第121話 地図にない爪痕
街道脇の古い道標へ残された爪痕を見つけたあとも、エイルは予定を変えず、そのまま西へ向かって歩き続けた。
石材へ深く食い込んだ傷から考えれば、それを残した生物は普通の狼や小型魔物ではなく、少なくとも硬い岩を削れるだけの爪と膂力を持っている。ただし、道標そのものは倒されておらず、周囲にも血痕や争った跡が見つからなかったため、ここで人間を襲ったと決めつけることはできなかった。
縄張りを示すために傷を残した可能性もあれば、街道を横切る途中で何かに反応し、偶然爪を立てただけということも考えられる。
確かなことは、地図にも周辺情報にも記されていない何かが、この近くを歩いているということだけだった。
エイルは腰の長剣へ触れながら、《振動感知》を普段の旅より少しだけ広く保った。
合同演習では何十人もの足音を同時に拾い、数百メートル先で起きている戦闘へまで感知を伸ばしていたが、人の少ない街道ではそこまで高い精度を維持する必要はない。周囲が静かな場所なら、自分以外の新しい振動が生まれただけでも十分に目立つため、薄く広い感知を保ちながら、異常が現れた時だけ意識を寄せる方が消耗も少なかった。
聞こえてくるのは風に揺れる草の音と、時折枝から飛び立つ鳥の羽音、それから自分の足が地面へ触れるたびに返ってくる小さな振動だけだった。
「やっぱり静かだな」
数日前まで、多くの兵士や冒険者と同じ戦場へ立っていたことの方が遠い出来事に思えるほど、周囲には穏やかな時間が流れていた。
それでも、演習の中で身についた感覚が消えたわけではない。
街道を歩いているだけでも、以前より自然に周囲の地形を見ている自分に気づく。右側には緩やかな斜面が続き、左側には腰ほどの高さまで草が伸びた窪地があり、少し先には人間の背丈を上回る岩が街道の近くへ突き出している。
何かが現れれば岩を盾として使うことができ、四足の大型獣なら窪地へ誘導することで足運びを制限できる。木々の密度が高い場所へ入れば大きな身体は動きづらくなるが、逆に枝や幹を使って立体的に動く相手なら、開けた場所より厄介になるかもしれない。
演習へ参加する前なら、敵が姿を現してから考えていた可能性が高い。
今は何も起きていない段階から、どこへ立てば有利になるか、相手がどの場所を選びやすいかが少しずつ見えるようになっていた。
「アルベルトさんたちの影響かな」
独り言を漏らしたエイルは、少しだけ笑いながら歩みを進めた。
◇
日が傾き始める少し前、街道の向こうから荷馬車が1台近づいてきた。
荷台には木箱と麻袋が隙間なく積まれており、御者台には40代ほどの男と短弓を持った若い女性が座っている。さらに荷台の後方では、剣と小盾を装備した護衛らしい男が歩いており、3人とも長い移動を続けてきたらしく、服や装備には細かな土埃が付着していた。
向こうもエイルへ気づくと、最初は腰の剣と1人で歩いていることを警戒するように見ていたが、首元から見える冒険者証を確認したことで少し表情を緩めた。
「西へ向かってるのか?」
荷馬車が横へ並ぶ少し前に、御者が声を掛けてきた。
「はい。《レメル》まで行こうと思ってます」
「それなら、このまま街道を外れなければ明後日の昼くらいには着く。足が速ければ明日の夕方でも行けるだろうが、最近は夜まで歩かない方がいいぞ」
エイルは街道脇の道標に残されていた爪痕を思い出した。
「この辺りで何か出てるんですか?」
「何が出てるのか分からないから困ってるんだ」
御者は手綱を引いて馬車の速度を落とし、完全に止まったところで後ろの護衛も近くまで歩いてきた。
「3日くらい前から、この辺りを通る荷馬車が妙な足跡や爪痕を見つけてる。最初は熊系の大型魔物だと思われてたんだが、どうも足跡の形が合わないらしい」
「どんな足跡でした?」
「俺が見たものは4本指だった。ただ、爪だけは異様に長いのに、足裏の幅はそこまで大きくなかった。身体が軽い魔物かと思ったら、木や石へ残してる傷はかなり深いから、見た連中の話も食い違ってる」
身体の大きさと力が一致しない魔物は珍しくないが、同じ個体の足跡として考えた時に、接地面だけが小さく見える理由は気になった。
前脚と後脚を同じ場所へ置く癖があるのか、爪だけを使って身体を引き寄せるような特殊な歩き方をしているのかもしれない。
「人が襲われた記録はありますか?」
「今のところ、確実にそいつの仕業だと言える死人は出てない。ただ、昨日を出た薬草採取の2人組が予定時刻を過ぎても戻ってないという話は聞いた」
御者の隣にいた女性が、地図袋を膝へ置きながら補足する。
「その2人が入ったのは街道より北側だから、爪痕の主と関係があるかは分からないわ。あの辺りは小さな谷が多くて、炭焼き道を外れると方角も分かりにくいから、単純に迷っている可能性もある」
エイルは自分の地図を取り出し、街道が北へ曲がる場所を指で示した。
「2人が入ったのは、この辺りですか?」
女性は地図に書き込まれた細い道や水場の印を見て、少し驚いたように目を細めた。
「随分細かく書き足してるのね」
「歩いた場所で気づいたものを入れてるだけです。正式な地図じゃないですけど」
「それなら話が早いわ。この曲がり道へ入る少し手前から北へ外れて、昔使われていた炭焼き道を進んだらしいの。ただ、その道は今の地図にはほとんど残ってないと思う」
女性が指を置いた場所には、森を示す記号と低い山の線しか描かれておらず、道らしいものは何も記されていなかった。
エイルの視線がその空白へ留まったことで、護衛の男が露骨に嫌そうな顔をする。
「まさか、今から見に行くとか言わないよな?」
「今からは行きませんよ」
「その答え方だと、あとで行くつもりはあるんだな」
「レメルで正確な情報を聞いてから考えます。今はもう日が落ちますし、知らない林へ入るには遅いので」
護衛は少し意外そうにエイルを見たあと、安堵したように頷いた。
「ちゃんと時間を考える奴で助かった。地図の空白を見て嬉しそうにする冒険者は、大抵そのまま突っ込むからな」
「僕も昔なら行ってたかもしれません」
「昔って、君いくつだ?」
「16です」
3人が揃ってエイルを見た。
暗灰色の髪と土埃の少ない装備、それにまだ少年らしさの残る顔立ちだけを見れば、1人で未測量地帯へ入ろうとするA級冒険者には見えなかったらしい。
「……A級なんだよな?」
護衛が冒険者証を見直しながら訊く。
「はい」
「最近のA級は若いんだな」
「多分、僕は普通じゃないと思います」
「そこは自覚あるのか」
エイルは少しだけ笑った。
荷馬車の3人から、これ以上詳しい情報は出てこなかった。
今日のうちにレメルへ着くわけでもなく、夕方から街道を外れて林へ入る理由もないため、エイルは炭焼き道の位置だけを地図へ小さく記し、教えてもらった礼を伝えた。
「野営するなら、街道から少し離れた場所を選んだ方がいい」
別れ際に御者が言う。
「例の爪痕は道沿いで見つかることが多い。旅人や荷馬車を避けてるのか、それとも街道そのものを辿ってるのか分からないが、念のためだ」
「分かりました。気をつけます」
荷馬車が東へ進み始めたあと、エイルも再び西へ向かった。
◇
日没前には街道から200メートルほど南へ外れ、低木と大きな樹木に囲まれた場所へ小さな野営地を作った。
少し離れた場所には細い沢が流れており、水を確保しやすいうえ、街道を行き交う旅人や荷馬車の振動もほとんど届かない。視界だけを考えれば開けた草地の方が安全に見えるが、《振動感知》を使えるエイルにとっては、周囲の反応が混ざらない場所の方が索敵しやすかった。
乾燥肉と硬いパンで簡単な食事を済ませたあと、エイルは太い木の根元へ腰を下ろし、朝に試した新しい魔力の使い方を短時間だけ確認することにした。
通常の《身体強化》を左脚へ薄く通し、その上から低出力の《高密度強化》を重ねる。さらに、少量だけ圧縮した魔力をふくらはぎへ保持し、そこから太腿、腰へ向かって順番に解放した。
昨日の試験では、右腕の中で圧縮魔力を一気に解いたため、瞬間的な出力は大きく上がったものの、筋肉や関節へ強い負担が集中していた。
今試している方法では、同じ量の魔力を複数の部位へ順番に流すことで、一箇所へ掛かる負担を抑えながら、脚全体へ力を繋げることができる。
爆発的な加速は生まれない。
代わりに、地面を踏んだ力がふくらはぎから太腿、腰へ滑らかに抜けていき、通常の《高密度強化》より一歩の終わりまで力が残る感覚があった。
「最大出力を出す前に、こっちを覚えた方がいいな」
切り札として使う以上、最終的には一動作だけ通常の限界を大きく上回る出力を作りたい。
ただし、そのためには圧縮魔力を安全に保持し、身体を傷めず必要な場所へ運び、最も力が必要になる瞬間へ解放を合わせなければならない。
低出力で制御できないものを、高出力にした途端使いこなせるはずがない。
エイルはもう一度だけ同じ循環を確かめたあと、脚から魔力を抜き、筋肉や関節に違和感が残っていないことを確認した。
その時、薄く広げていた《振動感知》へ、周囲の自然な動きとは違う反応が入った。
距離は150メートル以上。
四足で走っているように見えるが、4本の脚が均等な間隔で接地しておらず、前方の2点へ強い振動が入った直後、後方の片脚がほとんど同じ位置へ重なっている。
歩幅自体は極端に広くないにもかかわらず、移動速度はかなり速い。
足跡を確認した者が、実際の身体より小さな生物だと誤認した理由は、この独特な接地方法にあるのかもしれない。
エイルは静かに立ち上がり、木へ立て掛けていた長剣を腰へ戻した。
反応はこちらへ向かってはいない。
木々の間を縫うように方向を変え、何度か停止しながら、同じ方角へ少しずつ距離を詰めている。
獲物の匂いを探しているようにも見えた。
そこで、四足の反応より前方から別の振動が入った。
人間が2人。
どちらも全力に近い速度で走っている。
互いに近い位置を保ちながら、背後の四足から逃げているらしい。
「薬草採取の2人かもしれないな」
今いる場所からでも、数十秒以内に追いつかれる可能性が高い。
エイルは荷物を木の根元へ残し、長剣だけを持って走り出した。
◇
日が落ち始めた林の中は、街道よりも遥かに足場が悪かった。
太い木の根が地面から露出し、湿った土が踏み込みの力を吸い、低い枝が何度も進路へ張り出している。それでも《近域感知》で足元と周囲の障害を先に拾い、《身体強化》を使って進めば、人間2人と追跡者の間へ入るには十分な速度が出せた。
今すぐ《高密度強化》を使う必要はない。
逃げている2人はまだ動いており、追う反応も距離を縮めてはいるが、接触までは僅かに余裕がある。
エイルは2人の背中を直線的に追うのではなく、現在の進行方向から少し先の位置を予測し、斜めに回り込む経路を選んだ。
相手へ追いつくより、相手がこれから通る場所へ先に入る。
アルベルトやハルドとの戦いで学んだ考え方が、人のいない林の中でも自然に働いていた。
しばらくして木々の隙間から、2人分の荒い呼吸と枝を踏み折る音が聞こえ始めた。
「まだ追ってきてる!」
「振り向くな! 谷を抜ければ街道へ――」
現れたのは、採取用の籠を背負った若い男女だった。
2人とも衣服を泥と草で汚し、男の左腕からは血が流れている。傷を庇いながら走っているため、女性より少しずつ速度が落ちていた。
2人は前方から近づくエイルへまだ気づいていない。
「そのまま僕の方へ走ってください!」
突然声を掛けられ、男女が驚いて顔を上げた。
「誰だ!?」
「冒険者です。後ろは僕が止めるので、そのまま通り過ぎてください!」
詳しく説明している時間はない。
2人がエイルの左右を抜け、そのまま数十メートル先まで走った直後、林の奥で太い木の幹が大きく揺れた。
何かが地面から跳び、木へ爪を掛けて方向を変えたらしい。
エイルはそこで長剣を抜き、2人が走ってきた方向へ身体を向けた。
暗くなり始めた木々の間から現れたのは、狼に似た輪郭を持ちながら、普通の四足獣とは明らかに異なる魔物だった。
肩までの高さは大型犬を少し上回る程度で、体長も巨大と呼ぶほどではない。しかし前脚だけが異様に長く、その先には黒く湾曲した爪が5本ずつ伸びており、走るたびに爪を地面へ突き立て、自分の身体を前方へ引き寄せるように加速している。
後脚は前脚に比べて細いが、腰から背中へかけての筋肉は不自然なほど発達しており、前脚で引き寄せた身体を後脚の力で一気に押し出す構造になっているらしい。
足跡の幅に対して、木や石へ残された傷が深かった理由も理解できた。
地面へ接触しているのは足裏全体ではなく、主に長い爪の先端なのだろう。
「道標を傷つけたのは、お前か」
魔物へ言葉が通じるとは思っていない。
それでもエイルが声を出すと、魔物は逃げていった2人から視線を外し、低く身体を沈めながらこちらへ標的を変えた。
見たことのない魔物であり、能力も分からない。
外見と最初の動きだけで強さを決めつけず、まずはどのように攻撃するのかを見る。
魔物は前脚を地面へ突き立てた直後、腰を大きく収縮させ、一気にエイルとの距離を詰めた。
加速が始まるまでの時間は、通常の四足獣より明らかに短い。
エイルは真正面から斬り込まず、振り下ろされた前脚へ剣の腹を合わせ、爪の軌道を外側へ流した。
金属同士のような硬い音が響き、刀身へ身体の大きさからは想像しづらい重量が伝わってくる。
筋力だけで受け止められないほどではないが、見た目に対して力が強いことは確かだった。
魔物は前脚を逸らされても転倒せず、近くの木へ反対側の爪を掛け、身体を宙へ持ち上げるように反転させると、今度は横方向からエイルの首元へ飛び込んできた。
ルカンと戦った時の動きが頭へ浮かぶ。
地面だけを足場にせず、周囲にある木や岩まで利用する相手なら、姿そのものを追い続けるより、次に使える足場と進路を減らした方がいい。
エイルは飛び込んでくる魔物の身体を斬ろうとはせず、その先にある木へ移動できない位置へ長剣を置いた。
魔物は刃へ触れる直前に前脚を引き、別の方向へ身体を捻った。
反応も速い。
そこでエイルは剣を追わせず、自分から一歩前へ出ることで、魔物が狙っていた次の木との間へ身体を入れた。
使える足場を失った魔物は地面へ降り、喉の奥から低い唸り声を漏らした。
「やっぱり、行ける場所を減らす方がいいな」
人間相手に覚えた位置取りが、魔物にもそのまま通用するとは限らない。
それでも、何をしたい相手なのかを見て、その選択肢を先に削るという考え方自体は変わらなかった。
◇
魔物が再び前脚を沈め、3度目の突進へ入った。
正面へ向かってくるように見えるが、その右側には爪を掛けやすい太い木があるため、直前で方向を変える可能性が高い。
エイルは予測を1つへ決めつけず、正面から来た場合にも右へ跳んだ場合にも対応できる位置へ剣を残した。
魔物は予想通り、間合いへ入る直前で右側の木へ爪を掛け、身体を横へ振ろうとする。
その瞬間、エイルは魔物自身を追うのではなく、左手で木の幹へ触れた。
《衝界》によって木の内部へ小さな衝撃を通し、魔物が爪を掛けた位置だけを横方向へ振動させる。
木を折るほどの出力ではない。
しかし、身体を支えるはずだった黒い爪が数センチ滑ったことで、魔物の跳躍軌道は予定より低くなり、横から飛び込むはずだった身体がエイルの斜め前へ落ちた。
エイルはその機会を逃さず、首や胴ではなく、最も危険な武器である前脚の爪へ向かって長剣を振り下ろした。
硬い手応えが腕へ返る。
5本すべてを断つには至らなかったが、黒い爪が2本ほど根元近くから飛び、魔物が初めて大きく姿勢を崩した。
エイルがさらに一歩踏み込むと、魔物は残った爪を横へ振る。
長剣と爪が再び接触した瞬間、今度は刀身から接触点へ《衝界》を流し、魔物の身体内部ではなく、残っている爪の根元へ衝撃を集中させた。
硬質な破裂音と共に爪が1本弾け、魔物は前脚を引きながら大きく後方へ跳んだ。
距離を取ったことで逃げる可能性も考えたが、魔物は林の奥へ背を向けず、身体を低くしたまま背中を大きく膨らませた。
筋肉が盛り上がっているのではない。
皮膚の下を、複数の細いものが前方へ移動している。
《危機感知》が強く反応したため、エイルは理由を確認するより先に横へ踏み出した。
直後、魔物の背中から5本の黒い針が放たれ、エイルが立っていた場所の後方にある木へ深く突き刺さった。
「爪だけじゃないのか」
外見から分かる前脚の攻撃だけでなく、距離を取った相手へ使う飛び道具まで備えている。
しかも黒い針が刺さった木の周囲には、僅かに樹皮が変色している部分が見えた。
毒や腐食性の体液を持っている可能性もある。
見たことのない魔物を相手にしている以上、最初の攻防だけで性質を理解したつもりにならなくて正解だった。
魔物は次の針を作ろうとしているのか、再び背中へ力を集め始めた。
同じ攻撃を待って避け続ける必要はない。
エイルは通常の《身体強化》を全身へ維持したまま、脚部へ《高密度強化》を重ね、さらに野営地で試していた少量の圧縮魔力をふくらはぎへ保持した。
昨日のように一箇所で一気に解放するのではなく、最初の踏み込みではふくらはぎ、次の加速では太腿、最後に身体を前へ押し出す瞬間だけ腰へ順番にほどいていく。
身体の内側へ刺さるような反動はない。
それでも通常の《高密度強化》だけを使う時より、踏み込みの力が途中で途切れず、最初の一歩から次の一歩へ滑らかに繋がった。
魔物の背中から針が放たれるより早く、エイルは間合いへ入った。
大きく振りかぶれば、その間に前脚で防がれる。
だから現在の剣の位置から最短距離で刃を走らせ、肩口から斜め下へ振り抜く。
魔物は残った前脚を持ち上げて防ごうとしたが、先ほどまでより一段速く入った斬撃へ爪を合わせ切れなかった。
長剣が肩口の肉を断ち、そのまま骨へ食い込んで奥まで抜ける。
魔物の身体が横へ倒れ、湿った地面を滑った。
それでもエイルはすぐ剣を収めず、数メートル離れた位置から《振動感知》で心臓や四肢の動きを確認し、反撃できるだけの力が残っていないことを確かめるまで構えを解かなかった。
やがて痙攣も止まり、地面へ伝わる振動が完全に消えたところで、ようやく長く息を吐いた。
◇
「……倒したのか?」
少し離れた木の陰から、先ほど逃がした男の声が聞こえた。
「もう大丈夫だと思います」
エイルが長剣の血を払い、周囲に別の反応がないことを確認してから鞘へ戻すと、2人は恐る恐る近づいてきた。
男の左腕には爪が掠めたような傷があるものの、出血量は多くなく、布を巻けば歩ける程度に見える。女性の方には目立った負傷はなかったが、長時間逃げ続けたことで呼吸が乱れ、採取籠の紐も片方が切れかけていた。
「どこの冒険者なんだ?」
「登録はローデンですけど、今は旅をしてます」
「等級は?」
「A級です」
2人は同時に黙り込み、倒れた魔物とエイルを交互に見た。
まだ16歳で、身体もガルムのように大きいわけではなく、汗で額へ張り付いた暗灰色の髪や若い顔立ちを見れば、高位冒険者には見えにくいのだろう。
「A級って、全員こんな戦い方するのか?」
「多分、人によってかなり違います」
「そうだよな。全員こんなだったら、俺たちが知ってるA級と違いすぎる」
エイルには何と答えればいいか分からず、倒れた魔物へ視線を戻した。
女性も魔物の背中へ近づき、皮膚の間から僅かに残っている黒い針を見ながら顔をしかめる。
「こんな魔物、この辺りでは見たことがないわ。私は4年くらいレメル周辺で採取をしてるけど、少なくとも街道沿いや南側の森に出る種類じゃない」
「北の谷では普通にいる可能性は?」
「それもないと思う。毎年同じ時期に奥まで入ってる人もいるけど、前脚がこんなに長い魔物の話は聞いたことがないし、背中から針を飛ばすなら噂くらい残っているはずよ」
最近になって別の地域から移動してきたのか、それとも今まで人がほとんど入らなかった場所から出てきたのか。
どちらにしても、道標や木へ残っていた爪痕がこの1匹だけのものだとは限らない。
「これに追われ始めたのは、いつからですか?」
「今日の昼過ぎからだ。北の谷で薬草を採って、帰るために炭焼き道へ戻ろうとしたところで見つかった」
「昨日には戻る予定だったと聞きましたけど」
2人が少し気まずそうに顔を見合わせた。
「谷の奥で珍しい薬草群を見つけて、予定より1泊延ばしたんだ。レメルへ戻ったら怒られるとは思ってたけど、こんなのに追われるとは思わなかった」
「じゃあ、行方不明になったわけではなく、予定を変えて連絡できなかっただけなんですね」
「そうなる。心配を掛けたのは悪かったが、他に誰か消えたわけじゃない」
エイルは少しだけ安心した。
少なくとも、同じ場所で別の採取者が襲われている状況ではないらしい。
「この魔物を最初に見た場所は、どの辺りですか?」
エイルが地図を開くと、女性は現在地と炭焼き道の位置を確認してから、街道よりかなり北西へ外れた場所を指した。
「私たちが見つけた時は、この辺りよりもっと奥だった。昔の炭焼き道を越えて、西側の谷へ入ったところね」
「谷は1本ですか?」
「途中で3つに分かれてる。私たちが入ったのは中央の谷だけど、あの魔物が最初からそこにいたのか、別の谷から来たのかまでは分からないわ」
女性が指を置いた先には、やはり道も集落も描かれていなかった。
《ヴァルネ高原》へ向かう街道よりさらに北側へ外れた、ほとんど空白の地域。
エイルは倒れた見知らぬ魔物の特徴を簡単に地図へ書き込み、長い前脚と背中の針を示す小さな記号を添えた。
正式な名称は分からない。
生息数も不明。
毒を持っているかどうかも、今はまだ確かめられていない。
だからこそ、レメルへ着いたら採取者や猟師、冒険者ギルドから北側の谷について聞く必要がある。
その上で、他にも同じ魔物がいる可能性が高ければ、自分で確認しに行けばいい。
演習場を離れた時には、まずレメルへ向かい、その後は《ヴァルネ高原》の西側へ進むつもりだった。
今も大まかな目的は変わらない。
ただ、地図の空白へ向かう途中に、地元の人間さえ知らない魔物と、まだ道すら描かれていない3本の谷が加わった。
エイルは新しく増えた印を見ながら、静かに地図を畳んだ。
演習場を離れてから、まだ1日も経っていない。
それでも、次に確かめたいものはすでに道の先へ現れていた。




