第129話 高原を渡る風
レメルを出てから最初の2日間、エイルは《ヴァルネ高原》の南縁へ続く旧街道を、ほとんど立ち止まることなく西へ進んだ。
街道と呼ばれてはいるものの、現在も頻繁に使われているのはレメルから南西へ分かれる交易路の方であり、高原へ向かう道には荷車の轍も少なく、石畳が残っている区間と、草へ覆われて細い土道に戻っている区間が何度も交互に現れた。
エイルは新しく受け取った測量図と自分の地図を見比べながら歩き、古い石標や水場を見つけるたび位置を書き足していったが、以前と同じ速度で進んでいるつもりでも、地図上の距離は想定より早く縮んでいた。
三裂谷で基礎能力が大きく伸びた影響は、戦闘より先に、こうした何気ない移動へ現れている。
《身体強化》を使わずに歩いているだけでも一歩が以前より長く、足場へ合わせて重心を移す動きも滑らかになっているため、呼吸を乱さない速度そのものが上がっていた。さらに魔力を薄く全身へ通せば、筋肉へ大きな負担を掛けずにその速度を維持でき、半日ほど歩き続けても脚へ残る疲労は以前の半分近くに減っている。
「これだと、地図の移動日数も変えないと駄目だな」
これまでなら3日と考えていた距離を2日で進めるようになれば、食料や水の計算にも余裕が生まれる。
ただし、常に最高速度で移動すれば見落とすものも増えるため、エイルは速く進むこと自体を目的にはせず、道の分岐や地形の変化がある場所では意識して歩調を落とした。
旅の目的は目的地へ早く着くことだけではない。
知らない道を見て、その途中に何があるのかを確かめることまで含めて、エイルにとっての旅だった。
◇
2日目の午後、街道の傾斜が急に強くなり、長い坂を上り切ったところで、周囲の景色が大きく変わった。
それまで両側へ続いていた森が途切れ、背の低い草と灰白色の岩が広がる高原が、西の地平まで続いている。遠くには幾つもの丘が重なっているものの、高い木や大きな建物はほとんど見当たらず、空の広さだけが地上を圧倒するように広がっていた。
高原へ最初の一歩を踏み入れた瞬間、南西から吹き続ける強い風がエイルの長衣を大きく揺らした。
風は一定ではなく、身体を横へ押すほど強まった直後に急に弱まり、数秒後には斜め前方から別の流れが重なる。地表の温度差や岩丘の形によって複数の気流が生まれているらしく、何も考えず歩けば、そのたびに身体の軸を崩されそうだった。
測量図には、高原へ入る旅人へ向けた注意書きとして、風向きだけを頼りに方角を決めてはならないと記されている。
常に西から東へ吹いているように感じても、岩丘の裏へ回れば逆方向の風が生まれ、谷間では地面へ沿って北や南へ曲がることもあるため、慣れていない旅人は自分がどちらへ進んでいるのか分からなくなるらしい。
エイルは地図を一度閉じ、周囲へ視線を巡らせた。
古い街道を示す石標は、数百メートルごとに地面へ打ち込まれている。ただし長い年月にわたって強風を受け続けたことで、多くは東側へ傾き、表面へ刻まれた文字も砂や小石に削られて薄くなっていた。
最初のうちは石標を辿れば問題ない。
しかし測量図では、高原中央部へ入る前に現在の街道が南へ曲がり、エイルが進みたい西側の空白へ続く旧路は、途中から記録が途切れている。
そこから先へ入れば、石標が残っている保証もなかった。
エイルは風へ身体を押されながら、普段の歩き方を少し変えた。
風へ正面から抵抗し続けるのではなく、強くなる瞬間には僅かに体重を預け、弱まる時に次の一歩を前へ出す。横から来る流れについても、脚力で無理に姿勢を固定せず、腰と肩を風向きへ合わせて動かすことで、身体の軸だけを進行方向へ残した。
レオンやアルベルトと戦った時に覚えた、相手の力と正面から押し合わず、流れる方向へ一度受けてから自分の動作へ変える考え方は、風を相手にしても使える。
エイルはしばらく歩きながら風の周期を確かめ、少量の《身体強化》を脚と腰へ通した。
風が強まる直前には、遠くの草が先に伏せ、細かな砂が地面へ沿って走る。目へ見える変化に加え、《近域感知》で身体の周囲を流れる空気の圧力差を拾えば、直接押される前にどちらから力が来るのか分かる。
数十分も進む頃には、強風の中でも歩調をほとんど乱さず進めるようになっていた。
「こういうのも《越境》に入るのかな」
今の風だけで《越境》そのものが上がるとは思わない。
それでもLv.7へ上がったことで、未知の環境へ身体と技能を馴染ませる速度が以前より明らかに速くなっている。
戦闘でなくても、今まで通ったことのない地形を進むだけで、歩法や感知、魔力操作の使い方は少しずつ変わっていく。
高原へ入ってまだ1時間も経っていないにもかかわらず、最初に受けた風の重さは、もう大きな障害には感じられなくなっていた。
◇
高原の南東部には、小型の草食魔物や野生の山羊に似た動物が多く、岩陰や窪地へ目を向ければ、数頭ずつの群れが風を避けながら草を食べていた。
人間を見て逃げるものもいれば、遠くからこちらを観察するだけの個体もいる。
危険な魔物の気配は少なく、空を旋回している大型の鳥も、今のところエイルへ近づく様子はなかった。
しかし、街道から少し北へ外れた岩場を通り過ぎた時、《警戒圏》が上方からの危険を拾った。
エイルはすぐに剣を抜かず、足を止めることもせず、視線だけを地面へ落とした。
太陽は南寄りにある。
その光を横切る影が、周囲の草地へ一瞬だけ落ちた。
翼を広げた幅は3メートルを超えている。
最初に空を旋回していた鳥より低い位置を飛んでいるものの、羽ばたく音がほとんど聞こえないため、強い高原風へ乗って滑空しているらしい。
影は一度エイルの後方へ抜け、そのまま大きな円を描くように戻ってきた。
獲物として見られている。
エイルが長剣の柄へ手を置くと、今度は別方向から2つ目の影が入った。
さらに少し離れた上空には、3体目と4体目もいる。
単独ではなく、群れで狩る魔物らしい。
エイルは空を直接見上げ続けず、草や砂へ落ちる影と、周囲を流れる風の変化から位置を拾った。
地面へ触れない相手には《振動感知》がほとんど使えない。
《魔力感知》には4つの反応が入っているものの、風に混じった高原全体の薄い魔力が位置を曖昧にしており、地上の敵を読む時ほど細かな動きは分からなかった。
だから視覚と《近域感知》を中心にして、相手が風へどう乗っているのかを見る。
最初の1体が高度を落とした。
長い翼をほとんど動かさず、南西からの風へ身体を傾けながら、エイルの背後へ回り込もうとしている。
正面から爪を向けてくるのではなく、追い風を使って速度を上げ、すれ違いざまに攻撃するつもりなのだろう。
エイルはあえて歩き続けた。
自分が気づいていないように見せれば、相手は最も速度が乗る経路を選ぶ。
草地へ落ちる影が大きくなる。
風が一瞬だけ遮られ、背中へ当たっていた圧力が弱まった。
エイルはそこで初めて身体を沈め、長剣を抜きながら半歩だけ左へずれた。
頭上を大きな翼が通過し、黒い鉤爪が長衣の肩を掠める。
魔物は攻撃を外しても地面へ降りず、そのまま風へ乗って再び上空へ戻ろうとした。
エイルは逃げていく身体を追って剣を振らず、翼が生み出した風へ《近域感知》を寄せた。
上昇するためには、翼の下へ強い空気を受けなければならない。
次も同じ風向きを利用するなら、進入経路はある程度限られる。
「上にいる相手も、行ける場所は減らせるか」
飛べるからといって、どこからでも同じ速度で来られるわけではない。
強い風へ逆らえば速度を失い、横風を受けすぎれば翼の角度を変える必要がある。最も危険な攻撃を作れる方向が分かれば、その経路へ先に剣を置くことはできる。
2体目が北側から高度を下げ始めた。
ただし北から南へ飛ぶのではなく、途中で南西風へ乗り、エイルの右側へ回る軌道を選んでいる。
エイルは相手自身ではなく、通過するはずの空間へ身体を向けた。
魔物が羽ばたき、最後の加速へ入る。
その直前、エイルは右足へ《高密度強化》を短く重ね、低い岩の上へ一気に跳び上がった。
地上にいると思っていた獲物が、攻撃経路へ自分から上がってくる。
魔物は翼を捻って避けようとしたが、追い風へ乗った直後では急に減速できない。
エイルは長剣を大きく振り回さず、近づいてくる胸部へ刃を斜めに置いた。
魔物の速度そのものが、斬撃へ加わる。
刀身が胸から翼の付け根へ入り、黒い羽と血が高原の風へ散った。
魔物は岩の向こうへ落下したが、エイルは追撃せず、すぐに残る3体へ意識を戻した。
1体が倒されたことで、上空の動きが変わる。
先ほどまでは順番に攻撃しようとしていた3体が、今度は互いに距離を広げながら、別々の方向から同時に高度を落とし始めた。
こちらが空中へ跳べると分かり、1体へ集中した瞬間を他が狙うつもりらしい。
◇
地上から見れば、3体は大きく離れている。
ただし風へ乗る速度を考えれば、エイルへ到達する時間はほとんど同じだった。
最初に来るのは正面。
次に左後方。
最後が右上。
剣で1体目を受ければ、背後から2体目が来る。
避けるだけなら難しくないが、同じ攻撃を繰り返させれば、こちらの回避方向まで学ばれる可能性がある。
エイルは周囲を見た。
背丈ほどの岩が2つ。
低い窪地。
南西からの風。
そして足元には、風で削られて細かな砂になった地面が広がっている。
空を飛ぶ相手へ地面を直接ぶつけることはできない。
それでも、視界と風の流れへ干渉することならできる。
エイルは右足で地面を強く踏み、《衝界》を砂の薄い表面へ広げた。
地面を砕くのではなく、周囲へ積もっている細かな砂だけを上方へ跳ね上げる。
直後に南西風が砂を巻き取り、エイルの周囲から北東側へ向かって灰色の幕を作った。
正面から来ていた魔物は、砂へ視界を塞がれて翼を広げた。
急減速。
その後ろから来る2体の進路にも、最初の個体の翼が重なる。
エイルは3体すべてを斬ろうとせず、最も近い正面の個体だけへ踏み込んだ。
翼の動きが止まった瞬間には、風へ乗っていた速度も失われている。
長剣を胸部へ入れ、地面へ落ちる前に横へ抜ける。
左後方から来た個体が砂幕を避けるため高度を上げ、右上の個体も攻撃を中断して風上へ逃げた。
エイルは落ちた2体目の動きを確認したあと、残る2体を見上げた。
上空へ戻った魔物たちは、もうすぐには降りてこない。
風へ乗りながら何度か周囲を旋回したものの、2体が短時間で倒されたことを理解したのか、やがて西側の岩丘へ向かって離れていった。
エイルは追わなかった。
襲ってくるなら戦うが、逃げる相手をわざわざ高原の奥まで追い掛ける理由はない。
落ちた2体のうち、最初に斬った個体はすでに動きを止めており、2体目も翼の付け根と胸部を深く切られているため、しばらく痙攣したあと完全に力を失った。
エイルは周囲へ別の反応がないことを確認してから、魔物の身体を調べた。
大きな翼に対して胴体は細く、骨の多くは内部が空洞になっている。爪は鋭いものの、《鉤爪獣》ほど硬くはなく、純粋な身体能力よりも風へ乗った速度を武器にする種類らしい。
翼の外側には白い線があり、羽の隙間へ微かな魔力が流れている。
風を作り出すほどではないが、周囲の空気を捉えやすくする働きはありそうだった。
「高原だと、こういうのが増えるのかな」
地上で戦う魔物とは、間合いも攻撃方向も違う。
《振動感知》へ頼れない相手が多いなら、《魔力感知》や《近域感知》を別の形で伸ばす必要がある。
さらに、自分も地上に立ったまま迎撃するだけではなく、短時間なら空中へ攻撃範囲を広げた方が戦いやすい。
脚へ使っている圧縮魔力の連続解放を、跳躍だけでなく空中での姿勢変更へ繋げられれば、飛行する相手への選択肢も増える。
未知の土地へ入って数時間。
もう次に必要な成長が見え始めている。
エイルは魔物の特徴を地図の余白へ記録し、使えそうな羽を数枚だけ切り取ったあと、再び西へ歩き始めた。
◇
夕方が近づくにつれて、高原の風はさらに強くなった。
測量図には、夜間の高原では気温が急激に下がると記されているため、エイルは地図上に残っていた古い風除け小屋を目指した。
石標を5本ほど辿り、低い岩丘の間へ入ると、半分ほど地面へ埋まるように造られた石造りの小屋が見えてきた。
屋根には土と草が積まれ、入口は風下側へ向いている。
長く使われていない可能性も考えていたが、近づくと入口付近の土へ新しい靴跡が残っていた。
1人ではない。
少なくとも3人。
荷物を置いた跡もある。
しかし、《振動感知》を小屋へ向けても内部に人間の反応はなかった。
エイルは警戒しながら扉を開けた。
小屋の中には簡単な炉と石造りの寝台があり、壁際には古い薪が積まれている。
床には最近使われた焚き火の灰が残り、その近くには乾燥肉の包装と、割れた方位器が落ちていた。
血痕はない。
争った跡もない。
ただし、3人分あったはずの足跡は小屋を出たあと西へ向かい、途中で不自然に消えている。
風が痕跡を消したのではない。
小屋から20メートルほど先までは明確に残り、その先では3人が同じ場所へ集まったあと、誰の足跡も続いていなかった。
エイルはその地点へしゃがみ込み、《振動感知》を地面へ通した。
地下へ落ちる穴はない。
岩盤も崩れていない。
空から何かに連れ去られたなら、抵抗した跡や荷物の散乱が残りそうだが、その周囲には靴跡以外ほとんど何もなかった。
残っているのは、地面へ細く刻まれた円形の線だけだった。
自然にできた模様ではない。
直径は5メートルほどあり、薄い線が二重に重なっている。
エイルが指先を近づけると、《魔力感知》へ微かな残滓が入った。
風属性に似ている。
ただし高原全体へ漂う自然な魔力とは違い、円の内側だけから外へ向かって流れた痕跡がある。
転移。
そう考えるには、魔力反応が弱すぎる。
大型魔術を使った痕跡なら、もっと濃い残滓が残るはずだった。
エイルは立ち上がり、周囲へ目を向けた。
西側には低い丘が続き、その先には地図上で旧街道が途切れる場所がある。
空には夕暮れの雲が流れている。
高原を吹き続けていた風も、相変わらず長衣と草を東へ押していた。
ただし。
さらに西。
丘の向こう側だけ。
草が動いていない。
エイルは目を細めた。
周囲には強い風が吹いているのに、数キロ先と思われる広い範囲だけ、地表の草も砂も完全に止まっている。
風が弱いのではない。
境目がある。
見えない壁を境にして、そこから先だけ高原の風が消えている。
地図を開いて確認しても、その場所に谷や巨大な岩壁、風を遮る森などは記されていない。
むしろ旧街道は、その風の止まった範囲へ向かって伸び、地図上では直前で線が途切れていた。
エイルは消えた3人分の足跡と、地面へ残された円形の線をもう一度見た。
彼らも。
あそこへ向かったのかもしれない。
日没は近い。
今から正体不明の領域へ入るより、小屋で夜を越して朝から調べた方がいい。
エイルは風除け小屋へ戻り、入口を閉める前に、西側の静止した草原へ視線を残した。
高原へ入ったばかりのエイルの前に、地図から道が消えた理由らしいものが、もう姿を現し始めていた。




