第147話 脈源への降路
第53標の観測記録を読み終えたあと、調査隊は崩れかけた外縁観測所で一夜を明かした。
建物の外では、昨日エイルが《断天》で切り開いた赤い霧がゆっくりと元の濃さへ戻り、断層の底から吹き上がる風も次第に弱まっている。天蓋鰩のものと思われる反応は周囲から消えており、夜間に近づいてきたのは、霧の中を漂う数体の小型魔物だけだった。
翌朝、エイルは観測塔の地下で、深層へ続く新たな設備を発見した。
最初に気づいたのは、床の下から返る不自然な空洞音だった。
観測塔の中央には第53標と圧力測定器が並び、その周囲を厚い石床が囲んでいる。しかし《振動感知》を通すと、石床の西側だけが薄く、その下へ垂直に近い空間が伸びていた。
リヴィアたちと共に瓦礫を退けると、床へ埋め込まれた円形の扉が現れた。
直径は約8メートル。
扉の表面には赤い鉱物で作られた複雑な術式が刻まれ、その中央には、古い測量局の印と共に文字が残されている。
『脈源観測井』
『第1降下層 深度720』
『第2降下層 深度1480』
『脈源外殻 推定深度2400』
イェルクは刻まれた数字を指でなぞり、円形の扉を見下ろした。
「観測所から直接、地下へ降りていたのか」
「第1降下層までなら、昇降設備が残っているかもしれません」
エイルは扉の周囲へ魔力を流し、内部の反応を調べた。
術式の一部は損傷しているものの、扉そのものを固定している機構は生きている。その下には金属製の大きな昇降台があり、壁へ埋め込まれた4本の軌条と、複数の鎖によって支えられていた。
ただし、長い年月の間に鎖の一部が劣化し、昇降台の片側が僅かに傾いている。
さらに下方。
深度300メートルを越えた辺りから、岩壁の内側を動く複数の反応があった。
「中に何かいる?」
リヴィアが扉の隙間へ耳を寄せる。
「壁沿いに動いています。今のところ、こちらへ上がってくる様子はありません」
「数は分かるか?」
「細い反応が11。もう少し下に大きいものが1体います。ただ、岩壁の中へ入ったり出たりしているので、全体の形までは分かりません」
感応術師は扉へ刻まれた術式を調べ、持っていた記録板と照らし合わせた。
「昇降台へ魔力を通せば、第1降下層までは動かせる可能性があります。ただし途中で止まった場合、地上側から巻き上げ直す機能は残っていません」
「降りたあと、帰れないかもしれないということか」
「古い記録では、第1降下層から別の非常階段へ戻れるようです。そちらが崩れていなければ、ですが」
イェルクはすぐには決断せず、隊員全員の装備と残りの食料を確認した。
観測所へ戻るための鎖は修復済みであり、地上側の経路も記録している。ここから第1降下層まで進み、帰路が失われているようなら、その時点で引き返せばいい。
「第1降下層まで確認する。下降中に設備へ異常が出た場合は、エイルの判断を優先する」
すでに、誰も彼を単なる護衛とは考えていなかった。
遠方の敵を見つける探知役であり、未知の魔物へ対処する主戦力であり、地形そのものが崩れた時に、全員を生かして帰せる可能性を持つ者として扱っている。
エイルはそれを特別に意識せず、円形扉を開くための術式へ手を触れた。
◇
封鎖機構へ魔力を通すと、観測塔の床全体へ低い振動が広がった。
石の扉は中央から左右へ分かれ、長い年月で溜まった砂と錆を落としながら、ゆっくり壁の中へ引き込まれていく。
その下へ現れた昇降台は、予想していたよりも大きかった。
直径は約7メートル。
床は格子状の金属板で作られ、中央には昇降機構を操作する石柱が立っている。周囲には腰の高さまで手摺があり、落下防止用の鎖も残されていた。
昇降井の内壁には、螺旋を描くように赤い鉱物が埋め込まれている。
下を覗き込んでも底は見えず、魔導灯の光は、数十メートル先で暗闇へ吸い込まれた。
「深度720か」
盾兵の1人が、井戸の縁から身を引いた。
「落ちたら、途中で何かへ当たる前に死ぬな」
「落ちなければ大丈夫ですよ」
エイルが答えると、盾兵は苦笑した。
「君が言うと、本当に落ちない気がしてくるから困る」
全員が昇降台へ乗り、荷物を中央へ固定する。
感応術師が操作石柱へ魔力を流すと、壁へ埋め込まれた赤い鉱石が上から順に光り、4本の軌条から金属の擦れる音が響いた。
昇降台が動く。
最初は僅かな揺れを伴っていたが、数メートル下がると軌条へ正しく噛み合い、一定の速度で下降を始めた。
観測所から差し込んでいた光が遠ざかる。
頭上の円形扉は開いたままだが、やがて小さな白い輪にしか見えなくなった。
エイルは昇降台の中央へ立ち、《警戒圏》を上下へ細長く伸ばした。
昇降井は完全な直線ではない。
深度100メートル付近から僅かに西へ傾き、岩盤の硬い層を避けるように進路を変えている。その途中には、保守作業に使われた横穴や、壁へ張り出した小さな足場も幾つか残されていた。
最初の異変は、深度200メートルを越えたところで起きた。
右側の岩壁から、硬いものが金属を噛む音が響いた。
「右上、壁の中です」
エイルが告げると、全員が武器を構えた。
岩壁の一部が内側から崩れ、長い身体が昇降井へ現れる。
体長は8メートルほど。
百足に似た胴体へ、岩へ食い込むための短い脚が幾十本も並び、頭部には鋏のような2枚の顎があった。背中は黒い鉱物殻へ覆われ、節の間から赤い魔力が漏れている。
魔物は人間へ襲い掛からず、昇降台を支える鎖へ顎を向けた。
「鎖を食うつもりです!」
リヴィアの矢が頭部へ飛ぶ。
矢尻は外殻へ刺さったが、致命傷にはならない。
魔物が鎖へ顎を掛ける直前、エイルの《遠衝斬》が首の関節へ入り、頭部を岩壁から切り離した。
長い胴体が壁へ残ったまま痙攣し、切断された頭部だけが暗闇へ落ちていく。
しかし、1体目が現れた穴の周囲から、別の反応が次々と近づいていた。
「左下に3体。右の壁に4体、さらに上からも来ます」
「昇降台を止められるか?」
イェルクが感応術師へ尋ねる。
「止める方が危険です。現在は軌条と鎖へ均等に荷重が掛かっていますが、途中停止させると片側へ偏る可能性があります」
「なら動きながら迎える。鎖を守れ!」
岩壁が複数箇所で割れた。
同じ種類の魔物が身体をくねらせ、昇降井へ頭部を突き出す。エイルは仮に《鎖喰百足》と呼び、最も近い2体へ遠衝斬を放った。
1本目が右側の個体の顎を断つ。
2本目は左下へ回り込み、壁から出た胴体の中央を切り開いた。
残る個体は同時には来ない。
昇降台を支える4本の鎖へ分かれ、それぞれ異なる高さから食らいつこうとしている。
エイルは手摺を越え、昇降台の外へ出た。
空中へ《空衝歩》を放ち、右側の岩壁へ近づく。鎖喰百足の頭部へ長剣を入れ、顎を受け流したあと、空いた左手へ《纏刃》を形成した。
手刀が外殻の継ぎ目へ入る。
そこへ掌底の衝撃を重ねると、魔物の頭部が岩壁へ深く沈んだ。
エイルはその身体を足場にして昇降台の反対側へ移り、鎖へ顎を掛けようとしていた別の個体へ剣を振るう。
刃は顎の根元を断った。
頭部を失った身体が鎖へ絡みつく。
その重さで昇降台が傾き、乗っていた者たちの足元が大きくずれた。
「左へ寄れ!」
イェルクの指示で全員が重心を移す。
エイルは絡みついた胴体へ遠衝斬を走らせ、3つの節へ分けて落とした。鎖へ掛かっていた重量が消え、昇降台が元の角度へ戻る。
続く個体へは、リヴィアともう1人の斥候が同時に矢を放った。
2本の矢が異なる関節へ刺さり、頭部の動きを止める。
盾兵が長槍を突き出し、昇降台へ届いた顎を外側へ押し返した。
そこへエイルが戻り、長剣を縦へ振り下ろす。
頭部から胴体の半ばまでが断たれ、岩壁へ張りついていた脚が順番に外れていった。
11体の反応は、下降を続ける昇降台の周囲へ次々と集まった。
だが、鎖へ触れられたのは最初の数体だけだった。
エイルは昇降台の上下を行き来しながら、遠衝斬で頭部を断ち、接近した個体には剣と纏刃を使い分ける。空衝歩による移動も、以前のように足場を1つずつ探す必要はなく、壁、鎖、魔物の身体、昇降台から返る反力を繋ぎ、ほとんど地上を走るのと変わらない速度で方向を変えていた。
最後の1体が上方から鎖へ落ちてくる。
エイルは昇降台の中央から跳び、空中で長剣を抜き打ちに振った。
細く圧縮した斬撃が、暗い昇降井を下から上へ走る。
《断天》は、鎖喰百足の頭部から尾までを一息に断ち、さらに上方の岩壁へ浅い線を刻んだ。
2つに分かれた魔物が、昇降台の左右を通って落下していく。
エイルは空中で身体を返し、何事もなかったように手摺の内側へ戻った。
「昨日の巨大個体へ使った技を、もう普通に使うのか」
盾兵の1人が呟いた。
「相手が小さいので、出力は抑えてます」
「そういう意味ではないと思うぞ」
イェルクは長槍を構えたまま、昇降井の下方を見た。
11体の反応は消えている。
しかし、大型の1体はまだ残っていた。
◇
深度400メートルを越えると、昇降井の形が変わった。
それまで円形だった空間が横へ広がり、幅50メートルを超える縦長の空洞へ繋がっている。壁には深層脈が剥き出しになり、赤い光が帯状に流れていた。
昇降台は空洞の中央を通る4本の軌条へ沿い、そのまま下へ降りていく。
「大型反応が動きました」
エイルは長剣の柄へ手を置いた。
「どこから来る?」
「壁の中ではありません。下の軌条へ巻きついています」
感応術師が操作石柱へ魔力を流し、下降速度を落とそうとした。
だが、石柱から返った光が不規則に明滅する。
「止まりません。下側の機構へ魔力が流れていない」
次の瞬間、昇降台の下方から巨大な頭部が持ち上がった。
現れたのは、鎖喰百足を何倍にもしたような魔物だった。
全長は少なくとも40メートル以上あり、太い胴体が空洞の壁と軌条を何重にも巻いている。節ごとに生えた脚は金属支柱へ食い込み、頭部の顎は昇降台そのものを挟めるほど大きい。
さらに、背中の外殻には、これまで食いちぎった鎖や金属片が埋め込まれていた。
「《鎖喰百足》の大型個体か」
イェルクが昇降台の前へ出る。
「軌条を巣にしているんだ」
大型個体は昇降台へ飛び掛からなかった。
代わりに頭部を軌条へ寄せ、4本ある金属支柱のうち、右側の1本を顎で挟み込む。
金属が軋む。
昇降台全体が強く揺れた。
「右の軌条が切られます!」
エイルは手摺を越え、空洞へ跳んだ。
空衝歩を重ね、大型個体の頭部へ向かう。
魔物は接近を察知し、軌条から顎を離した。
左右へ開いた巨大な鋏が、空中のエイルを挟もうと閉じる。
エイルは刃の間へ入らず、上側の顎へ長剣を当て、その表面を滑るように身体を外側へ移した。
すれ違いざまに遠衝斬を放つ。
衝撃の刃が顎の根元へ深く入ったが、外殻は完全には断たれず、大型個体は頭部を振ってエイルを岩壁へ叩きつけようとした。
エイルは顎の上を蹴り、空中へ逃れる。
その背後で、大型個体の尾が軌条へ巻きついた。
頭部は囮だった。
尾の節から伸びた無数の脚が、左側の2本の軌条を同時に引き、金属支柱を岩壁から剥がそうとしている。
「左が外れる!」
盾兵たちが手摺へ掴まる。
エイルは大型個体の頭部へ止めを刺すより先に、尾のある下方へ向きを変えた。
距離は60メートルほど。
途中には昇降台の鎖と軌条が重なり、幅の広い斬撃を放てば設備まで切ってしまう。
エイルは長剣を構えた。
狙うのは尾の外殻ではない。
軌条へ巻きつくために曲げられ、節の隙間が開いた一点。
断天を放つ。
細い斬線が鎖と軌条の間を抜け、狙った節だけを正確に貫いた。
大型個体の尾が途中から断たれ、金属支柱へ掛かっていた力が消える。
だが、すでに右側の軌条には深い亀裂が入り、左側の固定具も半分近く外れていた。
昇降台が大きく傾く。
中央へ固定していた荷物が滑り、手摺へ激突した。
感応術師が操作石柱へ掴まった瞬間、右側から金属の断裂音が響いた。
1本目の軌条が折れる。
続いて、昇降台を吊っていた鎖の1本が切れた。
床が斜めへ沈み、調査隊全員の身体が空洞側へ投げ出されかける。
エイルは空中から昇降台へ戻り、《衝界》を床全体へ広げた。
局所へ力を掛ければ、傾いた昇降台は回転する。
残る鎖と軌条へ荷重を分散し、床を水平へ戻す。
その間にも、大型個体が昇降台へ向かって頭部を突き出した。
顎の根元には先ほどの傷がある。
エイルは右手で長剣を振り、傷口へ遠衝斬を重ねた。
顎の片側が外れる。
残った顎板が昇降台の手摺へ食い込み、金属をまとめて引き剥がした。
大型個体が頭を振る。
昇降台が横へ引かれ、最後まで残っていた右側の鎖が大きく軋んだ。
「エイル、鎖が!」
リヴィアの声が届く。
エイルにも、切れる位置と瞬間は見えていた。
止めるために魔物を倒しても、すでに昇降台を支える設備が持たない。
鎖が断たれる。
軌条との接続部も外れた。
直径7メートルの昇降台が、調査隊と荷物を乗せたまま、深い空洞へ落下を始めた。
◇
足元から支えが消え、全員の身体が一度だけ浮いた。
次の瞬間には昇降台と同じ速度で落ち始めたため、床へ押しつけられる感覚もない。ただ周囲の岩壁と赤い光だけが、凄まじい速さで上方へ流れていく。
「中央へ集まれ!」
イェルクが叫ぶ。
盾兵たちは感応術師と斥候を囲み、互いの身体と荷物を繋ぐ。
落下先には第1降下層がある。
だが、この速度で金属台ごと激突すれば、誰も生き残れない。
大型個体は落下する昇降台の上方から追ってきていた。
壁へ脚を掛け、落下速度を調整しながら、逃げ場を失った獲物へ顎を向けている。
エイルは昇降台の縁へ立った。
下方を探知する。
第1降下層まで約130メートル。
途中には岩壁から張り出した保守用の足場が2つあり、さらに下には、昇降台を受け止めるための大きな制動枠が残されていた。
ただし制動枠の中央には、崩れた岩が大量に積もっている。
このまま落ちれば、枠へ入る前に岩塊へ衝突する。
エイルは長剣を下方へ向けた。
「全員、床へ伏せてください」
「何をする?」
「落ちる速度を止めます」
イェルクは問い返さず、全員へ従うよう命じた。
エイルは昇降台から跳び降りた。
落下している台より、さらに下へ。
暗い縦穴の中で、濃灰色の長衣が風を受けて大きく広がる。
下方の岩塊へ向け、《断天》を放った。
1本目が制動枠の中央を塞ぐ大岩を縦へ断つ。
2本目が左右から支えていた岩盤へ入り、落下先を開く。
切られた岩塊が先に崩れ、第1降下層の床へ落ちて砕けた。
大型個体がエイルを追って頭部を伸ばす。
閉じかけた顎へ長剣を差し入れ、刃の軌道を外側へ流したあと、首の傷へ3度目の断天を叩き込む。
斬線が外殻を抜け、40メートルを超える身体を頭部から数節にわたって断った。
大型個体は壁へ脚を掛けたまま力を失い、昇降台とは反対側へ傾いていく。
エイルは落下する死骸を蹴り、《空衝歩》で昇降台の下方へ回り込んだ。
残りの距離は80メートル。
昇降台の落下速度はさらに上がっている。
エイルは空中で剣を鞘へ戻し、両手を金属床の裏側へ向けた。
直接押し返すだけでは、中央へ力が集中し、昇降台そのものが折れる。
床の構造を《近域感知》で読み、格子状の金属板、外周の支柱、中央の操作石柱へ繋がる骨組みを一度に捉える。
空衝歩の反力を、1点ではなく床全体へ《衝界》で分ける。
最初の衝撃が昇降台の下へ入った。
落下速度が僅かに鈍る。
エイルは空中で位置を変え、2度目を放つ。
今度は外周へ広く力を通し、傾き始めた床を水平へ戻す。
3度目。
4度目。
空気だけでは反力が足りないため、近づいてきた岩壁へ足を当て、そこから返る力を昇降台へ送る。
金属台が大きく震えた。
それでも壊れない。
エイルの制御によって、上向きの力は床全体へ均等に広がり、落下だけを削っていく。
残り40メートル。
制動枠が迫る。
昇降台の速度は半分以下まで落ちていたが、まだ安全に着地できるほどではない。
エイルは昇降台の真下へ入り、岩壁と空中を連続して踏んだ。
最後の衝撃を、これまでより大きく放つ。
直径7メートルの金属台が、落下の中で一瞬だけ止まった。
床の上にいた者たちは、伏せた姿勢のまま身体を押しつけられ、息を詰める。
昇降台の下では。
エイルが空中に立つように身体を止め、片手を金属床へ当てていた。
暗い縦穴を吹き抜ける風の中で、暗灰色の髪と長衣だけが激しく揺れている。
彼の下には地面がない。
支える柱も、鎖もない。
それでも、9人と荷物を載せた巨大な昇降台は、深度700メートルを超える空洞の中で、完全に落下を止めていた。
リヴィアが手摺の残骸から下を覗き、言葉を失った。
「そのまま、ゆっくり下ろします」
エイルは普段と変わらない声で告げた。
再び小さな衝撃を分けて送り、昇降台を制動枠へ向けて下げていく。
残り10メートル。
5メートル。
金属台が古い制動枠の中央へ収まり、鈍い音を立てて停止した。
エイルも隣の床へ降り立つ。
着地した直後に長剣へ手を置き、周囲の反応を確認した。
「近くに動くものはいません。全員、怪我はありますか?」
誰もすぐには答えなかった。
イェルクは床へ片膝をついたまま、落下してきた縦穴とエイルを見比べている。
盾兵の1人は自分たちを受け止めた金属床へ手を触れ、壊れていないことを確かめていた。
「今のを……落下中に考えたのか?」
「下の構造は、落ちる前から少し見えてました」
「そういう問題ではない」
イェルクは立ち上がり、ゆっくり息を吐いた。
「巨大魔物を斬ったことより、今の方が理解できん」
リヴィアも昇降台から降り、エイルの腕や肩へ傷がないことを確認した。
「平気なの?」
「はい。重かったですけど、分けて止めたので問題ありません」
「重かった、で済むのね」
彼女は頭上へ続く暗闇を見上げた。
昇降台は数百メートルを落ち、支える鎖も軌条も失っている。
それをエイルは、地面へ着く前に空中で受け止めた。
力だけではない。
床を壊さず、乗っている者へ致命的な衝撃を与えず、傾きまで戻して着地させている。
高い能力値。
積み上げた技能。
空中での移動。
衝撃の制御。
そのすべてが揃って初めて可能になる救助だった。
「あなたがいなかったら、全員ここで終わってた」
「昇降台に乗る前に、下へいるのは分かってました。もっと早く大型個体を見つけられていれば、設備を壊されずに済んだかもしれません」
「反省するところが違うわ」
リヴィアは呆れたように言ったが、その声には震えが残っていた。
◇
第1降下層は、巨大な環状通路になっていた。
昇降井を囲むように石造りの床が広がり、外側には複数の研究室と保守区画が並んでいる。壁へ埋め込まれた赤い鉱石の大半は光を失っていたが、一部の記録装置はまだ動いていた。
調査隊は負傷の有無と装備を確認し、昇降台から回収できる荷物を運び出した。
幸い、擦り傷や打撲を負った者はいるものの、行動不能になるほどの怪我はない。観測器具も一部が壊れただけで、記録板と地図、食料の大半は無事だった。
感応術師が第1降下層の制御盤を調べている間、エイルは環状通路を一周し、非常階段の位置と周囲の魔物を確認した。
地上へ戻る階段は残っていた。
ただし、深度500メートル付近で大規模な崩落が起きており、現在の状態では人が通れない。岩を除去すれば道を作れる可能性はあるものの、数時間で終わる作業ではなかった。
一方、第2降下層へ向かう道は、観測区画の西側に残されている。
昇降設備ではなく、深層脈の周囲へ螺旋状に掘られた広い階段だった。
その入口には、古い記録が刻まれている。
『第1降下層 脈圧分岐観測区』
『第2降下層への進入は、収縮静穏期に限る』
『脈源外殻との接触を確認した場合、直ちに退避』
リヴィアは最後の一文を見て、眉を寄せた。
「脈源そのものではなく、外殻と書いてある」
「地形ではなく、生物だと分かっていた可能性があります」
エイルは階段の奥へ探知を伸ばした。
下方には、巨大な深層脈が幾つも集まっている。
さらに遠く。
深度1400メートル付近から、これまでとは異なる振動が返っていた。
一定の周期で収縮する、巨大な何か。
その外側を、無数の小さな反応が移動している。
そして、収縮する中心とは別に。
第2降下層の近くで、強い生物反応が1つ、こちらを向いて止まっていた。
「下に何かいます」
イェルクが短槍を握り直す。
「大きいのか?」
「脈鎧竜や天蓋鰩ほどではありません。ただ、こちらを見つけていると思います」
「この距離でか?」
「探知する種類なのかもしれません」
エイルがそう答えた直後、視界へ成長の表示が現れた。
【垂直空間における複数上位個体の連続討伐を確認しました】
【落下中の大型構造物に対する多点制動に成功しました】
【空間移動・衝撃分散・構造把握の統合精度が上昇しました】
【Lv.141 → Lv.146】
【《剣術 Lv.96 → Lv.98》】
【《魔力操作 Lv.97 → Lv.99》】
【《衝界 Lv.65 → Lv.69》】
【《近域感知 Lv.69 → Lv.71》】
【《空衝歩 Lv.10 → Lv.14》】
【《断天 Lv.1 → Lv.3》】
【空中における連続方向転換の効率が上昇しました】
【複数接触点に対する衝撃分配精度が上昇しました】
エイルは誰にも見えない状態板を短く確認し、静かに閉じた。
魔力操作は99。
剣術も98へ届いている。
どちらも、これまで長く積み重ねてきた技能だった。
次に何かを越えれば、100へ届く可能性が高い。
それが単なる数字の上昇なのか、技能そのものの変化を伴うのかは分からない。
ただ、少し前まで遠く感じていた領域が、すでに目の前へ来ている。
「どうしたの?」
リヴィアがエイルの視線へ気づいた。
「少し成長しただけです」
「数値は訊かないけど、その言い方をする時は少しじゃないでしょう」
エイルは否定せず、第2降下層へ続く階段を見た。
上へ戻る道は崩れている。
下には、こちらを認識している何かが待っている。
それでも不安より、好奇心の方が強かった。
地下720メートル。
第1降下層。
地図には、また新しい線を引ける場所が増えた。
「休憩と装備の確認が終わったら、第2降下層の入口まで見に行きませんか?」
イェルクは階段の暗闇と、無傷で立つエイルを見比べた。
「落下した直後に、もう下へ進む話をするのか」
「全員、動けますよね?」
「動けるように着地させたのは君だ」
イェルクは呆れたように言いながらも、反対はしなかった。
調査隊の者たちも、すでに昇降台の荷物を整理し、次の行動へ備え始めている。
エイルは第1降下層の地図を描きながら、さらに深い場所から返る視線のような反応を追った。
地下2400メートルにあるものへは、まだ遠い。
だが、地上から見上げていた時より、確実に近づいている。
空を断つ剣を得て。
落ちる足場さえ止め。
剣術と魔力操作は、次の境界へ届こうとしている。
深層の暗闇にいる何かもまた、近づいてくるエイルの存在を、すでに見逃してはいなかった。




