第155話 数秒先の分岐
第3調査拠点を離れてから半日ほど、エイルは北西へ続く岩の尾根を1人で歩いていた。
地図に残されている第54標までの経路は3本あるが、選んだのは北側の安定した道から入り、途中で中央の旧標路へ戻る線だった。
深層脈の異常が弱まったことで、足元の岩盤は以前より静かになっている。それでも70年前の地図をそのまま信じることはできず、かつて谷だった場所が隆起し、反対に尾根の一部が大きな裂け目へ変わっている場所もあった。
エイルは古い目印を探しながら、現在の地形を自分の地図へ書き加えていく。
軍用の石杭。
岩壁へ残る削り跡。
風雨と魔力に摩耗しながらも、方角を示す矢印だけは読み取れる標石。
リヴィアから渡された青い標布も、後から来る調査隊が見つけやすい位置へ結んでいた。
1人の旅へ戻ったことで、進む速度は大きく上がっている。
崩れた坂を迂回する必要はなく、荷物を運ぶ者が通れる足場を作る必要もない。数メートルの裂け目ならそのまま越え、岩盤が不安定な場所も、崩れる位置を見極めて短時間で抜けられる。
ただ、調査隊と歩いていた時のような会話はなかった。
脈圧を読むカレドの声も。
道へ印を付けるナシュの足音も。
地図を覗き込みながら、こちらの選んだ経路へ疑問を投げるリヴィアもいない。
静かな旅は嫌いではない。
自分の都合で進み、休み、地図にない場所へ寄り道できる自由もある。
それでも、数日間を共に動いた直後では、周囲が少し広く感じられた。
「そのうち慣れるか」
誰へ聞かせるでもなく呟き、エイルは尾根の先へ目を向けた。
第54標までは、現在地から西へおよそ18キロ。
このまま問題がなければ、日が落ちる前に到着できる。
そう考えた直後。
《振動感知》へ、規則的な衝撃が入った。
西北西。
距離は約4キロ。
車輪が岩を踏む音と、複数の人間が走る足音。
その外側を、不規則な速度で移動する獣の群れが囲んでいる。
エイルは地図を閉じた。
◇
戦闘が起きていたのは、両側を高い岩壁へ挟まれた古い街道だった。
中央には4台の大型輸送車が並び、濃紺の軍装を着た兵士たちが、その周囲へ二重の防御線を作っている。
人数は18人。
前後に5人ずつの盾槍兵。
岩壁側には弩を持つ射手が4人。
残る者は術師と御者であり、輸送車の車輪が窪地へ嵌まらないよう、地面へ補強術式を展開していた。
襲っているのは、灰色の甲殻へ全身を覆われた四足獣だった。
体長は3メートル前後。
平たい頭部から左右へ短い角を伸ばし、脚先には岩へ潜り込むための幅広い爪を持っている。
地面を走るだけではない。
速度を上げると同時に身体の輪郭を薄くし、岩盤の表層へ沈む。完全に地下へ潜るのではなく、地上から1メートルほどの深さを泳ぐように移動し、別の場所から勢いを保ったまま飛び出していた。
現在見えるのは11体。
地下を動いているものを含めれば、合計27体いる。
輸送隊は押し込まれていたが、崩れてはいなかった。
「前列、3歩だけ下がれ! 右の標杭まで引きつけろ!」
隊長らしい男の指示へ、前方の盾槍兵が即座に従う。
逃げるように後退したのではない。
街道へ埋め込まれた4本の発光杭まで敵を誘い、岩盤の表面へ展開した術式の内側へ入れるためだった。
灰色の獣が2体、地中から盾列の前へ飛び出す。
術師が杭を起動した。
青い光が地面へ網状に広がり、潜り直そうとした獣の身体を岩の上へ押し戻す。
盾槍兵は正面から噛みつきを受けず、大盾を傾けて進路を変えた。その先へ弩矢が2本ずつ入り、首と前脚の関節を貫く。
別の3体が輸送車の後方へ回ったが、後衛もすでに向きを変えていた。
盾の下端で地面を叩き、地下から返る振動を増幅する。姿を現す位置を絞ったところへ、長槍を同時に突き下ろした。
地中から飛び出す前の1体が、岩盤ごと串刺しになる。
輸送隊は、この魔物との戦い方を知っていた。
潜行を封じ。
出現位置を限定し。
盾で進路を変えた先へ射撃を重ねる。
すでに8体を倒しており、輸送車にも大きな損傷はなかった。
それでも、街道の奥には別格の反応がいる。
岩壁の内側を移動しながら、何度も偽の振動を流していた。
体長は12メートルほど。
6本の脚と、頭部から後方へ曲がる巨大な角を持つ。灰色の甲殻には赤い線が走り、周囲の小型個体へ移動方向を伝えていた。
群れの中枢個体である。
輸送隊が地上の敵を処理している間に、中枢個体は岩壁の内部から輸送車へ近づいていた。
反応は6つ。
右の岩壁に2つ。
地面の下に3つ。
左の高所に1つ。
すべて同じ大きさと魔力を持っている。
だが、本体は1つしかない。
偽の振動と魔力を異なる経路へ流し、どこから現れるかを直前まで隠していた。
「大型の位置を見失った!」
輸送隊の術師が叫ぶ。
「各車両、固定術式を最大へ! どこから来ても、荷を外へ出すな!」
隊長は大型個体を探すために隊列を崩さず、輸送車の防御を優先した。
正しい判断だった。
6つの反応から1つを選んで兵を動かせば、外れた瞬間に反対側を抜かれる。
エイルは戦場から300メートルほど離れた岩壁の上で、下の動きを見ていた。
兵士たちだけでも、小型個体は処理できる。
大型個体の攻撃も、1度なら防げるかもしれない。
しかし輸送車の中央に積まれた箱からは、強い魔力が返っていた。あれを大型個体が破壊すれば、周囲の岩盤ごと巻き込む可能性がある。
エイルは岩壁を蹴った。
《空衝歩》を使い、街道の上空へ出る。
◇
「上から1人来る!」
輸送隊の射手が弩を向けかける。
「撃つな!」
隊長が即座に止めた。
濃灰色の長衣。
腰の長剣。
さらに、中央戦務院の招待状を収めた革筒が荷物の脇へ見えている。
エイルは輸送車の前方へ着地した。
「第3調査拠点から来ました。手伝います」
「所属と名前を!」
「冒険者のエイル・アーネットです」
隊長の表情が変わる。
「濃灰の長衣……中央から連絡が来ていた者か」
エイルには、その連絡が何を含んでいるか分からなかった。
「大型個体は岩の中です。小型は皆さんだけで処理できますか?」
「できる。だが大型の本体を絞れない」
「僕が見ます。輸送車から離れないでください」
エイルは長剣を抜き、6つの反応へ感知を重ねた。
魔力だけでは区別できない。
振動も、ほぼ同じ強さと周期で流されている。
だが、偽の反応はすべてが同じではなかった。
右側から出るなら、岩壁を内側から押す力が先に生まれる。
地面の下を選ぶなら、輸送車の重量を避けるため、僅かに進路を曲げる必要がある。
左の高所から飛び掛かるなら、6本ある脚のうち後方の2本へ、ほかより多くの力を集めなければならない。
まだ起きていない動き。
しかし、次に何かを選ぶための準備は、すでに始まっている。
エイルの感知へ、複数の像が重なった。
右の岩壁を破り、先頭の盾兵を弾き飛ばす大型個体。
地面から輸送車の底へ角を突き立てる姿。
左上から術師を狙い、固定術式を止める動き。
それぞれが数秒先へ続き、兵士たちの反応によってさらに枝分かれしていく。
どれが本当の未来かは分からない。
まだ大型個体自身も、最後の進路を決め切っていない。
それでも、選択できる範囲は見えた。
「右前の盾を1枚、中央へ寄せてください」
エイルが告げる。
隊長は理由を聞かず、兵士へ指示した。
「第2列右、中央車両へ移れ!」
「射手は左の岩壁を狙ってください。撃つのは、僕が剣を振ったあとです」
「了解!」
大型個体の6つの反応が動く。
最初に右側が強くなった。
次に地面の下へ移る。
偽装を重ね、こちらの判断を遅らせようとしている。
エイルには、その先の分岐が見えていた。
大型個体は右から出ると見せ、兵士の意識が傾いた瞬間に左上を選ぶ。
術師を倒し、固定術式を消したあと、群れ全体で輸送車を囲む。
エイルはまだ何も現れていない左の岩壁へ、長剣を振った。
《遠衝斬》が岩壁の表面を斜めへ走る。
「そこにはいないぞ!」
兵士の1人が叫んだ直後。
切断線の真下から、巨大な角が岩を突き破った。
大型個体が姿を現す。
上半身を出した瞬間、その首元へ遠衝斬がすでに通っていた。
灰色の甲殻が裂け、赤い体液が岩壁へ散る。
「今です!」
左側へ狙いを定めていた4人の射手が、同時に弩を放つ。
太い矢が傷口へ集中し、大型個体の身体を岩壁へ押し戻した。
隊長がエイルを見る。
「出てくる前に、斬ったのか」
「出てからでは遅いので」
大型個体は岩壁から完全には落ちなかった。
6本の脚を切断面の周囲へ食い込ませ、傷ついた身体を再び岩の中へ沈める。
残る小型個体も、主の指示へ反応して一斉に潜った。
「前後の網を維持しろ!」
輸送隊は大型個体へ気を取られず、再び小型種への防御を整えた。
発光杭の位置。
盾の角度。
射手の残弾。
すべてが戦闘中にも修正され、先ほどより狭い範囲へ敵の出現位置を限定している。
エイルは大型個体を追った。
再び6つの反応へ分かれている。
今度は先ほどより速い。
こちらが出現前の動きを読んだことを理解し、最後の瞬間まで進路を切り替え続けていた。
右。
地中。
左上。
輸送車の後方。
エイルの感知へ、数秒先の戦場が幾つも重なる。
兵士が負傷する分岐。
輸送車の車輪が壊れる分岐。
大型個体がエイルへ直接向かい、その間に小型種が荷を狙う分岐。
可能性は増えている。
だが、すべてが同じ強さではなかった。
今の姿勢から選びやすい動き。
一度切られた傷を庇うため、選びにくくなった方向。
輸送隊の配置を見て、利益の大きい攻撃。
枝分かれした像の中で、起こり得ないものが次々と薄れていく。
残ったのは4つ。
さらに2つ。
最後の瞬間まで、本体はどちらも選べる。
エイルは輸送車の中央へ歩いた。
「何をする?」
隊長が尋ねる。
「どちらから来ても、ここへ届く前に同じ場所を通ります」
右から輸送車を狙う場合。
左から術師へ向かう場合。
大型個体が違う進路を選んでも、岩盤の硬い層を避けるため、途中で同じ地下空洞を通る。
戦場の中心ではない。
誰の目にも見えない、地面から8メートル下の一点だった。
エイルは長剣を地面へ向ける。
大型個体が進路を決めた。
左側の反応が消え、右側が急速に近づく。
しかし、エイルは右を見なかった。
剣先から衝撃を地中へ通す。
大きく地面を揺らす必要はない。
地下空洞へ届く、細い一撃だけでいい。
鈍い音が足元から返った。
次の瞬間。
街道の中央が内側から盛り上がり、大型個体の頭部が岩盤を破って現れた。
自分から飛び出したのではない。
地下で剣の衝撃を受け、進路を外されたことで、予定していなかった場所へ押し出されたのだ。
大型個体の眼前には、すでにエイルが立っている。
6本の脚が地面へ出るより先に、長剣が抜き打ちで走った。
角。
頭部の甲殻。
首の奥にある中枢。
すべてが1本の線で断たれる。
12メートルの巨体は勢いを失い、輸送車へ触れることなく街道の中央へ沈んだ。
「大型反応、消失!」
術師が叫ぶ。
「小型は残り9!」
「隊形を詰めろ! 群れだけなら予定通り処理する!」
大型を失った小型種は逃げなかった。
統制を失ったまま、近い相手へ襲い掛かる。
それでも輸送隊は崩れず、発光杭と盾列を使い、1体ずつ出現位置を固定して仕留めていった。
エイルが剣を出す場面は、もうなかった。
◇
最後の小型個体が倒れたあとも、輸送隊はすぐに警戒を解かなかった。
射手が両側の岩壁を調べ、術師は地下へ残る反応を確認する。盾槍兵たちは輸送車の車輪と積荷の固定具を点検し、戦闘で消耗した発光杭を新しいものへ交換していた。
戦闘が終わったからといって、荷を運び切る仕事まで終わったわけではない。
エイルも周囲へ感知を広げ、別の群れが近づいていないことを確認した。
「安全です。少なくとも、5キロ以内にこちらへ向かう大型反応はありません」
「5キロ……」
隊長は一瞬だけ言葉を止めたが、すぐ右手を胸へ当てた。
「西部軍務輸送隊、隊長のグレイス・ハルトだ。助力に感謝する」
「エイル・アーネットです」
「名前は聞いている」
グレイスは濃灰色の長衣と、腰の招待状へ目を向けた。
「第3調査拠点から、統合戦技会へ推薦された冒険者。中央から、道中で接触した場合は行動を妨げず、必要な情報だけ共有するよう通知が来ていた」
「もうそこまで伝わってるんですか?」
「監査官が正式推薦を出したからな」
輸送車の後方では、兵士たちが破損した装備をまとめている。
死者はいない。
腕へ噛み傷を負った盾兵と、岩片を受けた射手が1人ずついるだけだった。
エイルが来る前から、彼らは27体の群れに対して防御を成立させていた。
「皆さんだけでも、小型は倒せてましたね」
「大型に輸送車を割られていれば、話は変わった」
グレイスは中央の車両へ積まれた、金属枠で囲われた箱を示す。
「中身は統合戦技会で使う戦域構築核だ。4基すべてが連動しており、1つでも破損すれば、蓄積した魔力が不安定になる」
「それで大型個体が狙っていたんですか?」
「魔力へ引かれたのだろう。俺たちも遭遇を想定して対策していたが、あの中枢個体が偽の反応を作るとは知らなかった」
グレイスは、大型個体が不自然な位置から押し出された穴を見た。
「最後は、どこから来るかを当てたのか?」
「当てたというより、選べる道を見ていました」
「選べる道?」
「大型個体が右から来る場合と、左から来る場合で、途中まで違う動きをしていました。ただ、どちらを選んでも、地下の同じ空洞を通る必要があったので」
「それを、戦いながら見つけたのか」
「はい」
グレイスはしばらく地面の穴を見た。
「俺たちには、反応が6つへ増えたようにしか見えなかった」
「偽物も、完全に同じではありませんでした」
「違いが分かることと、数秒後に通る場所へ先に剣を置くことは別だと思うが」
エイルは答えに迷った。
実際、自分でも以前と同じ感知ではなかったと分かっている。
大型個体が動く前から、複数の可能性が像として重なり、その中から弱い分岐が消えていった。
予想して頭の中で考えたというより、現在の戦場と同じように、少し先の動きが感知へ含まれていた。
まだ確定した未来ではない。
相手が途中で判断を変えれば、見えていた像も変化する。
それでも、数秒先へ存在する複数の可能性を、同時に捉えられるようになっていた。
「報告書へ書く必要がある」
グレイスが言う。
「具体的な技能名や能力値は分かりません」
「実際に起きたことだけを書く。中枢個体が出現する前に攻撃し、最終的な移動地点を先回りした。それで十分だ」
「できれば、大げさにしないでください」
「中央から同じ注意も受けている」
「注意?」
「本人が公開測定と過剰な称揚を嫌うため、推測を事実として記載しないこと。ただし、確認した事実を削除してはならない」
リディアが作った指示らしい。
エイルとしては、後半も削ってほしかった。
◇
輸送隊の修理が終わるまで、エイルは街道の周囲を警戒していた。
やがて中央の戦域構築核から、小さな魔力漏れが生じていることに気づいた。
大型個体の突進は受けていない。
それでも偽反応を作った際に放たれた魔力が岩盤を通し、箱の外側へ薄く絡みついていた。
「中央の箱を確認した方がいいです」
エイルが告げると、輸送隊の術師が測定具を当てた。
「外部魔力が封印層へ付着しています。破損ではありませんが、このまま運ぶと構築核が誤作動する可能性があります」
「除去できるか?」
「時間を掛ければ。ただ、無理に剥がすと内部の魔力まで引かれます」
付着した魔力は細い糸となり、箱を包む封印層へ食い込んでいた。
術師は自分の魔力を近づけるが、異質な流れが反発し、封印層へさらに絡みつく。
エイルは箱へ近づいた。
「触れてもいいですか?」
「構わないが、内部へ自分の魔力を入れるな。4基の均衡が崩れる」
「分かりました」
エイルは封印層へ手を触れた。
これまでなら、自分の魔力を流し、異物を押し出すか、外側から《衝界》で剥がしていただろう。
今回は、付着した魔力そのものの動きが分かった。
どこから入り。
どの順番で絡み。
封印層のどこへ留まろうとしているか。
自分の魔力ではない。
それでも感知へ入った瞬間から、完全な異物とは感じられなかった。
エイルは付着した魔力へ意識を向けた。
押さない。
切らない。
流れの向きだけを変える。
箱へ食い込んでいた赤い糸が、ゆっくり浮かび上がった。
「待て」
術師が目を見開く。
「外部魔力へ直接干渉しているのか?」
エイルは返事をせず、浮いた魔力を1本へ集めた。
圧縮する必要もない。
内部の封印層へ触れないよう、周囲の流れだけを揃え、岩盤側へ逃がす。
赤い糸が箱から完全に離れた。
そのまま地面へ沈み、深層脈へ混じることなく薄く散っていく。
4基の戦域構築核から返る魔力は、安定した状態へ戻っていた。
「終わりました」
「今、君は自分の魔力を使ったか?」
「ほとんど使ってません」
「なら、何を動かした?」
「付いていた魔力です」
術師は箱とエイルの手を交互に見た。
「他人の魔力は、構造を崩すことならできる。流れを乱すことも、相殺することもな。だが、壊さずに掴んで、別の経路へ動かすのは……」
言葉が続かない。
エイル自身も、以前なら同じことはできなかったと理解していた。
外部の魔力は、自分の感知へ入る情報でしかなかった。
今は、認識した瞬間から操作の対象になっている。
自分の内側と外側を分けていた境界が、僅かに薄くなったような感覚があった。
◇
輸送隊は、修理と点検を終えると軍都ラディアスへ向けて出発した。
エイルが第54標へ向かうと知ったグレイスは、街道を北東へ曲がる分岐位置と、軍都までの最新情報を地図へ書き加えた。
「第54標からラディアスへ向かうなら、北の旧砦へ寄れ。戦技会のため、臨時補給所が置かれている」
「招待状を見せれば使えますか?」
「使える。俺の名も地図の端へ書いておく」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
輸送隊は隊形を組み直し、4台の車両を守りながら街道を東へ進んでいった。
エイルは反対側へ歩き出す。
第54標まで、残りは約9キロ。
戦闘によって少し時間を使ったが、日没前の到着には十分間に合う。
◇
第54標を見つけたのは、赤い光が岩天井の向こうへ薄れ始めた頃だった。
北西台地の端。
高さ20メートルほどの岩柱が並ぶ中へ、古い標石が半分ほど埋まっている。
表面は大きく欠けていたが、内部の赤い鉱石は残り、エイルが触れると弱い反響を返した。
『第54標 外縁北西台地』
その下には、第55標へ向かう古い方角と、移動森林帯までの推定距離が刻まれている。
東側へ広がる地形を確認し、エイルは第3調査拠点から辿ってきた現在の経路を書き残した。
リヴィアから受け取った青い標布を、岩柱の高い位置へ結ぶ。
これで後から来る調査隊も、第54標を見つけられる。
エイルは標石から少し離れた岩陰へ野営地を作り、夕食を済ませたあと、周囲に人の反応がないことを確かめた。
状態板を開く。
【上位潜行個体の移動分岐を捕捉しました】
【複数の感知情報から、短時間後に発生し得る行動経路を同時観測しました】
【現在情報に基づく近未来分岐の継続把握に成功しました】
【新規技能を獲得しました】
【《分岐予見 Lv.1》】
【《近域感知 Lv.90 → Lv.95》】
【《危機感知 Lv.42 → Lv.47》】
【《警戒圏 Lv.55 → Lv.59》】
【《振動感知 Lv.85 → Lv.89》】
【《魔力感知 Lv.50 → Lv.55》】
【Lv.188 → Lv.196】
エイルは、新しく表示された技能へ意識を向けた。
《分岐予見》。
確定した未来を見る技能ではない。
感知している敵、地形、魔力、視線、姿勢、力の偏りを統合し、現在から数秒以内に起こり得る複数の行動を、分岐として捉える。
情報が少なければ分岐は増える。
相手が意図的に予測不能な選択をすれば、直前まで絞り切れないこともある。
それでも、敵が攻撃を始めてから対応する必要はなくなった。
始める前に生まれた可能性へ、先に剣を置ける。
さらに表示が続く。
【外部魔力流の非破壊制御に成功しました】
【自己魔力と外部魔力を隔てる操作境界を突破しました】
【《魔力操作 Lv.100》が昇華条件を満たしました】
【既存技能《魔力操作》を上位技能へ昇華します】
【上位技能《魔力掌握 Lv.1》を獲得しました】
【《魔力操作》の全機能を継承しました】
【認識範囲内に存在する魔力流への直接干渉が可能になりました】
【自身の魔力に限定されていた操作対象が拡張されます】
【《魔力圧縮 Lv.99 → Lv.100》】
【《魔力圧縮 Lv.100》に上位技能への接続を確認しました】
エイルはしばらく、表示を閉じなかった。
《魔力掌握》。
名前が変わっただけではない。
以前の《魔力操作》では、自分が生み出し、自分の内部や武器へ流した魔力を動かしていた。
敵の魔術へ干渉する場合も、自分の魔力をぶつけ、流れを乱す必要があった。
現在は違う。
感知できる範囲へ入った魔力なら、それ自体へ触れられる。
構造を読み。
流れを掴み。
壊さず、望む方向へ動かす。
エイルは右手を上げた。
周囲の岩盤から、薄い魔力が絶えず漏れている。
これまでなら、ただ流れとして感じていたものだった。
今は意識を向けるだけで、幾つもの細い光が指先の周囲へ集まり始める。
エイル自身の魔力は、ほとんど使っていない。
周辺へ散っていた魔力が、こちらの意図へ従っている。
指を動かす。
集まった魔力が細い輪へ変わり、2つへ分かれ、互いを避けながら異なる方向へ流れた。
遅れがない。
抵抗もほとんど感じない。
通常技能の延長ではなかった。
扱える量や速度が少し増えたのではなく、操作できるものの定義そのものが変わっている。
《断天》へ周囲の魔力を加える。
《地鳴り》の経路へ、土地に存在する流れをそのまま利用する。
敵が放った術式を、斬るのではなく途中から奪う。
今まで不可能だった戦い方が、一度に幾つも見えた。
しかも《魔力圧縮》も100へ届いている。
こちらはまだ名前を変えていないが、すでに同じ境界へ触れ始めていた。
エイルは状態板を閉じた。
これを誰かへ話すつもりはない。
輸送隊の者たちが見たのは、箱へ付着した魔力を剥がした現象だけである。
《分岐予見》の存在も。
《魔力掌握》へ昇華したことも。
魔力圧縮が次の段階へ届きかけていることも、エイルだけが知っていればいい。
◇
同じ頃。
軍都ラディアスへ向かう輸送隊の野営地では、グレイスが戦闘報告を書いていた。
小型潜行種27体。
上位中枢個体1体。
輸送隊による小型種の排除。
エイル・アーネットによる中枢個体の単独制圧。
出現前の攻撃。
複数の偽反応から最終経路を先行特定。
戦域構築核へ付着した外部魔力の非破壊除去。
推測は書かない。
見た事実だけを記録する。
それでも、通常の冒険者評価へ収めるには十分すぎる内容になった。
「送付先は?」
副官が尋ねる。
「中央戦務院西部館と、統合戦技会評価局。それから、特別評価室へ同報する」
「特別評価室まで?」
「監査官の通知に、彼と接触した場合は優先報告とある」
グレイスは封書の分類欄を確認した。
正式な席次推薦ではない。
統合戦技会を終えるまでは、候補審議にすぎない。
それでも分類欄には、通常の評価とは異なる印が付けられていた。
『席次外評価資料』
グレイスは報告書を封じた。
「戦技会が始まる前から、資料だけ増えていくな」
「本人は知っているのでしょうか」
「知らないだろう」
グレイスは昼間、報告を大げさにしないよう頼んできた少年を思い出した。
「知れば、軍都へ来なくなるかもしれん」
◇
第54標の夜。
エイルは岩柱の上へ立ち、西側へ感知を広げた。
遠方に、森がある。
普通の森林なら、動かないはずの巨大な反応。
だが感知へ入る幾つもの樹木は、地中へ根を伸ばしたまま、ゆっくり位置を変えていた。
第55標。
移動森林帯。
その先の空白。
さらに北東には、16日後に国中の戦力が集まる軍都がある。
数秒先の分岐を捉える感知。
自分以外の魔力まで掴む上位技能。
まだ昇華を待つ、100へ届いた圧縮。
エイルは誰にも知られないまま、また以前とは異なる領域へ踏み込んでいた。
明日は第55標へ向かう。
その後は軍都へ進み、統合戦技会へ入る。
国が用意する戦場で何が待っているとしても。
もう、敵が動き始めるまで待つ必要はなかった。




