第142話 空白での再会
リヴィアはエイルの名を呼んだあと、その場で何度か瞬きを繰り返し、壊れた外壁の前に転がる魔物の死骸と、血に濡れた長剣を持つ少年の姿を交互に見た。
最後に会った時よりも身体つきが僅かに変わり、膝丈の長衣も新しいものになっている。それでも暗灰色の髪と、静かな青灰色の目、話しかける前に相手の状態を確かめるような落ち着いた視線は、彼女が知っているエイルのものだった。
「どうしてここにいるの?」
「西へ進んでいたら着きました」
「その説明で納得できる場所だと思う?」
「僕も人がいるとは思ってませんでした」
エイルがそう答えると、リヴィアは額へ手を当てた。
再会を喜ぶより先に、理解しなければならないことが多すぎるらしい。
拠点の防衛を指揮していた男も同じだった。男は倒れた大型個体の状態を部下へ確認させながら、エイルが示したA級証へもう一度視線を落とし、慎重に口を開いた。
「私はセヴェル・ライノス。この《西層第3調査拠点》を預かっている。君がどこから来たのか、正確に教えてもらえるか?」
「ヴァルネ高原の第47標から地下の降路へ入り、第48標、第49標、第50標を通って、第51標からこの盆地へ来ました」
周囲にいた者たちの動きが止まった。
負傷者を運んでいた兵士まで足を緩め、測量局の制服を着た者たちは、聞き間違いではないかと互いの顔を見た。
セヴェルはすぐに言葉を返さなかった。
「第48標というのは、ヴァルネ西縁観測所の下にある旧標か?」
「はい。第47標の観測記録に降路が残っていました」
「旧降路は70年以上前に閉鎖され、上層側の経路も消失したと報告されている。少なくとも我々は、南側の現行降口から17日かけてここへ入っている」
「上層の道は残ってました。ただ、途中から景色と距離がずれるので、岩盤と脈位を基準にしないと第47標へ着けません」
エイルは背中の地図袋へ手を伸ばしたが、リヴィアが素早く近づき、その手首を掴んだ。
「待って。地図を見る前に傷を見せて」
「浅いものだけですよ」
「そう言う人が信用できないから言ってるの」
「リヴィアさんも、前に似たようなことを言ってませんでしたか?」
「私は自分で処置してから動いてたでしょう」
言い返しながらも、リヴィアの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
エイルの右肩と左腕には大型個体との戦闘で受けた傷があり、左脇腹にも浅い裂傷が残っている。しかし血はすでに止まり、《自己治癒》によって傷口も閉じ始めていた。
リヴィアは長衣の破れから傷の深さを確かめ、骨や関節へ異常がないと分かると、ようやく手を離した。
「相変わらず、見つけた時には全部終わってるのね」
「今日はまだ、全部ではないみたいです」
エイルは谷の北側へ顔を向けた。
逃げた群れの反応は遠ざかっている。
しかし、それとは別に、岩山の向こうから複数の振動が接近していた。
人間が7人。
その後方を追う魔物が6体。
さらに奥には、周囲の深層脈へ反応を溶け込ませながら移動する、もう1体の大きな存在がいる。
戦闘中から拾っていた反応だったが、大型個体と群れを止めることを優先したため、すぐには向かえなかった。
「北側から人が来ます。さっき見つけた足跡の人たちだと思います」
「北側?」
リヴィアの表情から笑みが消えた。
「第6測量班が、今朝から戻っていない」
「7人ですか?」
「そう。護衛が3人、測量員が4人。どこまで近づいてる?」
「2キロより少し遠いです。6体に追われていて、その後ろにも別の反応があります」
セヴェルがすぐに周囲へ指示を出した。
「動ける者を集めろ。第2班は外壁を維持し、負傷者と非戦闘員を中央区画へ移せ。リヴィア、救出班を率いろ」
「了解」
リヴィアは短く答え、腰の細剣と背中の短弓を確かめる。
エイルも長剣に付着した血を拭い、北側の岩山へ身体を向けた。
セヴェルは彼を止めず、むしろ状況を見極めるように訊いた。
「道は分かるか?」
「反応を追えます。岩山の裏で地面が2つに分かれているので、普通に回るより上を越えた方が早いです」
「案内を頼む」
「分かりました」
◇
救出班はリヴィアを含めて8人だった。
軽装の斥候が3人、盾と槍を持つ護衛が4人、そしてエイルが先頭へ立つ。
拠点北側の岩山は、見た目には1本の尾根として繋がっているが、内部では異なる岩盤が接触し、細い亀裂を挟んで互いに擦れ合っていた。通常の道は東へ大きく迂回しているものの、尾根を越えれば距離を半分以下に縮められる。
エイルは《振動感知》で崩れにくい岩層を選び、斜面を真っ直ぐ登った。
後ろに人がいるため、自分だけが通れる足場は使わない。先に岩へ手を触れて荷重を確かめ、危険な場所では《衝界》で細かな石だけを落とし、全員が通れる幅を作っていく。
「第48標から来たという話、本当なの?」
すぐ後ろを走るリヴィアが訊いた。
「嘘をつく理由がないですよ」
「そうだけど、私たちが何年探しても入口さえ見つからなかった道よ。そこを1人で?」
「途中で何度か迷いました」
「その程度の感想で済ませないで」
リヴィアは呆れた声を出したが、足運びは乱れず、エイルが作った経路を正確に辿っている。
以前より速度も感知範囲も上がったエイルに追いつける者ではないものの、測量斥候として地形を読む力は高く、次にどこへ足を置くべきかを説明される前に理解していた。
尾根の中腹で斜面が途切れ、幅12メートルほどの亀裂が現れた。
向こう側へ渡る橋はない。
エイル1人なら《空衝歩》で越えられるが、救出班全員が同じ方法を使えるわけではなかった。
リヴィアは周囲を一度見回し、亀裂の上へ張り出した細い岩柱を指した。
「あれを倒せる?」
「渡った時に崩れないよう、根元を残せば使えます」
「なら、右側だけ切って。左の根を支点にすれば、向こうへ倒れる」
エイルは彼女が示した岩柱の構造を《振動感知》で確かめ、長剣を振った。
細い《遠衝斬》が根元の右半分へ入り、岩の内部へ斜めの切断線を作る。続いて《衝界》で上部へ残った重さを左側へ寄せると、岩柱はゆっくり傾き、亀裂を跨ぐ橋となって向こう岸へ倒れた。
先端が岩壁へ衝突し、細かな破片が谷底へ落ちる。
「全員、間隔を空けて渡って!」
リヴィアの指示で斥候が先行し、護衛たちも順番に岩柱を駆け抜けた。
エイルは最後までこちら側へ残り、全員が渡ったことを確かめてから跳んだ。
岩柱を使わず、《空衝歩》を1度だけ踏み、先頭のリヴィアの隣へ着地する。
「それ、いつ覚えたの?」
「高原を渡ってる途中です」
「その話もあとで全部聞くから」
「長くなりますよ」
「地図を描く人間に、長い話を嫌がる人はいないわ」
リヴィアはそう言いながら、岩山の北側へ続く斜面を駆け下りた。
◇
第6測量班は、移動する岩盤の境界へ追い詰められていた。
幅30メートル近い亀裂の手前に7人が固まり、盾を持つ護衛2人が、結晶狼の突進を交互に受け止めている。残る護衛は右脚を負傷し、測量員に肩を借りながら弓を引いていた。
襲っているのは、先ほど拠点へ来たものと同じ種類の通常個体だった。
ただし6体すべてが無傷であり、背中の結晶へ深層脈の魔力を溜め、先ほどより速く動いている。
さらに森の奥には、それらを追い立てる別の魔物がいた。
体長は8メートルほど。
黒い豹に似た低い身体へ6本の脚を持ち、肩と腰には、薄い刃のような白い骨板が後方へ伸びている。頭部には目が4つあり、前脚の爪が地面へ触れるたび、露出した深層脈の光が短く消えていた。
爪で魔力の流れそのものを切っている。
結晶狼たちはあの魔物から逃げ、前方にいた測量班へ襲い掛かったらしい。
「《断脈豹》……」
リヴィアが低く呟いた。
「知ってるんですか?」
「記録だけ。深層脈の流れを爪で断ち、魔力を使う獲物の感覚や強化を崩して狩る。確認例は3件しかないし、拠点の近くまで来た記録はなかった」
断脈豹は急いで獲物を追っていない。
結晶狼が測量班を削り、動けなくなったところで、まとめて狩るつもりらしい。
測量班の盾兵が、4体目の突進を受けて膝をついた。
次を止められる余力はない。
エイルは斜面の途中で長剣を抜いた。
「僕が先に入ります。リヴィアさんは負傷者を亀裂から離してください」
「断脈豹は魔力経路を切る。外側へ広げる強化や魔術は、爪へ触れた瞬間に崩されるわ」
「だったら、触れる直前まで外へ出しません」
エイルは斜面を蹴った。
1歩目の《空衝歩》で木々の高さへ出る。
2歩目で結晶狼の群れまで距離を詰め、3歩目を空気ではなく、最も後方にいた個体の背中へ向かって放つ。
強い反力が返った。
エイルの身体は群れの頭上を越え、測量班と魔物の間へ落ちる。
着地と同時に長剣を横へ振った。
幅を広げた《遠衝斬》が、飛び掛かろうとしていた2体の前脚へ入り、結晶装甲を割りながら地面へ転倒させる。
残る4体が進路を変えた。
そのうち正面の1体へ踏み込み、長剣で頭部の角を受け流す。獣の勢いを横へ逃がしながら、左手へ《纏刃》を形成し、首の装甲が途切れる場所へ手刀を入れた。
薄い刃が皮膚を切る。
続く掌底から《衝界》が通り、頸椎を内側から折った。
右から2体目が迫る。
エイルは剣を抜き戻さず、その場で右膝を持ち上げた。
膝頭へ短い《纏刃》が現れ、獣の顎を切り開くと同時に、強化された打撃が巨体を上方へ浮かせる。そこへ長剣を返し、胸部の結晶の隙間を斜めに断った。
3体目と4体目は左右へ分かれた。
挟むつもりだと分かったが、エイルは後方の測量班から離れなかった。
左の個体へ《遠衝斬》を放つ。
魔物は軌道を読んで跳んだものの、放出後も残していた《衝界》の経路を僅かに曲げると、衝撃の刃が回避先の後脚へ入った。
姿勢を崩した個体へは向かわず、右から来た獣の刃状骨を長剣の鍔で受ける。
魔物が剣を押し込んだ瞬間、エイルは右腕の外側へ《纏刃》を作った。
腕と長剣の隙間から短い刃が伸び、相手の前脚の内側を切る。
獣が怯んだところへ肩を入れ、《高密度強化》を脚から背中へ繋げて押し返すと、3メートルを超える身体が地面から離れ、後方の岩へ叩きつけられた。
最初に倒した2体が起き上がろうとする。
エイルは片方へ長剣を投げた。
刀身が割れた前脚の間を通り、胸部へ突き刺さる。
もう片方が、武器を失ったと判断して跳び掛かった。
エイルは空いた右手を手刀にする。
体表へ魔力が現れたのは、獣の首へ触れる寸前だけだった。
《纏刃》が結晶の隙間を通り、喉を断つ。
エイルは倒れた個体の横を抜けながら、胸部へ刺していた長剣の柄を掴んだ。そのまま走る勢いで刃を引き抜き、後脚を傷つけた残りの1体へ向かって振る。
長剣が首を通過する。
6体目の身体が崩れた時、リヴィアたちはようやく測量班のもとへ到着した。
最初の一撃から、それほど時間は経っていない。
盾兵2人が命懸けで止めていた6体は、測量班へ1歩も近づけないまま地面へ沈んでいた。
「負傷者を運んで!」
リヴィアの指示で護衛たちが動く。
彼女自身は短弓へ矢を番えたまま、森の奥を見た。
断脈豹が、すでに走り始めていた。
◇
6本の脚が地面を蹴るたび、深層脈の光が帯状に消えていく。
単純な速度だけでも結晶狼を大きく上回り、低い姿勢のまま木々の間を縫ってくるため、巨体の割に進路が読みにくい。
エイルは測量班へ背を向け、断脈豹の正面へ立った。
「全員、そのまま拠点へ向かってください」
「エイル、あれは1人で――」
「リヴィアさんは、地面の流れを見てください。爪がどこを切ってるか、教えてもらえますか?」
無謀に残るつもりではないと理解したのか、リヴィアは制止を途中でやめ、断脈豹の足元へ視線を走らせた。
「右前脚が主軸。踏み込む直前に、その先の脈を切って反発を消してる。だから音より速く見える」
「左は?」
「方向転換。左の前脚で別の流れを断って、身体を引かせてる」
「分かりました」
断脈豹が間合いへ入る。
右前脚の爪が地面を掻いた。
エイルの《魔力感知》から、足元の深層脈の一部が突然消える。流れを基準に相手の動きを読んでいれば、その瞬間に感覚を崩されていただろう。
それでも、エイルは魔力だけを見ていなかった。
肩の沈み。
6本の脚へ移る体重。
爪が土へ触れる前の僅かな空気の押し出し。
断脈豹が視界から消えるように加速した。
正面ではない。
左側。
エイルは振り向く前に長剣を背後へ回した。
白い爪と刀身が衝突する。
剣へ通していた魔力が、触れた場所から一瞬で散らされた。
《身体強化》まで外側から削られ、受け止めた右腕へ巨体の重量が直接掛かる。
エイルは力を戻そうとせず、魔力を切られた状態のまま、足運びと腰の回転だけで爪を斜めへ流した。
断脈豹は勢いを止めず、2本目の前脚を横へ振る。
長剣を戻す時間はない。
エイルは左肘を爪の内側へ当てた。
《纏刃》は作らない。
断脈豹の爪へ触れれば、形成した瞬間に崩される可能性がある。
肘で軌道だけを外し、胸部へ肩を当てる。
重量差でエイルの身体が押し戻されたが、足元へ伝わる反力を《衝界》へ頼らず、純粋な身体操作で横へ逃がした。
断脈豹の4つの目が僅かに細まる。
魔力を断てば動きが止まるはずの獲物が、速度を失わなかったことを警戒したらしい。
距離を取り、再び深層脈を切りながら円を描く。
エイルは切られた魔力経路をすぐに外へ繋ぎ直さず、強化を身体の内部へだけ留めた。
皮膚の外側へ漏らさない。
筋肉と骨、関節を動かす直前の場所まで圧縮し、必要な瞬間だけ解放する。
断脈豹が右へ消えた。
「右前脚、次は2歩先!」
リヴィアの声が飛ぶ。
エイルは目の前の敵ではなく、彼女が示した地面を踏んだ。
断脈豹が切ろうとしていた深層脈の手前へ、先に自分の重心を置く。
流れが消える。
反発を失った地面へ断脈豹が踏み込み、加速する。
しかしエイルは、その加速地点をすでに知っていた。
身体を半歩だけずらす。
白い爪が胸元を掠め、長衣を切った。
エイルはすれ違う瞬間、左手を相手の前脚へ触れさせた。
触れるまでは何も纏っていない。
爪が通り過ぎ、断脈豹の魔力を切る力がエイルの腕から離れた直後。
掌の外側へ《纏刃》を形成する。
極端に短く。
薄く。
接触している一点だけへ。
魔力刃が前脚の関節へ入った。
断脈豹が跳び退く。
傷は浅い。
それでも爪に切られる前ではなく、通過したあとの瞬間だけ刃を作れば、魔力を散らされずに届く。
「一瞬だけなら、切られない」
エイルは自分へ言い聞かせるように呟いた。
断脈豹が咆哮する。
今度は小さく回り込まず、6本すべての脚で地面を蹴った。
進路上の深層脈が次々に断たれ、魔力の霧が裂けるように左右へ散る。
真っ直ぐ。
速い。
リヴィアが矢を放った。
矢は断脈豹の頭部ではなく、右前脚が次に触れる地面へ刺さる。矢尻に刻まれた測量術式が深層脈へ入り、一瞬だけ流れの位置を青く光らせた。
「そこ!」
エイルは青い線を踏んだ。
ふくらはぎへ圧縮した《高密度強化》を留める。
断脈豹の右爪が地面へ触れ、青い光ごと魔力の流れを切った。
加速が始まる。
その瞬間に、エイルは内部へ溜めていた強化を解放した。
外側の魔力は断たれている。
それでも骨と筋肉の内側まで入り込んだ力は消えない。
地面を蹴る。
エイルも正面へ出た。
両者の距離が一瞬で消える。
断脈豹は長剣を狙い、左右の前脚を交差させた。剣ごと魔力を切り、首を断つつもりだった。
エイルは長剣を手放さない。
刀身を水平へ構え、最初の爪へ接触させる。
魔力が散る。
《遠衝斬》も《衝界》も使えない。
その状態で、純粋な《剣術》だけを使い、爪の外側へ刀身を滑らせた。
2本目が首へ来る。
左手を剣から離す。
前腕で爪の付け根を受け、軌道を頭上へ押し上げる。
白い骨板が皮膚を裂き、血が飛んだ。
エイルは止まらない。
断脈豹の胸元へ入る。
右手の長剣は、魔力を失ったまま脇腹の骨板へ差し込む。
刃が途中で止まる。
それで十分だった。
相手の爪が長剣から離れる。
魔力を切る力が消えた直後、エイルは刀身の内部へ一気に《遠衝斬》を形成した。
外へ飛ばさない。
実体の剣が作った切れ目へ、見えない刃を奥へ伸ばす。
断脈豹が身体を捻った。
切っ先が中枢へ届く前に逃れようとする。
エイルは左手を相手の胸部へ押し当てた。
掌へ《纏刃》を作る。
形成と同時に手刀を横へ滑らせ、剣の切断線と交差させる。
外側から《纏刃》。
内側から《遠衝斬》。
2つの刃が、断脈豹の胸部で重なった。
硬い骨板と筋肉が同時に断たれる。
巨体の加速が止まった。
それでも断脈豹は死に切らず、後脚を使ってエイルを押し潰そうと身体を倒す。
エイルは長剣を引き抜き、倒れてくる胸部へ右肩から入った。
肩の表面へ《纏刃》を形成する。
切れ目を作る。
そこへ脚、腰、背中から《高密度強化》を繋ぎ、巨体を下から押し上げた。
断脈豹の身体が横へ浮く。
エイルは腰を回し、進路を変えた。
8メートルの巨体が地面へ投げ出され、深層脈の露出した岩へ背中から叩きつけられた。
白い骨板が砕ける。
リヴィアの2本目の矢が、開いた胸部へ突き刺さった。
エイルはそこへ踏み込み、長剣を真っ直ぐ落とした。
矢が示した切れ目から刃が心臓へ入り、断脈豹の6本の脚が一度だけ強く地面を掻いたあと、完全に動きを止めた。
◇
【《纏刃》の瞬間形成精度が上昇しました】
【魔力断絶下における身体強化維持に成功しました】
【《剣術 Lv.85 → Lv.86》】
【《高密度強化 Lv.49 → Lv.50》】
【《魔力圧縮 Lv.73 → Lv.74》】
【《纏刃 Lv.4 → Lv.6》】
【《危機感知 Lv.32 → Lv.33》】
【Lv.117 → Lv.119】
表示が現れたものの、エイルはすぐに詳しく確認せず、倒した断脈豹から視線を上げた。
リヴィアたちは負傷した測量員を支えながら、すでに拠点へ向かう準備を整えている。命に関わる負傷者はいないらしく、盾兵の1人も応急処置を受け、自分の足で立っていた。
「終わった?」
「はい。ほかに近づく反応もありません」
リヴィアは弓を下ろし、倒れた断脈豹へ近づいた。
白い爪と、その周囲で途切れている深層脈を確認したあと、エイルの左腕へ流れる血を見て眉を寄せる。
「今度は本当に傷が増えてる」
「浅いですよ」
「その言葉、今日だけで2回目ね」
彼女は腰の袋から布を取り出し、エイルが断る前に腕へ巻いた。
「断脈豹を正面から倒した人間は、調査記録にいないと思う」
「リヴィアさんの矢がなかったら、踏み込む位置を読むのにもう少しかかってました」
「私がしたのは印を付けただけ。そこへ相手より先に入って、魔力を切られたまま爪を受けたのはあなたでしょう」
「ちゃんと分かった上で受けましたよ」
「それを普通は危ないと言うの」
口では呆れているものの、リヴィアの声には以前と同じ親しさが戻っていた。
エイルは包帯を巻かれた左腕を軽く動かし、戦闘の途中で現れた表示を改めて確認した。
レベルは119へ上がっている。
第51標へ着いた時には108だったことを考えれば、それほど長くない期間で11レベル伸びたことになる。しかも単純な能力上昇だけでなく、《遠衝斬》《空衝歩》《纏刃》という新しい戦闘手段まで、実戦の中で急速に馴染んでいた。
《越境 Lv.7》による加速は、強敵が続くほど明確になる。
現在の状態を数値として確認するのは、拠点へ戻り、傷の処置と休息を終えてからでいいだろう。
◇
拠点へ戻った頃には、防衛戦の死骸が外壁の外へ運び出され、負傷者の処置も進んでいた。
第6測量班が全員生還したと知ると、緊張していた空気がようやく緩み、救出班を迎えた者たちから安堵の声が上がる。
セヴェルは断脈豹の出現報告へ表情を険しくしたものの、まずは帰還者の状態を確認し、その後でエイルとリヴィアを測量塔の1階へ呼んだ。
室内の中央には、下層大地の地図が大きく広げられている。
南側の現行降口から第3調査拠点までの経路は詳しく描かれているが、東側、第51標より先には何もない。エイルが歩いてきた高原西部、第48標から第50標、深層河川も、地図の外側にある空白だった。
「見せてもらえるか?」
セヴェルに訊かれ、エイルは背中の地図袋を開いた。
何度も広げ、書き足し、雨や魔物の血から守ってきた紙を机へ置く。
第43標から第47標までの歪曲領域。
西縁観測所。
地下降路。
第48標から始まる移動岩盤と深層脈。
第49標、第50標。
深層河川と第51標。
水場、野営地、確認した魔物、危険な場所、地形が移動した方向まで、細かな文字と線が紙の上へ重なっていた。
セヴェルは何も言わず、地図を見続けた。
周囲にいた測量員たちも、最初は半信半疑だったものの、現在使っている地図では説明できない深層脈の流れや、遠方からしか観測できなかった地形が正確に描かれていることへ気づき、少しずつ表情を変えていった。
リヴィアはエイルの隣へ立ち、地図上の第48標から指で線を追った。
「本当に、ここを全部1人で?」
「はい」
「何日かかったの?」
「第43標を越えてからだと、1か月より少し長いくらいですね」
「その間、誰とも会わなかったの?」
「今日まで会ってません」
リヴィアは地図から顔を上げ、エイルの旅装と、少し伸びた暗灰色の髪を改めて見た。
「それなら、誕生日も過ぎたでしょう」
「6日過ぎてから気づきました」
「……17歳になったの?」
「はい」
「何かした?」
「蜂蜜漬けの木の実を食べました」
数秒の沈黙のあと、リヴィアは耐え切れないように笑った。
「1か月以上も誰もいない場所を歩いて、誕生日は木の実1つ?」
「普段より甘かったですよ」
「そういう問題じゃないわ」
エイルには、何が問題なのか完全には分からなかった。
ただ、一人で焚き火を見ながら食べた時より、誰かへ話して笑われている今の方が、17歳になったことを少しだけ実感できた。
リヴィアはまだ笑みを残したまま、地図へもう一度目を落とした。
「前に言ったこと、覚えてる?」
「変な場所を見たら話してほしい、でしたよね」
「ええ。これは少し変どころじゃないけど、約束は守ってくれたみたいね」
「まだ全部話してませんよ」
「なら、今夜から聞かせて。第48標へ降りたところから、今日ここへ来るまで、1つも飛ばさずに」
エイルは机に広がった自分の地図を見た。
誰もいない高原を越え、動く大地を歩き、深層河川の上を走り、いくつもの強敵と戦った時間が、細い線と小さな文字になって残っている。
その旅は終わっていない。
地図の西側にはまだ広い空白があり、第52標の位置も、断脈豹や結晶狼が拠点近くまで移動してきた理由も分かっていなかった。
それでも、しばらくの間だけは1人ではない。
「分かりました。長くなりますけど」
「望むところよ」
リヴィアがそう答えると、測量塔の外では壊れた外壁を直す槌の音が響き始めた。
誰もいない土地を歩き続けたエイルの地図は、人のいる場所へ届いた。
そして今度は、その地図を必要とする者たちと共に、さらに西へ続く異常を追うことになる。




