第123話 三裂谷へ
翌朝、レメルの北門が開くのとほぼ同時に街を出たエイルは、採取者たちが使う細い道を辿りながら、北西にある《三裂谷》へ向かった。
ギルドから借りた古地図によれば、街から谷の入口までは徒歩で半日ほどかかる。最初のうちは荷車も通れる程度の道幅があるものの、北へ進むほど草に覆われた部分が増え、やがて現在の地図には記されていない古い炭焼き道へ繋がるらしい。
エイルは腰の地図袋へ、昨夜写した三裂谷周辺の古地図と、ノルたちから教えてもらった目印を書き込んだ自分用の地図を重ねて入れていた。
街を出て1時間ほどは、木材を運ぶために使われている現在の道を進んだため、地面には荷車の轍や人間の足跡が多く残っている。ところが北西へ分かれる細道へ入った途端、周囲から人の痕跡が急激に減り、最近通ったと思われる足跡も、薬草採取者の軽装靴や猟師のものが僅かに見つかる程度になった。
《振動感知》を薄く広げても、近くにいるのは小型獣や鳥ばかりで、昨日戦った《鉤爪獣》と似た接地をする反応はない。
ただし、静かだから安全だとは限らなかった。
昨日倒した個体が街道近くまで移動していたことを考えれば、谷に近いこの辺りで痕跡が見つからないのは少し不自然だった。もともと三裂谷に広く生息していたのではなく、さらに奥の限られた場所から最近になって外へ出始めた可能性もある。
エイルは歩きながら木の幹や露出した岩へ視線を向け、長い爪を引っ掛けた傷が残っていないかを確かめていった。
最初の痕跡を見つけたのは、古い炭焼き窯の跡を通り過ぎた直後だった。
道の脇にある枯れ木へ、縦に4本の傷が残っている。
昨日倒した個体の前脚には5本の爪があったが、戦闘中に何本か欠けていたことを考えれば、爪の本数だけで別種とは判断できない。傷の幅と深さは昨日の個体より少し小さく、地面には前脚の爪を中心とした細い接地点が残っていた。
「こっちは小さい個体か」
傷の乾き方を見る限り、付けられてから数日以上は経っている。
さらに周囲を探すと、少し離れた木にも同じ高さの爪痕があり、その先には地面を蹴った痕跡が続いていた。
谷から街道へ向かっている。
エイルは自分の地図へ位置と進行方向を記録し、炭焼き道をさらに進んだ。
◇
昼前には道の傾斜が少しずつ強くなり、周囲の地形も平坦な林から、低い岩壁と細い沢が入り組んだ谷間へ変わっていった。
ノルが渡してくれた青緑色の薬草と同じ葉も沢沿いへ増えており、中央の谷へ向かう道が近いことが分かる。
古地図では、炭焼き道が途切れた先で谷が東、中央、西の3方向へ分かれている。
東谷は狭く、昔は炭焼き用の木材を運び出すために使われていた。中央谷は比較的広く、ノルとエマが薬草を採取していた場所へ続く。西谷は途中から岩崩れの印が増え、12年前の崩落以降はほとんど人が入っていない。
エイルが最初に確認するつもりなのは中央谷だった。
昨日の《鉤爪獣》が最初に現れた場所を調べ、その後で痕跡が続く方向へ進む方が、最初から西谷へ入るより原因を追いやすい。
谷の分岐へ着く少し前、《警戒圏》が右手側の斜面から小さな危険を拾った。
敵意というほど強くはない。
しかし、何かがこちらの様子を見ている。
エイルは歩調を変えず、斜面を直接見ないまま《近域感知》と《振動感知》をそちらへ寄せた。
四足。
体重は軽い。
前脚の接地が強く、後脚が同じ場所へ重なる。
《鉤爪獣》と同じ特徴だった。
距離は60メートルほどで、岩陰と木の根を移動しながら、エイルと一定の間隔を保っている。
襲ってくる気配はない。
昨日の個体が獲物を追っていた時より動きが慎重で、むしろこちらへ見つからないよう距離を取っている。
エイルは剣を抜かず、そのまま谷の分岐まで歩いた。
追跡していた反応は途中で止まり、しばらくすると逆方向へ離れていった。
「全部が見つけた相手へ襲い掛かるわけじゃないんだな」
魔物にも個体差があるのか、あるいは昨日の個体が飢えていただけなのかもしれない。
むやみに追い掛けて討伐しても、今回の調査目的には繋がらない。
エイルは観察した個体の大きさと行動だけを地図へ記し、中央谷へ入った。
◇
中央谷は古地図に描かれていた通り、3つの谷の中では最も幅が広かった。
両側には高さ20メートルほどの岩壁が続いているものの、谷底には細い川と平らな地面があり、場所を選べば数人が並んで歩くこともできる。青緑色の薬草は水際へ群生しており、ノルたちが予定を延ばした理由も理解できるほど、状態の良い株が広範囲に残っていた。
ただし、人間が採取した痕跡よりも、周囲に残る魔物の足跡の方が多い。
《鉤爪獣》のものと思われる細い爪跡が、川を挟んで何本も交差している。
大きさも1種類ではない。
昨日倒した個体と近いものが多いが、さらに小さな足跡や、前脚の間隔が倍近くある大型個体らしい痕跡も混じっている。
「結構いるな」
少なくとも、この谷を使っている《鉤爪獣》は1匹や2匹ではない。
ところが足跡を詳しく追うと、ほとんどが谷の奥から入口へ向かっており、反対方向へ戻った痕跡は極端に少なかった。
ここ数日、複数の個体が同じ時期に谷の外へ移動している。
しかも小さな個体から大型個体まで含まれているなら、単なる縄張り争いで若い個体だけが追い出されたとは考えにくい。
エイルは川沿いへしゃがみ込み、泥の表面に残る足跡へ指を近づけた。
完全には乾いていない。
昨夜か、今日の早朝に通った個体もいる。
その足跡のすぐ横には、爪が地面へ深く入り込んだ跡があり、歩いて移動したというより、何かから急いで離れたように見えた。
「逃げてるのか」
谷の入口へ向かう痕跡が多い理由としては、それが最も自然だった。
問題は、何から逃げているのかということになる。
エイルは立ち上がり、谷の奥へ感知を広げた。
地面を通して返ってくる反応は少ない。
小型の獣が数匹いる程度で、《鉤爪獣》らしい四足の振動はほとんどなかった。
足跡が多いにもかかわらず、現在の谷は妙に静かだった。
◇
中央谷をさらに1時間ほど進むと、ノルたちが採取をしていたと思われる場所へ着いた。
薬草を刈った跡と簡単な焚き火の痕跡が残り、その近くには人間2人分の足跡がある。そこへ《鉤爪獣》の足跡が重なり、谷の入口方向へ続いていたため、2人が話していた内容とも一致している。
エイルは追跡が始まった位置を記録したあと、その周囲を詳しく調べた。
《鉤爪獣》は北側の岩場から谷底へ降りている。
足跡の深さから見れば、昨日戦ったものと同程度の大きさだろう。
ただし、その個体が通るより前に、もっと大きな何かが同じ場所を移動していた。
泥の中へ残る跡は足形として判別できないほど崩れており、幅は1メートル近い。地面を踏んだというより、何か重いものを引きずったような線が岩場の奥へ続いている。
ノルたちが聞いたという、木が倒れるような音。
それを発生させたものかもしれない。
エイルは巨大な痕跡を追い、谷底から北側の岩場へ上がった。
斜面には低木が多く生えていたが、一定の幅で枝が折れ、地面の草も押し潰されている。通過したものが巨大な身体を持っていた可能性もあれば、大きな獲物や物体を引きずっていた可能性もある。
その痕跡が向かっていたのは、中央谷のさらに奥ではなかった。
西側。
岩壁の裂け目。
中央谷と西谷の間にある低い尾根を越えようとしている。
エイルは岩の間へ手を当て、《振動感知》を奥へ通した。
岩盤は土より振動が速く伝わる一方、亀裂や空洞が多いと反射が複雑になり、距離や方向を読みづらくなる。合同演習で地質の違いを意識するようになったこともあり、今は無理に全体像を掴もうとせず、返ってくる振動の変化だけを順番に確かめた。
裂け目の先には空間がある。
自然に崩れた細い通路。
人間なら身体を横へ向ければ通れそうだが、大型の魔物が抜けられる幅ではない。
それでも巨大な痕跡は、裂け目の前で消えている。
「ここを通ったわけじゃないのか」
周囲を見回す。
岩壁の表面には新しい傷があり、何かが強い力で岩へぶつかったように欠けている。足元には細かな石片が多く、崩落した時期もそれほど古くない。
エイルは少し離れて岩壁全体を見た。
裂け目の上。
高さ10メートルほどの場所に、別の割れ目がある。
そこから枯れた蔦が何本も垂れていた。
巨大な痕跡を残したものが地面を通らず、岩壁を登った可能性がある。
《鉤爪獣》なら長い前脚を使って木や岩を登れる。
ただし、地面へ残った痕跡の大きさは昨日の個体とは比べものにならない。
大型個体。
あるいは別の魔物。
エイルは岩壁へ手を掛け、突き出した部分を足場にしながら登り始めた。
◇
上部の割れ目へ近づくと、予想していたより強い風が内側から吹いていた。
古地図の西谷に書かれていた『風、奥より吹く。閉谷にあらず』という注記が頭へ浮かぶ。
この裂け目も、西谷側のどこかへ繋がっているのかもしれない。
エイルは身体を横へして割れ目へ入り、数メートル進んだところで少し広い空間へ出た。
内部は完全な洞窟ではなく、2枚の岩盤がずれたことで作られた細長い空洞になっている。上部には光が入る隙間があり、足元には土と枯れ葉が溜まっていた。
そこにも《鉤爪獣》の爪痕がある。
大きい。
昨日倒した個体の倍近い幅があり、岩へ食い込んだ深さも数センチを超えている。
大型個体がここを通った可能性は高い。
ただし、エイルが地上で見つけた巨大な引きずり跡とは合わない。
その理由は、空洞の奥へ少し進んだところで分かった。
地面に、動物の骨が散らばっている。
鹿。
猪。
小型の魔物。
さらに、《鉤爪獣》と思われる長い前脚の骨まで混じっている。
多くは古く、表面が乾いて白くなっていたが、いくつかにはまだ肉が残っており、最近ここへ運び込まれたことが分かる。
大型の《鉤爪獣》が獲物を引きずっていたのかもしれない。
それなら谷底へ残っていた幅広い痕跡にも説明がつく。
しかし、骨の状態には違和感があった。
噛み砕かれていない。
肉を食べた痕も少ない。
それどころか、新しい死骸のいくつかは、胸部や腹部だけが内側から潰れたように変形している。
爪や牙で殺された傷ではなかった。
エイルは近くにあった《鉤爪獣》の骨へしゃがみ込み、肋骨の状態を確認した。
外側に傷がほとんどないにもかかわらず、内側へ向かって複数箇所が折れている。
「衝撃?」
外から強く叩きつけられたのなら、皮膚や骨の外側にも傷が残るはずだった。
内部だけへ大きな力が入ったような壊れ方は、《衝界》を人間や魔物の体内へ直接通した場合に起こり得るものと少し似ている。
もちろん、同じ技能が使われたと決まったわけではない。
音。
圧力。
魔力。
身体の外側を大きく傷つけず、内側だけを破壊する方法はいくつか考えられる。
エイルは周囲へ《魔力感知》を広げた。
古い骨から反応はない。
しかし空洞のさらに奥、風が流れてくる方向には、薄い魔力の残滓が漂っている。
《鉤爪獣》のものとは違う。
昨日倒した個体の魔力は筋肉や爪へ偏っていたが、奥から流れてくるものは空気そのものへ溶けるように広がり、一定の周期で僅かに濃さを変えている。
何かが呼吸しているようにも感じられた。
距離は分からない。
岩盤の隙間を風と一緒に流れてきているため、実際にはかなり遠い可能性もある。
エイルはさらに進む前に、骨の数と状態、魔力残滓の特徴を地図へ書き込んだ。
ここまでで、少なくとも《鉤爪獣》が街道へ下りてきた理由の一部は見え始めている。
大型個体も含めて複数が谷から移動し、同種の死骸まで残されているなら、何か新しい捕食者か危険が生息域へ入り込んだ可能性が高い。
問題は、その危険がどこから来たのかだった。
◇
空洞の奥は、途中から急に下り始めていた。
人が作った階段ではなく、岩盤が斜めへずれたことで生まれた自然の傾斜であり、足場には細かな石が積もっている。風は下方から吹き上がり、冷たい空気と共に薄い魔力残滓を運んでいた。
古地図では、中央谷と西谷の間に通路があるとは記されていない。
12年前の崩落によって地形が変わり、最近になって再び一部が開いた可能性もある。
エイルは下り道へ足を置き、《近域感知》で足場を確かめながら慎重に進んだ。
数十メートルほど下ったところで、空洞は再び狭くなり、その先には大きな岩が通路を塞いでいた。
完全に隙間がないわけではない。
岩と壁の間には拳2つ分ほどの空間があり、そこから強い風が吹いている。
岩の表面には、長い爪で何度も引っ掻いた痕跡が残っていた。
《鉤爪獣》が通ろうとしたのだろう。
ただし、岩は大型個体でも動かせなかったらしく、傷だけが増えている。
エイルは岩へ手を当てた。
大きさは高さ3メートル以上。
通路へ深く噛み込んでいるため、単純に押しても動かない。
周囲の岩盤とどこで接しているかを《振動感知》で確かめると、左下と背面の2ヶ所が強く固定され、右上には僅かな空間があることが分かった。
力任せに砕けば通れるかもしれないが、狭い空洞で大きな崩落を起こす危険がある。
だからエイルはすぐに剣を抜かず、岩を動かせる方向を探した。
左下の接点だけを少し削り、背面へ挟まっている小石を外せば、右側へ傾けられる可能性がある。
《衝界》を岩の表面から内部へ広げるのではなく、接点へ向かう細い経路だけに通し、固定されている小さな石を1つずつ震わせる。
最初の数回では何も変わらなかった。
出力を上げすぎれば周囲まで崩れるため、返ってくる振動を確かめながら、力が逃げる場所を少しずつ変えていく。
やがて左下から、乾いた音が返った。
小石が1つ外れる。
続けて背面。
岩全体が僅かに沈んだ。
エイルは腰を落とし、《身体強化》を全身へ通したうえで、脚と腰へ《高密度強化》を重ねた。
さらに朝から練習してきた圧縮魔力を少量だけふくらはぎへ保持し、力を掛ける順番に合わせて太腿、腰へ解いていく。
一気に押し出すのではなく、足元から身体全体へ力を繋げる。
肩が岩へ触れた。
最初は動かない。
それでも接点を崩した方向へ力を掛け続けると、岩の上部が僅かに右へ傾いた。
空いた隙間へ《衝界》を通し、再び小石を外す。
岩がもう一度動く。
今度は明確だった。
エイルは力を緩めず、足元から腰、背中、肩へ順番に出力を繋げた。
巨大な岩が低い音を立てながら右へ傾き、壁との間に人間1人が通れる隙間が生まれた。
その直後。
奥から吹き出した風に混じって、強い魔力反応が流れ込んできた。
空気が冷たい。
それだけではない。
耳には聞こえないほど低い振動が、岩盤の奥から一定の間隔で返ってくる。
エイルは押していた岩から肩を離し、開いた隙間の向こうへ視線を向けた。
先には暗い下り道が続いている。
自然光は届いていない。
それでも《魔力感知》には、さらに奥から複数の反応が入っていた。
小さなものが何匹か。
その中心に、それらとは比較にならない大きさの反応が1つある。
動いてはいない。
しかし、周囲へ広がる魔力が膨らんでは縮むたび、岩盤全体へ低い震えが伝わってくる。
《鉤爪獣》たちが谷から逃げ始めた理由は、すぐ先にあるのかもしれない。
エイルは一度だけ後方を振り返り、自分が通ってきた経路と現在地を地図へ書き足した。
依頼は、三裂谷で起きている異変の確認までで達成できる。
すでに複数の《鉤爪獣》が谷から離れている事実も、同種の死骸が残されていることも、新しい魔力反応が奥にあることも確認したため、ここでレメルへ戻って報告する選択も間違いではない。
ただし、開いた隙間の向こうから流れてくる反応が何なのかを確かめなければ、街道へ現れた魔物が今後増えるのか、それとも一時的な移動で終わるのかまでは分からない。
エイルは地図を閉じ、隙間を通れるよう荷物の位置を背中で整えた。
無理に戦う必要はない。
危険が大きければ、姿と性質だけを確認して戻ればいい。
それでも、地図に存在しなかった通路が目の前へ開き、その奥から未知の魔力が流れてきている以上、何も見ずに引き返すという考えは最初から浮かばなかった。
エイルは長剣の柄へ手を添えながら、岩の向こうに続く暗い下り道へ足を踏み入れた。




