第143話 見えている戦場
深層大地へ降りてから初めて、人の手で組まれた寝台の上で夜を越したエイルは、拠点の起床鐘が鳴るよりも少し早く目を覚ました。
大型個体との防衛戦から《断脈豹》の討伐まで、休息を挟まず戦い続けた身体には疲労が残っている。それでも左腕と脇腹の裂傷は《自己治癒》によって塞がり、圧縮した《高密度強化》を何度も通した脚や背中にも、動きを妨げるほどの痛みはなかった。
寝台から起き上がる前に周囲へ意識を広げると、建物の床や基礎へ伝わる振動が、拠点の朝を輪郭として返してくる。
隣室では2人が装備を整え、廊下の先では夜番を終えた兵士が3人、足音を抑えながら宿舎へ戻っている。外ではすでに外壁の修復が始まり、金属板を叩く槌の音と、資材を載せた荷車の車輪が地面を擦る振動が、互いに混じりながら広がっていた。
エイルが《振動感知》を拠点の外側へ伸ばすと、北門から約400メートル離れた場所を巡回している4人の歩調まで分かる。
ただし、距離を伸ばすほど細部は薄くなった。
深層脈が幾重にも交わるこの土地では、地面そのものが常に大量の魔力と振動を運んでいる。近距離なら人間の足裏へ掛かる重さや装備の揺れまで拾えるものの、1キロ、2キロと離れれば、静止した人間や小動物の反応は自然魔力の中へ埋もれていく。
何もかもを遠くまで見通せるわけではない。
昨日、第6測量班の存在を岩山の向こうから捉えられたのは、彼らが全力で走り、複数の魔物と戦い、さらに地面を強く揺らす大型個体まで接近していたからだった。
それでも、条件が整っていれば2キロを超える距離から、人間の集団と魔物の群れを分離して認識できる。
かつてのエイルにはできなかったことだ。
《魔力感知》《振動感知》《警戒圏》を別々に広げるのではなく、深層脈を通る魔力、岩盤を伝わる振動、危険の方向を示す《危機感知》を重ねることで、遠方の強い反応が1つの景色として結びつくようになっている。
近づけば、その景色はさらに細かくなる。
敵の数や進行方向だけでなく、身体のどこへ重心を移し、次にどの脚を出そうとしているかまで、複数の可能性として浮かび上がることがあった。
確定した未来を見ているわけではない。
現在ある情報を、以前とは比べものにならない速さで組み上げているだけだ。
エイルが長衣を身につけ、長剣を腰へ下げたところで、扉が2度叩かれた。
「起きてる?」
「はい」
扉を開けると、軍用の軽装へ着替えたリヴィアが、丸めた地図を片腕へ抱えて立っていた。
彼女はまずエイルの顔を見たあと、包帯の残る左腕と、すでに旅装を整えている姿へ順番に視線を移す。
「朝から外へ出ようとしていたわけじゃないでしょうね」
「朝食へ行こうと思ってました」
「それならいいわ。食事のあと、セヴェル隊長が昨日の件について話を聞きたいそうよ」
「第6測量班と《断脈豹》のことですか?」
「それもあるけど、主にあなたの探知について」
エイルは廊下へ出ながら首を傾げた。
「探知ですか?」
「岩山を2つ挟んだ場所から、2キロ以上離れていた第6班を見つけたでしょう。しかも人間が7人、追っている魔物が6体、その後方に別の大型個体がいるところまで分けていた」
「あの時は全員が走っていて、戦闘の振動も大きかったですから」
「条件が良ければ誰にでもできるような言い方をしないで。ここの熟練斥候でも、同じ場所から分かるのは、遠くで何か大きな戦闘が起きているかもしれない、という程度よ」
「僕も顔や装備まで見えていたわけではありませんよ」
「2キロ先で右脚を庇っている人間がいると分かっていたでしょう」
「着地の振動が片方だけ浅かったので」
リヴィアは歩きながら、呆れたようにエイルを見た。
「それを異常だと言っているの」
以前のリヴィアも、エイルの探知能力が普通ではないことを知っていた。
彼女が隠れて接近しても先に気づかれ、地面の下へ潜む魔物を姿が現れる前に捉え、矢を放とうとした時には射線から味方を外している。だが、当時の異常さは、戦闘範囲を誰より深く把握しているというものだった。
今は範囲そのものが広がっている。
さらに広くなっただけではなく、遠方では集団の規模と進路を読み、近距離では1人ずつの動きを分けるという、距離に応じた使い分けまで身につけていた。
「前に会った頃より、どれくらい伸びたの?」
「状態板を確認しないと正確には分かりませんが、感知の数値だけなら1000以上は上がってると思います」
リヴィアの足が僅かに止まった。
「1000以上?」
「はい」
「あなた、前に会った時から感知だけは、同じくらいの実力の冒険者と比較できないほど高かったでしょう」
「西へ来てから、感知を使わないと進めない場所が多かったので」
「それだけで説明できる伸び方ではないわね」
エイルは返事をせず、前を向いた。
異常な成長速度の理由まで話せば、《越境》へ触れなければならない。
リヴィアは信頼できる相手だったが、ユニークスキルの名前と性質を明かすかどうかは、廊下を歩きながら決めていいことではない。今は、成長が速いという外から見える事実だけで十分だった。
リヴィアも、それ以上は追及しなかった。
「無理に聞くつもりはないけど、自分の変化を小さく言う癖は直した方がいいわ」
「小さく言ってるつもりはありませんよ」
「それが一番困るの」
◇
朝食を終えたあと、エイルとリヴィアは測量塔の1階へ向かった。
昨夜、エイルが持ち込んだ地図を広げた部屋には、拠点長のセヴェルと、斥候をまとめているイェルク、それから測量局所属の感応術師が2人待っていた。
イェルクは50歳前後の痩せた男で、左目には距離測定用の単眼鏡を着け、背中へ短槍と弓を下げている。昨日の防衛戦では西側の外壁へいたらしく、頬には結晶狼の爪で裂かれた新しい傷が残っていた。
「昨日は礼を言う余裕もなかった。第6班を見つけ、救出まで手を貸してくれたことに感謝する」
「僕も拠点へ助けてもらってますから、お互い様です」
「その言葉で、大型個体と断脈豹の討伐まで同じ重さにされると困るが、今は探知について確認させてくれ」
机には拠点周辺の地図が広げられていた。
セヴェルが示したのは、昨日エイルが大型個体を倒した外壁前と、第6測量班が追い詰められていた場所だった。2点の間には岩山が2本あり、地図上の直線距離は約2.4キロになる。
「大型個体と戦っている最中、君はこの位置から第6班の存在へ気づいた。それで間違いないか?」
「最初に拾ったのは、もっと東です。人間らしい複数の反応が魔物に追われているところまでは分かりました。拠点へ近づいたあと、人数を分けられるようになりました」
イェルクが地図へ指を置く。
「この辺りか?」
「もう少し東です」
「なら、2.8キロ近い」
「その時は人数までは分かってません。人間の集団がいて、追う魔物が複数いる程度です」
「十分おかしいな」
イェルクは低く呟き、続けて尋ねた。
「7人だと判断した時、何を見ていた?」
「鎧を着た3人は足音が重く、そのうち1人だけ右脚の着地が浅かったです。残る4人は歩調が違い、荷物の中で測量器具に近い金属音がしていました」
「それを2キロ先から?」
「岩盤と深層脈が繋がっていましたし、全員走っていたので、静かに歩かれるより分かりやすかったです」
「俺たちが訊いているのは、なぜできたかではない。どこまでできるようになっているかだ」
イェルクの声に疑いはなかった。
理解できないものを否定しているのではなく、斥候として正確な範囲と限界を知ろうとしている。
エイルは少し考えてから、距離ごとの違いを説明した。
「数キロ先で拾えるのは、大型個体や、走っている群れ、戦闘中の集団みたいな強い反応です。静止している1人を見つけるのは難しいですし、地面に大きな断層があれば距離はかなり落ちます。1キロ以内なら、岩盤が繋がっていれば人数や移動方向を分けられます。数百メートルまで近づけば、歩幅や装備の重さ、怪我で崩れた動きも読みやすくなります」
感応術師の1人が、机の端へ置かれた記録板を見下ろした。
「拠点では地中へ感応杭を6本打ち、術師が交代で維持して、ようやく1.5キロ先の大型反応を警戒しています。それでも魔物の数や進行方向を正確に分離することはできません」
「杭は広い範囲をずっと見ていられるので、僕より便利だと思いますよ」
「そこを比較しているわけではない」
感応術師は真顔で答えた。
リヴィアが机の反対側から地図を覗き込み、昨日の第6班の位置へ指を置く。
「エイルは遠くの反応だけでなく、近づいてからの精度も以前より上がっています。断脈豹と戦った時は、魔力の流れを切られたあとでも、爪が通る位置を身体の動きだけで読んでいました」
「以前からできたのか?」
イェルクに訊かれ、リヴィアは首を振った。
「近距離の動きを読む能力は前から高かった。でも、私が知っている頃は、数キロ先の集団を見つけた情報と、目の前の敵の次の一歩を同じ感覚の中で繋げてはいなかったと思う」
エイル自身にも、その違いは分かっていた。
探知範囲が広がっただけなら、遠くの情報が増えるほど近くへの集中は薄れるはずだった。だが今は、広い範囲へ薄く《警戒圏》を維持しながら、危険が近づいた瞬間だけ《近域感知》と複数の感知技能を重ね、必要な場所へ精度を集められる。
常にすべてを詳しく見るのではない。
広い地図の中から異常を拾い、その一点だけを急速に拡大している。
セヴェルは説明を聞き終えると、拠点の北西へ印を付けた。
「その能力を頼りにしたい調査がある。昨日の群れは、拠点を襲う目的で移動してきたのではなく、断脈豹を含む別の捕食者に追い立てられていた可能性が高い」
印の周囲には、深層脈の流れを示す3本の線が描かれている。
「第6班は、この場所で脈の流れが前日と逆転していることを確認した。地表の岩盤が動く例は多いが、深層脈そのものが短期間で逆流する現象は珍しい。原因を放置すれば、別の魔物が再び拠点側へ押し出される」
「そこまで調べに行くんですね」
「今日は逆流地点の手前までだ。イェルク、リヴィア、護衛3人に君を加えた6人で向かい、危険が大きければ引き返す」
エイルは頷いた。
第52標を探すうえでも、深層脈の異常は無視できない。西側から流れを押し返しているものがあるなら、その先へ測量路や石標が残っている可能性もあった。
「分かりました」
◇
調査班は1時間後に拠点を出た。
先頭を歩くのはイェルクとエイルで、その後ろにリヴィアと軽装の護衛2人が続き、最後尾には大盾を持つ兵士がついている。
拠点を離れて間もなく、エイルは周囲へ《警戒圏》を薄く広げた。
近くには小型魔物が幾つかいるものの、こちらへ近づく反応はない。さらに深層脈へ《振動感知》を沿わせると、北西の遠方から、まとまった足音が返ってきた。
エイルは歩調を緩めた。
「北西に、こちらへ向かっている群れがいます」
隣を歩いていたイェルクが足を止める。
「距離は?」
「2.5キロより少し遠いです。数はまだ分け切れませんが、20体以上います」
イェルクはすぐ単眼鏡を外し、北西の岩丘へ向けた。
地形に遮られて群れそのものは見えない。
「俺には何も見えない」
「岩丘の向こうです。走っているので、もう少し待てば土煙が見えると思います」
「何から逃げているか分かるか?」
エイルは足裏から地面へ感覚を沈め、《魔力感知》を重ねた。
表層を走る複数の反応。
そのさらに下へ、長く重なった振動がある。
1体の巨大生物にも感じられたが、脚が地面へ触れる周期が完全には揃っていない。
「地中に別の群れがいます。表面を走る方より数は少ないですが、身体が長いので反応が重なっています」
「地中の数は?」
「まだ分かりません。少なくとも先頭に1体、その後ろにも同じ種類が続いてます」
数十秒後、北西の岩丘の上から鳥の群れが一斉に飛び立った。
続いて、その下へ薄い土煙が見え始める。
イェルクの単眼鏡が僅かに下がった。
「本当に来るな」
「表面の群れは23体です。大きい個体が4体、残りが19体。その4体のうち1体だけ、右後脚の動きが遅れています」
護衛たちがエイルを見た。
距離はまだ2キロ以上あり、肉眼では土煙しか見えない。
イェルクもすぐには返事をせず、単眼鏡を覗き続けた。
「見える範囲へ出た。……23体だ。後方の大きな1体が遅れている」
「以前から、こうだったのか?」
護衛の1人に訊かれ、リヴィアは首を横へ振った。
「近くの相手なら、以前から私たちよりずっと深く見ていた。でも、遠くの岩山の向こうにいる群れを数え、脚の状態まで分けるような探知ではなかったわ」
「本人は、条件が良かったと言うんだろうな」
「もう言われたわ」
イェルクは単眼鏡を戻し、群れの進路と現在地の地形を見比べた。
「こちらへ到達するまで、どれくらいだ?」
「今のままなら6分前後です。ただ、1キロ先で岩盤の境界を通るので、そこで少し遅れます」
エイルは西側にある2つの岩丘と、その間へ広がる窪地へ視線を移した。
群れが東へ進み続ければ、自然にあそこへ入る。
「窪地で進路を変えた方がいいと思います。追っている地中の魔物も、薄い岩盤へ集まるので、出てくる場所を絞れます」
「群れを拠点へ通さず、地中の敵を迎えるのか」
「はい。表面の群れは、こちらを襲うために来ているわけではありません」
イェルクは短く考えたあと、すぐに指示を出した。
「窪地で迎える。リヴィアは右の岩丘へ上がれ。護衛2人は東側出口で盾を構え、残る1人は拠点へ信号を送ったあと後衛へ入れ」
全員が動き始める中、リヴィアはエイルの隣へ残った。
「あなたは?」
「窪地の中央で群れを誘導します」
「そのあと地中から出てくる場所でもあるでしょう」
「近い方が細かく分かりますから」
「探知が伸びても、立つ場所の選び方は変わらないのね」
「危なくなったら動きますよ」
リヴィアはため息をついたあと、短弓を手に岩丘へ駆け上がった。
◇
最初の群れが窪地へ現れたのは、エイルの予測から大きく外れなかった。
体長2メートルほどの四足獣が、背中の薄い結晶板を震わせながら全力で走ってくる。鹿に似た細い脚を持ち、頭部だけが岩を砕くための厚い骨へ覆われていた。
肉食獣ではない。
人間へ狙いを定める様子もなく、背後から迫る何かに怯え、進路上の障害物をすべて押し退けようとしている。
数は23体。
大きな4体が群れの外側へ位置し、その内側を19体が走っていた。最後尾には、エイルが遠方から捉えた通り、右後脚を傷つけた大型個体が遅れている。
「本当に23体だ……」
盾兵の1人が小さく呟いた。
エイルは群れの正面へ立ち、地面へ《衝界》を薄く広げた。
岩盤を崩すほど強くはせず、窪地の右側だけへ四足獣が嫌がる低い振動を送り、左側へ逃げ道を残す。
先頭の大型個体が頭を上げ、右側を避けた。
後続も同じ動きへ従い、護衛たちが開けた東口から南へ進路を変えていく。
最後尾の1体が窪地へ入った瞬間、《危機感知》が鋭く反応した。
「リヴィアさん、北側の岩壁、地面から3メートル下です!」
声と同時に、岩丘から矢が放たれた。
まだ何も現れていない岩壁へ矢尻が刺さる。
その直後、真下から黒い鎌脚が突き出し、岩を内側から引き裂いた。
全長5メートルほどの節足獣が、土と岩片を撒き散らしながら地上へ現れる。扁平な胴体の左右には8本の脚があり、前側の2本だけが巨鎌のように長く発達していた。頭部には4枚の顎板が重なり、その中心では赤い鉱物質の歯が噛み合っている。
リヴィアの矢は、右の鎌脚と頭部を繋ぐ関節へ深く刺さっていた。
節足獣が地上へ身体を引き上げたことで傷口が広がり、右の鎌だけが僅かに遅れる。
エイルは傷ついた四足獣と魔物の間へ踏み込み、長剣を横へ振った。
《遠衝斬》が右の鎌脚へ入り、矢傷と同じ関節へ深い切断線を作る。
残る左の鎌が横から来る。
エイルは後退せず、長剣の腹へ鎌を滑らせながら懐へ入ると、左手へ《纏刃》を形成した。
手刀が切断線へ重なる。
外殻を断った直後、掌底から《衝界》を通し、関節の内側を打ち抜く。
右の鎌脚が根元から外れた。
エイルが1体目へ止めを刺すより早く、窪地の別の場所から岩盤が割れる。
2体。
3体。
さらに後方からも、同じ形の反応が地上へ向かっていた。
遠距離では長い1つの生物にも感じられた振動は、同じ種類の節足獣が縦へ連なり、互いの足音を重ねていたものだった。
「全部で9体です! 正面に3、左側に2、残り4体はまだ地中にいます!」
護衛たちが即座に盾の向きを変える。
「地中の4体はどこへ来る!」
「2体が盾の後ろへ向かっています。残る2体は、僕の方へ進路を変えます」
エイルは長剣を地面へ突き立て、《振動感知》で捉えた地中の位置へ《衝界》を伸ばした。
直接攻撃するのではなく、魔物が進もうとする前方へ強い反響を送り、厚い岩盤があるように感覚を誤らせる。
後方へ回ろうとしていた2体のうち1体が進路を変えた。
もう1体は止まらない。
「盾兵の2人、3歩だけ下がって、盾を地面へ向けてください!」
理由を訊く者はいなかった。
3歩目が終わった瞬間、先ほどまで2人が立っていた地面が内側から吹き飛び、交差した鎌脚が空を切った。
盾兵の顔色が変わる。
「出る場所だけじゃない。踏み込む瞬間まで分かってるのか」
「感心するのはあとだ、正面を止めろ!」
イェルクの短槍が、地上へ出た魔物の顎板へ入る。
盾兵が側面から体当たりを重ね、巨体を横へ傾けた。
左側ではリヴィアの矢が、岩の中から現れかけた節足獣の後脚へ刺さり、地上へ出る速度を落としている。
エイルは1体目の顎を長剣で受け流し、右膝へ纏刃を作った。
膝蹴りが頭部の下へ入り、短い魔力刃が外殻へ切れ目を作る。同時に《高密度強化》を通した打撃が巨体を持ち上げ、開いた腹部へ長剣が突き込まれた。
実体の刃が止まったところから、遠衝斬を刀身の内側へ保持する。
見えない刃がさらに奥へ伸び、複数の脚を動かす中枢を断った。
節足獣が崩れ落ちる。
エイルはその背を踏み、《空衝歩》で窪地の上へ出た。
空中から見下ろした戦場は、目で見る景色とは別の形をしていた。
地上へ出た6体。
地中を進む3体。
盾を支える護衛たちの重心。
槍を引こうとしているイェルク。
次の矢を番えるリヴィア。
すべての振動と魔力が《近域感知》の中へ重なり、その先に生まれる幾つもの動きが、枝分かれする線となって浮かび上がる。
イェルクの正面にいる魔物は、槍を避けたあと左へ身体を捻る。
その動きへ合わせて盾兵が踏み込めば、腹部を晒す。
地中の1体は、エイルが着地する振動へ向かって進路を変える。
左側の魔物はリヴィアを狙っているのではなく、矢が飛んでくる高所から離れようとして、窪地中央へ跳ぶ。
どれも確定してはいない。
だが、相手が今の姿勢を続けるなら、最も可能性の高い動きだった。
「イェルクさん、突かずに半歩だけ右へ引いてください!」
イェルクが迷わず槍を引く。
節足獣は追撃を避けようと左へ身体を捻ったため、支えを失って盾兵の正面へ腹部を晒した。
「今です!」
大盾が腹部へ叩き込まれ、節足獣が横転する。
エイルは空中から遠衝斬を放ち、首と胴体の接続部を断った。
「リヴィアさん、次は僕の左側、ひびの中心へ!」
彼女の矢が飛ぶ。
何も現れていなかった地面へ刺さった直後、地中から飛び出した節足獣が、自分から矢の軌道へ頭部を重ねた。
矢が顎板の隙間へ入る。
その一瞬後、エイルが着地予定を変え、魔物の背へ降りた。
長剣が頭部を貫く。
岩丘の上で次の矢を番えながら、リヴィアは僅かに息を呑んでいた。
エイルは戦場を広く把握しているだけではない。
味方の技量、立っている位置、次に選べる動きまで含めて読み、誰がどこへ攻撃すれば敵の選択肢を潰せるかを伝えている。
エイル1人だけが敵を早く見つける探知ではなかった。
彼が口にした瞬間、見えない敵が調査班全員にとって、先に備えられる相手へ変わっている。
◇
通常個体を9体倒した時、窪地へ残っていたのは、地上へ出る前に進路を変えた2体だけだった。
その2体もこちらへ向かわず、西側の深い岩盤へ逃げようとしている。
しかし戦闘は終わっていない。
さらに地中深くから、今までとは比較にならない振動が近づいていた。
岩を掻き分けているのではない。
深層脈へ噛みつき、流れる魔力を食べながら進んでいる。
距離が縮まるほど周囲の脈が乱れ、エイルの感知にも強い雑音が混じり始めた。
それでも、巨大な輪郭は捉えられる。
長さは約30メートル。
前方には通常個体より大きな6本の鎌脚。
後方には長い胴体を押し進めるための、無数の短い脚が並んでいる。
「大型個体が来ます。全長は30メートル前後です」
イェルクが短槍を構え直す。
「どこから出る?」
「今のままだと窪地の中央です。この場所へ出られると、両側の岩丘まで崩れます」
「進路を変えられるのか?」
「試します」
エイルは窪地の最奥へ走り、地面へ手を触れた。
大型個体の進路上には3本の亀裂がある。
中央の亀裂は窪地そのものへ繋がり、右側はリヴィアが立っていた岩丘の下へ伸びている。残る左側だけは、窪地の北西にある広い岩場へ続き、地上へ出られても崩落へ巻き込まれる者はいない。
エイルは《衝界》を中央と右側の亀裂へ分け、深層脈を通して強い振動を送った。
破壊するための衝撃ではない。
大型個体の感覚器へ、前方の岩盤が閉じているような反響を返す。
魔物が一度止まった。
中央を避け、右へ頭部を向ける。
エイルは右側にも別の反響を送り続けた。
残された左の亀裂へ、大型個体が進路を変える。
「北西の岩場へ誘導しました! 30秒ほどで出ます。全員、窪地から離れてください!」
イェルクたちは即座に移動した。
すでにエイルが示した通りの場所と時間に、何体もの魔物が地上へ現れている。姿の見えない大型個体についても、その言葉を疑う者はいなかった。
リヴィアが岩丘を下り、窪地から出る直前に振り返る。
「エイルも早く!」
「逃げた2体が同じ穴へ入ろうとしてます。入口を塞いでから行きます」
西側へ逃げた通常個体が、大型個体の後方を追うように進路を変えている。
そのまま通せば、新しい戦場で背後から出てくる可能性があった。
エイルは長剣を振り、窪地西側の岩壁へ3本の遠衝斬を続けて放った。
切断線を《衝界》で繋ぎ、張り出した岩盤の支えだけを外す。
崩れた岩塊が地中の経路を塞ぎ、通常個体2体の振動が遠ざかった。
エイルは岩壁を蹴り、1歩目の空衝歩で崩落を越える。
2歩目を突き出した岩へ当て、返ってきた反力で高度を上げる。
3歩目を空気へ放つと、調査班が待つ北西の岩場へ、ほとんど直線で移動した。
着地の直後。
広い岩場の中央が、大きく隆起した。
◇
地上へ現れた大型個体は、エイルが感知した通り、30メートル近い長さを持っていた。
頭部の周囲には巨木ほどの6本の鎌脚が放射状に並び、後方へ続く黒い胴体の左右には、無数の短脚が波のように動いている。通常個体より分厚い外殻の節目からは、取り込んだ深層脈の魔力が赤い光となって漏れていた。
頭部中央には縦へ裂けた巨大な口があり、その内側では赤い鉱物質の歯が輪状に並んでいる。
大型個体が口を開くと、周囲へ露出していた深層脈から魔力が吸い上げられ、外殻へ走る傷が目に見える速度で閉じ始めた。
イェルクが低く声を漏らす。
「《脈喰い》の成体……いや、記録にある最大個体より倍近い」
大型個体が6本の鎌脚を持ち上げた。
調査班全体が攻撃範囲へ入っている。
エイルは仲間たちの前へ出て、鎌脚の付け根へ集まる力を見た。
「最初の3本は僕が外します。残りは左側から順に来るので、盾を重ねてください」
「まだ振ってもいないぞ」
「付け根が動いてます」
1本目が正面から落ちた。
エイルは長剣で正面から受けず、踏み込みながら刀身の側面へ《衝界》を通し、力を斜め下へ流した。
鎌の先端が岩場へ突き刺さり、地面が大きく割れる。
2本目は右側から横薙ぎに来た。
エイルは《空衝歩》で僅かに身体を上げ、鎌脚の上へ右足を置く。魔物自身が振るう力を足場へ変え、3本目の内側へ身体を運んだ。
長剣を振り下ろす。
遠衝斬が関節へ入り、外殻へ深い切れ目を作る。
完全には断てない。
エイルは傷口へ左手を重ね、纏刃を形成した。
短い魔力刃が内部へ入った直後、掌底から《高密度強化》と《衝界》を同時に通す。
関節が内側から砕け、3本目の鎌脚が力を失って垂れ下がった。
残る3本が調査班へ向かう。
「左から来る、盾を重ねろ!」
イェルクの指示で3人の護衛が防御を作った。
最初の鎌が盾へ触れる直前、リヴィアの矢が関節の内側へ刺さる。軌道が僅かに落ち、鎌は盾の中心ではなく、手前の地面へ食い込んだ。
2本目をイェルクの槍が押し流す。
最後の1本だけが防御の上を越え、リヴィアへ向かった。
エイルは大型個体の頭上から跳んだ。
垂れ下がった鎌脚へ1歩目の空衝歩を当て、2歩目を頭部の外殻へ、3歩目を空気へ放つ。
距離を一気に詰め、リヴィアの前へ降りる。
長剣を振る時間はない。
右前腕へ纏刃を形成し、迫る鎌脚の側面へぶつけた。
魔力刃が外殻へ細い切れ目を作り、続く《身体強化》の力が軌道を上へ押し上げる。
鎌の先端がエイルの右腕を浅く裂き、血を散らしながらも、リヴィアの頭上を通過して後方の岩へ突き刺さった。
「エイル!」
「浅いです。次は頭部が来ます」
大型個体が鎌脚を戻さず、頭部を地面へ近づけた。
縦に裂けた口へ深層脈の魔力が集まり、輪状の歯が高速で回転し始める。
このまま突進すれば、人間だけでなく足元の岩盤まで削り取られる。
エイルは前へ出た。
広い範囲へ感知を伸ばし、地中の敵を誘導し、味方へ届く鎌脚の順番まで読んだ。
これほど相手の動きが見えているなら、最後の1歩だけ退く理由はなかった。
右脚へ《魔力圧縮》を重ねる。
ふくらはぎ。
太腿。
腰。
背中。
肩。
腕。
全身を1本の経路として繋ぎ、長剣へ力を集める。
大型個体が岩を噛み砕きながら迫った。
残り20メートル。
10メートル。
エイルは正面から受け止めず、口が閉じる直前に左へ踏み込んだ。
輪状の歯が頬のすぐ横を通る。
吸い込まれる魔力と空気によって身体を引かれたが、足運びを止めず、頭部側面へ長剣を突き入れた。
実体の刃が外殻へ食い込み、途中で止まる。
大型個体が頭を振った。
エイルは剣を抜かず、圧縮していた力を脚から順番に解放した。
刀身が外殻を貫く。
さらに遠衝斬を剣から放たず、実体の刃の先へ保持する。
見えない切っ先が頭部の奥へ伸びた。
しかし大型個体の生命力は頭部だけへ集中しておらず、深層脈を食う器官は最初の胴節まで長く続いている。
エイルは突き刺した長剣を支点に身体を引き寄せ、左肘へ纏刃を作った。
頭部と胴体の接続部へ肘を打ち込む。
魔力刃が外殻へ切れ目を入れ、打撃が節をずらし、《衝界》が内部の接続組織へ広がった。
大型個体の頭部が大きく横へ傾く。
エイルは足元へ空衝歩を放ち、返ってきた力で長剣を横へ引き抜いた。
実体と見えない刃が重なり、頭部から最初の胴節までを内側から深く断つ。
赤い魔力が傷口から噴き上がった。
それでも大型個体は止まり切らず、後方の短脚を動かして頭部を押し出そうとする。
「リヴィアさん、傷の中央です!」
リヴィアはすでに矢を引き絞っていた。
放たれた矢が、エイルの開いた傷の奥へ入り、深層脈を吸収している赤い器官へ突き刺さる。
矢尻の測量術式が発動した。
青い魔力線が器官へ広がり、揺れ続ける内部の位置を短い時間だけ固定する。
エイルはその一点へ長剣を向けた。
距離は約20メートル。
細く圧縮した遠衝斬を放つ。
衝撃の刃が青い線を辿り、赤い器官の中心を正確に貫いた。
大型個体の身体から力が失われる。
30メートル近い巨体が横倒しになり、岩場全体を揺らしながら沈んだ。6本の鎌脚も、後方へ並ぶ無数の短脚も、二度と動かなかった。
◇
エイルは着地すると、倒した大型個体へ近づかず、周囲へ探知を広げた。
窪地から逃れた通常個体2体は西へ遠ざかっている。
南へ誘導した四足獣の群れも拠点とは異なる方向へ進み、速度を落とし始めていた。
少なくとも2キロ以内に、こちらへ接近する大型反応はない。
「近くに敵はいません。今なら拠点へ戻れます」
イェルクは槍を下ろしながら、エイルへ顔を向けた。
「近くとは、どこまでだ?」
「岩盤が繋がっている方向なら、強い反応は2キロ前後です。西側は断層が多いので、1キロより先はかなり曖昧になります」
「1キロを、かなり落ちる範囲として話す斥候は初めて見た」
盾兵の1人も、先ほど魔物が地中から現れた場所を見下ろしていた。
「俺たちは、姿を見てから盾を向けたわけじゃない。何もない地面へ向けろと言われて、そのあと本当に鎌が出てきた」
「しかも秒数までほとんど外していない」
イェルクは倒れた大型個体へ視線を移した。
「敵の位置を見つけるだけなら、優れた斥候という言葉で済ませられた。だが君は、敵がどこへ進み、何を狙い、味方がどこへ動けば攻撃を外せるかまで読んでいる」
「近づけば情報が増えますから」
「それは説明になっているようで、何も普通にはしていない」
リヴィアは大型個体へ撃ち込んだ矢を回収したあと、エイルの右腕から流れる血を見て眉を寄せた。
「腕を見せて」
「浅いですよ」
「その言葉を聞くのは、再会してから何度目かしら」
彼女は傷口を確認し、携帯していた布を巻いた。
手当てを終えてもすぐには離れず、エイルの青灰色の目を正面から見つめる。
「前より探知範囲が伸びただけじゃないわね」
「情報を重ねやすくなりました」
「今のあなたが戦場にいると、周りの人間まで、見えない敵へ先に備えられる。あなたが見ているものを言葉にすれば、全員の目が増えるのと同じよ」
エイルは窪地の方へ視線を向けた。
一人で旅をしていた時、探知は自分だけのために使っていた。
安全な野営地を選び、地中の敵を避け、知らない土地へ進む。その範囲がどれだけ伸びても、利用するのは常に自分1人だった。
今回は違った。
地中の魔物が現れる場所を伝えれば、盾兵が先に構えられた。
動きの順番を告げれば、イェルクの槍とリヴィアの矢が、姿の見えない相手へ先回りした。
探知で得た情報は、伝え方さえ間違えなければ、味方全体の戦闘能力を引き上げる。
「次は、もっと早い段階で人数と位置を伝えます」
「今でも十分早かったけど、そこを改善しようとするのはあなたらしいわね」
◇
【深層脈を介した広域探知の継続運用を確認しました】
【複数対象の位置・状態・進行予測を、集団戦闘へ転用しました】
【高密度魔力環境に適応した群体および大型成体の討伐を確認しました】
【Lv.119 → Lv.124】
【生命力 1879 → 2098】
【魔力 2408 → 2706】
【筋力 2154 → 2429】
【耐久 1994 → 2238】
【敏捷 2442 → 2784】
【器用 2095 → 2351】
【感知 3208 → 3669】
【《剣術 Lv.86 → Lv.88》】
【《魔力感知 Lv.38 → Lv.41》】
【《振動感知 Lv.69 → Lv.72》】
【《近域感知 Lv.66 → Lv.69》】
【《警戒圏 Lv.38 → Lv.42》】
【《危機感知 Lv.33 → Lv.35》】
【《衝界 Lv.52 → Lv.54》】
【《遠衝斬 Lv.5 → Lv.7》】
【《空衝歩 Lv.7 → Lv.8》】
【《纏刃 Lv.6 → Lv.8》】
【広域感知情報の統合速度が上昇しました】
【複数対象に対する危険優先度の判別精度が上昇しました】
状態板へ表示された数値を見て、エイルは僅かに目を細めた。
レベルは5上がり、感知は一度に400以上伸びている。
第108レベルだった時点で2479だった感知は、現在3669へ届いた。わずか16レベルの間に約1200も上昇しており、数値だけを見ても、以前と同じ探知能力ではないことが分かる。
感知だけではない。
筋力は2400を超え、敏捷は2800へ迫っている。魔力も2700を越え、耐久と器用まで、少し前なら感知以外では考えられなかった領域へ入り始めていた。
未知の環境へ進み、異なる条件で技能を使い、今までの戦い方だけでは越えられない相手を倒す。
そのたび《越境 Lv.7》が経験を繋ぎ、基礎能力と技能の双方へ、以前より大きな成長を返している。
エイルは表示を閉じた。
「また上がった?」
リヴィアが訊く。
「はい。124になりました」
「断脈豹を倒したあとが119だったでしょう?」
「そうですね」
イェルクが会話へ振り返った。
「待て。昨日から5ではなく、合計で7レベル上がったのか?」
「はい」
「100を超えた者が、2日で7レベル……」
高いレベルへ到達するほど、次へ進むために必要な経験は増える。熟練した兵士や冒険者の中には、1レベル上げるために数か月から数年を費やす者も珍しくない。
イェルクは異常な探知能力だけでなく、その力が今も急速に伸び続けていることへ気づき、言葉を失っていた。
「成長が速いとは聞いていたけど、ここまでとは思わなかった」
リヴィアも状態板そのものは見ていない。
それでも以前のエイルを知る彼女には、数値を聞かなくても、動きと探知の変化が分かる。
「理由は訊かないわ。でも、これからも同じ速度で伸びるの?」
「分かりません。ただ、ここへ来てからは、以前より伸びやすくなってます」
「そう」
リヴィアはそれ以上を求めなかった。
明かされていないものがあると理解したうえで、エイルが話せる範囲だけを受け取っている。
エイルは西側へ意識を向けた。
倒した大型個体の下では、食い荒らされた深層脈が露出している。しかし魔力の流れは元へ戻らず、今も東向きへ押し返されていた。
「逆流は止まってません」
イェルクの表情が引き締まる。
「この大型個体が原因ではなかったのか?」
「流れが乱れた場所へ集まり、魔力を食べていただけです。西から押し返しているものは、別にあります」
「距離は分かるか?」
エイルは深層脈へ感覚を沿わせた。
2キロ。
3キロ。
その先で岩盤が大きく断たれ、細かな形は分からなくなる。
それでも遠方から、一定の間隔で巨大な脈動が返ってきていた。
1度。
長い間を置き、もう1度。
魔物の足音とは違う。
地面のさらに深い場所で、何かが深層脈そのものを押し縮めている。
「少なくとも3キロより先です。姿や大きさは分かりません。ただ、一定の間隔で脈へ圧力を掛けています」
昨日までなら、その言葉を疑う者がいたかもしれない。
今は誰も否定しなかった。
2キロ以上離れた群れを数え、地中の敵が現れる場所を指定し、30メートル級の大型個体さえ別の岩場へ誘導した直後だった。
エイルに見えていると言われれば、そこには本当に何かがある。
「一度、拠点へ戻る」
イェルクが地図を閉じた。
「逆流地点と大型個体の情報を持ち帰り、次の調査隊を組み直す。今度は確認だけでは終わらない」
エイルは長剣を鞘へ戻し、西から届く脈動を受け止めた。
1人で歩いていた時には、自分の探知がどこまで異質な領域へ伸びたのか、比較する相手はいなかった。
今は違う。
熟練の斥候も、測量術師も、以前のエイルを知るリヴィアも、範囲と精度、そして成長速度まで含めて、自分たちが知る探知とは別のものになっていると認識し始めていた。
その感覚の果てで。
今のエイルにも輪郭を掴ませない何かが、深層脈を通して、巨大な鼓動を返し続けていた。




