第148話 剣の境界
第1降下層へ着いた調査隊は、すぐに第2降下層へ向かったわけではなかった。
崩落した昇降台から荷物を回収し、負傷の有無を確かめ、地上へ戻る非常階段と下層へ続く螺旋階段の双方を調べる。もし先へ進んだあとで退路を失えば、地下720メートルという深さそのものが敵になるため、イェルクは休憩より先に帰還経路の確認を命じた。
盾兵たちは非常階段へ入り、崩落地点までの床と壁を1枚ずつ叩きながら、荷重へ耐えられる場所へ金属杭を打ち込んでいく。
感応術師のカレドは、止まっていた脈圧灯へ携帯魔石を接続し、周囲を流れる深層脈の圧力を色の変化として表示させた。赤い光が強くなる時間帯には岩盤の亀裂が広がり、青へ近づけば短時間だけ安定することまで、古い記録と照合しながら突き止めている。
リヴィアともう1人の斥候であるナシュは、環状通路の部屋を順番に調べ、使える資材、残された記録、魔物が入り込める穴を地図へ書き込んでいた。
エイルが環状通路を一周して戻った時には、退避地点が3か所決まり、崩落した階段には仮設の綱が張られ、第2降下層へ向かう際の荷物まで必要なものだけに絞られていた。
誰かに指示されるまで待っている者はいない。
それぞれが自分の役割を理解し、ほかの者が何を必要とするかまで考えながら動いている。
エイルは、彼らが第3調査拠点まで到達できた理由を、改めて実感した。
この深層では、強い魔物を倒せるだけでは進めない。
地形を記録し、崩落を予測し、道を作り、傷ついた者を運び、全員が戻るための経路を残す必要がある。エイル1人なら別のやり方で越えられる場所も多いが、調査隊は複数人で生きて帰るための技術を積み重ねていた。
「非常階段は、すぐには使えない」
崩落地点から戻ったイェルクが、環状通路の地図へ新しい線を引いた。
「深度500メートル付近で、階段が30メートル以上埋まっている。掘り進めることはできるが、最低でも2日は必要だ」
「脈圧が高い時間に掘ると、上から追加で崩れます」
カレドが脈圧灯を示した。
「作業するなら、6時間後から始まる静穏期に合わせるべきです。今から全員で取り掛かるより、第2降下層の入口だけ確認して戻る方がいいでしょう」
イェルクはエイルへ顔を向けた。
「下にいる反応は、動いたか?」
「同じ場所にいます。こちらを見ている感じはありますが、上がってくるつもりはなさそうです」
「距離は?」
「螺旋階段を進んで600メートルほどです。直線なら、その半分より少し遠いくらいですね」
「その途中に、ほかの魔物は?」
「小さい反応が多いです。30体以上いますが、ほとんどは壁の中にいて、同じ種類だと思います」
イェルクは全員の状態を確認したあと、第2降下層の入口まで進むことを決めた。
非常階段の復旧は帰還後に行い、今は脈源側の様子を確認する。先へ続く道が完全に失われているなら、地上へ戻る作業を優先しなければならない。
調査隊は食料と野営具の大半を第1降下層へ残し、戦闘と測量に必要な装備だけを持って、西側の螺旋階段へ向かった。
◇
第2降下層へ続く階段は、巨大な深層脈を囲むように作られていた。
中心には直径20メートル近い赤い鉱脈が垂直に伸び、その周囲を幅5メートルほどの石段が螺旋状に下っている。外側には腰の高さまで石壁があったものの、何か所も欠け、暗い空洞へ直接繋がっていた。
深層脈は一定の明るさを保っていない。
西から届く脈動に合わせて赤い光が膨らみ、数秒遅れて弱まる。そのたび階段の内側から低い軋みが響き、積み重なった石材が僅かに位置を変えた。
先頭にはナシュとリヴィアが立った。
ナシュは長い棒で階段の前方を叩き、表面だけ残って内部が崩れている石を見分けていく。リヴィアは深層脈の明滅を数え、カレドが記録した圧力周期と照らし合わせながら、歩みを止める位置を決めていた。
「次の膨張まで25秒。あの張り出しまで進んで、そこで待つ」
リヴィアの指示に従い、全員が一気に階段を下る。
盾兵たちは前後へ分かれ、中央にカレドを入れながら、欠けた外壁側へ大盾を向けていた。足場が崩れた時には盾を床へ渡し、短い橋として使えるよう、腕へ固定する帯も外している。
エイルは隊列の中央より少し前に入り、《警戒圏》を上下へ広げていた。
彼が地形のすべてを決める必要はなかった。
石段の状態はナシュが見ている。
脈圧の周期はリヴィアとカレドが読んでいる。
エイルが担うのは、その外側にある危険だった。
3度目の停止地点へ入った時、壁の中にいた小さな反応が一斉に動いた。
「内側から来ます。数は32です」
「大きさは?」
「1メートル前後。階段の下と上へ分かれています」
イェルクが槍を抜いた。
「盾兵は前後へ2人ずつ。リヴィアとナシュは内壁側、カレドは中央で術式を準備しろ。エイルは大型の反応を見ていてくれ」
「分かりました」
石壁へ細い亀裂が走り、灰白色の小型魔物が次々と姿を現した。
丸い胴体の周囲へ6本の脚を持ち、頭部からは岩へ穴を開ける細長い嘴が伸びている。外殻は薄いが動きが速く、壁を走る際には脚の先から魔力を流し、石材へ身体を吸いつけていた。
最初の群れが下側から階段へ上がる。
前方の盾兵2人は、段差へ大盾の下端を噛ませ、並べた盾を斜めの壁として固定した。
小型魔物が勢いのまま盾へ衝突する。
先頭の数体が跳ね返され、後続の動きが止まった瞬間、盾の隙間から長槍が続けて突き出された。外殻の薄い腹部を正確に貫き、魔物を階段の外へ押し出していく。
上側から来た群れへは、ナシュが油を染み込ませた細い綱を投げた。
綱は階段の幅いっぱいへ広がり、先頭の脚へ絡みつく。
転倒した魔物へ後続が重なったところで、リヴィアが3本の矢を異なる高さへ放った。
矢尻から展開した青い術式が綱を石段へ縫い止め、10体近い魔物の動きをまとめて封じる。
「カレド!」
「準備できています!」
カレドが杖を石段へ突き立てた。
深層脈から溢れていた魔力の一部が術式へ引かれ、階段の内壁に沿って薄い衝撃が走る。動きを止められていた魔物だけが石壁から剥がれ、外側の空洞へ落下した。
残る個体は隊列の左右へ回り込もうとしたが、イェルクと盾兵たちが隙間を作らず、槍と盾打ちで順番に仕留めていく。
エイルが剣を抜く必要はなかった。
隊列へ入った魔物は1体もなく、わずかな時間で32の反応が消えていく。
「上は終わり!」
「下も残り2体だ!」
最後の個体をイェルクの槍が石段へ縫い止めた。
戦闘が終わると、盾兵たちはすぐに外殻と血を階段の端へ退け、ナシュが傷ついた綱を新しいものへ交換する。リヴィアは矢を回収しながら、魔物が現れた亀裂の位置を地図へ記録していた。
カレドも、放った術式によって深層脈の圧力がどれほど変化したかを記録板へ書き込んでいる。
誰も勝利へ浸って立ち止まらない。
戦った直後から、次に同じことが起きた時のために情報を残していた。
「これくらいなら、俺たちだけで処理できる」
イェルクは槍の穂先を拭い、エイルへ視線を向けた。
「君には、下の大きい反応へ集中してもらった方がいい」
「はい。今の戦闘中に少し動きました」
「近づいているのか?」
「逆です。入口の前へ下がりました。僕たちが戦う様子を見ていたのかもしれません」
リヴィアが弓を背中へ戻した。
「こちらの戦力を測ってる?」
「その可能性はあります」
「なら、普通の魔物ではないわね」
エイルはさらに下へ感知を伸ばした。
強い反応は1つ。
だが、その周囲には魔力だけで作られた細い線が幾つも広がり、階段の壁と第2降下層の扉へ繋がっている。
まるで、自分の身体だけでなく、周囲の構造まで感覚器として使っているようだった。
◇
螺旋階段をさらに下ると、途中から石段の損傷が増えた。
外壁が失われた場所では、ナシュが2本の杭を打ち込み、持ってきた綱を手摺代わりに張る。段差が完全に抜けている箇所では、盾兵たちが大盾を横へ並べ、イェルクとリヴィアが両端を固定した。
エイルは最後に渡り、後方の魔物が追ってこないことを確認する。
彼がすべての足場を作らなくても、隊は速度を落としすぎることなく進んでいた。
第2降下層の入口へ到着したのは、第1降下層を出てから2時間ほど経った頃だった。
螺旋階段の終点には、幅30メートル、高さ15メートルほどの石門が残されていた。
門の中央には、深層脈を模した赤い線が幾重にも刻まれ、その前へ巨大な魔物が身体を伏せている。
全長は18メートルほど。
姿は蜥蜴に近いものの、頭部には眼球がなく、代わりに白い結晶で作られた半球状の器官が6つ並んでいた。背中からは長い触腕が8本伸び、それぞれの先端が石壁や階段、扉の術式へ接続されている。
4本の脚は細く見えるが、関節の周囲へ圧縮された筋肉が幾重にも重なり、動かずとも瞬発力の高さが伝わってくる。口は顔の下半分を横へ割るように開き、内部には剣に似た薄い歯が何列も並んでいた。
エイルが探知していた強い反応は、この魔物だった。
仮に《脈眼守宮》と呼ぶことにする。
脈眼守宮は、調査隊が視界へ入ってもすぐには襲ってこなかった。
頭部の白い結晶が順番に明滅し、8本の触腕を通して周囲の魔力と振動を読んでいる。
「扉の番をしているように見えるな」
イェルクは階段の幅と、魔物までの距離を確認した。
「避けて通る道は?」
「ありません。扉を開ける術式へ触腕を繋いでいます」
カレドが石門を調べる。
「無理に触腕を外すと、封鎖術式ごと崩れるかもしれません。門の向こうが深層脈へ直結しているなら、圧力が一気に流れ込む可能性があります」
「倒すだけでは足りないのか」
「触腕を4本以上残した状態で本体の動きを止め、私が接続を解除します」
イェルクはすぐに役割を分けた。
「盾兵は正面で頭部を止める。俺とナシュは右側の脚、リヴィアは左側の脚へ印を付けろ。触腕は切るな。カレドが解除できるまで、壁から離させない」
最後にエイルを見る。
「君には本体を止めてもらう。ただし、門を巻き込むような大技は避けてくれ」
「分かりました」
エイルが長剣を抜く。
脈眼守宮の白い結晶が、同時に彼へ向いた。
◇
盾兵たちが前へ出た瞬間、脈眼守宮の姿が消えた。
実際に消失したのではない。
細い4本の脚で石床を蹴り、18メートルの巨体とは思えない速度で距離を詰めたのだ。
盾兵たちは反応していた。
最前列の2人が大盾を重ね、残る1人が斜め後方から支える。巨体の突進を真正面から受けるのではなく、接触と同時に盾を傾け、進路を石門から外側へ流した。
脈眼守宮の肩が盾列へ当たる。
3人の足元から石片が飛んだものの、隊列は崩れない。
イェルクとナシュが右の前脚へ回り、槍と短剣を同時に関節へ入れる。外皮は硬かったが、リヴィアが反対側から放った矢が左脚の腱を正確に捉え、巨体の重心が僅かに沈んだ。
「今です!」
カレドが4本の封鎖杭を投げる。
杭は魔物ではなく、石門の前へ正方形を作るように刺さった。青い線が杭同士を繋ぎ、脈眼守宮の身体と門を分離する薄い障壁を作る。
これで魔物が暴れても、石門へ直接衝撃が伝わりにくくなる。
調査隊は、最初からエイルが倒すまで耐えるだけの動きをしていなかった。
盾兵が巨体を受け流し。
斥候が脚を削り。
術師が戦場そのものを切り分ける。
それぞれの動きが噛み合い、脈眼守宮を門から数メートル引き離していた。
エイルはその間に、8本の触腕と頭部の結晶を見ていた。
脈眼守宮は視覚だけで相手を捉えていない。
触腕から拾った振動と魔力を重ね、調査隊全員の次の動きを読んでいる。
イェルクが槍を引く前に頭部を下げ、リヴィアが矢を放つ瞬間には脚を僅かにずらしている。盾兵の重心が右へ寄れば、その側へ肩を押し込もうとする。
エイルが踏み込むと、脈眼守宮の反応がさらに早くなった。
長剣が届く前に頭部が動き、剣筋から外れる。
続く尾の一撃も、エイルの回避先へ先回りするように振られた。
エイルは《空衝歩》で軌道を変え、尾の上を越える。
空中から《遠衝斬》を放ったが、脈眼守宮は触腕の1本を石壁から離し、斬撃の進路へ差し込んだ。
触腕が半ばまで断たれる。
その代わり、本体は無傷だった。
「エイルの攻撃だけ、優先して読んでる!」
リヴィアが矢を放ちながら叫ぶ。
「強い反応から順番に見ているみたいです」
脈眼守宮にとって、最も危険なのはエイルだと分かっている。
だからこそ、ほかの者の攻撃を受けても、エイルの剣だけは先に避ける。
しかし、その判断は調査隊にとって不利なだけではなかった。
「なら、こちらを見させ続けてください!」
イェルクの声に合わせ、盾兵たちが一斉に踏み込む。
3枚の大盾が頭部と胸へ当たり、巨体を押し返した。ナシュの短剣が右脚の同じ傷へ入り、リヴィアの矢が左脚の関節をさらに深く貫く。
脈眼守宮はエイルから意識を外さないまま、脚だけで攻撃を耐えようとした。
その間に、カレドが石門へ繋がる触腕の根元へ接近する。
「解除を始めます! 30秒だけ、位置を固定してください!」
脈眼守宮がカレドへ顔を向けようとした。
エイルは長剣を振る。
刃が届く前に、魔物は再びこちらへ反応した。
頭部が逸れ、白い結晶がエイルの動きを追う。
その瞬間、イェルクの槍が右の前脚を貫いた。
盾兵の1人が傷ついた左脚へ盾を打ち込み、巨体の姿勢を崩す。
リヴィアの矢が3本続けて飛び、頭部の白い結晶のうち2つを砕いた。
全員が、自分たちへ向けられた隙を使っている。
脈眼守宮は触腕からさらに多くの情報を吸い上げ、失った結晶を補おうとした。
石門へ繋いでいた8本すべてが強く発光する。
直後、エイルの感知へ大量の偽反応が流れ込んだ。
正面。
左右。
頭上。
石床の下。
本体と同じ魔力を持つ反応が、数十へ分かれて戦場全体へ広がる。
《魔力感知》だけでは、本体の位置が埋もれる。
《振動感知》にも、触腕が石壁へ流す偽の足音が重なった。
脈眼守宮が動く。
盾兵の間を抜け、解除を続けているカレドへ向かった。
「右ではありません、左から来ます!」
エイルの声に、カレドが杖を離さず身体だけを沈める。
脈眼守宮の爪が頭上を通り過ぎた。
イェルクの槍が脇腹へ入り、盾兵が後脚へ体当たりを重ねる。
偽反応の中でも、エイルは本体を見失っていなかった。
魔力も振動も偽装できる。
だが、18メートルの肉体が空気を押し、石床へ荷重を掛ける事実までは消せない。
さらに《危機感知》が示す方向と、味方の視線、舞い上がる砂、触腕へ流れる力を重ねれば、本物の動きだけが浮かび上がる。
「解除まで残り15秒!」
カレドの声が響く。
脈眼守宮は、自分を固定している者たちを先に排除することへ切り替えた。
8本の触腕が石壁から外れる。
「待ってください、全部外すと門が!」
カレドが叫んだが、魔物は止まらなかった。
解除が終わる前に触腕を引き抜き、石門の封鎖術式ごと引き裂こうとしている。
赤い線へ亀裂が走った。
門の向こうから、強い脈圧が漏れ始める。
同時に8本の触腕が鞭のように広がり、調査隊全員へ別々の角度から襲い掛かった。
盾兵は前方の3本を止める。
イェルクとナシュが右側の2本へ武器を合わせる。
リヴィアはカレドへ向かう1本を矢で逸らした。
残る2本。
1本は石門の封鎖杭へ。
もう1本は、崩れた螺旋階段の根元へ向かっている。
どちらかを通せば、門か退路が失われる。
エイルは石床を蹴った。
最初の触腕を長剣で斬り上げ、そのまま空中へ出る。身体を返しながら2本目へ刃を向け、触腕が階段へ届く直前に切断した。
しかし脈眼守宮は、それすら読んでいた。
エイルが2本を斬る間に、本体がカレドへ踏み込む。
巨大な口が開き、剣のような歯が術師の身体へ迫った。
リヴィアが射線へ入ろうとする。
盾兵も間に合わない。
エイルは空中から《空衝歩》を放った。
脈眼守宮の横へ降りる。
長剣を振るより先に、魔物の白い結晶が動き、回避のため頭部を後方へ引いた。
また読まれている。
だが、今度のエイルは、剣を振ろうとしていなかった。
鞘へ戻す。
踏み込み直す。
脈眼守宮の結晶が、初めて反応を迷わせた。
◇
剣を抜く動きへ反応して避けるなら、抜く前に間合いへ入ればいい。
魔力の高まりを読んで先回りするなら、斬る瞬間まで刀身へ何も集めなければいい。
エイルは脈眼守宮の頭部へ手が届くほど近づいた。
魔物が爪を振る。
身体を沈め、最小限の動きで外す。
尾が背後から来る。
振り返らず半歩だけ位置を変え、頬の横へ通す。
触腕の1本が頭上から落ちる。
鞘のまま受け流した。
エイルの感知には、偽反応が今も満ちている。
それでも必要な情報だけを選べば、目の前の身体がどう動くかは分かった。
脈眼守宮はエイルの剣を恐れ、すべての意識を抜刀の兆しへ集めている。
だから、剣以外の動きが遅れていた。
エイルは左手を頭部へ触れさせた。
《纏刃》を掌へ作る。
白い結晶の1つが切断される。
続けて肘で2つ目を砕く。
脈眼守宮が初めて明確に怯み、距離を取ろうと後脚へ力を移した。
その足元へイェルクの槍が入る。
「下がらせるか!」
右脚が石床へ縫い止められた。
左側では、リヴィアとナシュが残る脚へ矢と短剣を重ねる。盾兵たちも正面から身体を押し、カレドと石門の間へ入らせない。
30秒を作るため、全員が動いている。
エイルが1人で敵を倒すまで待っている者はいなかった。
「解除、終わります!」
カレドが最後の術式を回す。
石門へ繋がっていた触腕の周囲へ青い輪が生まれ、魔物側から流れていた魔力が遮断された。
8本の触腕が力を失う。
石門の亀裂も広がらず、漏れていた脈圧が少しずつ収まっていく。
その瞬間、脈眼守宮のすべての結晶がエイルへ向いた。
門との接続を失ったことで、偽反応は消えている。
代わりに、残った魔力を本体へ集め、最後の突進を放とうとしていた。
盾兵たちを正面から押し退け、イェルクの槍を脚ごと引き抜く。
18メートルの巨体が、カレドと石門へ向かって走り始めた。
「退避しろ!」
イェルクが叫ぶ。
カレドは解除した術式から手を離せず、動けない。
脈眼守宮と石門の間にいるのは、エイルだけだった。
長剣はまだ鞘に収まっている。
リヴィアが矢を放ったが、頭部の外殻へ弾かれた。
盾兵たちも追うものの、距離がある。
脈眼守宮が迫る。
エイルは逃げなかった。
鞘へ添えた左手を動かさず、右手だけで柄を握る。
これまでなら、剣を抜き、構え、斬撃へ力を重ねていた。
今は、その3つを分ける必要がないことが分かった。
抜刀の軌道が、そのまま最短の斬線になる。
身体強化も魔力圧縮も、先に表へ出す必要はない。
刃が鞘を離れる一瞬にだけ、すべてを剣へ揃えればいい。
脈眼守宮が間合いへ入った。
白い結晶がエイルの右手を捉え、抜刀の直前へ反応する。
頭部を逸らそうとした。
遅い。
エイルの長剣が鞘を離れた。
周囲から見れば、刃が一度だけ淡く光ったようにしか見えなかった。
しかし次の瞬間、脈眼守宮の頭部を覆っていた残りの結晶が、すべて同じ高さから滑り落ちた。さらに斬線は首の外殻を通り、胸部の奥へある魔力中枢まで、ずれることなく伸びている。
巨体はエイルの横を通り過ぎた。
石門まで、残り5メートル。
そこで前脚が折れた。
脈眼守宮の身体が石床へ沈み、走っていた勢いだけで数メートル滑る。
エイルは振り返らず、長剣を鞘へ戻した。
その背後で、魔物の頭部が胴体から外れた。
◇
石門の前へ静寂が戻った。
カレドは解除術式へ両手を置いたまま、目の前で止まった巨体を見つめていた。
盾兵たちは追撃へ備えて武器を構えていたが、脈眼守宮から生命反応はすでに消えている。
リヴィアが弓を下ろし、エイルと魔物の間に残った距離を見た。
「今、剣を抜いた?」
「はい」
「見えなかった」
「相手が、抜く前ばかり見ていたので」
エイルは脈眼守宮へ近づき、首の切断面を確認した。
外殻だけではない。
筋肉、骨、魔力中枢まで、1本の斬線がほとんど同じ幅で通っている。近距離で放つ《断天》に似ているが、斬撃を飛ばしたわけではなく、実体の剣そのものが最短の軌道で中枢へ届いていた。
余分な動きがない。
力を溜める時間もない。
ただ剣を抜き、必要なものだけを斬った。
「俺たちが脚を止め、触腕を押さえ、門との接続を切った」
イェルクが脈眼守宮の前脚から槍を抜いた。
「だが、最後の突進は止められなかった。あれを1人で終わらせたことまで、隊全体の成果へ混ぜるつもりはない」
「皆さんが固定してくれなければ、解除は間に合いませんでしたよ」
「それも事実だ」
イェルクは否定しなかった。
「俺たちは、君にここまで運ばれてきたわけじゃない。それぞれの仕事をして、ここまで降りてきた。だが、俺たちだけでは届かない最後の一線があることも、認めなければならない」
盾兵の1人が、切断された魔物の頭部を見下ろした。
「それを任せる相手がいるなら、俺たちは自分の持ち場へ集中できる」
「逆も同じです」
エイルは石門へ繋がる解除術式を見た。
「僕1人なら、門を残したまま倒せたか分かりません」
脈眼守宮だけを倒すなら、もっと早く大きな攻撃を使えた。
しかし石門を傷つけず、封鎖術式を保ち、全員が先へ進める状態を残すためには、カレドの解除と、ほかの者たちの固定が必要だった。
強さの役割が違う。
エイルが全員の代わりをする必要も、調査隊がエイルと同じ一撃を放つ必要もなかった。
◇
【上位感知個体による複合偽装の突破を確認しました】
【集団戦闘における攻撃機会の最適化を確認しました】
【抜刀・強化・圧縮・斬撃の完全同時化に成功しました】
【《剣術 Lv.98 → Lv.100》】
【《魔力操作 Lv.99 → Lv.100》】
【技能が上位段階へ到達しました】
【剣術動作における予備動作が大幅に減少しました】
【魔力操作における発動遅延が大幅に減少しました】
【《魔力圧縮 Lv.85 → Lv.88》】
【《近域感知 Lv.71 → Lv.74》】
【《危機感知 Lv.35 → Lv.37》】
【Lv.146 → Lv.152】
エイルは視界へ現れた表示を、誰にも見せずに確認した。
剣術と魔力操作。
旅を始めた頃から使い続けてきた2つの技能が、同時に100へ届いている。
数字が上がっただけではなかった。
剣を振ろうと考えてから身体が動くまでの間が薄れ、魔力を集めようと意識した時には、すでに必要な位置へ必要な量だけが揃っている。
先ほどの抜刀も、意図して新しい技を作ろうとしたわけではない。
相手へ届く最短の動きを選んだ結果、強化、圧縮、刃筋、踏み込みが、自然に同じ瞬間へ重なっていた。
剣術が100へ届いたことで、これまで別々に整えていた動作が、1つへ纏まり始めている。
魔力操作も同じだった。
技能を切り替えるのではなく、必要な力が必要な形で剣へ現れる。
《断天》の発動も、以前より速くなるだろう。
《地鳴り》の経路制御も、さらに多く、さらに複雑に扱えるはずだった。
エイルは状態板を閉じた。
「また何か変わった?」
リヴィアが、こちらを見ている。
「剣が少し、使いやすくなりました」
「少しという顔ではないわね」
「数字は言いませんよ」
「聞いてないでしょう」
リヴィアは苦笑したものの、それ以上は追及しなかった。
◇
カレドが石門から触腕の残骸を取り除き、古い開閉術式を調べる。
脈眼守宮が長く接続していた影響で一部は変質していたが、封鎖機構そのものは残っていた。
4本の封鎖杭を正しい位置へ打ち直し、リヴィアとナシュが石門の両側へある補助術式を同時に起動する。盾兵たちは門の前へ並び、開いた瞬間に魔物が現れても対処できるよう構えた。
イェルクが全員の位置を確認する。
「開けろ」
カレドが操作石へ魔力を流した。
巨大な石門が中央から左右へ分かれ、低い音と共に動き始める。
最初に流れ出したのは、強い風ではなかった。
温かく、湿った空気。
続いて、これまでより遥かに濃い魔力が、霧となって門の隙間から溢れてくる。
盾兵たちは一歩も下がらない。
リヴィアとナシュは弓を構えたまま、開いていく視界の奥を見ていた。
石門の向こうには、地下とは思えないほど広い空間があった。
天井は見えない。
遠方には赤い深層脈が巨大な樹木の根のように絡み、幾つもの岩盤を空中へ吊り下げている。
そして空洞の中央。
距離も大きさもすぐには判断できないほど巨大な、黒い壁が広がっていた。
岩壁ではない。
表面には規則的な筋が走り、脈動へ合わせて僅かに動いている。
過去の記録へ残されていた、脈源外殻。
それは地形の一部ではなく、明らかに生物の身体だった。
エイルは《魔力感知》を広げた。
黒い外殻は空洞の左右と地下へ続き、現在見えているものだけでも数百メートルを超えている。
さらに表面を、小さく見える無数の反応が移動していた。
小さいといっても、1体ずつが人間を越える大きさを持っている。
空洞の奥で、巨大な身体が収縮した。
深層脈の光が一斉に引かれる。
数秒遅れて。
第1降下層から地上まで何度も感じてきた脈動が、目の前から放たれた。
調査隊の全員が、石門の前で息を止める。
エイルは長剣の柄へ手を置き、巨大な外殻を見上げた。
ようやく。
大地を揺らしていたものへ、剣の届く場所まで来た。




