第131話 風の向こう側
風除け小屋へ3人を連れ戻したあと、エイルは骨折したセディの脚を添え木で固定し直し、長時間にわたって白い膜へ圧迫されていたローナについても、呼吸と脈が安定していることを何度か確かめた。
カルスには目立った負傷がなく、セディも肩を借りれば短い距離を移動できるものの、意識を取り戻したばかりのローナを加えた状態でレメルまで歩くのは難しい。エイルが2人を交互に背負えば運べないことはないが、ここからレメルまでは通常の旅人で2日以上かかり、その間ずっと負傷者を風へ晒しながら進むより、近くにいる可能性が高い捜索隊と合流した方が安全だった。
「皆さんが戻らないことは、レメル側も知ってるんですよね?」
「ああ。最初から3日で戻る予定だったから、昨日の夜までに姿がなければ捜索を出すことになっていた」
カルスはそう答えながら、自分たちが持っていた地図の写しを広げた。
黒い翼の魔物に留め具を切られた地図袋は空になっていたが、カルス自身が別の紙へ簡単な経路を書き写していたため、風除け小屋とレメルの間にある休憩地や水場の位置は確認できる。
「捜索隊が旧街道をそのまま来るなら、明日の昼までには南東側の石積み場へ着くはずだ。だが、例の円形の場所で同じように巻き上げられたら、こっちへ来る途中でまた捕まる可能性がある」
「外側の円は、魔物の尾を傷つけたあとも残っているかもしれません。ただ、領域へ溜めていた圧力はほとんど崩れたので、昨日と同じ力は出ないと思います」
それでも、確かめずに捜索隊を待つのは危険だった。
エイルは小屋へ3人を残し、カルスに周囲の警戒を頼むと、旧街道を南東へ戻って円形の痕跡があった場所まで走った。
三裂谷を越えたことで大きく伸びた《敏捷》と《身体強化》に加え、高原の風へ身体を合わせる歩き方もすでに馴染み始めている。無風領域を作っていた魔物が逃げたことで周囲には再び強風が吹いていたが、正面から押し返そうとせず、風が弱まる周期へ踏み込みを重ねれば、以前より少ない魔力で高い速度を維持できた。
円形の線はまだ地面へ残っていたものの、内部へ小石を置いて魔力と振動を与えても、前日のような上昇流は発生しなかった。
微かな空気の動きは生まれる。
しかし小石を数センチ浮かせる程度であり、人間を岩丘まで運べるだけの力はもう残っていない。
エイルは念のため、円周へ残った魔力の接続点を《振動感知》と《魔力感知》で拾い、地面へ最も強く残っていた3ヶ所へ長剣の切っ先を入れた。
円形の構造そのものは魔術陣ではなく、魔物が繰り返し圧力を通したことで地表へ形成された経路だったため、核となる3点を崩せば残った力も周囲へ散っていく。
最後の接続を切った直後、円の内側から弱い風が噴き上がり、すぐ高原を流れる大きな気流へ溶けて消えた。
「これなら、同じところで捕まることはないかな」
エイルは地図へ安全を確認した印を付けると、捜索隊が来る可能性の高い南東へ向かった。
◇
捜索隊の反応を《振動感知》で拾ったのは、それから1時間ほど進んだところだった。
人間が6人。
荷車ではなく、足場の悪い場所でも進めるよう荷運び用の騾馬を2頭連れている。
風の中で声を届かせるのは難しいため、エイルは街道脇にある石標の上へ登り、長衣の裾を押さえながら片手を大きく振った。
先頭を歩いていた斥候らしい女性が最初に気づき、すぐ後ろの仲間へ合図を送る。
捜索隊は武器を構えたまま近づいてきたが、エイルの首元へ下がるA級証と、敵意を見せず石標から降りてくる様子を確認すると、警戒を僅かに緩めた。
「1人か? この先で測量隊を見なかったか?」
「3人とも見つけました。風除け小屋にいます」
斥候の女性が目を見開く。
「生きているのか?」
「はい。1人は脚を骨折していて、1人は空気の膜みたいなものに長く圧迫されていたので衰弱していますけど、今のところ命に関わる状態ではありません」
「何に襲われた?」
「風を集める飛行魔物です。尾にある円形の器官で周囲の空気を圧縮して、風刃や上昇流として使っていました」
エイルが説明すると、捜索隊の後方にいた年配の男が前へ出た。
厚手の革衣を着た男は、額へ手を当ててエイルの顔を改めて確認し、暗灰色の髪が強風に乱される様子と、まだ少年らしさを残す整った顔立ちを見比べるように目を細めた。
「君が3人を助けたのか?」
「そうです」
「同行者はどこにいる?」
「最初から1人ですけど」
男は数秒ほど黙り込み、エイルの腰にある長剣と、袖や肩へ残る白い膜の破片を見たあと、ようやく納得し切れないまま頷いた。
「その魔物はどうした?」
「尾を切ったら西へ逃げました。追おうと思えば追えましたけど、吊られていた3人を先に下ろしました」
「尾を切った……地上まで降りてきたのか?」
「降りてこなかったので、《遠衝斬》で切りました」
年配の男が聞き慣れない技能名に眉を寄せたが、急いで負傷者のもとへ向かう方が先だと判断したらしく、それ以上詳しく訊くことはなかった。
エイルは円形の経路をすでに壊したことと、風の止まっていた領域が消えていることを伝え、捜索隊を風除け小屋まで案内した。
強風の中では騾馬の歩調が乱れやすいものの、エイルが岩丘の陰を繋ぐ経路を選び、風が強まる前に合図を出したことで、往路より安定した速度で進むことができた。
昨日までは自分の身体へ当たる風を読むだけだったが、今は数十メートル先で草が伏せる順番や、岩の隙間から噴き出す砂の動きを見れば、後ろを歩く人間や騾馬へどの方向から力が届くかも分かる。
捜索隊の斥候は、エイルが風上をほとんど振り返らないまま進路を変える様子を何度か見たあと、半信半疑ながらも指示へ従うようになった。
「次の岩を越えたら右から強く来ます。騾馬を岩壁側へ寄せてください」
エイルの言葉から数秒後、右側の丘を回り込んだ風が横から吹きつけたものの、全員が事前に身体と荷物を寄せていたため、騾馬も足を滑らせず通過できた。
「高原に慣れているようには見えないが、何度来ている?」
「今回が初めてです」
「初めて?」
「一昨日入ったばかりですね」
斥候の女性は明らかに何か言いたそうな顔をしたが、前方を進む少年の歩調がまったく乱れないため、質問を続けるより足元へ集中することを選んだ。
◇
風除け小屋へ戻ると、捜索隊はすぐに3人の状態を確認し、セディを簡易担架へ乗せ、ローナについても荷物を減らした騾馬へ固定した。
ローナは意識を取り戻しており、まだ長く話せるほど回復してはいなかったものの、エイルが入ってきたことへ気づくと小さく頭を下げた。
「助けてくれた人……ですよね」
「もう少し休んだ方がいいですよ」
「空から落ちた時、受け止めてもらったのだけ覚えてます」
「膜を切ったので、そのまま落ちてきただけです」
「それを受け止めるために、空中まで来たんでしょう?」
「近くに岩があったので、そこまで難しくはなかったです」
ローナは弱く笑ったものの、近くで聞いていた捜索隊の何人かは、地上から30メートル近い高さへ吊られていたと知っているらしく、エイルの言葉をそのまま受け取れない顔をしていた。
カルスは捜索隊へ、風の止まった領域で起きたことを順番に伝えた。
円形の場所から空中へ巻き上げられ、領域内へ落とされたこと。
どちらへ進んでも同じ石標へ戻され、武器や地図袋を見えない刃で切られたこと。
最後には岩丘へ追い込まれ、3人とも白い空気の膜へ閉じ込められたこと。
そしてエイルが現れたあと、空中を蹴るように高度を変え、遠く離れた魔物へ剣の衝撃を飛ばしたことまで説明すると、捜索隊の視線が自然にエイルへ集まった。
エイルは気にせず、自分の地図へ風除け小屋周辺の地形を書き足していた。
「君はレメルへ戻るのか?」
年配の男に訊かれ、エイルは地図から顔を上げた。
「戻らなくても大丈夫なら、このまま西へ行こうと思ってます」
「救助の報告や報酬はどうする?」
「皆さんが戻るなら、魔物の特徴と場所を書いたものを渡します。必要なら、あとでローデンか別の支部を通して受け取れるようにしてもらえれば十分です」
「自分で説明しなくていいのか?」
「カルスさんたちは見てますし、僕はこの先を見たいので」
男はエイルの地図へ視線を落とした。
旧街道は岩丘を越えた先へ続いており、無風領域が消えたことで、昨夜まで見えなかった石標も幾つか確認できるようになっている。
「逃げた魔物を追うつもりか?」
「それだけではないですけど、同じ方向なので、痕跡があれば見ます」
「さらに西は、測量図がほとんど残っていない。今回の3人も、旧街道の再確認だけで空白へ踏み込む予定ではなかった」
「だから行ってみたいんです」
エイルにとっては自然な理由だったが、捜索隊の男には十分すぎるほど冒険者らしい答えに聞こえたらしく、しばらく考えたあとで小さく笑った。
「止めても行く顔だな」
「止められたら、理由は聞きますよ」
「危険だからというだけでは戻らないんだろう?」
「危険の内容が分からないなら、確認しないと判断できませんから」
男は肩を竦め、自分の地図袋から薄い紙を1枚取り出した。
「測量隊が今回確認する予定だった石標の記録だ。岩丘から先についても、古い番号と推定位置だけは載っている。救助してくれた礼として、写しを持っていけ」
「ありがとうございます」
受け取った紙には、現在地より西側へ残る石標が番号順に記されていた。
第41標までは位置が確認され、第42標から第47標までは古い文書に記録だけが残っている。第48標以降については存在したかどうかも不明であり、現在の測量図では第41標を少し越えた場所で道が途切れている。
エイルが昨夜見た風の止まる領域は、第40標と第41標の間にあった。
つまり黒い翼の魔物によって道が消えていたことと、地図そのものが途切れていることは同じ原因ではない。
領域の先にも、まだ少なくとも6本分の石標が存在していた可能性がある。
「第47標まで行けば、何かあるんですか?」
「古い記録には、《西縁観測所》とだけ書かれている。ただし観測所がどのような施設だったか、いつ使われなくなったかは残っていない」
「西縁」
「高原の西端を調べるための場所だったのかもしれないが、そこへ着いたという近年の記録はない。旧街道を辿った者も、第43標付近で道を見失ったという報告が最後だ」
エイルは紙に残る第47標の印を見た。
現在の地図では何もない。
そのさらに西側には山地の輪郭すら描かれておらず、紙の端まで広い空白が続いている。
高原の風へ適応し始め、《遠衝斬》という遠距離手段も得たばかりの自分が進む場所としては、かなり面白そうだった。
◇
捜索隊は昼前にレメルへ向けて出発した。
エイルは最初の石積み場まで同行し、負傷者を乗せた騾馬が強風の区間を抜けられることを確認してから別れた。
「本当に戻らないのか?」
カルスが最後に訊く。
「はい。食料も水もありますし、風が止まってた場所の向こうをまだ見てないので」
「君が来なかったら、俺たちは全員あそこで死んでた。礼を返せるものもないが、レメルへ戻ったら必ず報告しておく」
「地図の情報をもらえたので十分ですよ」
「それは俺たちじゃなくて隊長のものだろ」
「皆さんが無事なら、それでいいです」
エイルは軽く手を上げ、捜索隊が南東へ進むのを見送った。
騾馬と人間の反応が《振動感知》の範囲から薄れていくまで確認したあと、身体を西へ向ける。
今度こそ1人だった。
風除け小屋へ戻る必要も、負傷者の歩調へ合わせる必要もない。
エイルは《身体強化》を全身へ薄く通し、高原の風が弱まる瞬間へ歩幅を合わせながら速度を上げた。
数時間前まで風の止まっていた境界を越えると、昨夜は静止していた草が大きく揺れ、砂が旧街道を横切って流れている。
黒い翼の魔物が作った白い膜は岩柱から剥がれ、細かな霧となって風へ散っていた。
魔物自身の姿はない。
それでも岩丘の斜面には、尾から漏れた圧縮空気が地面を削った痕跡と、片翼から落ちた黒い膜片が残っている。
痕跡は西へ続いていた。
傷ついたまま逃げたため、飛行高度を保てず、何度も岩や地面へ接触しているらしい。
追うために道を外れる必要はない。
旧街道と同じ方向だった。
エイルは第41標を通過し、その先へ続く石畳の残骸を辿った。
◇
第42標を見つけたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
石標の半分以上が地面へ埋まり、表面も風化していたものの、古い記録にあった番号は辛うじて残っている。
その周囲には人間の足跡がない。
測量隊が到達できなかった場所へ入ったことになる。
エイルは番号と位置を地図へ記し、さらに西へ向かった。
第42標から先では旧街道の痕跡が急激に薄くなり、地面へ残る石畳も数十メートルおきに見つかる程度になる。強風によって砂と土が何度も移動し、道全体が埋もれているらしい。
それでも石畳へ使われた岩と自然の地面では、振動の返り方が僅かに違う。
目では道が見えなくても、《振動感知》を足元へ通せば、地表から数十センチ下へ並ぶ平たい石の位置を拾うことができた。
エイルは埋もれた石畳を辿り、測量図に存在しない道を西へ進んだ。
途中、傷ついた黒い翼の魔物が休んだと思われる岩場を見つけた。
血液はほとんど残っていないが、尾の器官から漏れた圧縮空気によって岩表面が円形に削られ、薄い膜の破片が周囲へ付着している。
魔物はまだ生きている。
しかも西へ向かっている。
エイルが痕跡を確認していると、上空から小さな魔力反応が近づいてきた。
昨日戦った高原の飛行魔物より小さい。
翼を持つ灰色の獣が2体、岩丘を越えて現れ、地上にある黒い膜片へ向かって高度を落としている。
死肉や魔物素材を狙う種類らしい。
エイルには気づいているものの、最初は攻撃するつもりがないように見えた。
ところが1体が膜片へ爪を伸ばした瞬間、内部へ残っていた圧縮空気が破裂し、灰色の獣を横へ吹き飛ばした。
もう1体が驚いて高度を上げ、その勢いのままエイルへ向かってきた。
自分を攻撃したものを区別できず、近くにいた人間へ標的を変えたらしい。
エイルは長剣を抜いたものの、相手との距離は40メートル以上あり、こちらへ届くまでにはまだ余裕がある。
昨日までなら、高度を落とすまで待った。
今は違う。
エイルは剣を斜めへ構え、《遠衝斬》を作るため刀身へ魔力を通した。
前回は30メートルほどで威力が大きく落ちた。
今回は外殻へ使う《魔力圧縮》の厚さを少し上げる一方、斬撃の幅を狭くし、衝撃の先端だけが前へ進み続けるよう《衝界》の経路を整える。
長剣を振り抜く。
細い衝撃の刃が空気を走った。
飛行獣は途中で気づき、左へ翼を傾ける。
エイルは剣から斬撃が離れたあとも、《衝界》の経路を完全には切らず、外側へ広がる力を右から押し戻した。
大きく曲げることはできない。
それでも直線から僅かに左へ軌道をずらす。
避けたと思った飛行獣の右翼へ、《遠衝斬》が浅く当たった。
翼膜が裂れ、飛行獣は地面へ落ちず、痛みに鳴きながら反対方向へ離れていく。
エイルは追撃しなかった。
「少しなら曲げられるな」
相手の動きを完全に追尾するほどではないが、飛ばしたあとに数十センチから1メートル程度の修正ができれば、遠距離での命中率は大きく変わる。
ただし距離が伸びるほど《衝界》の経路は薄くなり、細かな操作へ集中する必要も増えるため、近距離戦をしながら同時に曲げるのはまだ難しそうだった。
エイルは新しい感覚を忘れないよう、地図の余白ではなく技能用の小さな手帳へ記録した。
幅を狭めれば距離が伸びる。
外殻を厚くすると減衰が遅くなるが、破裂しやすい。
放出後も《衝界》を維持すれば僅かな軌道修正が可能。
飛行中の敵へ使う場合は、現在位置ではなく回避後の進路へ刃を寄せる。
まだ覚えたばかりの技能であり、試せることはいくらでも残っていた。
◇
第43標は、日没直前に見つかった。
しかし、そこから先には石畳の反応が続いていなかった。
古い記録では第44標以降も西へ並んでいるはずだが、地面の下を探っても人工的に敷かれた岩は見つからず、周囲には自然の草地と低い岩丘だけが広がっている。
測量隊が道を失ったという記録も、この場所だった。
エイルは第43標の周囲を一周し、風化した表面と地面へ埋まった根元を調べた。
石標そのものは倒れていない。
正面には西を示す古い矢印も残っている。
それなのに道だけが消えている。
地形が大きく崩れた様子はなく、砂に埋まっただけなら《振動感知》で石畳を拾えるはずだった。
エイルは矢印の方向へ200メートルほど歩き、もう一度足元を確かめたが、やはり人工的な構造は見つからない。
そこで背後を振り返ると、第43標が見えなくなっていた。
距離は200メートル。
高い草も岩壁もない。
本来なら、傾いた石標の上部くらいは見えるはずだった。
エイルは来た方向へ戻った。
歩いた距離は同じ。
それでも石標は現れない。
《振動感知》へも、地面へ深く固定されていたはずの石柱の反応が入らなかった。
「道じゃなくて、場所そのものが変わったのか」
方角は合っている。
空の太陽と地図から判断しても、自分が大きく曲がった様子はない。
それにもかかわらず、第43標と埋もれた旧街道が感知から消えている。
エイルは《魔力感知》を広げた。
高原の自然な魔力に混じって、薄い層が地表へ重なっている。
風の魔力ではない。
空間属性とも少し違う。
現在地と周囲の距離感だけを、僅かにずらすような反応だった。
黒い翼の魔物が作っていた無風領域より範囲は広く、境界も目では見えない。
この層の中へ入ったことで、真っ直ぐ歩いたつもりでも同じ場所へ戻れず、後方の石標まで見失った可能性がある。
エイルは慌てて歩き回らず、その場へ立ったまま足元の岩へ手を触れた。
地表の距離がずれていても、地下の岩盤まで完全に別の場所へ移動しているとは限らない。
《振動感知》を深く通す。
表層では反応の方向が歪む。
しかし数メートル下にある硬い岩盤では、振動が比較的真っ直ぐ返ってきた。
その奥。
東側。
地中に細長い人工物がある。
第43標の根元。
見えていないだけで、石標は存在している。
エイルは地上の景色ではなく、地中へ残る石標の位置を基準にして東へ歩いた。
最初の100メートルでは何も見えない。
さらに50メートル進むと、空気の密度が一瞬だけ変わった。
次の一歩を踏み出した途端、目の前へ第43標と、そこから東へ続く自分の足跡が戻ってくる。
境界を抜けた。
エイルは再び西側を見た。
夕暮れの高原が広がっているだけで、異常を示す壁や光はない。
ただし《魔力感知》へ集中すれば、地表へ重なる薄い層が一定の周期で揺れている。
第44標から先へ進むには、目や地上の感覚へ頼るのではなく、岩盤や別の基準を使って方向を維持する必要がありそうだった。
測量隊が第43標で道を失った理由も分かった。
そして黒い翼の魔物も、傷ついた痕跡をこの領域の中へ残している。
逃げた魔物は、偶然こちらへ来たのではない。
自分が隠れられる場所を知っていた可能性が高い。
エイルは第43標の近くへ野営場所を作り、日が完全に落ちる前に、歪んだ領域の境界と地中の岩盤について地図へ書き込んだ。
風の止まる場所を越えた先では、今度は道そのものが人間の感覚から外れている。
しかも古い石標は、その異常な領域を抜けた先へまだ続いているはずだった。
エイルは焚き火へ薪を加えながら、第44標の推定位置へ目を向けた。
遠距離へ届く斬撃を得て、空中でも数歩なら進路を変えられるようになった。
それでも高原の空白は、強くなったばかりのエイルへ休む間もなく、今までとは違う越え方を求めていた。




