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第127話 流れを断つ

 円形空間の天井、壁、床から同時に持ち上がった黒い根は、岩片を巻き込みながらエイルへ迫り、そのすべてが中央谷側の主脈と西谷側の古い脈を接触させている一点へ集まっていた。


 ここで接触面から離れれば、ようやく重ねた2本の周期が再び外れ、中央谷側の本流へ溜まった魔力を逃がす道も消える。だからエイルは迫る根をすべて避けようとはせず、自分へ到達する順番と、それぞれが身体のどこへ当たるのかだけを《警戒圏》と《近域感知》で拾いながら、長剣の切っ先を主脈の奥へ向け続けた。


 最初に届くのは右側の壁から伸びた太い根であり、その次に床から持ち上がった2本が脚を絡め取り、最後に天井から落ちる根が頭上を押し潰そうとしている。


 すべてを剣で防げば、本流へ入れるはずの一撃を使う前に姿勢が崩れる。


 エイルは右側から来る根へ長剣を向ける代わりに、左手を2本の主脈が触れ合っている場所へ残し、《衝界》で接触面の振動を維持したまま、右肩から脇腹へ《高密度強化》を集中させた。


 黒い根が身体へ衝突する。


 衝撃を真正面から受け止めれば、固定している左腕ごと引き剥がされるため、エイルは当たった瞬間に腰を僅かに回し、右肩へ入った力を背中から左脚へ流した。


 長衣の循環繊維が衝撃を分散し、靴底へ抜けた力が岩盤を細かく砕く。


 身体そのものは接触点から半歩ほどずれたものの、左手は離れず、2本の脈へ重ねていた振動も崩れなかった。


 続いて床から伸びた細い根が両脚へ絡みつく。


 足首を掴まれたまま全身出力を繋げれば、膝や腰へ余計な捻りが入り、せっかく分散させた圧縮魔力が途中で詰まる可能性がある。


 エイルは根を断ち切るのではなく、右足を僅かに持ち上げ、巻き付いた根が締まる方向へ一度だけ膝を動かした。


 緩みが生まれる。


 その瞬間に左脚へ体重を移し、右足を抜く。


 残った左側の根については、無理に外そうとせず足首から脛へ《高密度強化》を重ね、締め付けられた状態そのものを一時的な固定として利用した。


 最後に天井から落ちてきた根が、エイルの頭上へ影を作った。


 避けるために横へ動けば、左手が主脈から離れる。


 エイルはその場から退かず、長剣を一度だけ上へ返すと、根の中心ではなく側面へ刀身を当て、《衝界》で落下方向を僅かにずらした。


 岩を纏った根は完全には逸れず、左肩のすぐ横へ落ちたものの、直撃せず床へ突き刺さる。砕けた石が頬を掠め、暗灰色の髪へ細かな粉塵が降りかかったが、エイルの淡い青灰色の目は本流から外れなかった。


 必要な時間は作れた。


 次に同じ数の根が集まる前に、三本目を断たなければならない。


     ◇


 エイルは左足を掴んでいた根を踏み台として使い、身体の軸を主脈へ向けて整えた。


 今回の一撃では、昨日の試験のように圧縮魔力を一箇所で爆発させるのではなく、足元から剣先までへ順番に解放し、途中のどこにも力を滞留させない必要がある。


 最初に右脚へ通常の《身体強化》を通し、その内側へ《高密度強化》を重ねる。


 ふくらはぎへ少量の圧縮魔力を保持し、そこで一度止めたあと、太腿、腰、背中、右肩、前腕へ続く経路を《魔力操作》で細く繋いでいく。


 全身へ同じ密度を広げるわけではない。


 剣を振る動作へ必要になる順番に合わせ、一つ前の部位が力を出し終える瞬間、次の部位へ圧縮を解放する。


 ふくらはぎで地面を押し、太腿で身体を前へ運び、腰で回転を作り、背中でその力を肩へ渡し、最後に腕から剣へ集める。


 どこか一つでも早く解放すれば、その部位だけが先に動き、剣の軌道が外れる。


 遅ければ力が途切れ、本流を断つだけの深さへ届かない。


 エイルは一度だけ息を吸い、中央核の青白い光が膨らむ周期を見た。


 今は核へ力が集まっている。


 次に光が縮めば、内部から外側へ魔力が返される。


 その瞬間に本流を切れば、中央谷側へ逆流してくる力を、西谷側の古い脈へ流し込める。


 青白い光が最大まで膨らみ、中央核を覆う黒い外殻が軋んだ。


 エイルは左手から送っていた《衝界》を強め、2本の脈の周期をさらに近づける。


 中央谷側は新しく柔らかいため、振動が速く伝わる。


 西谷側は古く硬く、岩盤と一体化している分だけ周期が遅い。


 その差を無理に同じにするのではなく、互いの波が重なる短い瞬間だけを作る。


 接触面の反発が弱まり、中央谷側へ溜まっていた魔力が西谷側へ細く流れ始めた。


 青白い光が縮む。


 今だった。


 エイルは右足へ保持していた圧縮魔力をふくらはぎで解放し、地面を蹴る力が最大になる直前に太腿へ渡した。


 身体が前へ出る。


 太腿の力が腰へ届く瞬間、次の圧縮を解き、骨盤から背骨へ回転を通す。


 背中へ負荷が集まるより早く、肩へ圧縮を移し、最後に前腕と手首へ必要な量だけ解放した。


 全身を一度に強くするのではなく、一つの動作が通過する場所だけを順番に限界近くまで引き上げる。


 長剣が主脈へ入る。


 表面に埋まった岩片が刃へ触れたものの、エイルは軌道を変えず、剣が作った切れ目へ《衝界》を重ねた。


 岩を砕くためではない。


 外側から吸収経路、振動経路、本流を隔てていた繊維へ、すでに切り開いた線と同じ方向の力を流し、刀身の進路だけを広げる。


 黒い組織が抵抗する。


 中央核から逆流してきた魔力が、刃の前へ集中する。


 エイルは腕力だけで押し切らず、足元から繋げてきた出力を剣先へ残したまま、西谷側へ作った逃げ道へ《衝界》の方向を切り替えた。


 刃の前へ集まっていた魔力が横へ引かれる。


 一瞬だけ、本流の内側が空いた。


 エイルはそこへ全身の最後の力を通した。


 長剣が本流を抜ける。


 重く湿った断裂音が円形空間へ響き、中央谷側の主脈が中央核から完全に切り離された。


     ◇


 切断された瞬間、本流の内部へ蓄積されていた魔力が白い光となって傷口から噴き出した。


 逃げ道を作らず断っていれば、その力は円形空間全体へ広がり、縦穴や上層の空洞までまとめて崩していたかもしれない。


 しかし、2本の主脈はまだ接触しており、エイルが重ねた振動経路も辛うじて残っている。


 噴き出した魔力の大半は、中央谷側から西谷側の古い脈へ流れ込んだ。


 西谷側の表面が青白く輝き、長く使われていなかった内部の経路へ急激な力が走る。


 古い脈の周囲へ固まっていた鉱物が次々に剥がれ落ち、壁の中から低い破砕音が続いた。


 流れ自体は成功している。


 ただし、長く止まっていた経路へ一度に大量の魔力を入れたことで、西谷側の岩盤が耐え切れずに崩れ始めている。


 エイルは剣を抜きながら、左手を接触面へ押し当てた。


 流れ込む魔力を止めることはできない。


 ならば、一箇所へ集中している圧力を西谷側の脈全体へ分散する。


 《衝界》を表面だけでなく、古い脈へ付着している岩盤との境界へ広げ、魔力が進むたびに生じる振動を、亀裂の少ない場所へ順番に逃がしていく。


 右側の壁が大きく揺れ、天井から岩塊が落下した。


 エイルはその場を離れず、落下位置へ来るものだけを《近域感知》で拾い、頭上へ届く岩については長剣で軌道を逸らした。


 小さな石片が長衣や肩へ当たり、右腕には先ほどの連続解放による鈍い張りが残っている。


 それでも圧縮魔力を一箇所へ滞留させなかったため、昨日の試験のように筋肉が裂ける感覚はなかった。


 全身が重い。


 魔力経路も熱を持っている。


 しかし動ける。


 これなら、切り札として育てられる。


 そう考えた瞬間、中央核が大きく収縮した。


 中央谷側との接続を失ったことで、青白い光が不規則に明滅し、残る2本の大脈へ強引に力を送ろうとしている。


 西谷側にはすでに中央谷側の魔力が流れ込んでいるため、さらに核から力を加えれば経路が破裂する。


 北西側だけへ流れを集中させれば、異変がその先へ押し出される可能性もあった。


 エイルは中央核そのものを見た。


 倒す必要はない。


 少なくとも今は、核を砕けば山全体へ張り巡らされた脈がどう反応するか分からない。


 必要なのは、活動を続けられない程度まで供給と放出を弱め、再び深部へ沈ませることだった。


 中央谷側の主脈を失った核は、外側の岩盤から新しい細い根を伸ばそうとしている。


 その動きを止めるには、青白い裂け目の周囲へある固定部を断ち、核が岩盤へ力を伝える範囲を狭めればいい。


 エイルは接触面の魔力が安定し始めたことを確認すると、ようやく左手を離した。


【《衝界 Lv.38 → Lv.39》】


【異なる振動媒体間における伝達制御精度が上昇しました】


【高圧縮魔力を用いた連続部位強化の統合が進行しています】


 表示を一瞥したエイルは、すぐ中央核へ向かって走った。


     ◇


 主脈を切断されたことで、黒い根の動きには明らかな乱れが生まれていた。


 先ほどまではエイルの位置へ正確に集まっていたものが、今は途中で互いに衝突し、岩盤へ当たって自分から折れるものまである。


 中央谷側へ伸びていた感知と振動の経路を失い、円形空間の中でも細かな位置を捉えづらくなっているのかもしれない。


 エイルは迫る根を最小限だけ避け、中央核を覆う黒い外殻へ近づいた。


 青白い裂け目の左右には、核と岩盤を固定している太い組織が4本ある。


 そのすべてを切れば核自体が転がり、残る大脈まで引き千切る可能性があるため、断つのは中央谷側へ近い2本だけでいい。


 エイルは最初の固定部へ剣を振り下ろした。


 外殻は硬い。


 主脈よりも鉱物化が進み、通常の斬撃では刃が浅く食い込むだけだった。


 同じ圧縮連続解放をすぐにもう一度使えば切れる可能性はあるが、右肩と背中にはすでに疲労が溜まっており、無理に重ねれば今度こそ身体を傷める。


 だから出力を上げるのではなく、構造を使う。


 エイルは剣が入った切れ目へ《振動感知》を通し、岩の層と黒い組織の境界を探った。


 外殻は1枚ではない。


 薄い岩層と弾力のある膜が何重にも重なり、斬撃を受けるたび力を外側へ逃がしている。


 ならば、すべてを同時に断とうとしなければいい。


 エイルは剣を一度抜き、最も外側の岩層へ切っ先を差し込むと、《衝界》で接着している部分だけを横へ震わせた。


 岩層が剥がれる。


 その下の膜へ浅く剣を入れ、続いて次の岩層を外す。


 巨大な力で一度に砕くのではなく、何重にも重なった防御を外側から順番に剥がしていく。


 中央核が危険を感じたのか、裂け目から強い振動を放った。


 地面を通ってくる力は主脈切断前より弱いものの、至近距離で受ければ身体内部へ届く。


 エイルは剣を固定部へ残したまま、左手を核の外殻へ当て、振動が身体へ入る前に《衝界》で外周へ流した。


 青白い波が核の表面を走り、反対側の岩盤へ抜ける。


 外殻へ新しい亀裂が広がった。


 相手自身の振動が、自分を守る岩層を内側から剥がしていく。


「それなら、こっちも使える」


 エイルは次の振動が来るまで剣を深く入れず、固定部の内部へ切れ目だけを増やした。


 中央核が再び力を放つ。


 今度は外へ逃がす経路を、先ほど作った切れ目へ沿わせる。


 内側から入った振動によって、残っていた膜が大きく裂けた。


 固定部の1本が断ち切れる。


 中央核が僅かに傾き、円形空間の岩盤へ重い衝撃が走った。


 残る3本が強く引かれたものの、全体が転がるほどではない。


 狙い通りだった。


 エイルはすぐ隣の2本目へ移り、同じように岩層と膜を順番に剥がしていく。


 中央核は新しい根を伸ばして抵抗しようとしたが、主脈を失った影響で細いものしか作れず、エイルは剣の軌道を変えずに長衣の袖や肩で受け流した。


 最後の膜へ刃が入る。


 そこで中央核が、これまでで最も強い振動を作ろうと青白い光を膨らませた。


 しかし力を集める速度が遅い。


 供給が足りていない。


 エイルは振動が完成する前に、剣を引くのではなく固定部へ沿って横へ滑らせた。


 2本目が断たれる。


     ◇


 中央谷側の固定を失った核が大きく傾き、岩盤へ半分ほど埋まっていた下部が露出した。


 青白い裂け目から集められていた魔力が外へ漏れ、周囲の黒い根が一斉に力を失って床へ落ちていく。


 中央核は残る西谷側と北西側の大脈へ繋がったまま、ゆっくりと地面へ沈み始めた。


 自分から潜っているのではない。


 固定部を失い、下側の柔らかい岩層へ重量を支え切れなくなったらしい。


 そのまま沈めば活動は弱まる。


 ただし、傾いた核の下では岩盤が大きく割れ、地下から水が噴き出し始めていた。


 水脈。


 ここで核が急激に落下すれば、地下水が円形空間へ一気に流れ込み、縦穴を通って上層へ噴き上がる可能性がある。


 エイルは沈み始めた核の横へ回り、割れた岩盤へ《振動感知》を広げた。


 下には大きな空洞がある。


 さらに深い。


 水はその側面を通っており、現在の亀裂が広がれば流れがこちらへ変わる。


 核を完全に落とすのではなく、途中で止めなければならない。


 エイルは周囲を見回し、先ほど切断した中央谷側の主脈へ目を向けた。


 中央核から離れた側は西谷の古い脈と接触したまま、すでに魔力の流れが落ち着き始めている。


 核側に残った短い部分は力を失い、太い縄のように床へ横たわっていた。


 それを核の下へ挟めば、沈み込みを止める支えにできる。


 エイルは主脈の残骸へ走り、両腕で持ち上げた。


 先ほどまで魔力が流れていた時より柔らかいが、それでも人間の胴より太く、内部へ鉱石や岩片を含んでいるため重量は大きい。


 《身体強化》を全身へ通し、《高密度強化》を脚、腰、背中へ重ねる。


 圧縮魔力は使わない。


 右肩へ疲労が残っている以上、今は通常の出力で扱う方が安全であり、完全に持ち上げる必要もなく、片側を引きずって核の下へ押し込めれば足りる。


 エイルは腰を落とし、両脚で地面を押しながら主脈を持ち上げた。


 重い。


 それでも地面から数十センチ浮く。


 後方へ引きずり、沈み続ける核の下へ向かう。


 足元では亀裂から水が増え、靴の周囲まで広がり始めている。


 中央核がさらに沈み、下部の岩が割れた。


 エイルは主脈を最後まで運び、空いた隙間へ押し込んだ。


 核の重量が乗る。


 黒い組織が大きく潰れるものの、内部へ含まれた岩と鉱物が支えとなり、沈下の速度が弱まった。


 完全には止まらない。


 エイルは主脈の位置を《衝界》で僅かにずらし、最も硬い部分が核の下へ入るよう調整した。


 中央核が低い音を立てて止まる。


 地下水の亀裂も、それ以上大きく広がらなかった。


     ◇


 青白い裂け目の光が少しずつ弱くなっていく。


 中央谷側の供給と振動経路を失い、固定部の2本を断たれたことで、深部の存在は周囲へ影響を広げるだけの活動を維持できなくなったらしい。


 西谷側と北西側の脈にはまだ繋がっている。


 完全に死んではいない。


 しかし、黒い根はもうエイルへ向かって動かず、円形空間へ残っていた低い鼓動も、長い間隔を置いて弱く返るだけになった。


 休眠。


 少なくとも、急激な成長を始める前の状態へ近づいている。


 エイルはしばらくその場で《魔力感知》と《振動感知》を維持し、再び大きな活動が始まらないことを確かめた。


 中央谷側へ伸びていた脈からは、もう魔力も振動も流れていない。


 これなら上層の袋状魔物が同じ圧力へ晒されることもなくなり、《鉤爪獣》たちも時間が経てば元の谷へ戻れる可能性がある。


 もちろん、すぐにすべてが元通りになるわけではない。


 街道近くまで出た個体が自分から戻るかは分からず、袋状魔物が上層の空洞へ留まり続ける可能性もある。


 それでも、外側へ押し出し続けていた原因は止めた。


 エイルは長剣を鞘へ戻し、右肩を軽く回した。


 筋肉へ張りはあるが、動かせないほどではない。


 連続解放による負荷も想定より小さく、魔力経路の熱も少しずつ引き始めている。


 昨日の試験では、出力を作ることだけを考えて身体を傷めた。


 今回は、どこへ力を通し、どこで解放し、最後に何へ逃がすのかまで見えた状態で使ったため、同程度以上の力を出しても身体は耐えられた。


 ただし、まだ完成ではない。


 動作へ合わせる順番を間違えれば、今でも肩や腰を傷める可能性があるし、剣へ《衝界》まで統合した一撃を何度も使えるほど余裕もない。


 それでも、切り札になり得る形は見えた。


 エイルは自分用の地図を取り出し、円形空間の位置、3本の大脈、中央核、白い鉱石層、地下水脈について書き込んだ。


 正式な測量図ではないため距離や深度には誤差があるものの、レメルへ報告するには十分な情報になる。


 最後に、中央谷側の脈へ大きく斜線を入れた。


 切断済み。


 活動停止。


 ただし、西谷側と北西側へは接続が残っている。


 深部の存在そのものは、まだ山の下で生きている。


     ◇


 円形空間から岩棚を上り始めると、行きに感じていた低い振動が消えていることがすぐに分かった。


 黒い筋は岩壁へ残っているものの、表面の収縮はほとんどなく、周囲の足音や振動を吸収する力も弱まっている。


 縦穴の途中で耳を澄ませると、上方から細い水音と、遠くで石が転がる自然な響きが返ってきた。


 何も聞こえないほど振動を奪われていた場所へ、普通の洞窟の音が戻っている。


 エイルが袋状魔物のいた大空洞へ戻った時、巨大個体はまだ池の奥へ伏せていた。


 胸部の袋は傷ついたままだが、切れ目から漏れていた液体は止まり、残った小型個体がその周囲を動いている。


 深部からの振動が消えたことへ気づいているのか、先ほどのように身体を低くして怯えてはいなかった。


 エイルが姿を見せると、巨大個体は顔の裂け目を開き、こちらの位置を拾うように頭部を動かした。


 敵意は強くない。


 それでも近づけば反撃する可能性はあるため、エイルは池の外周を通り、互いに距離を保ったまま出口へ向かった。


 途中で巨大個体が低い音を出した。


 圧力波ではなく、空洞へ短く響くだけの振動だった。


 感謝か警告かは分からない。


 エイルも振り返らず、片手だけを軽く上げた。


「もう谷の外へ追い出さなければ、僕も戻ってこないと思う」


 言葉が通じる相手ではないが、それで十分だった。


 動かした巨岩の隙間を抜け、上層の自然空洞へ戻る。


 そこに散らばっていた《鉤爪獣》の骨は変わらないものの、奥から流れていた魔力残滓は急速に薄くなっていた。


 さらに中央谷へ続く岩壁の裂け目から外へ出た時、地上の光がエイルの顔と長衣を照らした。


 暗灰色の髪には岩粉が白く積もり、頬には細い傷と乾いた血が残っている。肩や袖も黒い粘液と土で汚れていたが、淡い青灰色の目には疲労より、地図へ新しい場所を加えた時の満足が強く浮かんでいた。


 中央谷へ吹いていた風は、入った時より穏やかになっている。


 足元へ《振動感知》を広げると、入口側から小さな四足の反応が1つ近づき、こちらの存在に気づいて途中で止まった。


 《鉤爪獣》。


 行きに遠くから様子を見ていた個体と同じ大きさかもしれない。


 その反応はしばらく動かなかったが、やがて谷の外ではなく、奥側へ向かって慎重に歩き始めた。


 すぐに生態が戻るとは限らない。


 それでも、外へ逃げる一方だった流れが、初めて逆方向へ動いた。


 エイルは地図袋を閉じ、レメルへ戻るため中央谷を歩き始めた。


 依頼された異変の確認だけでなく、原因と構造、止める方法まで持ち帰れる。


 そして古地図には記されていなかった地下通路と、山のさらに北西へ伸びる太い脈も見つけた。


 三裂谷で起きた異変は止まったが、山の下に眠る存在がどこから来たのか、その北西側に何があるのかまでは分からない。


 地図の空白は埋まったのではなく、少しだけ先へ広がっていた。


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