第128話 境を越えた帰路
三裂谷の地下深部から中央谷へ戻ったエイルは、そのままレメルへ向かって歩き出す前に、谷底を流れる細い川のそばで一度だけ足を止めた。
地上へ出た直後から右肩と背中には重い張りが残っており、圧縮した魔力を脚から腰、背中、肩、腕、剣へ順番に通した影響で、全身の魔力経路も普段より熱を持っている。ただし、最初に右腕だけで試した時のように筋肉が部分的に傷ついた感覚はなく、動作の順番と出力の逃がし先を整えたことで、身体へ掛かった負荷は想定していたより遥かに小さかった。
エイルは川辺の岩へ腰を下ろし、長剣を膝の上へ置きながら、右手を何度か開閉した。
握力は落ちていない。
肩を回しても動きが引っ掛かることはなく、剣を振るための筋肉には疲労が残っているものの、旅を続けられないほどではなかった。
《自己治癒》もすでに働いているため、このまま数時間歩けば張りの大半は消えるだろう。
「昨日より、かなりましだな」
出力そのものは、訓練用の柱を殴った時より遥かに大きかった。
それでも身体を傷めなかった理由は、単純に耐久や筋力が上がったからではなく、圧縮魔力を解く位置と順番を、自分の動作へ合わせられたことにある。
力を溜め、一気に放つだけでは切り札にはならない。
身体のどこを通し、どの瞬間に次へ渡し、最後に剣や《衝界》へどう繋げるかまで制御できて、初めて実戦で使える技術になる。
まだ同じ一撃を何度も放てるほど完成してはいないが、少なくとも方向は間違っていなかった。
エイルが呼吸を整えながら魔力経路の熱を確認していると、視界の端へ半透明の表示が浮かび上がった。
【未知の地下領域への到達を確認しました】
【上位生態圧力の原因を特定しました】
【複数技能を用いた地形・魔力経路・振動経路への同時干渉を確認しました】
【現在能力のみでは安定しない課題に対し、新規手段による突破を達成しました】
通常の魔物を倒した時とは違う表示だった。
深層の存在を完全に討伐したわけではなく、得られた経験も単純な戦闘だけではない。未知の地形を進み、周囲の生態が崩れた原因を辿り、岩盤へ広がる魔力と振動の構造を読み、その一部だけを切断して活動を抑えた。
自分より大きな力を、正面から上回ったわけではない。
それでも、今まで持っていた技能を別々に使うだけでは届かなかった問題へ、新しい組み合わせを作って越えた。
【真の境界突破を確認しました】
【《越境 Lv.6 → Lv.7》】
エイルの表情が僅かに変わった。
《越境》は、同じことを繰り返しているだけではほとんど伸びない。
以前より強い魔物を倒したとしても、現在の自分にとって十分に対応できる相手なら、技能や基礎能力は上がっても《越境》そのものは動かないことが多かった。
今回の三裂谷では、最初から正解が見えていたわけではない。
力任せに中央核を砕けば、地下水脈や岩盤を巻き込み、谷全体へ被害を広げていた可能性がある。だから構造を読み、3つの流れを分け、魔力を逃がす経路を作り、最後には沈下する核まで途中で支えなければならなかった。
それが《越境》にとって、明確な境界として認められたらしい。
【複数技能を跨ぐ統合成長率が上昇しました】
【未知環境下における技能獲得効率が上昇しました】
【未定着技術の定着速度が上昇しました】
【高負荷行動後の能力適応率が上昇しました】
表示が続くにつれて、身体の内側へ新しい感覚が広がり始めた。
突然力が溢れ出すというより、これまで別々に存在していた感覚の境目が薄くなり、《魔力圧縮》で作った密度を《高密度強化》へ移す際の抵抗や、《振動感知》で拾った流れを《衝界》の経路へ変えるまでの遅れが、少しずつ短くなっていく。
技能の数値が上がるだけではなく、互いの技能が繋がりやすくなっている。
それこそ、今のエイルが最も欲しかった変化だった。
【Lv.104 → Lv.108】
【生命力 1392 → 1538】
【魔力 1718 → 1906】
【筋力 1526 → 1694】
【耐久 1437 → 1588】
【敏捷 1734 → 1921】
【器用 1498 → 1659】
【感知 2216 → 2479】
続いて現れた基礎能力の変化は、通常の数日間で得られる成長とは明らかに規模が違った。
特に《感知》は260以上伸びており、薄く広げていた《振動感知》の範囲でも、以前なら意識を寄せなければ判別しづらかった川底の小石や、岩壁の奥を流れる地下水の動きまで自然に分かる。
《敏捷》と《魔力》も大きく上昇しているため、圧縮魔力を作る速度や、複数部位へ順番に運ぶ際の余裕も増えていた。
【《剣術 Lv.80 → Lv.81》】
【《身体強化 Lv.48 → Lv.50》】
【《高密度強化 Lv.43 → Lv.46》】
【《魔力操作 Lv.85 → Lv.87》】
【《魔力圧縮 Lv.64 → Lv.67》】
【《振動感知 Lv.64 → Lv.68》】
【《近域感知 Lv.60 → Lv.63》】
【《魔力感知 Lv.33 → Lv.36》】
【《衝界 Lv.39 → Lv.43》】
【《自己治癒 Lv.38 → Lv.39》】
【《警戒圏 Lv.35 → Lv.38》】
【《危機感知 Lv.29 → Lv.31》】
これほど多くの技能が一度に伸びたのは、三裂谷で使った技術が1つの系統だけではなかったからだろう。
長剣による切断位置の調整、《身体強化》と《高密度強化》による岩脈の移動、《魔力圧縮》を使った連続出力、《振動感知》と《魔力感知》による内部構造の把握、さらに《衝界》を使った異なる脈同士の接続と崩落方向の制御まで、ほとんどすべてが同じ目的へ繋がっていた。
エイルは表示が消えたあと、もう一度右手を握った。
先ほどと同じ動作であるにもかかわらず、指先へ力が集まる速度も、前腕から肩へ魔力を通した時の滑らかさも明らかに違う。
試しに《身体強化》だけを右腕へ通すと、以前より少ない魔力で同じ出力を作れることが分かった。
その内側へ《高密度強化》を重ねても、2つの技能がぶつかる感覚がほとんどない。
「これなら、かなり早く完成させられそうだな」
未定着の技術は、まだ独立した技能として名前を持っていない。
ただし、今までのように一度使うたび身体の状態を細かく確かめ、長い時間を掛けて同じ出力を再現する段階からは進み始めている。
《越境》がLv.7へ上がったことで統合成長率まで高まったのなら、次に本当の強敵や未知の環境へ入った時、今まで以上の速度で技術が形になる可能性がある。
エイルは少しだけ口元を緩めたあと、岩から立ち上がった。
強くなった実感はある。
しかし、ここで同じ技術を何度も試して満足するつもりはなかった。
未知の場所へ進めば、今より難しい使い方が必要になり、そのたびにさらに伸びられる。
だから、立ち止まって反復するより先へ進んだ方がいい。
◇
中央谷を入口側へ戻る途中、《鉤爪獣》の反応は来た時より明らかに増えていた。
まだ警戒しているらしく、エイルが歩く経路へ近づく個体はいないものの、岩壁の上や川の向こう側には、小型から中型まで複数の四足反応が現れている。
どれも外へ向かって走ってはいない。
谷の奥へ慎重に戻り、木や岩へ爪を掛けながら周囲の様子を確かめていた。
深部の低い振動が消え、袋状魔物の圧力も弱まったことで、生息域へ戻れるかどうかを調べているのだろう。
エイルは剣を抜かず、相手の進路を塞がないよう川沿いの端を歩いた。
途中、大型個体が岩壁の上から姿を見せた。
昨日街道近くで倒したものより一回り大きく、長い前脚には5本の黒い爪が揃っている。肩までの高さはエイルの胸元ほどあり、頭部から背中へ硬い針が並んでいた。
大型個体は淡い青灰色の目で見上げるエイルをしばらく観察し、低く喉を鳴らしたものの、襲い掛かってはこなかった。
エイルも足を止めただけで、戦う構えは取らない。
数秒ほど互いに動かなかったあと、大型個体は岩壁の奥へ身体を翻し、別の個体が進んだ谷の深部へ姿を消した。
それを見送ったエイルは、自分用の地図へ短く記録を加えた。
中央谷への帰還行動を確認。
大型個体にも過剰な攻撃性なし。
異変の停止によって、少なくとも群れの移動方向は変わり始めている。
ギルドへ報告する材料としては十分だった。
◇
レメルへ着いたのは翌日の昼前だった。
三裂谷から街までの道を通常の旅人よりかなり速く進んだため、北門の兵士はエイルの姿を見ると、最初は出発した冒険者本人だと気づかなかったらしい。
暗灰色の髪には洗い落とせなかった岩粉がまだ残り、頬には細い切り傷、膝丈の長衣には黒い粘液や泥の跡が広がっている。それでも背筋は伸び、歩調にも怪我を庇う様子がないため、遠目には遺跡から戻った若い探索者というより、何事もなかったように散歩から帰ってきた少年に見えた。
「エイル……だったよな?」
門兵が冒険者証と顔を交互に見ながら確認する。
「はい。三裂谷から戻りました」
「昨日の朝に出たばかりだろ?」
「谷の中で1泊はしてないので、そんなに長くないですよ」
「そこを聞いてるんじゃない。異変の確認はできたのか?」
「原因まで見つけました。今は活動を止めてあります」
門兵はすぐに返事をせず、エイルの汚れた長衣と、平然とした若い顔をもう一度見た。
「止めてきた?」
「完全に倒したわけではありませんけど、中央谷へ伸びていた魔力と振動の経路は切りました。《鉤爪獣》も谷へ戻り始めています」
「……とりあえず、ギルドへ行ってくれ。俺が聞いても多分分からん」
「そのつもりです」
門を通ったエイルが冒険者ギルドへ向かう間にも、通りを歩く採取者や商人が何度か振り返った。
16歳ほどにしか見えない少年が、黒い体液と岩粉に汚れた長衣姿でA級冒険者証を下げ、見慣れない白い鉱石や黒い組織片を地図袋へ収めているのだから、目立たない方が難しかった。
ただしエイル本人は、視線よりも早く報告を終え、装備を洗ってから西へ出るための食料を補充することを考えていた。
◇
ギルドへ入ると、受付の女性はエイルを見た瞬間に椅子から立ち上がった。
「戻られたんですね。怪我はありませんか?」
「少し疲れてますけど、大丈夫です。オルフェンさんはいますか?」
「すぐお呼びします」
枝ギルド長のオルフェンは、昨日より早い帰還を予想していなかったらしく、奥から出てくるとエイルの姿を上から下まで確認した。
「異変を見つけて、一度戻ってきたという様子ではなさそうだな」
「止められそうだったので、そのままやりました」
「順番に聞こう。まず、三裂谷で何が起きていた?」
エイルは受付横の作業台へ自分の地図を広げ、中央谷から地下へ入った経路、袋状魔物の空洞、縦穴、さらにその底にあった中央核と3本の大脈を順番に示した。
袋状魔物が《鉤爪獣》を直接谷から押し出していたこと、その袋状魔物もさらに深部の振動から逃げていたこと、岩盤へ根を張る存在が白い鉱石層へ到達したことで急激に活動を強め、周囲の魔力と振動を吸収し始めていたことまで説明する。
オルフェンは途中で口を挟まず、地図上へ追加の印を付けながら話を聞いた。
「それで、その深部存在を倒したのか?」
「倒してません。中央谷へ伸びていた脈だけを切って、振動と魔力の流れを止めました。中央核は西谷側と北西側へまだ繋がってますけど、今は活動がかなり弱くなってます」
「脈を切っただけで、地下の構造は崩れなかったのか?」
「切る前に魔力を西谷側へ逃がしました。そのあと固定部を2本外したら核が沈み始めたので、切った主脈を下へ挟んで止めてあります」
オルフェンの筆が止まった。
「今の説明を、君は昨日の朝から今日までの間に全部やったと言っているのか?」
「はい」
「同行者は?」
「1人です」
近くで話を聞いていた受付の女性が、無意識にエイルへ視線を向けた。
整った少年の顔立ちには多少の疲れが見えるものの、地下深部で巨大な魔物と戦い、山の下に根を張った存在の魔力経路を組み替えて帰ってきた人間には到底見えない。
オルフェンはしばらく黙ったあと、長く息を吐いた。
「依頼内容は異変の確認だった。原因を見つけ、活動を止め、地図まで作ってきたとなれば、通常の調査達成として処理できる範囲を超えている」
「追加報酬ですか?」
「そこだけ反応が早いな」
「旅の食料を買うので」
「分かった。回収班と測量員をすぐに編成するが、深部へは入らせず、まず中央谷の個体移動と地下入口だけを確認させる。君の記録が正しければ、今回の成果はA級単独調査ではなく、地域災害の未然防止として中央へ報告することになる」
「時間かかります?」
「報酬の支払いは今日中に仮決定できる。正式な追加分は後日、登録支部を通して受け取れるようにする」
「なら大丈夫です」
中央へ送られる報告や評価について、エイルはそれ以上詳しく聞かなかった。
自分が見つけたものが記録として残り、街道付近の人間へ危険が伝わるなら十分であり、その報告がどこまで広がるかは旅を続ける上で直接必要な情報ではなかった。
オルフェンも引き止めようとはせず、代わりに古地図とエイルの記録を見比べながら、西谷から北西へ伸びる大脈について考え込んだ。
「この北西側の接続が気になるな」
「僕もです。中央谷側より太かったですけど、流れは弱かったので、もっと昔から繋がってると思います」
「方向から考えれば、《ヴァルネ高原》の北端よりさらに西へ伸びている。現在の測量図では山地しかない場所だ」
エイルの視線が地図の空白へ向いた。
「高原の西へ行けば、何か分かりますかね」
「保証はできないが、三裂谷の深部存在がどこから来たのかを追うなら、その方向になる。ただし君は、それを追うために西へ行くわけではないんだろう?」
「元々そっちへ行く予定でしたから、途中で気になるものがあれば見ます」
「そうだったな」
オルフェンは苦笑しながら、別の地図筒を取り出した。
「ヴァルネ高原の南縁までは、昨日渡したものより新しい測量図がある。高原を越えた先は精度が落ちるが、古い巡回路と水場の記録も少し残っているから、今回の追加報酬に含めて写しを渡そう」
エイルはすぐに頷いた。
「それが一番ありがたいです」
◇
報告と素材の提出を終えたあと、エイルは宿で長衣と装備を洗い、右肩と背中の状態をもう一度確かめた。
《自己治癒》と上昇した基礎能力の影響で、昼を過ぎる頃には鈍い張りの大半が消えている。
長剣にも刃こぼれはほとんどなく、岩脈を切断したにもかかわらず、脈晶鉄と内部構造は十分に耐えていた。剣へ通した魔力の流れも以前より滑らかになっており、圧縮出力と《衝界》を同時に使ったことで、武器側も少しだけ新しい流れへ馴染んだように感じられる。
夕方には食料、水、簡単な薬品を補充し、オルフェンから受け取った新しい地図の写しを自分のものと重ねた。
レメルから西へ進めば、2日ほどで《ヴァルネ高原》の南東部へ入る。
高原上には古い石標が点在しているが、現在使われている街道は南側を大きく迂回しており、中央部を横断する者は少ない。
さらに西へ進むと、地図の線は急に減り、最後には山と崖の輪郭だけが残っている。
エイルはその空白へ指を置いた。
三裂谷へ入る前より、能力も技能も大きく伸びた。
《越境》がLv.7へ上がり、未知の環境で技能を統合する速度まで高まっている。
ならば次の空白では、今よりさらに速く強くなれる。
それは根拠のない期待ではなく、身体と表示の両方から得た確信に近かった。
同じ程度の相手を探して倒し続けるより、自分がまだ知らない地形や生物、今の技能だけでは簡単に解けない問題へ進む方が、成長の幅は大きい。
そして地図の西側には、そういう場所がいくらでも残っている。
翌朝。
エイルはレメルの西門を出た。
後ろでは三裂谷の調査班が北門から出発する準備を進めており、冒険者ギルドではエイルの報告書が中央へ送られ始めていた。
しかし本人は振り返らず、新しく受け取った地図を片手に、朝日に照らされた高原の輪郭へ向かって歩いていく。
三裂谷で手に入れた成長は、旅の一区切りではなかった。
さらに速く、さらに強くなっていくための、最初の加速に過ぎなかった。




