第122話 レメルの北
見知らぬ魔物を倒したあと、エイルは救助した2人を自分の野営地まで連れて戻り、左腕を負傷していた男へ簡単な処置を施した。
傷は黒い爪の先端が掠めたもので、筋肉へ届くほど深くはなかったが、周囲の皮膚には僅かな赤黒い変色が広がっている。背中から飛ばされた針が刺さった木にも似た変色が残っていたため、魔物の爪や体液には弱い毒が含まれている可能性があった。
「指先の感覚はありますか?」
「ああ。ただ、さっきより少し腕が重い気がする」
「痺れが広がるようなら教えてください。今のところ出血は止まってますけど、レメルへ着いたら薬師か治癒術師に見てもらった方がいいと思います」
エイルは沢の水を煮沸して傷の周囲を洗い、携帯していた解毒用の粉薬を少量だけ使ってから、清潔な布を巻いた。
薬草採取をしている2人も応急処置の知識は持っており、女性の方は籠に残っていた薬草から炎症を抑える葉を選び、布の内側へ薄く重ねている。
「助かったよ。俺はノルで、こっちはエマだ」
処置を受けた男が名乗ると、隣に座っていた女性も軽く頭を下げた。
「本当にありがとう。あのまま追いつかれていたら、街道へ出る前にどちらかが動けなくなっていたと思う」
「2人とも歩けそうなら、明日の朝に一緒にレメルまで行きましょう。夜の林を移動するより、ここで休んだ方が安全です」
エイルはそう言いながら、倒した魔物のいる方向へ《振動感知》を伸ばした。
周囲に同じような四足の反応はなく、血の匂いへ引き寄せられる小動物の振動が僅かに増えているだけだった。野営地まで追ってくる別個体がいないとは断言できないものの、少なくともすぐ近くに群れが潜んでいる様子はない。
エマが焚き火の向こうからエイルを見つめる。
「さっきの魔物、放っておいて大丈夫なの?」
「朝になったら爪と背中の針を持っていきます。身体全部を運ぶのは難しいですけど、レメルのギルドへ場所を伝えれば回収するか判断してくれると思います」
「君なら担いでいけそうな気もするけど」
ノルに言われ、エイルは魔物の大きさを思い出した。
「持ち上げるだけなら多分できますけど、あれを担いだまま2日歩くのは嫌です」
「そこは普通なんだな」
「僕だって荷物は軽い方がいいですよ」
3人は簡単な食事を分け合い、その後は交代で周囲を警戒しながら休むことになったが、エイルは2人へ夜番を任せず、自分の《警戒圏》と《振動感知》を薄く広げたまま眠った。
演習中ほど感知へ意識を割かなければ、完全に起きたまま周囲を見続ける必要はない。一定以上の大きさや速度を持つ反応が近づけば《警戒圏》が意識を引き上げてくれるため、1人旅では以前から使っていた休み方だった。
◇
翌朝、エイルは2人を野営地へ残して倒した魔物のもとへ戻り、前脚から黒い爪を2本、背中からは折れていない針を3本だけ切り取った。
夜の間に死体へ近づいた大型の獣はいなかったらしく、地面に残る足跡は小型の肉食獣や鳥のものが中心だった。
魔物の体長、前脚と後脚の長さ、背中の針の並び方を自分用の地図の余白へ簡単に記録し、死体の位置も街道からのおおよその距離と共に書き込んでおく。
そのまま野営地へ戻る途中、エイルは昨夜には気づかなかった別の爪痕を見つけた。
太い木の幹へ残された傷は、倒した個体の爪と幅が似ている。
ただし地面に残る接地点を追ってみると、昨日倒した個体より歩幅が広く、前脚の爪が木へ食い込んだ位置も数十センチほど高かった。
「別の個体だな」
同じ魔物が成長によって大きさを変える可能性はあるが、少なくとも昨夜倒した1匹が林を何度も往復して残した痕跡ではない。
傷の表面には乾いた樹液が固まっており、付けられてから数日は経過しているように見える。
荷馬車の御者が話していた複数の目撃痕を合わせれば、この周辺へ現れているのは1匹だけではないと考えた方がよかった。
エイルは新しい爪痕の位置と高さも記録し、ノルたちが待つ野営地へ戻った。
「別のやつがいるかもしれません」
戻ってすぐ伝えると、ノルの表情が強張った。
「昨夜のと同じ魔物か?」
「爪痕は似てますけど、少し大きいと思います。昨日倒した個体より高い場所へ傷が残ってました」
エマは考え込むように林の北側へ目を向けた。
「私たちが谷で見たのは、昨日の1匹だけだったわ。でも追われる少し前、もっと奥から何かが木を倒すような音は聞いた」
「木を倒すくらい大きかったんですか?」
「姿を見たわけじゃないから分からない。ただ、風で枝が折れた程度の音ではなかったと思う」
昨夜の魔物も前脚の爪を使えば木へ強い衝撃を与えられるため、必ずしも巨大な個体がいたとは限らない。それでも複数の痕跡がある以上、レメルへ報告した後に北側の谷を確認する理由は増えた。
3人は野営地を片付け、朝のうちに街道へ戻った。
◇
ノルの負傷によって移動速度は少し落ちていたが、エイルが2人の採取籠から重い荷物を引き受けたことで、その日の夕方には街道沿いの小さな宿場へ着くことができた。
翌朝から再び歩き、昼を過ぎた頃には《レメル》の外壁が見え始める。
レメルは高い城壁で囲まれた大都市ではなく、石を積んだ低い外壁と木製の防護柵を組み合わせた小さな街だった。北と西へ向かう街道が分かれる場所にあるため、規模に対して荷馬車の出入りは多く、門の外には順番を待つ商人や採取者が短い列を作っている。
遠くから門を見つけたエマが、隣を歩くノルの肩を軽く叩いた。
「帰ってきたのが見えれば、先に安心する人もいるでしょうね」
「怒られるのはそのあとだな」
「予定を勝手に延ばしたんだから当然よ」
2人が苦笑しながら門へ近づくと、見張り台の兵士がすぐに気づいた。
「ノルとエマじゃないか!」
声を上げた兵士が門の内側へ何かを伝え、別の兵士が駆け寄ってくる。
「昨日から戻ってないって採取組合が騒いでたぞ。怪我してるのか?」
「腕を少しやられたけど、歩く分には問題ない。こっちの冒険者に助けてもらった」
ノルがエイルを示すと、門兵は暗灰色の髪と若い顔立ちを一度見てから、腰に下がった長剣と冒険者証へ視線を移した。
「随分若いな。2人を襲った魔物はどうした?」
「倒してあります。身体は林に残してきましたけど、爪と針は持ってきました」
「針?」
「背中から飛ばしてきました」
門兵の顔から安堵が消え、代わりに警戒が浮かぶ。
「その話、門で聞くだけじゃ済まなそうだな。2人は先に治療所へ行ってくれ。冒険者の方は悪いが、ギルドで詳しく報告してもらえるか?」
「そのつもりでした」
門兵が場所を説明しようとしたが、ノルが自分たちも治療後に向かうと言ったため、エイルは一度2人と別れ、教えられた道を通って冒険者ギルドへ向かった。
◇
レメルの冒険者ギルドは、宿屋と酒場を兼ねた木造建築が並ぶ通りの中央にあった。
大都市の支部ほど広くはないものの、周囲の森や谷へ入る採取依頼が多いため、受付の横には薬草や鉱石、魔物素材を判別するための作業台が設けられている。
エイルが扉を開けた時、内部には10人ほどの冒険者がおり、依頼板の前で話す者や、昼食を取りながら戻ったばかりの獲物について話す者がいた。
受付へ進んだエイルは、まず自分の冒険者証を出した。
「街道の南側にある林で、見たことのない魔物を倒しました。レメル周辺のものか確認してほしいです」
受付にいた20代後半ほどの女性は、証へ記されたA級の表示を見ても大きく騒がず、少しだけ姿勢を正した。
「素材か記録はお持ちですか?」
「爪と背中の針、それから簡単な絵があります。死体の場所も地図へ書いてきました」
布で包んだ爪と針を作業台へ置く。
受付の女性は直接触れず、革手袋を着けてから黒い針を持ち上げた。
「表面に液体が残っていますね。毒性を調べる必要がありそうですので、少々お待ちください」
女性は奥の部屋へ向かい、数分後には白髪交じりの男を伴って戻ってきた。
年齢は50代後半ほどで、片方の目を細く眇めながら針を観察し、続いて爪へ小さな金属片を当てて硬さを確かめている。
「枝ギルド長のオルフェンだ。これを持ってきたのは君か?」
「はい。エイル・アーネットです」
「A級のエイル……ローデンで直接昇格したという若い冒険者か」
名前が伝わっていたことへエイルが少し驚くと、オルフェンは証を示した。
「支部間で昇格記録は共有される。特にC級からA級への直接昇格など滅多にないから、名前くらいは覚えていた。それより魔物について聞きたいが、外見はこの絵の通りで間違いないか?」
「大体は合ってます。前脚がかなり長くて、爪を地面や木へ掛けながら身体を引っ張るように走ります。背中の針は少なくとも5本を一度に飛ばしてきました」
「針を飛ばす前に何か予備動作はあったか?」
「背中が膨らんで、皮膚の下を針が前へ動くのが見えました。爪で傷つけられた人の腕には赤黒い変色が出ていたので、爪にも同じ毒があるかもしれません」
オルフェンはエイルの説明を遮らずに聞き、受付の女性へ治療所からノルの傷の状態を確認するよう頼んだ。
「この爪と似た素材を、俺は昔に1度だけ見たことがある。ただし、この周辺で討伐された魔物のものではなかった」
「どこで見たんですか?」
「12年ほど前、北西の《三裂谷》から戻った猟師が拾ってきた。そいつも魔物の姿は見ておらず、谷底で死んでいた獣の身体に刺さっていた爪を持ち帰っただけだ」
オルフェンは奥の棚から古い記録帳を取り出し、黄ばんだページを慎重に開いた。
そこには黒い爪を横から描いた図と、おおよその長さや硬度が記されている。
エイルが持ち帰った爪より少し大きい。
「同じ種類に見えます」
「俺もそう思う。記録では仮に《鉤爪獣》と書いているが、正式に確認された魔物ではなく、危険度も生息域も分かっていない。猟師が爪を拾った翌年に谷の入口で大規模な崩落が起き、古い炭焼き道も使われなくなったため、それ以降は調査もほとんど入っていない」
「最近まで街道へ出なかったんですよね?」
「ああ。少なくとも、レメル周辺でこいつらしい目撃報告が続いたことはない。数日前から爪痕が見つかり始めるまではな」
オルフェンはエイルが記録した死体の位置と、ノルたちが最初に追われた谷の位置を地図上で確認した。
両者の間にはかなりの距離がある。
しかもエイルが今朝見つけた別個体らしい痕跡まで加えれば、少なくとも複数匹が北西から街道付近へ移動してきている可能性が高い。
「谷で何か起きたのかもしれませんね」
「俺も同じことを考えている。縄張り争いで追い出されたのか、餌が減ったのか、それとも別の魔物から逃げているのかまでは分からんが、長く谷から出てこなかったものが急に南へ下りてきたなら、理由はあるはずだ」
知らない魔物が現れたというだけでもエイルの興味は十分に引かれていたが、その魔物自体が何かから移動している可能性まで出てくると、空白の谷へ向かう理由はさらに増える。
「三裂谷の地図はありますか?」
予想していたのか、オルフェンは別の筒から古い羊皮紙を取り出した。
「正式な測量図ではなく、炭焼き職人と猟師が使っていた経路をまとめたものだ。谷の入口まではある程度信用できるが、分岐から先は人によって記述が違う」
広げられた地図には、街道から北へ入る炭焼き道と、その先で3つに分かれる谷が描かれていた。
東の谷は細く長く、中央の谷は比較的広い。
西の谷だけは途中で線が途切れ、さらに先には山の輪郭すらほとんど記されていなかった。
ただし、消えかけた墨で短い注記が残っている。
『風、奥より吹く。閉谷にあらず』
エイルはその文字を指で示した。
「これ、谷がどこかへ抜けてるって意味ですか?」
「そう考えた者がいたらしいが、確認した記録はない。西谷は落石が多く、炭焼き職人も途中から入らなかった。12年前の崩落後は入口まで近づく者すら減った」
地図上では行き止まりに見える谷の奥から、風が吹いていた。
それが地下の空洞へ繋がっているのか、山を越える細い裂け目があるのか、あるいは当時の記録が間違っているのかは分からない。
いずれにしても、エイルが持っている地図には谷の存在すら記されていなかった。
「この地図、写してもいいですか?」
「構わない。ただ、その前に依頼の話をさせてくれ」
オルフェンは依頼用の紙を1枚取り出した。
「ギルドとしては、まず街道付近へ出た個体数と、三裂谷から移動している原因を確認したい。可能なら死体の回収地点まで案内してもらい、その後に谷へ入れる範囲を調査してほしい」
「調査だけですか?」
「現時点ではな。襲われている人間がいれば救助し、街道へ向かう個体がいれば討伐して構わないが、谷にいるものをすべて倒せという依頼ではない。生息数も強さも分からない状態で、殲滅を条件にするほど無責任ではない」
エイルは依頼書へ目を通した。
街道周辺の安全確認。
《鉤爪獣》の個体数と行動範囲の調査。
三裂谷内部で起きている異変の確認。
最低限の情報を持ち帰れば達成となり、発見内容や危険度に応じて追加報酬が支払われる。
元々、レメルで情報を集めたあとには自分で谷へ向かうつもりだった。
依頼を受ければ古地図の写しや周辺情報を提供してもらえるうえ、見つけたものを正式な記録として残せる。
「受けます」
エイルが答えると、オルフェンは驚く様子もなく依頼書へ署名を促した。
「出発時期は任せる。回収班を死体の場所へ向かわせるから、今日は正確な経路だけ説明してくれればいい」
「明日の朝には谷へ向かおうと思ってます」
「早いな」
「もう2日休んで歩いてきたので、疲れてませんよ」
「なら好きに動いてくれ。こちらも無理に護衛や同行者を付けるつもりはないが、追加情報が入れば出発前に渡す」
エイルは頷き、古地図を写すための紙を受け取った。
◇
報告を終えてギルドを出る頃には、ノルとエマも治療所から戻ってきていた。
ノルの傷には弱い麻痺毒が入っていたものの、エイルが早い段階で洗浄と解毒薬を使ったため、数日間重い物を持たなければ問題はないらしい。
「明日、三裂谷へ行くんだって?」
エマに訊かれ、エイルは写した古地図を見せた。
「中央の谷までは2人が通った道を使って、その先で痕跡を探そうと思ってます。西の谷も地図が途中で終わってるので、できれば見たいです」
「やっぱり空白の方へ行くのね」
「鉤爪獣がどこから来たかも気になりますから」
ノルは少し考えたあと、自分の採取籠から布に包んだ小さな束を取り出した。
「俺たちが谷で見つけた薬草だ。中央の谷の奥へ入ると、この青い葉が増える。水が近くにある場所へ生えるから、道に迷ったら流れを探す目印にはなると思う」
布の中には、細長い青緑色の葉を持つ薬草が数本入っていた。
「もらっていいんですか?」
「命を助けてもらった礼としては軽すぎるくらいだ。それに、群生地の場所は組合へ報告するから、俺たちだけの秘密でもない」
「ありがとうございます」
エイルは薬草を傷めないよう地図袋の外側へ収めた。
エマも谷の分岐について、記憶している岩の形や水音の聞こえる方向を教えてくれた。正式な地図にはならない程度の情報でも、実際に歩いた人間の記憶は空白の場所へ入る時に役立つ。
話が終わると、2人は採取組合へ報告するため別の通りへ向かい、エイルは宿を探す前に街の西門まで歩いた。
門の外では街道が2つへ分かれている。
左へ進めば《ヴァルネ高原》の南縁を通る旧街道へ続き、右へ進めば北側の森と三裂谷へ近づく。
演習場を出た時には、高原の西にある空白へ向かうつもりだった。
その目的を諦めたわけではない。
ただ、その途中に新しい空白が見つかった。
地元の人間さえ姿を知らなかった魔物、複数の個体が谷から離れ始めた理由、12年間ほとんど人が入っていない3つの谷、そして地図上では閉じているはずなのに奥から風が吹く西の裂け目。
エイルは右側の道をしばらく眺めたあと、翌朝の出発に備えて街へ戻った。
高原の西へ向かう前に、まずはレメルの北側に残された空白を確かめる。
一人旅へ戻って最初に選んだ寄り道としては、十分に面白そうだった。




