第15話 迷宮の拾い物
短剣を背負い袋へ収めたあとも、エイルはしばらくその場に残っていた。
目の前には、簡易地図にほとんど何も描かれていない南側の通路が続いている。
現在地は第二層。
体力には余裕があり、魔力も大きく消耗していない。青晶洞へ入ってからの時間を考えても、引き返すにはまだ早かった。
エイルは自分で引いた線の先へ視線を向ける。
「もう少しだけ見ていこう」
箱を見つけたからといって、そこで満足する理由もない。
むしろ、ここまで地図の情報が少ない理由の方が気になった。
通路は緩やかに下りながら、少しずつ幅を狭めていた。青晶の光も減り、十数分も進む頃には灯火具がなければ足元が見えないほど暗くなる。
途中に何度か分岐があった。
一本はすぐに行き止まり。
もう一本は、人の肩幅ほどしかない裂け目へ続いている。
エイルは入り口の形と方角だけを書き込み、本道を選んだ。
全部を見る必要はない。
気になる場所は残しておけば、また来る理由になる。
それに、歩いた分だけ紙の空白が埋まっていく感覚は、一度に終わらせるには惜しかった。
やがて前方の岩壁に、見覚えのある線が現れた。
「……まただ」
第二層へ降りて間もなく見つけた、柱の模様。
今度は壁そのものに刻まれている。
エイルは灯火具を近づけた。
縦線。
円。
その内側を横切る、三本の短い線。
ただの装飾にしては規則的だった。
指でなぞる。
溝の奥には埃が溜まっている。
最近作られたものではない。
「青晶洞ができる前からあったのかな」
坑道だったという話は聞いていない。
少なくとも、青晶洞について読んだ資料には自然洞窟が迷宮化したと書かれていた。
だとすれば。
この模様は誰が残したのか。
エイルは紙へ簡単に写した。
こういうものは、分からないまま持ち帰る方がいい。知識のない自分がその場で答えを出そうとしても、間違えるだけだ。
記録を終えて立ち上がる。
その時。
足裏に、ごく僅かな振動を感じた。
「……?」
止まる。
何も聞こえない。
《気配感知》を広げても、近くに生き物らしい反応はなかった。
だが。
もう一度。
トン。
ほんの僅かに、靴底へ伝わる。
エイルはしゃがみ、床へ手を置いた。
今度は少し分かりやすい。
一定ではない。
数秒おき。
遠くから。
「何か歩いてる?」
《気配感知》では届かない距離なのかもしれない。
あるいは。
壁が邪魔をしている。
エイルは床へ触れたまま、無意識に魔力を流した。
《衝撃》を撃つほどではない。
指先から、ごく小さな力を石床へ落とす。
コン。
小さな振動が床へ広がった。
それだけなら、いつもの《衝撃》だ。
だが。
少し遅れて。
別の揺れが返ってきた。
「……今の」
エイルは動かなかった。
もう一度。
今度は少しだけ弱く。
石床へ衝撃。
広がる。
壁。
岩。
空洞。
それぞれに当たり、僅かに形を変えて戻ってくる。
「……分かる」
はっきり地形が見えるわけではない。
ただ、正面の通路。
右側の壁。
左。
そして。
「下に……空間がある?」
足元。
かなり深い。
何か大きな空洞がある。
エイルは地図を見る。
第二層の下なら、第三層だろうか。
まだ分からない。
それでも、今まで自分にはなかった方法で迷宮の形に触れられたことが面白かった。
もう一度試そうとしたところで。
先ほどの大きな振動が、今度は明確に足元へ届いた。
ドン。
少し近い。
「……こっちは試してる場合じゃないな」
エイルは立ち上がった。
その数秒後。
《気配感知》にもようやく反応が現れた。
一つ。
大きい。
前方。
さらに《魔力感知》を重ねると、暗い通路の奥にかなり濃い反応がある。
エイルは剣へ手を掛けたが、抜く前に考えた。
見えていない。
種類も分からない。
向こうから近づいている。
自分の後ろには、箱を見つけた場所まで一本道が続いている。
戦うなら、もう少し広い場所の方がいい。
「戻ろう」
エイルは来た道を引き返した。
逃げるというより、場所を選ぶ。
箱のあった場所より少し手前に、二本の通路が交わる小さな空間があった。そこなら横へ動けるし、最悪の場合は別方向にも退ける。
そこで待つ。
振動が強くなる。
ドン。
ドン。
やがて灯火の届かない暗闇から、青い光が二つ浮かび上がった。
「目……?」
違った。
角。
頭部から伸びた二本の角が、青く光っている。
続いて巨体が見えた。
四足。
灰色の毛皮。
大きさは鎧猪より一回り小さい程度だが、肩周りは厚く、正面から見ると岩の塊に近い。
エイルは資料で見た名前を思い出す。
「岩角山羊」
本来は第三層に多く出る魔物。
第二層にも稀に上がってくる。
確か、そう書かれていた。
岩角山羊はこちらを見た。
鼻息。
前脚が石床を掻く。
青い角へ魔力が集まっていく。
「突進か」
分かりやすい。
問題は。
速さ。
岩角山羊が地面を蹴った。
「っ!」
予想より遥かに速い。
エイルは足元へ《衝撃》を入れ、横へ飛ぶ。
直後。
巨体が脇を通り抜けた。
角が風を裂き、そのまま背後の岩壁へ激突する。
轟音。
壁が欠けた。
「……あれは受けられないな」
盾を持っていても嫌だろう。
岩角山羊が頭を振り、こちらへ向き直る。
角には傷一つない。
正面は硬い。
脚。
腹。
首の横。
狙うならその辺り。
二度目の突進。
今度は少し早く動く。
《魔力感知》で角へ魔力が集中した瞬間に横へ出る。
岩角山羊が通過する。
エイルはすれ違いざま、後脚へ剣を振った。
浅い。
毛皮の下も厚い。
「硬いな」
岩角山羊が急停止する。
意外に小回りも利く。
身体を反転させ、そのまま角を振り上げてきた。
エイルは剣で受けず、後ろへ下がる。
青い角が目の前を通る。
続けて前脚。
避ける。
さらに頭突き。
今度は横。
「近い方も強いのか」
単純な突進だけの魔物ではない。
近づけば角と脚。
離れれば突進。
正面から斬っても通りにくい。
エイルは一度距離を取った。
岩角山羊の方が明らかに力は上。
速さも、突進だけならかなり危ない。
けれど。
「棘狼よりは見やすい」
一体だからだ。
どれだけ強くても、見る相手が一つなら集中できる。
岩角山羊がまた前脚を掻く。
魔力が角へ。
三度目。
エイルは構えた。
今度は大きく避けない。
相手が走り出したところで、右へ半歩。
岩角山羊も首を振り、進路を修正する。
「やっぱり追う」
なら。
その修正を使う。
ぎりぎりまで引きつける。
角。
頭。
肩。
迫る。
足元。
無言の《衝撃》。
身体を左へ。
同時に。
エイルは右手を岩角山羊の前脚へ向けた。
小さな《衝撃》。
吹き飛ばすほどの力はいらない。
踏み込む位置だけ。
ずらす。
ドッ。
前脚が石床を滑った。
「ブォッ!?」
巨体が傾く。
速度がある分、一度崩れた姿勢は戻らない。
岩角山羊は肩から床へぶつかり、そのまま数メートル滑った。
エイルは追う。
首。
倒れた今なら見える。
毛の薄い場所。
剣を振り下ろす。
深く入った。
岩角山羊が暴れる。
エイルは剣を抜き、跳ねるように離れる。
前脚が空を掻いた。
まだ死なない。
「やっぱり丈夫だな……!」
岩角山羊が無理やり立ち上がる。
首から血が流れている。
それでも角へ魔力。
まだ来る。
四度目。
エイルは息を整えた。
今のでやり方は分かった。
相手より力がなくても。
相手より重くなくても。
走っている最中の一歩なら崩せる。
そして、次は転ばせる必要もない。
岩角山羊が突っ込んでくる。
エイルは動かない。
直前まで。
待つ。
青い角が胸の高さまで迫る。
横へ。
無言の《衝撃》。
身体を逃がす。
同時に剣を振る。
狙うのは。
さっき斬った首。
刃が傷口へ入った。
そこへ。
小さな衝撃を重ねる。
強くない。
発動名も要らない。
ただ、刃の進む方向へ。
ドッ。
剣が一段深く沈んだ。
岩角山羊の身体が大きく揺れる。
数歩。
勢いのまま進み。
そして倒れた。
しばらく脚が動いていたが、やがて止まる。
「……ふぅ」
エイルは剣を抜いた。
思ったより手強かった。
それでも。
鎧猪と戦った時とはまるで違う。
あの時は一つ間違えば死ぬという感覚がずっと消えなかった。
今は。
考える余裕があった。
相手の特徴を見て。
試して。
修正できた。
「強くなってるな」
数字を見なくても分かる。
エイルは少しだけ嬉しくなった。
◇
岩角山羊の解体は、思っていたより時間がかかった。
角は二本とも高値になる。
毛皮も素材になるが、一人で全て持ち帰るには重すぎる。
結局、角と魔石、それから比較的価値の高い背中の一部だけを切り取った。
「全部持てたらいいんだけどな」
こういう時はパーティーの方が便利なのだろう。
あるいは、大きな背負い袋。
荷車。
収納系の技能や魔道具が存在するという話も聞いたことがある。
欲しいものが、また一つ増えた。
解体を終えると、エイルは先ほど来た暗い通路を見る。
岩角山羊がいた先。
まだ道は続いている。
ただ、背負い袋は既に短剣や素材でかなり重い。
今日は第二層へ初めて来た日だ。
「続きはまただな」
地図の線の先へ、小さく印を付ける。
『岩角山羊一体』
その横へ。
『さらに奥へ続く』
空白は残った。
それでいい。
◇
青晶洞を出た頃には、空が橙色へ変わり始めていた。
受付へ戻ると、朝の男がエイルの背負い袋から突き出した青い角を見て眉を上げた。
「二層で岩角山羊か」
「いました」
「倒したのか」
「はい」
「なら、その角は持ち込み査定に回した方がいい。迷宮前の商人よりギルドの方が高くなることがある」
「そうします」
エイルは少し歩いてから振り返った。
「そういえば、迷宮の箱って普通にあるんですか?」
「見つけたのか?」
「一つ」
「運いいな」
男は特に驚かなかった。
「迷宮によるが、青晶洞でもたまに出る。昔からある箱が見つかることもあるし、昨日まで何もなかった場所に突然現れることもある」
「突然?」
「ああ。だから迷宮だ」
「中身は誰が入れてるんです?」
「それが分かりゃ、学者連中が百年も揉めてない」
エイルは青晶洞の入口を見る。
守護体。
変化する通路。
罠。
突然現れる箱。
「……変な場所ですね」
「だろ?」
「好きかもしれません」
「お前はそうだろうな」
◇
ギルドへ戻ると、素材と短剣をまとめて査定へ出した。
岩角山羊の角を見た担当者が少し驚き、奥から例の白髪混じりの鑑定役まで出てきた。
「また何か拾ってきたのか」
「今日は拾ったものもあります」
「今日は、って言い方がもう嫌だな」
「これです」
エイルは短剣を机へ置いた。
男は鞘から抜き、刃を光にかざす。
「青鋼か」
「高いんですか?」
「普通の鉄よりはな」
次に小さな鑑定用の板へ刃を載せる。
淡い文字が浮かんだ。
【青鋼短剣】
【魔力伝導:良】
【付与効果:なし】
「魔道具ではないな」
「違うんですか?」
「魔力が流れやすい素材で作られてるだけだ。付与術式は入ってない」
エイルは少し残念に思った。
だが。
「魔力が流れやすい?」
「ああ。魔法剣士なんかが補助武器に使う。普通の鉄剣より魔力を通しやすいからな」
エイルの視線が短剣へ戻った。
《衝撃》。
剣へ魔力を通す時。
強い出力ではまだ制御が乱れる。
「……これ、売ったらいくらですか?」
「状態込みで銀貨三十前後」
「三十」
結構高い。
今のエイルにとっては、簡単に手放せない金額だった。
「売るか?」
少し考える。
青鋼短剣。
魔力が流れやすい。
試したい。
「持っておきます」
「だと思った」
「分かるんですか?」
「その顔で値段より先に性能聞いてたらな」
男が短剣を返す。
岩角山羊の素材は全部で銀貨十一枚ほど。
さらに、先日の新規通路調査について追加報酬が出ていた。
基本報酬。
守護体の核。
新規地図。
魔力流路の報告。
合わせて銀貨十四枚。
今日だけでかなり財布が重くなった。
「……冒険者って稼げるんですね」
受け取った硬貨を見ながら言うと、ミレイが受付の向こうで苦笑した。
「普通の新人が毎回そんなものを持ち帰るわけではありませんよ」
「そうなんですか」
「エイルさんの場合、依頼報酬より発見物の加算が大きいですから」
地図。
新規通路。
守護体。
今度は罠と、第二層の情報。
戦うこと以上に、歩いて見つけたものが金になっている。
エイルにはそちらの方が嬉しかった。
「ああ、それと」
ミレイが一枚の紙を出した。
「今日、第二層でレナさんたちと会いましたよね」
「はい。途中まで一緒でした」
「東側の調査を終えて、少し前に戻ってきました。エイルさんが新しい落とし床を見つけたと報告してくれています」
「僕も地図に書いてあります」
「確認します」
紙を渡す。
ミレイは罠の位置だけでなく、南側へ伸びる新しい線にも目を止めた。
「かなり歩きましたね」
「この辺までです」
「ここ、現在の共有地図だとほぼ未記載です」
「やっぱり?」
思わず声が少し上がった。
「古い記録には通行報告があります。ただ、利用者が少ないので更新されていません」
「じゃあ、まだ道があるかもしれない」
「ありますね」
「地図作成の依頼とか出ませんか?」
ミレイが顔を上げる。
「……自分から依頼を増やそうとする新人、初めて見ました」
「地図ならやりたいです」
「戦闘依頼より?」
「かなり」
迷う必要もなかった。
ミレイは少し笑い、手元の資料を一枚めくった。
「ちょうど、青晶洞の地図更新は定期業務としてあります。普通は複数人で分担しますが……南側については情報が古いので、担当に確認しておきます」
「お願いします」
「受けられるとしても、正式な探索依頼になります。その分、今日みたいに好きなところを歩くだけでは済みませんよ」
「それでも」
行ったことのない場所を歩き、その結果が地図として残る。
エイルにとっては、むしろ願ってもない仕事だった。
◇
宿へ戻ったあと。
エイルは夕食を済ませると、机の上へ青鋼短剣を置いた。
鞘から抜く。
淡い青色の刃。
長さは肘から指先ほど。
主武器にするには短い。
けれど。
「魔力が流れやすい……」
刃へ意識を向ける。
魔力を通す。
「……あ」
すぐ分かった。
違う。
いつもの剣は、魔力を押し込むような感覚がある。
青鋼短剣には、それがない。
水が溝を流れるように、素直に刃先まで届く。
エイルは机の上へ小さな木片を置いた。
短剣の先を触れさせる。
小さく。
《衝撃》。
トン。
木片が滑った。
「もう一回」
今度は出力を少し上げる。
ドッ。
木片が机から落ちた。
それでも。
魔力はほとんど横へ逃げなかった。
「……これなら」
強い《衝撃》を使うための武器。
というより。
魔力を武器へ通す練習に使える。
いずれ普通の剣でも同じことができるようになればいい。
「拾ってよかったな」
エイルは短剣を眺め、少しだけ笑った。
その横。
今日書き足した第二層の地図。
南へ伸びる線。
途中で途切れたその先には、まだ何もない。
けれど。
明日には。
そこへ新しい線を引けるかもしれない。
エイルにとっては、銀貨三十枚の短剣より。
そちらの方が少しだけ魅力的だった。




