入り、胸部の魔力器官を縦へ断つ。
遷根角獣の巨体が、一歩も進まないまま止まった。
枝分かれした角から光が消える。
6本の脚が順番に折れ、18メートルの身体は、周囲の木々へ触れることなく地面へ沈んだ。
エイルは血の付いた長剣を振り、鞘へ戻した。
【移動森林の魔力循環を保持したまま、寄生個体への供給のみを遮断しました】
【近未来分岐の同時観測数が上昇しました】
【多数の偽装分岐から、成立可能な経路を選別しました】
【Lv.196 → Lv.203】
【《分岐予見 Lv.1 → Lv.3》】
【《魔力掌握 Lv.1 → Lv.4》】
【《近域感知 Lv.95 → Lv.98》】
【《遠衝斬 Lv.12 → Lv.14》】
【《空衝歩 Lv.21 → Lv.23》】
【外部魔力に対する操作範囲および選別精度が上昇しました】
エイルは表示を短く確認し、すぐに閉じた。
分岐予見で見える時間そのものは、まだ数秒から大きく伸びていない。
その代わり、同時に捉えられる可能性が増え、成立しにくい未来を以前より早く除外できるようになっていた。
魔力掌握の変化は、さらに明確だった。
森全体を流れる魔力の一部へ触れながら、木々の循環を傷つけず、寄生個体へ向かう流れだけを選べた。
通常の魔力操作とは、やはり根本から違う。
自分の魔力が強くなったのではなく。
戦場へ存在する魔力そのものが、エイルの手札へ変わり始めている。
◇
遷根角獣が倒れると、周囲の巨木の動きが変わった。
奪われていた魔力が戻り、鈍っていた根が再び動き始める。
エイルが立っていた場所から、左右の木々がゆっくり離れた。
森が礼を示したわけではない。
正常な循環へ戻り、本来進もうとしていた方向へ移動しただけだろう。
しかし結果として、地面の下へ埋もれていた金属の反応まで、真っ直ぐな道が開いた。
エイルは反響を追い、2本の巨木の間へ進んだ。
第55標は、完全に地表から失われていた。
太い根が何重にも重なり、その下へ岩柱ごと押し込まれている。
エイルは根を切らず、《魔力掌握》によって周囲の流れを僅かに変えた。魔力が別の根へ向かうと、標石を覆っていた部分だけがゆっくり持ち上がる。
その下から、欠けた石柱が姿を現した。
『第55標 移動森林帯東端』
刻まれた文字は、一部が根に削られていた。
それでも番号と方角は読み取れる。
西へ進めば、移動森林帯の内部。
そこから先の標は、古い地図にも残されていない。
エイルは第54標から辿った経路と、現在の森林外縁の位置を標石の側面へ刻んだ。
リヴィアから受け取った青い標布も結ぶ。
ただし、現在の位置へ残しただけでは、森と共に移動してしまう可能性がある。
「南側へ結ぶと、明日の朝には樹皮の下だぞ」
背後から声がした。
エイルは振り返るより先に、長剣の柄へ手を掛けた。
感知には誰もいなかった。
少なくとも、声が届く直前まで、人間の足音も鼓動も魔力も捉えていない。
十数メートル先。
倒れた巨木の上に、1人の老人が座っていた。
◇
老人は、森で暮らす猟師にしか見えなかった。
白髪は短く、日に焼けた顔へ深い皺が刻まれている。身に着けているのは色褪せた上着と革のズボンで、足元には擦り減った長靴を履いていた。
武器らしいものは、腰へ下げた小さな手斧だけである。
老人の隣には、湯気の立つ鉄鍋と、半分に割られた木の実が置かれていた。
野営していた形跡はある。
それでもエイルは、煙の匂いも、火の熱も、人間が地面へ与える振動も、今まで1つとして捉えていなかった。
「南側は駄目なんですか?」
エイルは剣から手を離さずに尋ねた。
「その木は西へ動いている。布を持っていかれるぞ」
老人は標石の北側を指した。
「あちらの細い根へ結べ。あれは岩の割れ目へ噛んでいるから、3日ほどは場所を変えん」
「ここに住んでいるんですか?」
「俺が住んでいる場所へ、森が勝手に来た」
老人は鉄鍋の中を木匙で混ぜる。
警戒されていることを気にした様子はない。
エイルは《分岐予見》を使った。
老人が立つ可能性。
手斧へ触れる可能性。
そのまま鍋を混ぜ続ける可能性。
複数の分岐が浮かぶはずだった。
しかし、像が定まらない。
老人は動いていない。
敵意もない。
それにもかかわらず、エイルが剣を抜いた場合の未来だけが、異常な数へ分かれていく。
斬り掛かるつもりはない。
それでも試しに間合いへ入る可能性を考えただけで、右手を止められる分岐、剣の外側へ立たれる分岐、距離を離される分岐が同時に現れ、その直後には別の動きへ変わる。
どれが起こりやすいのか、絞ることができなかった。
老人が、まだ何も選んでいないからだ。
エイルの動きを見たあとでも、すべての選択肢を残せる位置へ座っている。
「先を見る癖が付いたばかりか」
老人が言った。
エイルの指が僅かに動く。
「分かるんですか?」
「目ではなく、相手の前にあるものを見ようとしている。便利だが、答えを急ぐと身体が先に固まるぞ」
老人は鍋から木匙を上げ、味を確かめた。
視線すら、こちらへ向けていない。
その時。
遷根角獣の死骸から伸びていた細い管が、地面の下で動いた。
最後に残っていた魔力を使い、老人の背後から鋭い根が飛び出す。
エイルの《分岐予見》には、根が老人の背中へ届く未来が見えていた。
長剣へ手を掛ける。
だが、刃が鞘を離れる前に。
老人が木匙を持った手を、僅かに横へ動かした。
鋭い根が、空中で止まる。
次の瞬間には、何十枚もの薄い木片へ分かれ、老人の左右へ落ちていた。
斬撃は見えなかった。
魔力も動いていない。
風さえ、ほとんど生じていなかった。
老人は木匙を鍋へ戻す。
「今のは、君でも十分に間に合った」
「何をしたんですか?」
「邪魔だったから退けた」
説明になっていない。
エイルは地面へ落ちた木片を見た。
すべてが同じ厚さではない。
内部を走る繊維の向きに合わせ、根が最も抵抗なく分かれる場所だけを断っている。
剣を使わず。
魔力も使わず。
木匙を振ったようにしか見えない動作で。
「名前を訊いてもいいですか?」
「ハルドだ」
「それだけですか?」
「森の中で同じ名が2人いたら、続きを教える」
老人――ハルドは、ようやくエイルの方を見た。
淡い灰色の目。
老いによって鋭さを失っているように見えるが、その奥には、何も見落としていない者の静けさがあった。
「君はエイル・アーネットだな」
「どうして知ってるんですか?」
ハルドは、エイルの荷物へ差された革筒を指した。
統合戦技会の招待状が入っている。
「西の拠点から、濃灰の長衣を着た若い剣士が来ると聞いた。国の連中が随分騒いでいるらしい」
「ここまで話が来てるんですか?」
「森は動くが、人の噂はもっと速い」
ハルドは木の実を1つ割り、鍋へ落とした。
「戦技会へ行くのか?」
「第55標を確認したあと、軍都へ向かいます」
「なら、今年は少し面白くなるかもしれんな」
「何かあるんですか?」
「軍の《天槍》が、久しぶりに西へ戻るという話がある。聖堂の《白焔》も、王都を離れられれば顔を出すだろう」
聞いたことのない呼び名だった。
しかしハルドの口調から、統合戦技会へ参加する一般の兵士や冒険者ではないことが分かる。
「強い人たちですか?」
「強い、で並べると大抵の者が気を悪くする」
ハルドは火へ小枝を加えた。
「王国が現在も所在を把握し、国家が滅びかねない時だけ直接動かす英傑は、その2人だ。軍隊へ混ぜて使う者ではない。1人が立てば、戦場の方を作り直す」
エイルは黙って聞いた。
王国の軍と聖堂に1人ずつ。
通常の精鋭や高位冒険者とは、最初から扱いが異なる者たち。
世界の上位へ、人間の強者がいることは知っている。
しかし実際にどのような戦い方をし、どこまで届くのか、直接見たことはなかった。
「戦技会で戦えるんですか?」
「本人たちがその気になればな。もっとも、普通の参加者と同じ場所へ入れれば、戦技会ではなく撤去作業になる」
「撤去?」
「残った会場のだ」
ハルドは冗談を言っているようには見えなかった。
「あなたも、その人たちを知ってるんですね」
「昔、少しな」
「ハルドさんは何をしていたんですか?」
「今は薪を割っている」
「今は、ですか」
エイルが聞き返しても、ハルドは答えなかった。
代わりに、倒れた遷根角獣の方向へ鼻を向ける。
「森の魔力を奪ったな」
「奪ったというより、元の流れへ戻しました」
「自分の魔力を流し込まずに?」
「はい」
ハルドの目が、初めて僅かに細くなった。
「そうか」
短い言葉だった。
驚いた様子も、褒める様子もない。
しかし、先ほどまで鍋へ向いていた意識が、明確にエイルへ移っている。
「《天槍》と《白焔》だけだと思っていたが、王国も妙な時期へ入ったらしい」
「何の話ですか?」
「老人の独り言だ」
ハルドは鉄鍋を火から下ろした。
「第55標を見つけた祝いに、食べていけ。森を抜けて北東へ向かうなら、古い地図より早い道も教えてやる」
「どうしてそこまで?」
「遷根角獣を殺すために森を焼かなかった礼だ」
エイルは少し考え、標石から青い布を外した。
ハルドに教えられた北側の根へ結び直す。
数秒先の分岐では、確かにその根だけが位置を変えず、ほかの巨木が離れても岩の割れ目へ残っていた。
布を結び終え、老人の近くへ歩く。
警戒を解いたわけではない。
それでも敵意がないことは分かっている。
「いただきます」
「器は自分で出せ」
エイルは荷物から木の器を取り出した。
◇
ハルドの作った煮込みは、見た目よりも味が濃かった。
森で採れた茸と木の実、乾燥肉が入っており、香草の匂いも強い。長く歩いたあとに食べるには、十分すぎるほど温かかった。
「戦技会へは、ハルドさんも行くんですか?」
エイルが尋ねる。
「今のところ、そのつもりはない」
「《天槍》と《白焔》が来るかもしれないのに?」
「昔から知っている顔を、わざわざ人混みの中で見る趣味はない」
「僕には、見に行くよう勧めましたよね」
「君は知らんだろう」
「はい」
「なら見ておけ。自分より先に、同じ高さへ立っている者を見る機会は多くない」
同じ高さ。
ハルドは、エイルが現在どれほど強いのか知らないはずだった。
状態板も。
技能も。
脈源外殻で何が起きたかも、報告の一部しか聞いていない。
それでも、当然のようにそう言った。
「僕が、そこまで行っていると思うんですか?」
「まだ足りん」
返答は即座だった。
エイルは煮込みを食べる手を止める。
ハルドは構わず続けた。
「力も、速さも、扱える範囲も、普通の人間からは十分に外れている。だが、君の剣はまだ、目の前の答えを正しく選ぶ剣だ」
「それでは駄目なんですか?」
「駄目ではない。大抵の敵は、それで斬れる」
火の中で、小枝が折れる。
「だが、英傑と呼ばれる連中は、正しい答えが存在しない戦場で、自分の答えを正解に変える」
エイルは、先ほど老人の周囲へ分岐予見を使った時の感覚を思い出した。
分岐を絞れない。
どの未来も残り続ける。
ハルドは相手が動く前から正解を選んでいるのではない。
相手が何を選んでも、そのあとから結果を変えられる位置にいる。
「ハルドさんも?」
「煮込みが冷めるぞ」
また、答えなかった。
エイルは器へ視線を戻した。
第55標へ到達した。
数秒先の分岐は、実戦で使える段階へ進んでいる。
魔力掌握も、移動森林の循環へ触れ、数百の流れを選別できるようになった。
それでも、正体の分からない老人1人を前に、まだ見えていない領域がある。
不快ではなかった。
むしろ、胸の奥へ静かな熱が生まれている。
目指せる先が、また増えた。
「軍都までの道を教えてください」
「ああ」
「それと」
エイルはハルドを見た。
「いつか、剣を見せてもらえますか?」
老人は腰の手斧へ触れた。
「俺は斧しか持っていないが?」
「では、斧でもいいです」
ハルドはしばらく無表情だった。
やがて、喉の奥で小さく笑う。
「戦技会で恥をかかずに戻ってきたら、考えてやる」
「戻る場所は、ここですか?」
「森が動かなければな」
夕刻の移動森林で、巨木の根が低く軋む。
第55標の近くには、地図にも記録にもない小さな野営地と、正体を隠した老人がいた。
王国には、現役で動く2人の英傑がいる。
そして少なくとも、目の前の老人も。
エイルが今まで出会ったどの剣士とも、異なる場所に立っていた。
明日には軍都へ向かう。
そこで待つのは、国中から集まる戦力と、通常の尺度へ収まらない者たちである。
エイルは温かい煮込みを食べながら、火の向こうへ座る老人を見た。
《分岐予見》は今も、ハルドの数秒先を1つに絞れないままだった。




