第130話 届かない距離
風除け小屋で一夜を過ごしたエイルは、空が白み始めるより少し前に目を覚まし、炉へ残っていた僅かな熱で簡単な朝食を済ませたあと、昨夜見つけた3人分の足跡と円形の痕跡を改めて調べるため外へ出た。
夜の間も《警戒圏》には大きな反応が入らず、小屋の周囲へ新しい足跡も増えていない。高原を吹き続けていた強風だけは朝になっても変わらず、岩丘の隙間を抜けるたびに唸るような音を上げ、背の低い草と地表の砂を東へ押し流していた。
しかし、小屋から西へ数キロ進んだ場所では、昨夜と同じように草がまったく揺れていない。
空を流れる雲は動き、周囲には強い風が吹いているにもかかわらず、一定の境界から先だけ地表の動きが完全に止まっているため、遠くから見てもそこだけ風景が切り取られたように見えた。
エイルは地面へ残る3人分の靴跡を追い、円形の線が刻まれた場所まで歩いた。
足跡は円の中央へ入ったところで消えている。
周囲へ散った荷物もなく、争った痕跡や血痕も見つからないことから、3人は自分の意思でここへ立ち、その直後に地面へ足を残せない状態になった可能性が高かった。
エイルは円の外側へしゃがみ込み、《魔力感知》を地表へ薄く広げた。
昨夜感じた風属性に似た残滓はさらに弱くなっているものの、円の内側から上方へ向かって細い経路が残っている。魔術陣として完成された構造ではなく、何かが空気を急激に吸い上げた際、その力が地面へ円形の跡として刻まれたように見えた。
「下へ落ちたんじゃなくて、上へ持っていかれたのか」
エイルは円の中心へ小石を1つ置き、自分は外側へ下がった。
最初は何も起きない。
そこで小石の周囲へ少量の魔力を流し、生き物が動いた時に近い振動を地面へ作ると、円の線に沿って微かな魔力が走った。
直後、小石の下から空気が噴き上がり、数メートルの高さまで一気に持ち上げる。
上昇した小石はそのまま真下へ落ちず、西側へ強く引かれ、風の止まった領域へ向かって飛んでいった。
地面へ残っているのは転移陣ではない。
一定の場所へ立った獲物を空中へ持ち上げ、そのまま西へ運ぶための圧力経路だった。
3人分の足跡が同じ場所へ集まっていたのも、最初の1人が持ち上げられたあと、残る2人が助けようとして円へ入ったからかもしれない。
エイルは小石が飛んだ方向へ視線を向け、長剣と荷物の位置を確かめてから歩き始めた。
◇
風の止まる境界へ近づくほど、周囲の音が少しずつ減っていった。
最初は長衣を叩いていた風が弱まり、次に草の擦れる音が消え、境界を越えた瞬間には、自分の足音さえ遠く感じるほど空気が静かになる。
無風というだけではない。
音を運ぶ空気そのものが重く、外側へ広がろうとする振動を抑えているような感覚があった。
エイルは一度足を止め、後方へ手を伸ばした。
腕の先だけを境界の外へ出すと、強い風が袖を東へ引く。反対に身体のある内側では長衣の裾がほとんど動かないため、目に見えない膜を挟んで異なる空間が接しているようだった。
地面へ《振動感知》を通すと、岩盤そのものは外側と繋がっているが、表面に近い薄い層だけが振動を吸収している。
三裂谷の深部で見た黒い脈とは性質が違い、生物の組織や魔力経路が岩盤へ入り込んでいる様子はない。
高原全体を流れる風だけが、この範囲へ入った途端に失われている。
その代わり、領域の中央方向には圧縮された空気の塊がいくつも存在していた。
エイルは目で見える景色と《魔力感知》の反応を重ねながら、旧街道の続きを進んだ。
石標はまだ残っている。
ただし境界へ入った最初の1本から先は、すべて上部が同じ方向へ削られており、砂や風による自然な摩耗ではなく、鋭い刃で斜めに切られたような断面になっていた。
地面には靴跡が3人分続いている。
円形の地点から一度空中へ持ち上げられたあと、この場所へ落とされたらしく、着地した周囲には膝や手をついた跡まで残っていた。
3人とも、その時点では自力で動けていた。
足跡は旧街道へ戻り、そのまま西へ進んでいる。
「連れ去られたあと、すぐ捕まったわけじゃないのか」
エイルは足跡を追いながら、周囲の圧縮された空気へ意識を向けた。
形のない空気であっても、魔力によって密度が変えられているなら《近域感知》では境界を拾える。目には何も見えない場所に、細長い塊や円環状の圧力が漂っており、それらはゆっくり西へ流れていた。
足跡も同じ方向へ続いている。
3人は自分たちを持ち上げた力の正体を探すために進んだのか、あるいは領域の外へ戻る道を見失い、旧街道を辿るしかなかったのかもしれない。
しばらく進むと、最初の荷物が見つかった。
地図袋。
中身は空で、留め具だけが鋭く切断されている。
その数十メートル先には短槍が落ちており、柄の中央から先だけがなくなっていた。
戦闘が起きた痕跡はあるものの、地面へ残る足跡は大きく乱れていない。
何かが遠距離から武器や荷物だけを正確に切ったように見える。
エイルが短槍の断面へ指を近づけた時、《危機感知》が反応した。
足元へ力を入れるより先に、右側の空気が細く歪む。
エイルは身体を左へ傾け、長剣を抜きながら頬の横へ立てた。
目にはほとんど見えない何かが刀身へ衝突し、甲高い音と共に右後方へ逸れる。
数十メートル先にあった石標の表面へ細い線が走り、上部が斜めに滑り落ちた。
「風の刃か」
通常の風魔術なら、発生する魔力や空気の動きから軌道を読むことができる。
今の攻撃は周囲の無風領域そのものと反応が重なっており、放たれる直前まで《魔力感知》へほとんど差が出なかった。
攻撃してきたものの姿も見えない。
エイルは短槍から手を離し、長剣を構えながら周囲へ《近域感知》を広げた。
遠くから何かが飛んできたのではなく、空中へ漂う圧縮された塊の1つが急激に細く伸び、刃となって横切ったらしい。
ならば敵本体が近くにいるとは限らない。
領域内に配置された圧力そのものが、侵入者へ反応している可能性もある。
2本目が来る。
今度は左上。
エイルは発生地点の圧力が変わる瞬間を拾い、剣を振り上げるのではなく、刀身を斜めへ置いて刃の進路だけを外した。
風刃が長剣へ触れ、手首へ軽い衝撃が入る。
威力自体はレオンやアルベルトの斬撃に比べれば小さいが、目で追いづらいうえ、どの方向からでも発生できるなら厄介だった。
エイルはそのまま動きを止めず、足跡の続く西へ走り始めた。
発生地点を1つずつ潰すより、領域の中心と消えた3人を先に見つける方がいい。
◇
旧街道は数キロ先で大きな岩丘に突き当たり、その手前から南北へ分かれていた。
測量図では西へ直進する線が描かれているものの、実際の地形には道の続きが見当たらない。
代わりに岩丘の上部へ目を向けると、風雨で削られた自然の柱が何本も立ち、その間に巨大な白い膜が張られていた。
最初は雲か霧の一部に見えたが、無風領域の中で形を変えず、表面へ淡い魔力が流れている。
さらに高い位置には、黒い翼を持つ魔物が1体浮かんでいた。
翼を羽ばたかせていない。
全長は5メートルほどで、鳥に似た胴体の左右から長い翼が伸びているものの、羽の代わりに半透明の薄膜が何層も重なっている。尾の先には円形の器官があり、そこへ周囲の空気が吸い込まれるたび、領域内へ漂う圧力の塊が少しずつ増えていた。
風を消しているのは、あれだ。
周囲の空気を集めて圧縮し、領域内へ保存している。
そして必要な時には、その一部を刃や上昇流として放つ。
エイルは魔物を見上げたあと、岩柱の間に張られた白い膜へ視線を移した。
人影がある。
3人。
それぞれ別の膜へ身体を絡め取られ、地上から20メートル以上高い場所へ吊られていた。
1人は動いている。
もう1人も、僅かに頭を上げた。
最も高い場所にいる3人目は反応が弱く、胸が上下しているかどうかも遠目では分かりづらい。
エイルは岩丘の手前まで近づき、声を届かせるために口元へ手を添えた。
「聞こえますか!」
無風領域の重い空気へ声が吸われ、思ったほど遠くまで届かない。
それでも最も低い位置に吊られた男が反応し、顔を下へ向けた。
「誰かいるのか!」
「冒険者です! 今から下ろします!」
「近づくな! 上のやつが――」
男の声が途切れる。
黒い翼の魔物が尾の円環をエイルへ向け、周囲へ溜めていた圧力を一斉に動かした。
複数の風刃が異なる位置から生まれる。
正面だけではない。
左右。
上方。
さらに地面近くからも1本。
エイルは岩丘へ走りながら、最初の2本を長剣で流し、足元へ来た1本については跳び越えた。
上空から落ちる風刃が、その着地点へ重なる。
空中では地面を蹴れない。
しかし、以前から使っていた方法なら一度だけ軌道を変えられる。
エイルは足裏へ《衝界》を集中させ、空気へ向かって短い衝撃を押し出した。
形のない空気を踏み続けることはできない。
それでも一瞬だけ圧力を作り、その反力を足裏へ返せば、空中でも身体を横へ押すことはできる。
エイルの身体が着地予定地から数メートル外れ、上から落ちた風刃が何もない地面を斜めに切った。
そのまま低い岩へ着地し、すぐ次の一歩へ移る。
吊られている男が目を見開いていた。
「空を蹴ったのか……?」
「少しだけです!」
エイルは答えながら、さらに高い岩へ跳び上がった。
足裏の衝撃を使う空中歩法は、連続して何十歩も進める飛行技術ではない。一度ごとに《衝界》で圧力を作る必要があり、地面を蹴る時ほど大きな反力も得られないため、方向転換や落下位置の調整に使うのが最も効率的だった。
それでも地上から届かない場所へ攻撃を繋ぐには十分役立つ。
エイルは岩柱を2本使って高度を上げ、最後の距離だけ空中歩法で補いながら、最も低い位置へ吊られていた男の近くまで上がった。
白い膜は見た目より厚く、内部へ空気が何層にも重なっている。
そのまま斬れば、中にいる人間まで圧力で傷つける可能性があった。
「動かないでください」
「言われなくても動けない!」
エイルは膜の表面へ剣先を触れさせ、《魔力感知》で内部の流れを確かめた。
膜そのものを切るより、岩柱へ繋がっている細い管を断った方が安全そうだった。
管へ刃を入れると、白い膜から空気が少しずつ抜け始める。
男の身体がゆっくり下がる。
地上へ落下する前に、エイルは男の腕を掴み、近くの岩棚へ引き寄せた。
「残り2人は?」
「上にいるセディが脚を折ってる。いちばん高いローナは、昨日からほとんど返事がない」
「分かりました。ここで待っていてください」
「待て、あの魔物へ近づいたら風刃の数が増えるぞ!」
男が止める間にも、黒い翼の魔物は岩丘の上を旋回しながら、尾の円環へさらに圧力を集めている。
今の位置から2人目までの距離は15メートルほど。
岩柱を使えば近づける。
しかし最も高い場所にいる3人目までは30メートル以上あり、周囲に足場となる岩も少ない。
空中歩法だけで上がるには距離がありすぎるうえ、人を抱えたまま戻ることまで考えれば、先に黒い翼の魔物を遠ざける必要があった。
エイルは長剣を握り直し、上空の相手へ視線を向けた。
地上の敵なら近づけば斬れる。
飛行する相手でも、攻撃のために高度を落とすなら迎撃できる。
しかし、今の魔物は自分から近づかず、領域内へ溜めた圧力だけを遠距離から動かしている。
こちらから届く攻撃がないと判断しているのだろう。
「やっぱり、遠くへ斬れるものがいるな」
今まで《衝界》を遠距離へ使う時は、地面や壁、武器のように衝撃を通す媒体が必要だった。
空気へ直接衝撃を広げることもできるが、距離が伸びるほど力が散り、相手へ届く頃には押す程度の威力しか残らない。
ならば広げなければいい。
剣を振った時に生まれる衝撃を刃の幅へまとめ、その形を保ったまま飛ばす。
《衝界》で進行方向を整え、《魔力圧縮》で途中の拡散を抑えれば、空気そのものを切断の媒体として使えるかもしれない。
エイルは岩棚の上で長剣を横へ構え、試しに低い出力で振った。
剣から生まれた衝撃へ《衝界》を重ねる。
薄い波が数メートル進んだものの、途中で形を失い、白い霧のように広がって消えた。
方向は合っている。
ただし衝撃全体を前へ押しただけでは、距離と共に刃の形が崩れる。
必要なのは外側へ広がろうとする力を内へ戻し続ける経路だった。
黒い翼の魔物から風刃が放たれる。
エイルは1本目を剣で流し、2本目を岩柱の陰へ入って避けながら、相手の攻撃がなぜ遠くまで形を保っているのかを見た。
魔物は圧縮した空気を一度に放っていない。
最初に細い経路を作り、その後ろから圧力を連続して送り込むことで、刃の先端が進み続ける形を維持している。
ならば自分も、斬撃を飛ばした瞬間に制御を終わらせなければいい。
剣から離れたあとも、衝撃が進む経路へ《衝界》を残し、外側から《魔力圧縮》を重ね続ける。
エイルは再び長剣を構えた。
今度は振り抜く速度を上げるためではなく、刀身のどこから衝撃を離すかへ意識を集中する。
刃が空気を押す。
生まれた衝撃を剣先へ集める。
剣から離れる瞬間、薄く長い形へ整え、左右へ広がろうとする力を内側へ戻す。
2度目の斬撃が飛んだ。
最初より細い。
距離も伸びる。
しかし10メートルほどで先端が割れ、2つの弱い波となって岩壁へ当たった。
石の表面へ浅い傷が残る。
まだ足りない。
エイルは呼吸を整えながら、剣へ通す魔力を増やすのではなく、《魔力圧縮》を掛ける位置を変えた。
斬撃全体を圧縮すれば、内部の衝撃まで互いに押し合い、途中で形が破裂する。
外側だけを薄く固める。
中にある衝撃が前へ進むための鞘を作る。
長剣の刀身も、内側の魔力経路と外殻を分けることで大きな力を扱っている。
同じことを、飛ばす斬撃へ使えばいい。
◇
黒い翼の魔物が尾の円環を大きく広げた。
領域内へ漂っていた圧力の塊が一斉に動き、今までより太い風刃が3方向から作られる。
さらに魔物自身も高度を落とし始めた。
エイルが岩棚から動かず何かを試している間に、仕留めるつもりらしい。
最も低い位置へ吊られていた男が叫ぶ。
「来るぞ!」
「見えてます!」
最初の風刃は正面から来る。
エイルは避けず、長剣を斜めへ振り下ろした。
今度の斬撃には《衝界》だけでなく、《魔力圧縮》による薄い外殻を重ねている。
刀身から離れた瞬間、衝撃は広がらず、剣の幅より僅かに大きい細長い刃となって前へ進んだ。
飛んできた風刃と空中でぶつかる。
互いの圧力が弾け、白い霧が岩丘の間へ広がった。
エイルの斬撃はそこで完全には消えず、威力を落としながらさらに先へ進み、黒い翼の魔物の左翼を浅く切った。
魔物の身体が傾く。
初めて、自分まで攻撃が届いたことへ驚いたように高度を上げようとする。
「届いた」
威力は近接斬撃よりかなり低い。
距離が伸びればさらに減衰し、今の一撃では硬い相手を深く断つことも難しい。
それでも30メートル近く離れた飛行魔物へ、剣を届かせることができた。
残る2本の風刃が左右から迫る。
エイルは岩棚を蹴って空中へ出ると、最初の1本を身体の下へ通し、2本目が進路へ重なった瞬間、足裏から短い衝撃を放った。
空中へ作った一瞬の反力で身体を上へずらし、風刃の上を越える。
そのまま落下せず、黒い翼の魔物へ向かって2度目の空中歩法を使い、距離を縮めた。
魔物が尾の円環へ圧力を集める。
近づいてくる相手を押し戻すため、正面へ広い衝撃を放つつもりらしい。
エイルは空中で長剣を横へ引いた。
今度は先ほどより圧縮を強める。
飛ばす斬撃の外側だけへ魔力を重ね、内部の衝撃が前へ抜け続ける形を作る。
「《遠衝斬》」
自然に技の形と名前が重なった。
長剣から離れた衝撃の刃が、魔物の放った広い圧力を中央から裂き、そのまま尾の円環へ届いた。
半透明の器官へ斜めの線が走る。
蓄えられていた空気が制御を失い、魔物の背後へ一気に噴き出した。
黒い翼が大きく折れ曲がり、浮力を失った身体が岩丘の斜面へ落下する。
エイルは空中歩法をもう一度だけ使って進路を変え、近くの岩柱へ着地した。
【新規技能《遠衝斬》を獲得しました】
【《剣術 Lv.81 → Lv.82》】
【《衝界 Lv.43 → Lv.44》】
【《魔力圧縮 Lv.67 → Lv.68》】
【衝撃を刃状に保持した遠距離斬撃の形成に成功しました】
【有効距離は出力、圧縮率、経路維持精度により変動します】
表示を確認している間にも、斜面へ落ちた魔物は翼を動かして立ち上がろうとしていた。
尾の円環は大きく裂け、周囲の空気を吸い込む力も弱まっている。
その影響は領域全体へすぐに現れた。
空中へ漂っていた圧力の塊が形を失い、風刃を作っていた細い経路も崩れ始める。
境界の外から押し込まれていた高原風が、少しずつ内側へ流れ込んできた。
最初は弱い。
それでも草の先が動き、岩丘の間へ砂が舞い始める。
黒い翼の魔物はエイルへ再び攻撃せず、傷ついた翼と尾を引きずりながら岩丘の反対側へ逃げようとした。
エイルは長剣を構えたが、すぐには追わなかった。
3人を吊っている白い膜が、風の戻りと共に不安定に揺れ始めている。
魔物を仕留めるより先に、残る2人を助けなければならない。
◇
2人目は最初の男より高い位置にいたものの、周囲の風刃が消えたことで近づくのは難しくなかった。
エイルは岩柱を蹴って高度を上げ、足場が途切れた場所だけ空中歩法で補いながら白い膜へ到達すると、脚を折っている男の身体を傷つけないよう、岩柱へ繋がる管から空気を抜いた。
膜が萎む速度を《衝界》で抑え、急に落下しないよう支えながら近くの岩棚へ下ろす。
最後に残った女性は、さらに10メートル以上高い場所へ吊られていた。
呼吸はある。
ただし意識はなく、白い膜が胸部を圧迫しているため、このまま長く置けば危険だった。
周囲に使える岩柱は途中までしかない。
エイルは2人目を安全な場所へ残すと、最も高い岩の先端へ上がった。
女性を吊っている管までの距離は25メートルほど。
空中歩法で届かない距離ではないものの、意識のない人間を抱えたあと同じ方法で戻るのは難しい。
ならば、先に膜を下ろす。
エイルは長剣を構え、管の位置へ狙いを定めた。
女性の身体へ近い部分を切れば危険があるため、岩柱へ接続している根元だけを狙う。
先ほど覚えた《遠衝斬》を、今度は威力より精度へ寄せる。
剣を振る速度を落とし、衝撃の幅を細くした分だけ《魔力圧縮》の外殻を厚くする。
飛ぶ距離は短くていい。
硬い岩を断つ必要もない。
管だけへ届けば十分だった。
エイルが長剣を振ると、細い衝撃の刃が空中を走り、白い管の根元へ吸い込まれるように当たった。
切断された膜が落下を始める。
エイルはすぐ岩柱を蹴り、1度目の空中歩法で前へ進み、2度目で僅かに高度を上げた。
落ちてきた女性の身体を両腕で受け止める。
そのままでは2人分の重量に引かれて岩壁へ衝突するため、足裏から下方へ衝撃を放ち、落下速度を弱めながら進路を最も近い岩棚へ向けた。
着地の直前には《衝界》を女性の身体へ直接通さず、自分の腕、腰、脚へ入った衝撃だけを地面へ分散する。
両足が岩棚へ触れ、膝が深く沈んだものの、女性へ大きな負担を掛けずに止まることができた。
呼吸を確認する。
浅い。
胸部を圧迫されていた影響で顔色も悪いが、脈は残っている。
「間に合ったな」
エイルは女性を横向きへ寝かせ、呼吸が通りやすい姿勢へ変えてから、最初に助けた男へ向かって声を上げた。
「3人とも下ろしました! 動けるなら、こっちへ来てください!」
男は脚を折った仲間へ肩を貸しながら、岩棚を慎重に下り始めた。
その間に高原の風はさらに領域へ入り込み、止まっていた草原全体が大きく波打ち始める。
空気を奪っていた魔物の姿は、岩丘の向こうへ消えていた。
追跡できないわけではない。
しかし尾の円環を失った以上、同じ規模の無風領域をすぐ作ることはできず、目の前には負傷者が3人いる。
ここで選ぶべきものは明確だった。
◇
3人を風除け小屋まで連れ戻した頃には、日が高く昇っていた。
脚を折った男は自力で歩けないため、エイルが背負い、意識を失っていた女性については最初に助けた男と交代しながら運んだ。
女性は途中で一度目を覚まし、自分が地上へ戻っていることを確かめると、安心したように再び眠った。
小屋へ着いてから骨折した脚を固定し、3人へ水と少量の食料を与える。
最初に助けた男は《カルス》と名乗り、残る2人は高原の旧街道を調べていた測量補助員のセディとローナだと説明した。
「円に入ったところで、いきなり身体が浮いた。俺が最初で、2人が腕を掴もうとして一緒に巻き込まれたんだ」
カルスは水を飲みながら、地面へ残っていた円形の跡について話した。
「気づいた時には風の止まった場所へ落とされていて、戻ろうとしたんだが、どちらへ歩いても同じ石標へ戻ってきた。方位器も途中で割られて、最後はあの岩丘まで追い込まれた」
「道が戻ったように見えたのは、圧縮された空気に進路を曲げられていたんだと思います。風がないので、自分が曲がっても気づきにくかったのかもしれません」
「あの鳥みたいな魔物は知ってるのか?」
「初めて見ました。逃げたので、名前もまだ分かりません」
「逃げた?」
「尾の器官を切ったら、風を集められなくなったみたいです」
カルスは小屋の外で戻り始めた風と、エイルの長剣を交互に見た。
「遠くにいたよな」
「新しい斬撃ができたので」
「そんな、思いついたからできたみたいに言うものなのか?」
「何回か失敗しましたよ」
「何回かで済む話には見えなかったけどな……」
エイルは答えず、長剣を膝へ置いて刃の状態を確かめた。
《遠衝斬》は使える。
ただし、今の有効距離は30メートル前後であり、距離が伸びるほど切断力が大きく落ちる。圧縮を強くすれば距離と威力は上がるものの、その分だけ《魔力操作》と《衝界》へ掛かる負担も増え、動く相手へ正確に当てる難しさも高くなる。
それでも、今まで届かなかった相手へ剣を届かせられる意味は大きい。
地面や壁を経由しなければ干渉できなかった距離へ、直接攻撃を送れるようになった。
飛行魔物だけではなく、遠距離から魔術を使う相手や、近づく前に何かを切らなければならない場面にも使える。
さらに、剣へ乗せる衝撃の形や圧縮の方法を変えれば、幅を広げたり、距離へ特化させたりすることもできるかもしれない。
エイルは地図の余白へ、無風領域の位置と黒い翼の魔物の特徴を記録し、その横へ新しく覚えた技能の性質を書き加えた。
《遠衝斬》。
現状の有効距離は、およそ30メートル。
硬い対象への威力は近接斬撃より低下。
圧縮率を上げれば距離と切断力は増すが、経路維持が難しくなる。
空中歩法との併用によって、高低差のある相手へも狙いを合わせやすい。
書き終えたところで、小屋の外から強い風が吹き込み、開いていた扉を大きく揺らした。
風の止まっていた境界は、もうほとんど残っていない。
旧街道の先へ視線を向ければ、昨日まで静止していた草原も周囲と同じように波打ち、地図から消えていた西への道が岩丘の間に続いているのが見えた。
エイルは負傷した3人をレメル方面へ送り届ける必要があるため、すぐ西へ進むことはできない。
それでも、止まっていた風が戻ったことで、その先へ続く道は再び開いた。
そしてエイルの剣にも、これまで届かなかった距離を越える新しい刃が加わっていた。




