第157話 天より降る槍
翌朝、エイルが目を覚ました時には、ハルドはすでに火を起こしていた。
移動森林の巨木は夜の間にも位置を変えており、昨晩まで野営地の北側にあった太い幹が、今は100メートル近く西へ移っている。それでも老人の小さな天幕と焚き火だけは、最初からそこへ置かれていたように、岩盤の窪みへ収まっていた。
「軍都へ行くなら、森の北を回るな」
朝食を終えるより先に、ハルドは木の枝で地面へ線を引いた。
第55標。
移動森林帯。
北東の旧街道。
臨時補給所が置かれているカルグ旧砦。
「地図では、北側の岩丘を越える道になっています」
「その道は一昨日、森に呑まれた」
「一昨日?」
「根が地面ごと持っていった。今行けば、崖の途中へ道の続きが浮いているぞ」
古い地図が間違っているのではない。
地図を描いたあとに、道の方が動いたらしい。
「こちらを通れ」
ハルドが示したのは、移動森林帯の内部を斜めに横切る線だった。
「根の流れに逆らわず、東へ移る木の間を抜ける。昼までに森を出れば、旧砦へは夕方前に着く」
「森が動く方向まで分かるんですか?」
「しばらく見ていれば分かる」
エイルは地面へ描かれた線を、自分の地図へ写した。
ハルドの示した道には、目印になる地形がほとんどない。巨木の種類と、根が動く方向だけで経路を説明しており、普通の旅人がそのまま辿るのは難しそうだった。
「この赤い幹が東へ傾いたら、その後ろへ入れ。白い根が3本重なる場所では止まらず、中央を踏む。地面が沈むが、4歩目までなら戻る」
「5歩目は?」
「落ちる」
「深いんですか?」
「試せば分かる」
試すつもりはなかった。
エイルは地図を畳み、荷物を背負う。
「ありがとうございました」
「煮込みの分は、角獣を片づけたことで足りている」
「道を教えてもらった分は?」
「戦技会から戻った時に、面白い話でも持ってこい」
「ハルドさんは、ここにいるんですよね?」
「森が動かなければな」
昨日と同じ答えだった。
エイルは少し迷ったあと、老人へ頭を下げた。
「行ってきます」
「ああ」
歩き出してから、エイルは一度だけ背後へ《警戒圏》を伸ばした。
焚き火。
鉄鍋。
天幕。
それらの反応は残っている。
しかし、人間の鼓動だけが感知へ入らない。
振り返ると、ハルドは変わらず火の前に座っていた。
見えているのに、捉えられない。
老人は気づいたように片手を上げた。
「先ばかり見ると、根に躓くぞ」
エイルは感知を前方へ戻し、移動森林の中へ入った。
◇
ハルドに教えられた道は、地図の上には存在しなかった。
赤黒い幹の巨木が東へ傾く。
その直後、周囲へ張られていた根が地面から抜け、幹の後方へ細い空間が生まれた。
エイルは閉じる前に通り抜ける。
白い根が3本重なる場所へ差し掛かると、地面の下から岩の割れる音が聞こえた。
《分岐予見》へ、数秒後の地形が重なる。
右へ避ければ、別の根が持ち上がり、進路を塞ぐ。
左へ回れば、巨木の移動に巻き込まれ、遠くへ押し戻される。
中央へ踏み込んだ場合だけ、4歩目まで岩盤が形を保っていた。
エイルは速度を落とさず、根の中央へ入る。
1歩。
2歩。
3歩。
足元が大きく沈み始める。
4歩目で前方の岩へ跳び移った直後、背後の地面が崩れ、暗い縦穴へ落ちていった。
底は感知の届く範囲より深い。
「本当に落ちたな」
ハルドが冗談で言ったわけではなかったらしい。
さらに進むと、2本の巨木が正面から近づき、道を完全に閉じようとしていた。
以前なら外側へ回るか、《空衝歩》で枝の上を越えていただろう。
エイルは周囲へ流れる魔力へ意識を向ける。
《魔力掌握》によって、巨木の根へ運ばれている魔力を捉えた。
木々の移動を止める必要はない。
右側の巨木が、新しい根を伸ばそうとしている場所だけへ、周囲の魔力を少し多く流す。
進行方向が僅かに変わる。
2本の幹は接触せず、エイルが通れる幅を残したまま、互いの横を通り過ぎていった。
木を操ったわけではない。
本来選べた複数の進路のうち、根を伸ばしやすい場所を1つ作っただけである。
それでも移動森林を歩く速度は、昨日までとは比較にならなかった。
《分岐予見》で数秒先に開く道を選び。
《魔力掌握》で、閉じようとする地形へ小さな別の選択を与える。
森に逆らわず、森が動いた結果として道が残るように進む。
出発から3時間ほどで、前方の木々が薄くなった。
赤い岩丘と、人工的に削られた旧街道が見える。
ハルドの言った通り、昼前には移動森林帯を抜けることができた。
◇
カルグ旧砦の異変に気づいたのは、森を出てから間もなくだった。
北東から、断続的な破裂音が聞こえる。
大型弩の発射音。
風術式の展開。
岩盤へ何かが落下する重い衝撃。
エイルは地図を閉じ、感知を広げた。
距離は約8キロ。
旧砦には200人近い人間がいる。
戦闘へ参加しているのは、そのうち80人ほど。残る者たちは砦の内側で物資を移動させ、負傷者の処置と火災の消火を行っていた。
敵の反応は、空中に広がっている。
小型が100を超える。
中型が23。
そして、赤い魔力の霧に隠れた巨大な反応が1つ。
砦から北へ離れた岩原にも、別の大型反応があった。
そちらの周囲には、人間が1人だけいる。
戦闘が2か所で同時に起きている。
エイルは旧街道を蹴り、速度を上げた。
◇
カルグ旧砦は、半円形の岩壁へ背中を預けるように作られていた。
かつては西部街道を守る軍事拠点だったが、現在は統合戦技会へ物資を送るための臨時補給所として使われている。
外壁の上では、兵士たちが空を埋める飛行魔物へ対応していた。
敵は体長1メートルほどの《裂空蝗》。
細長い胴体の左右へ4枚の透明な翅を持ち、飛行中に空気を圧縮して、針のような衝撃を放つ。1体の攻撃は大きくないが、群れで射線を重ねれば、石壁すら少しずつ削っていく。
砦側も、ただ攻撃を受け続けてはいなかった。
「第3風網、展開!」
術師たちが外壁の3か所へ魔力を流す。
半透明の網が上空へ広がり、低く飛んでいた裂空蝗の翅へ絡みつく。速度を失った個体へ弩兵が矢を重ね、外壁へ到達する前に撃ち落としていった。
網の上を越えようと高度を上げた群れには、岩壁上へ配置された投射器が対応する。
砕いた鉱石と細い金属片を広範囲へ放ち、翅を傷つける。撃墜し切れなくても、飛行高度を保てなくなった個体は砦の外へ落ち、下で待つ槍兵が仕留めていた。
外壁が破られた場所では、工作兵が石材を積み直している。
負傷者は内側へ運ばれ、代わりの兵士がすぐ防衛位置へ入る。
100体を超える群れに襲われながら、砦の防衛線は維持されていた。
問題は、上空の赤い霧に隠れている中枢個体だった。
全長は90メートル近い。
巨大な甲虫に似た胴体へ、雲のように薄い6枚の翅を持っている。腹部には幾つもの袋状器官が並び、周囲の魔力を吸い込みながら、内部へ圧縮していた。
《雲殻母蟲》。
その身体から放たれる魔力が、裂空蝗の攻撃を強めている。
さらに母蟲は、赤い霧を自分の周囲へ集め、砦の感知術式から姿を隠していた。
「上空の大型を捉えられない!」
観測塔から報告が飛ぶ。
「魔力源はある! だが霧の中で位置がずれる!」
「弩は小型へ集中しろ! 見えない大型へ撃って矢を失うな!」
砦の指揮官は、当たる保証のない攻撃へ戦力を割かなかった。
小型を減らし。
外壁を守り。
物資庫へ被害を出さない。
現時点で可能な仕事を続けている。
エイルが砦へ近づいた時、外壁上の兵士が姿を見つけた。
「南西から接近者!」
「魔物ではありません! 単独、人間です!」
エイルは閉じられた門へ向かわず、岩壁の斜面を駆け上がった。
《空衝歩》を一度使い、外壁の上へ着地する。
近くの兵士が剣を向けかけたが、濃灰色の長衣と革筒へ気づき、動きを止めた。
「エイル・アーネットです。第55標から軍都へ向かっています」
「中央から通知のあった冒険者か」
指揮官らしい女性が、外壁の中央から近づいてきた。
40歳前後。
黒い軍装の上へ胸甲を着け、右手には短い指揮杖を持っている。
「カルグ臨時補給所守備隊長、ミレナ・ガルツだ。状況は見えているか?」
「小型は皆さんで抑えられています。上空に大型が1体います」
「位置を特定できるか?」
「できます。ただ、先に外壁の西側を空けてください」
「何が来る?」
《分岐予見》には、数秒先の砦が重なっていた。
母蟲の腹部にある袋が開く。
数百本の圧縮された魔力針が西壁へ降る。
兵士たちが盾を重ねる分岐。
風網を集中させる分岐。
外壁を放棄し、内側へ退く分岐。
どれを選んでも、物資庫の一部へ攻撃が届く。
「大型が、西壁へ広域攻撃を放ちます。8秒ほどです」
ミレナは理由を確認しなかった。
「西壁、第2線まで退避! 風網を閉じろ! 投射器の魔石を外せ!」
命令が走る。
兵士たちは弩と武器だけを持ち、西壁から一斉に離れた。工作兵は投射器へ積まれていた魔石を抜き、内側へ投げ込む。
7秒。
上空の赤い霧が膨らんだ。
6秒。
砦の観測術式が、ようやく異常な魔力の集中を捉える。
5秒。
「大型攻撃、来ます!」
エイルは西壁の上へ1人で残った。
赤い霧の中から、黒い点が無数に現れる。
母蟲が圧縮した魔力を、細い針へ変えて放った。
数は300を超えている。
西壁だけでなく、その後方の物資庫と負傷者区画まで覆う範囲だった。
エイルは剣を振らなかった。
《魔力掌握》を上空へ広げる。
降り注ぐ魔力針は、すでに母蟲から切り離されている。
形を保つための命令だけが残り、決められた方向へ進んでいた。
エイルはその命令へ触れる。
1本ずつ止める必要はない。
300本すべてを形成している、共通した魔力の流れを掴む。
魔力針が砦へ届く直前。
空中で静止した。
「……止まった?」
退避していた兵士の誰かが呟く。
西壁の上空に、300本を超える赤黒い針が浮かんでいる。
エイルは右手を横へ動かした。
魔力針が一斉に向きを変える。
砦へ向いていた切っ先が、上空の赤い霧へ向いた。
「戻ってください」
誰に言うでもなく告げ、指を閉じる。
300本の魔力針が、放たれた時より速く空へ昇った。
◇
赤い霧の内部で、無数の破裂が重なった。
自分が生み出した魔力針を受け、雲殻母蟲の偽装が崩れる。
赤い霧が吹き散らされ、90メートルの巨体が空中へ露出した。
「大型を確認!」
「全弩、照準を上へ!」
ミレナの指示により、砦の大型弩が一斉に向きを変えた。
射手たちはエイルの攻撃を眺めてはいない。
隠れていた敵が見えた瞬間、自分たちの射撃へ繋げていた。
6本の太い弩矢が放たれる。
母蟲は翅を傾けて回避しようとしたが、自分の魔力針を受けたことで飛行が乱れている。
2本が腹部へ刺さる。
1本が左の翅を貫く。
残る矢も甲殻を削り、巨体の高度を下げた。
「小型が母蟲へ戻ります!」
観測塔の声に、ミレナがすぐ反応する。
「風網を上へ移せ! 合流させるな!」
裂空蝗たちは母蟲を守るため、砦から離れようとしていた。
術師たちは展開していた風網を上方へ引き上げ、群れの進路へ重ねる。動きを止めた個体を弩兵が落とし、母蟲へ戻れる数を減らしていく。
砦の兵士たちが小型を押さえる間に、エイルは母蟲へ意識を集中した。
《分岐予見》へ、数秒後の巨体が映る。
左へ逃げる分岐。
高度を下げ、岩壁の陰へ入る分岐。
砦へ急降下し、死角から腹部を叩きつける分岐。
母蟲自身も、まだ進路を決めていない。
しかし、どの道を選んでも、破損した左翅を庇うため、右側の3枚へ魔力を集中させる。
エイルは母蟲が動く前に長剣を抜いた。
《断天》を放つ。
細い斬線が空を上り、右側の翅を支える3本の付け根へ通った。
巨体が左へ逃げようとした瞬間、支えを失った右翅が崩れる。
母蟲は飛行姿勢を保てず、砦の外へ向かって傾いた。
腹部の袋状器官が膨らむ。
落下しながら、残る魔力をすべて砦へ放とうとしている。
エイルは《魔力掌握》を伸ばした。
母蟲の内部にある魔力は、先ほどの針とは違う。
本体と繋がり。
強い意志によって保持され。
こちらの干渉を押し返そうとする。
すべてを奪うことはできない。
それでも腹部の中で、幾つもの魔力袋を繋いでいる流れが見えた。
エイルは外側から押さえ込まず、袋同士の接続だけを引き離す。
母蟲の腹部で魔力の均衡が崩れた。
放出直前だった光が、複数の器官へ分かれて逆流する。
巨体が苦しむように身体を折った。
エイルは2度目の断天を振るう。
斬線は胸部の甲殻を抜け、内部へある中枢を正確に両断した。
雲殻母蟲から生命反応が消える。
90メートルの巨体は砦を越えず、外壁から300メートルほど離れた岩原へ落下した。
地響きがカルグ旧砦まで届く。
同時に、指揮を失った裂空蝗の動きが乱れた。
「群れが崩れた! 逃がすな、数を減らせ!」
ミレナの指示で、砦の防衛隊が反撃へ移る。
風網を狭め。
弩で進路を限定し。
高度を失った個体を槍兵が処理する。
エイルが小型へ剣を向ける必要はなかった。
母蟲が倒れてから数分後。
砦の上空から、敵の反応が消えた。
◇
防衛隊は勝利を喜ぶより先に、外壁と物資の確認へ動いた。
投射器の魔石を戻し。
傷ついた風網の術式具を交換し。
落下した裂空蝗が物資庫の近くに残っていないか調べる。
ミレナも外壁の中央へ立ち、各区画からの報告を受けていた。
「死者なし!」
「重傷2、軽傷17!」
「戦域構築具、損傷なし!」
「西壁の欠損は上層のみ! 1時間で仮修復できます!」
エイルは砦の外へ広く感知を伸ばした。
裂空蝗の逃走個体はいない。
雲殻母蟲も完全に停止している。
ただし北の岩原では、もう1つの戦闘が続いていた。
砦の敵よりさらに大きい。
全長は120メートルを超える四足獣。
岩の装甲へ全身を覆われ、長い尾を地面へ叩きつけながら、北側の臨時街道へ向かっている。
その前に、人間の反応が1つ。
エイルは感知を集中した。
男は逃げていない。
120メートルの巨獣へ向かい、正面から歩いている。
《分岐予見》を重ねる。
巨獣が前脚を振り下ろす未来。
尾が岩原を薙ぐ未来。
口から魔力砲を放つ未来。
男が右へ避ける分岐。
左へ抜ける分岐。
上空へ移る分岐。
像が絞れない。
ハルドへ向けた時と同じだった。
相手は何も選んでいないのではない。
どの攻撃が来ても、そのあとで対応できる余地を残している。
巨獣が前脚を持ち上げた。
男はまだ歩いている。
エイルが砦の外へ出ようとした時。
上空の魔力が、細い一点へ集まった。
◇
天井の赤い霧が割れた。
白銀の光が、空から岩原へ落ちる。
最初に見えた時には、細い線でしかなかった。
しかし地上へ近づくにつれ、光は長大な槍の形を取る。
巨獣が頭部を上げた。
逃げようと後脚へ力を移す。
遅い。
白銀の槍が、120メートルの巨体を背中から貫いた。
岩の装甲。
筋肉。
骨。
地面。
すべてを一直線に抜き、巨獣を岩原へ縫い止める。
衝撃は遅れて届いた。
カルグ旧砦の外壁が揺れ、砦の上を赤い砂が通り過ぎる。
それでも岩原そのものは、大きく陥没していない。
巨大な力が周囲へ散らず、槍の通った一点へだけ押し込まれていた。
巨獣の生命反応が消える。
白銀の槍が光へ変わり、地面から抜けた。
光は空へ戻らない。
巨獣の前に立っていた男の右手へ集まり、一本の長槍となって収まった。
エイルは《魔力掌握》を通して、その槍へ流れる魔力を見た。
周囲へ魔力が漏れていない。
圧縮されているというより、槍を作るすべての魔力が、最初から男の所有物として閉じている。
触れようとすれば、構造が逃げるわけでも、反発するわけでもなかった。
ただ、動かせない。
戦域構築核へ付着していた魔力や、森を流れていた力とは根本的に違う。
槍を構成する魔力の一つ一つに、男の意志が行き届いている。
《魔力掌握》で干渉できる余白が存在しなかった。
「天槍……」
外壁の兵士が呟いた。
周囲の者たちが一斉に北の岩原へ目を向ける。
男は長槍を肩へ担ぎ、倒れた巨獣へ背を向けた。
遠く離れていても、大柄な体格だと分かる。
灰色の軍用外套。
短い銀髪。
防具は胸と腕へ最低限しか着けていない。
120メートルの巨獣を一撃で倒した直後にもかかわらず、歩き方に疲労は見えなかった。
「北門を開けろ!」
ミレナが命じる。
「《天槍》アーデン・クロス閣下が帰還する!」
◇
アーデンが旧砦へ入った時、兵士たちは整列しなかった。
防衛戦の直後であり、修復と負傷者の処置を優先するよう、本人から事前に命じられていたらしい。
敬礼を向ける者へ片手を上げながら、アーデンは最初に負傷者区画を確認し、その後でミレナのもとへ来た。
「被害は?」
「死者なし。重傷2、軽傷17。戦技会用の物資にも損失はありません」
「母蟲は?」
ミレナが砦の外へ倒れた巨体を示す。
「あちらです」
アーデンは雲殻母蟲の切断面を遠目に見た。
「大型弩だけではないな」
「エイル・アーネットの助力を受けました」
ミレナの言葉で、アーデンの視線がエイルへ向く。
遠くからでも、巨大な獣へ向けていた時とは空気が変わっていない。
威圧しようとしている様子もない。
それでも《分岐予見》には、アーデンが槍を動かした場合の像が幾つも現れ、1つへ絞れなかった。
突く。
投げる。
槍を光へ戻し、別の位置から作り直す。
地面へ刺し、岩盤を通して攻撃する。
どれも現在の構えから選べる。
さらに、そこから先の動きが見えない。
最初の一撃だけで、戦場の形が変わりすぎるからだった。
「お前が濃灰の剣士か」
アーデンがエイルの前で足を止める。
「エイル・アーネットです」
「アーデン・クロス。軍では《天槍》と呼ばれている」
「ハルドさんから聞きました」
アーデンの眉が僅かに動いた。
「ハルド?」
「第55標の近くで会いました。森の中で煮込みを作っていた老人です」
「まだ、あの鍋を使っているのか」
「知り合いなんですか?」
「昔、何度か地面へ転がされた」
120メートルの巨獣を一撃で縫い止めた男が、当然のように言った。
ミレナと周囲の兵士たちは反応しなかった。
聞かなかったことにする訓練を受けているのかもしれない。
「剣を見せろと言ったか?」
「戦技会から戻ったら、考えると言われました」
「随分気に入られたな」
「そうなんですか?」
「あの爺さんは、気に入らない相手には食事を出さない。もっと気に入らない相手には、会ったことにも気づかせない」
エイルは、昨日までハルドの存在を感知できなかったことを思い出した。
「母蟲を倒したのはお前か」
「砦の皆さんが小型を押さえて、大型弩で傷をつけていました」
「それは見れば分かる」
アーデンは雲殻母蟲の周囲に残る魔力へ目を向けた。
「聞いているのは、母蟲が放った魔力を奪ったのがお前かということだ」
「奪ったというより、向きを変えました」
「300を超える敵性術式を、同時に?」
「同じ流れで作られていたので」
アーデンは数秒、何も言わなかった。
驚いているようには見えない。
ただ、最初より明確にエイルを観察している。
「お前、自分以外の魔力をどこまで動かせる」
「詳しいことは話しません」
「公開測定も拒否しているらしいな」
「はい」
「それでいい」
予想していなかった返答だった。
「いいんですか?」
「数値を見なければ戦力を判断できない連中は、どのみちお前を正しく扱えん」
アーデンは自分の長槍を軽く持ち上げた。
「俺の槍へも触れたか?」
「感知しただけです。動かそうとはしてません」
「動かせそうだったか?」
「いいえ」
「正解だ」
アーデンの口元が僅かに動く。
「無理に触れば、掌握した側から腕を持っていかれる」
脅しではなかった。
エイルが槍へ干渉していた場合、アーデンは即座に反応できたという意味だろう。
「どうして動かせないんですか?」
「俺の槍だからだ」
ハルドと同じように、説明になっていない。
それでも、エイルには少し分かった。
《魔力掌握》は、認識した魔力へ触れられる。
しかし、魔力を扱う者の支配が、こちらより深く、隙なく行き届いていれば、奪う余地はない。
アーデンは自分の魔力を操作しているのではない。
魔力のすべてを、自分の槍として成立させている。
「戦技会へ来るんですよね?」
「ああ。北部境界の処理が終わったから、今から軍都へ戻る」
「参加者として?」
「俺を競技へ入れれば、評価にならん」
「では何をするんですか?」
「最終戦域の監督と、壊れた時の処理だ」
「何が壊れるんですか?」
「会場か、用意した敵か、参加者の自信だな」
ハルドと似た種類の答えだった。
◇
その日の午後、エイルはカルグ旧砦で装備と食料を補充した。
臨時補給所は戦技会の参加者へ開かれており、中央戦務院の招待状を見せることで、水と保存食、最新の街道地図を受け取ることができた。
軍都ラディアスまでは、ここから6日ほど。
エイルの速度なら、途中で大きな問題が起きなければ3日以内に到着できる。
雲殻母蟲の解体も始まっていた。
兵士と作業員が翅、甲殻、袋状器官へ分かれ、危険な魔力が残る部位を封印していく。
戦闘へ参加した者たちも休んでいない。
負傷の軽い兵士は外壁の修復へ戻り、重傷者の装備は仲間が洗い、次の戦闘へ使えるものと廃棄するものを分けていた。
エイルは砦の北側にある静かな岩棚へ移り、状態板を開いた。
【移動森林帯の地形分岐を継続観測しました】
【外部魔力流への干渉により、移動経路を非破壊で誘導しました】
【上位群体個体が放った敵性術式の支配権を奪取しました】
【複数の敵性魔力構造を同時に反転しました】
【大型飛行個体の行動分岐を成立前に制限しました】
【Lv.203 → Lv.211】
【《分岐予見 Lv.3 → Lv.6》】
【《魔力掌握 Lv.4 → Lv.8》】
【《断天 Lv.11 → Lv.14》】
【《警戒圏 Lv.59 → Lv.63》】
【《近域感知 Lv.98 → Lv.100》】
【《近域感知 Lv.100》に上位領域への接続を確認しました】
【《魔力圧縮 Lv.100》に蓄積された経験が上昇しました】
【上位技能への昇華条件を一部達成しました】
【外部魔力の圧縮】
【複数魔力構造の同時保持】
【未達成条件が存在します】
《分岐予見》は、数秒先に見える像の数を増やしている。
砦の戦闘では、母蟲が攻撃を放つ位置だけでなく、兵士たちがどのように退避し、どの区画へ被害が届くかまで同時に捉えることができた。
《魔力掌握》も、単に魔力を移動させる段階を越え始めている。
敵が放った術式の形を保ったまま停止させ、支配を奪い、逆方向へ撃ち返す。
以前の《魔力操作》では不可能だった。
そして《近域感知》も100へ届いた。
すぐに新しい技能へ変わったわけではない。
しかし、これまで別々に扱ってきた近域感知、危機感知、振動感知、魔力感知、分岐予見が、1つの領域へ集まり始めている。
敵の位置を知る。
攻撃の兆しを知る。
数秒先の可能性を知る。
それらの境界が薄くなれば、周囲の戦場そのものを、現在と僅かな未来を含めて捉えられるようになるかもしれない。
エイルは表示を閉じた。
まだ完成していない。
だが、遠い話でもなかった。
◇
同じ頃。
旧砦の指揮室では、ミレナが防衛報告をまとめていた。
アーデンは窓際へ立ち、報告書へ記載された内容を読んでいる。
「西壁へ放たれた敵性魔力針、推定327」
「観測術式の記録では、その数です」
「全弾停止。支配方向を反転し、母蟲へ返した」
「はい」
「母蟲の偽装解除後、大型弩部隊と連携。右翅基部を遠距離から切断し、内部魔力の均衡を崩したあと中枢を破壊」
「確認者は80名以上います」
アーデンは報告書を机へ戻した。
「統合戦技会まで、特別評価室は審議を待つつもりか?」
「リディア監査官からは、戦技会の結果を含めて席次外評価を行うよう通知されています」
「遅いな」
ミレナは僅かに眉を上げた。
「通常席次への仮登録を先に進めますか?」
「違う」
アーデンは窓の外へ目を向けた。
岩棚では、エイルが1人で地図を確認している。
「通常席次へ入れるかどうかを調べる段階は、もう終わっている」
「では」
「番外席次の予備審議資料へ、俺の確認署名を付けろ」
指揮室が一瞬だけ静かになった。
現役の国家英傑が、自ら他者の席次外評価へ署名することはほとんどない。
「戦技会前にですか?」
「称号を与えろとは言っていない。審議を始めろと言っている」
アーデンは長槍を壁へ立て掛けた。
「戦技会で見るべきなのは、あいつが番外に値するかどうかではない」
「何を見るのですか?」
「どこまでを番外として記録するかだ」
遠方の岩棚で、エイルが立ち上がる。
自分について新しい報告書が作られていることも。
現役の英傑が、番外席次の審議へ署名しようとしていることも知らない。
彼が見ているのは、軍都へ続く地図だけだった。
◇
夕方。
エイルが旧砦を出ようとすると、北門の前にはアーデンが立っていた。
「今から出るのか?」
「少し進んで、街道の外で野営します」
「砦の寝台を使えばいいだろう」
「人が多いので」
「戦技会の軍都は、ここの何十倍もいるぞ」
「参加したことを後悔し始めました」
アーデンは短く笑った。
「明日の朝、俺も軍都へ向かう。同行する気はあるか?」
国家英傑と旅をする機会は、滅多にない。
どのように感知し。
どのように魔力を扱い。
普段は何を考えて歩くのか。
知りたいことは多かった。
それでもエイルは、少し考えてから首を横へ振った。
「途中で寄りたい場所があります」
「地図にない場所か?」
「はい」
「なら仕方ないな」
アーデンは無理に誘わなかった。
「軍都で会おう。戦技会の参加受付は西部館だ」
「分かりました」
「それから、ハルドの言葉を全部信じるな」
「嘘を言うんですか?」
「嘘はほとんど言わん。必要なことを半分しか言わないだけだ」
「アーデンさんも似てませんか?」
今度はアーデンが黙った。
「……軍都で会おう」
「はい」
エイルは北門を出た。
背後には、戦技会の物資を守る旧砦。
北には、天から落ちた槍によって貫かれた巨獣。
西には移動森林と、正体を明かさない老人。
北東には、国中の戦力が集まる軍都がある。
《分岐予見》で見える数秒先へ、アーデンの動きは収まり切らなかった。
《魔力掌握》も、彼の槍へ触れることはできなかった。
自分より先の領域にいる人間。
目指せる高さを、初めて明確な形で見ることができた。
それでもエイルは、自分との差へ怯まなかった。
昨日より見えるものは増え。
扱える魔力は広がり。
感知も、新しい境界へ届いている。
今はまだ足りない。
なら、進めばいい。
誰にも知られない速度で強くなりながら。
いつか、あの天より降る槍さえ、数秒先の分岐ではなく、同じ戦場の現在として捉えられる場所まで。




