第132話 誰もいない高原
第43標のそばで一夜を明かした翌朝、エイルは焚き火の灰を完全に消し、地面へ残した野営の跡を簡単に整えてから、地表の景色ではなく地下の岩盤を基準にして西へ進み始めた。
目の前には昨夜と変わらない草原が広がっていたが、歪んだ領域へ足を入れると、背後の石標は僅か100メートルほど進んだだけで視界から消えた。方角を示す太陽も高原の風も存在しているのに、距離だけが少しずつ引き伸ばされ、真っ直ぐ歩いているはずの感覚まで曖昧になっていく。
それでも数メートル下にある硬い岩盤は、地表ほど大きく歪んでいなかった。
エイルは靴底から《振動感知》を深く通し、第43標の根元と埋もれた旧街道の石を背後の基準として残しながら、前方へ人工物の反応がないかを探っていった。
最初のうちは、歩くたびに感知の方向と目に映る景色がずれた。
地上では右前方に見える低い丘が、岩盤を通して探ると真正面にあり、正面に立っていたはずの岩が、数歩進んだだけで左側へ移っている。距離を視覚へ頼れば自分の進路まで曲げられるため、エイルは周囲の景色を完全に無視するのではなく、岩盤から得た位置へ視覚情報を重ね直すようにした。
地中に残る石畳を追い、その上へ現在の地形を書き加える。
地表で道が左へ曲がって見えても、地下の石列が直線なら進路は変えない。
反対に、目の前に何もない草地が続いていても、岩盤の下で石畳が右へ折れているなら、その見えない道へ沿って歩いた。
半日ほど進んだところで、足元から細長い人工物の反応が返ってきた。
エイルがその位置まで近づくと、何もなかった草地の景色が一瞬だけ揺れ、目の前へ半ば倒れた石柱が現れた。
第44標。
古い記録に残されていた番号が、風化した表面へ辛うじて刻まれている。
エイルは石標の周囲を調べ、位置と方角、地表と地下で生じていた距離のずれを地図へ書き込んだ。
そこから第45標まで、さらに5日かかった。
◇
歪曲領域の内部では、1日に進める距離が安定しなかった。
地図上では数キロしか離れていないはずの岩丘へ半日歩いても届かないことがあれば、遠くに見えていた谷間が数百歩で目の前へ現れることもある。
距離だけではなく、音の方向も信用できなかった。
夜間、野営地の北側から石が転がる音を聞き、《警戒圏》へも小さな危険が入ったため剣を手にして待っていると、実際に魔物が現れたのは南西側だった。
四足の小型魔物は、地面へ腹を近づけて進む灰色の獣であり、頭部の左右から薄い耳が長く伸びていた。その耳で歪曲した音を拾い、自分だけは領域内の距離を正しく把握しているらしく、エイルの背後へ回り込みながら何度も短い跳躍を繰り返した。
最初の一撃を避けたエイルは、相手の姿を追って身体を回すのではなく、足が地面へ触れた時だけ《振動感知》で位置を拾い、次に接地する可能性が高い場所へ先に剣を置いた。
灰色の獣は目に見えるエイルの側面へ跳んだつもりだったのだろうが、実際には正面から長剣の間合いへ入り、自分の速度を刃へ重ねるように斬られた。
戦闘は短く終わったものの、この魔物が使っていた長い耳は、歪んだ空間でも音源との距離を測る何らかの働きを持っていた。
エイルは両耳の付け根にある硬い骨を採取し、野営地へ戻ってから構造を調べた。
左右の耳へ入った音を比べるだけではなく、骨の内部へ微かな振動を一度溜め、地面から返ってくる反響と重ねているらしい。
自分の《振動感知》にも使える考え方だった。
感知を一方向へ伸ばし続けるのではなく、複数地点へ短い振動を送り、その返り方の差から現在地を確かめる。
翌日からエイルは、第44標を基準として前後左右の岩盤へ細い振動を送り、返ってくる時間と強さを比較しながら進むようになった。
距離が歪められていても、複数の基準を同時に持てば、どの方向へ引き伸ばされているのかをある程度判断できる。
それによって迷い直す回数が減り、地図へ記せる情報も増えていった。
ただし、急いでは進まなかった。
歪曲領域では水場の位置まで見た目と実際でずれており、遠くに川が見えているからといって、日没までに到着できるとは限らない。見つけた水源は必ず位置を記録し、持ち歩く水も普段より多めに確保した。
食料についても、レメルで買った保存食だけに頼らず、高原に生える硬い実や、小型魔物の肉を少しずつ利用した。
灰色の獣の肉は筋が多く、そのまま焼くと噛み切りづらかったため、薄く切って香草と塩を擦り込み、風の強い場所で半日干してから炙ると食べやすくなった。
味は特別良くない。
それでも焚き火の前で地図を広げ、今日進んだ経路を確かめながら食べる夕食としては十分だった。
話し相手はいない。
食事を分ける相手も、夜番を交代する相手もいない。
だから火を消す時間も、眠る場所も、朝に出発する時刻も、すべてエイルが自分で決められた。
疲れていれば日が高くなるまで休み、風が弱い朝には夜明け前から進む。気になる岩や魔物の痕跡を見つければ予定を変え、数時間かけて周囲を調べても、誰かを待たせることはない。
危険な場所へ入る時も、仲間がついてこられる経路を探す必要がなく、崩れかけた岩棚や、人間1人しか通れない裂け目を迷わず選べる。
1人であることへ寂しさを覚えないわけではなかった。
温かい食事を囲んだ時の会話や、街を出る前に交わした軽口を思い出す夜もある。
それでも誰もいない高原の中で、地図へ新しい線を増やし、自分の足だけで次の場所へ進んでいく時間を、エイルは心から気に入っていた。
◇
第45標を見つけた日は、朝から空が低い雲に覆われていた。
昼前には雨が降り始め、高原の風が横から水滴を叩きつけてきたため、遠くの景色はすぐ白く霞んだ。
歪曲領域の中で視界まで失えば、地中の岩盤だけが進路の基準になる。
エイルは長衣の前を閉じ、雨水が地図袋へ入らないことを確かめると、埋もれた旧街道をゆっくり進んだ。
普段なら簡単に越えられる浅い谷も、雨によって地表が滑りやすくなり、目に見える斜面と実際の傾きが一致しないため、足を置いた瞬間に予想以上の落差が現れる。
ある場所では、平らに見えた草地へ踏み込んだ途端、身体が3メートル近く下へ落ちた。
エイルは足元が消えた瞬間に長剣を抜こうとせず、両足へ《衝界》を集中させ、落下方向へ短い衝撃を放った。
空中へ一瞬だけ作った反力で身体を右へずらす。
しかし着地先も歪んでおり、見えていた岩棚は実際にはさらに2メートル遠かった。
エイルは2度目の空中歩法を使い、右足から放った衝撃で前方へ進むと、左足を岩壁へ触れさせた。
その足場も崩れる。
そこで3度目を重ね、今度は足裏だけではなく、剣の腹で空気を押した反力まで《衝界》で身体へ戻し、僅かに高度を上げながら上部の岩棚へ着地した。
連続3歩。
これまでなら2歩目を使った時点で姿勢が大きく崩れ、3歩目は落下を弱めるためにしか使えなかった。
今は圧力を作る方向と、身体へ返す反力を細かく分けられるようになったことで、短い距離なら空中で進路を選び直せる。
飛行ではない。
何もない空間を自由に歩けるわけでもなく、1歩ごとに魔力と《衝界》の制御が必要になるため、連続使用すればすぐに効率が落ちる。
それでも、地面へ触れるまで何もできなかった頃とは大きく違った。
エイルは岩棚へ立ち、雨で額へ張り付いた暗灰色の髪を手で払いながら、自分が落ちた場所を見下ろした。
見た目には浅い窪地のままなのに、《振動感知》では3メートル以上の段差がある。
歪曲領域でなければ、連続した空中歩法を試す必要もなかっただろう。
「進む場所が変わると、使い方も増えるな」
エイルは谷の位置と見た目の違いを地図へ記録し、雨が弱くなるまで近くの岩陰で休んだ。
その日の夕方、第45標を見つけた。
石標は上半分を失っていたものの、根元へ刻まれた番号と、西へ向かう矢印は残っていた。
矢印の下には、古い文字で短い注意書きが彫られている。
『第46標以西、風位ではなく脈位を用いよ』
脈位。
一般的な旅人が使う言葉ではない。
おそらく地下の岩盤や、特定の魔力の流れを基準に方角を測る方法なのだろう。
過去にこの旧街道を使った者たちも、地表の距離が歪むことを知っていた。
だから第43標より先にも道を作り、第47標には《西縁観測所》まで置いていた。
エイルは石標の文字を紙へ写し、自分の進み方が間違っていなかったことを確かめてから、その日は第45標のそばで野営した。
◇
高原へ入ってから12日目の朝、エイルは保存食の残りを数えながら、自分用の記録帳へ日付を書いた。
そこで筆が止まった。
村を出てから、季節はすでに1つ進んでいる。
旅の途中では街ごとの暦を確認し、依頼書や宿帳へ日付を書くこともあったため、今日が何日なのかを忘れていたわけではない。
ただ、自分の誕生日まで意識していなかった。
記録帳の最初に書かれた生年月日と今日の日付を見比べる。
17歳になってから、すでに6日が過ぎていた。
「過ぎてたな」
誰もいない高原で口にした言葉は、朝の風へすぐ流された。
特別な感慨がないわけではない。
村にいた頃なら、家族と食事を囲み、少し良い肉か焼き菓子が並んでいたはずだった。
それでも今さら6日前へ戻れるわけではなく、旅に出たことを後悔しているわけでもない。
エイルは食料袋を探り、レメルで買ったまま残していた蜂蜜漬けの木の実を1つ取り出した。
保存食の中では甘く、普段は疲労が強い時に食べるため残していたものだった。
「これでいいか」
小さな木の実を食べ、いつもより少し甘い朝食を終える。
それだけで17歳の誕生日は済んだ。
記録帳の年齢欄へ書かれていた16へ細い線を引き、その隣に17と書き直したあと、エイルは荷物をまとめて西へ歩き始めた。
16歳の間に村を出て、冒険者になり、いくつもの街や地下施設を巡り、A級へ上がり、席次持ちやS級と剣を交えた。
17歳になった今も、やることは変わらない。
地図の空白へ進み、見たことのないものを見つけ、その途中で必要なら強くなる。
むしろ《越境》がLv.7へ上がり、成長速度がさらに増している以上、ここから先の1年でどこまで進めるのかは、自分でも分からなかった。
◇
第45標から第46標までには、6日を要した。
距離だけなら第44標から第45標より短いはずだったが、途中から歪みの性質が変わり、岩盤へ送った振動まで僅かに曲げられるようになったためだ。
それまで使っていた複数方向への感知だけでは現在地を固定できず、エイルは旧街道へ埋め込まれた石の材質そのものを基準として追う必要があった。
古い石畳には、高原で自然に見つかる灰白色の岩とは異なり、内部へ細かな赤い鉱物が混ざっている。
その鉱物へ魔力を通すと、ごく弱い反響が一定の間隔で返ることに気づいた。
過去の測量者は、石標だけではなく街道そのものへ基準を残していたらしい。
エイルは《魔力感知》を地表へ広げ、赤い鉱物の反応を1つずつ拾いながら進んだ。
途中で黒い翼の魔物の痕跡も何度か見つけた。
尾の円環を傷つけられた影響で高度を保てず、岩丘へ身体を擦った跡や、黒い膜片が地面へ残っている。
ただし日が経つにつれて痕跡は少なくなり、代わりに小さな円形の風穴が岩陰へ現れるようになった。
傷が回復し始めている。
まだ以前のような広い無風領域は作れないものの、小さな範囲で空気を集め、尾の器官を再生させている可能性があった。
エイルは追跡を急がなかった。
相手の痕跡は旧街道から大きく外れておらず、第47標の方向へ続いている。
同じ目的地へ向かっているなら、無理に距離を詰めるより、道と周囲の構造を確認しながら進んだ方がいい。
その間にも《遠衝斬》の調整は続けた。
最初は30メートルほどで大きく威力が落ちていたが、外側へ作る圧縮の膜を均一にするのではなく、斬撃の先端ほど薄く、後部ほど厚くすることで、内部の衝撃を前へ押し続けられることが分かった。
平らな岩へ向けて放った場合、40メートルでも表面を数センチ削り、50メートルでは細い傷を残せる。
威力へ特化させれば距離は短くなるものの、20メートル以内なら大型魔物の外皮も斬れる可能性が高い。
反対に切断力を落とし、幅を広げれば、複数の小型魔物を牽制したり、飛んでくる矢や風刃をまとめて弾いたりする使い方もできた。
軌道修正については、放出後に大きく曲げようとすると外殻が崩れるため、現在は数度だけ角度を変えられる程度だった。
それでも相手が直前に避けた方向へ寄せるには十分であり、飛行魔物へ対する命中率は最初より大きく上がっている。
技能表示は現れなかった。
しかし同じ技能を繰り返しているだけでも、未知の環境へ合わせて使い方を変えるたび、明らかに制御は洗練されていた。
《越境》がLv.7になったことで、完成した技を反復するより、新しい条件へ適応させた時の伸びが強くなっているのだろう。
◇
第46標へ到着した時、高原へ入ってから18日が過ぎていた。
石標は今までのものより大きく、地上へ残る部分だけでも3メートル近い。表面には番号のほか、北西方向へ向かう矢印と、《西縁観測所まで1日》という古い文字が刻まれていた。
ただし、その矢印が示す先には道がない。
草地さえ途中で途切れ、地面全体が巨大な亀裂によって断たれていた。
エイルは石標から少し離れた崖際へ近づいた。
亀裂の幅は最も狭い場所でも50メートル以上あり、底は高原の影へ隠れて見えない。左右へ視線を向けても、簡単に回り込めそうな場所はなく、古い街道は向こう側の崖まで真っ直ぐ続いたまま途中で切断されている。
過去の崩落。
あるいは、歪曲領域そのものが地形へ影響した結果かもしれない。
対岸には第47標らしい細い影が見える。
そのさらに奥。
低い岩山の斜面へ、人工的な建物が半分埋まっていた。
石造りの塔と、横へ長く伸びる建物。
屋根の一部は崩れ、外壁も高原の風に削られているものの、完全な廃墟にはなっていない。
《西縁観測所》。
ようやく目的地が見えた。
ただし、亀裂を越えなければ届かない。
50メートルを空中歩法だけで渡るのは、今のエイルでも難しい。連続3歩は安定し始めたものの、1歩で得られる距離は地上の跳躍より短く、途中に足場がなければ魔力効率も急激に悪くなる。
崖の側面へ突き出した岩を使えば、何度か足を掛けながら進める可能性はある。
あるいは《遠衝斬》で対岸の岩を切り落とし、落下する岩塊を空中の足場として利用する方法も考えられた。
エイルが亀裂の構造を調べようと《振動感知》を深く広げた時、対岸の観測所から細い魔力反応が上がった。
黒い翼。
傷つけた飛行魔物が、観測所の塔の上へ伏せている。
尾の円環は半分ほど再生し、周囲の空気がゆっくり集まり始めていた。
魔物もエイルへ気づいたらしく、長い翼を持ち上げ、対岸からこちらを見た。
18日間続いた、誰にも会わない高原の旅。
その終わりに待っていたのは、人間の声でも迎えでもなく、一度剣を交えた魔物と、50メートルの裂け目だった。
エイルは荷物を下ろさず、崖際に立ったまま対岸の観測所を見据えた。
ここまで1人で進んできた以上、最後の距離も自分の力で越えればいい。
17歳になって最初に辿り着く空白の果ては、もう目の前にあった。




