第103話 もう一段
レオン・ヴァルハルトの纏う空気が変わったことを、エイルは《警戒圏》より先に肌で感じ取っていた。
魔力量そのものが突然増えたわけではない。長剣を握る力も、立ち方も、一見すれば数秒前までとほとんど変わっていないのに、こちらへ向けられる視線の密度だけが明らかに違っている。
それまでのレオンは、戦いながらエイルを知ろうとしていた。
今は違う。
ある程度まで理解した上で、倒しに来ている。
「続けるぞ」
「はい」
レオンが踏み込んだ。
速さだけなら、先ほどまでとほとんど変わらない。
しかし剣が来ない。
エイルの《近域感知》は右上からの斬撃を最も濃い可能性として拾っていたものの、レオンは肩を動かしたところで止め、その反応を見た瞬間に足の位置だけを変えた。
次に濃くなるのは突き。
それも来ない。
レオンは剣ではなく左肩から身体を入れ、エイルの剣を振る空間そのものを削ってくる。
エイルは半歩だけ下がりながら柄を立て、接触する直前に《衝界》で自分へ向かってくる力を地面へ落とした。
肩同士がぶつかる。
重い。
それでも体勢は崩れない。
逆に押し返そうとした瞬間、レオンが自分から力を抜いた。
「っ」
押す先が消えた。
エイルの身体が僅かに前へ流れ、その首元へ長剣の腹が滑り込んでくる。
剣を上げるには近すぎる。
エイルは首を傾けながら左腕でレオンの前腕へ触れ、純粋な膂力で軌道を外した。
長剣が頬のすぐ横を抜ける。
暗灰色の髪が数本、風圧で揺れた。
そのままエイルは右足を踏み込み、腰をぶつけるようにしてレオンの身体を押す。
レオンは後退しない。
代わりにエイルの進行方向へ半身だけ開き、力を横へ逃がしながら剣を返した。
腹。
エイルは下がらず、剣の柄で受ける。
次は脚。
見える。
避ける。
さらに上。
その可能性が濃くなった瞬間、レオンは何もしなかった。
「また」
読まれている。
正確には、自分が読むことまで利用され始めている。
レオンの《戦脈》は単純に動きを覚える能力ではない。
エイルが何に反応するのか。
どこまで見えているのか。
どの危険なら先に動き、どの程度なら受けるのか。
そこまで戦闘の中から拾っている。
エイルが剣を振る。
レオンが受け流す。
もう一度。
今度は途中で止める。
そこにも反応しない。
数十秒前なら通じていた変化が、すでに新鮮ではなくなっていた。
それでも。
エイルは少しだけ笑った。
「やっぱり、すごいな」
「褒めてる場合か?」
「結構楽しいです」
「そういう顔してる」
実際、エイルの淡い青灰色の目には緊張よりも好奇心の方が強く浮かんでいた。
レオンは一瞬だけそれを見ると、呆れたように息を吐いた。
「16歳だったな」
「はい」
「その年で、これか」
剣が来る。
会話の途中。
エイルは受ける。
レオンがさらに踏み込む。
鍔元。
柄。
肩。
剣だけではなく、身体の接触まで混ざった近距離戦へ移る。
そして、その状態になって初めてエイルは気づいた。
レオンは先ほどより自分の力を正面から受けなくなっている。
最初の数合で、純粋な膂力ならエイルの方が強いと判断した。
だから競わない。
押せば逃がす。
掴もうとすれば、その前に位置をずらす。
剣を受ければ、力が乗り切る前に角度を変える。
ガルムとは真逆だった。
第9席は自分の膂力を最も効く瞬間へ叩き込む。
レオンは相手の強い部分そのものから外れていく。
同じ強者でも、戦い方がまるで違う。
◇
青陣営の残った遊撃隊は、少し離れた場所から2人の戦いを見ていた。
本来なら全員でレオンへ掛かる選択肢もある。
しかしジークが戦闘不能判定を受ける直前、部隊へ指示を出していた。
エイルがレオンを止めている間に中央拠点へ情報を運べ。
遊撃隊の目的はS級との決闘ではない。
拠点争奪戦に勝つことだ。
そのため半数以上はすでに移動を始めており、残っているのは連絡役と監視役だけだった。
レオンも追わない。
自分の役割が遊撃隊の足止めなら、エイル1人をここへ残している時点で十分と考えているのかもしれない。
あるいは。
純粋に。
目の前の少年へ興味が移ったのか。
それはエイルには分からなかった。
レオンの剣が、また近づく。
右肩。
エイルは先に左へ動いた。
違う。
来るのは脚。
戻す。
その瞬間、さらに別の可能性が濃くなる。
柄頭。
エイルが剣を立てる。
そこへレオンの拳が来た。
「っ」
胸元。
演習用の防具へ拳が触れる。
エイルは後ろへ滑りながら《衝界》で衝撃を左右へ分散した。
演習魔道具は黄色。
軽度の有効打。
「今の、4つ目でした」
「何がだ」
「途中で変えた回数」
レオンの目が細くなる。
「そこまで見えてるのか?」
「最初よりは」
正確には見えているわけではない。
レオンが行う可能性が複数浮かび、その濃淡が戦闘の中で絶えず変わっている。
以前は危険が1つに絞られた直前でしか拾えなかった。
今は違う。
まだ決まっていない段階から、何本かの枝として感じられる。
そしてレオンは、その枝そのものを途中で選び直す。
だから難しい。
同時に。
だからこそ、今まで以上に鍛えられている。
【未発生行動に対する予測精度が上昇しています】
【複数可能性の保持時間が延長されました】
表示が一瞬だけ視界へ浮かぶ。
エイルはそれを流し見しながら剣を振った。
レオンが避ける。
追う。
途中で剣を返す。
さらに一歩。
今度はレオンの回避先へ先に刃を置く。
長剣同士がぶつかった。
「……また早くなったな」
「慣れてきました」
「俺の台詞だ、それは」
レオンが笑う。
ただし、その直後には剣速が一段上がった。
◇
数合。
さらに数合。
エイルのコートに浅い接触判定が2回。
レオンにも1回。
互いに致命判定には届かない。
しかし、長引くほどレオンの攻撃精度が上がっているのは明らかだった。
右。
左。
エイルが選ぶ回避先へ、徐々に剣が追いついてくる。
そしてついに。
レオンの長剣がエイルの回避先へ完全に置かれた。
首元。
避ければ腹。
受ければ次に足払い。
3つの可能性がほぼ同じ濃さで重なる。
今の速度では。
全部に対応できない。
エイルはそう判断した。
だから。
初めて、そこを上げる。
身体へ魔力を巡らせた。
《身体強化》。
瞬間。
地面が沈んだ。
大きな音はなかった。
ただ、エイルの身体がその場から僅かに消えたように見えるほど、移動速度だけが跳ね上がった。
「――」
レオンの剣が空を切る。
エイルはすでに右側。
踏み込みの勢いを腰へ繋げ、長剣を横から振る。
レオンが咄嗟に剣を戻す。
衝突。
今度は流し切れなかった。
レオンの身体が大きく横へ飛ぶ。
靴底が地面を削り、3メートル以上滑ってようやく止まった。
森の中が静かになる。
監視役の兵士が目を見開いていた。
少し離れた場所で戦闘不能判定を受けたまま残っていたジークも、口を半開きにしている。
「……待て」
レオンが剣を下げないまま言った。
「今まで使ってなかったのか?」
「何をです?」
「《身体強化》」
「はい」
「最初から?」
「はい」
レオンが黙った。
数秒。
本当に何も言わない。
「レオンさん?」
「お前、さっきまで素だったのか」
「《衝界》は使ってましたよ」
「身体の話だ」
「それなら素です」
ジークが遠くから叫ぶ。
「俺も今知ったぞ!」
「言ってませんでしたっけ?」
「聞いてねえ!」
レオンが額へ手を当てた。
「なるほどな」
その声には、さっきまでとは違うものが混じっていた。
警戒。
いや。
評価そのものが変わったように見える。
「A級ってのは、やっぱり札の方が遅れてるな」
「ガレスさんにも似たようなこと言われました」
「少なくとも、俺はもうA級として見ない」
レオンが剣を構え直す。
「普通にS級相当だと思ってやる」
エイルの表情が少し変わった。
「それって、褒めてます?」
「警告だ」
同時に。
レオンが来た。
◇
今までより速い。
レオン自身も《身体強化》の出力を上げている。
エイルの《近域感知》へ、剣先だけでなく全身の動きが一度に入る。
右から斬る。
途中で止める。
左足。
柄。
さらに突き。
可能性が次々と切り替わる。
エイルも《身体強化》で速度を上げたまま対応した。
剣。
足。
肩。
互いに近距離。
金属音が連続する。
先ほどまでは1合ごとに僅かな間があった。
今はない。
剣を受けた瞬間には次。
避けた先に次。
足を置く場所まで争う。
エイルは右へ踏み込む。
レオンが追う。
そこで《衝界》を足元へ通し、反力だけを横へ逃がした。
急角度の方向転換。
レオンが僅かに遅れる。
剣を振る。
防がれる。
力を押し込む。
レオンが逃がす。
なら押さない。
接触した瞬間に剣を引き、逆側へ。
レオンも返す。
同時。
互いの刃が交差する。
エイルは純粋な力で押すのではなく、ガルムがやっていたように相手の力が乗る直前へ自分の剣を差し込んだ。
レオンの腕が僅かに浮く。
「それ、第9席のか」
「見たので」
「昨日だろ」
「はい」
「もう使うのかよ」
レオンの声に初めて苦笑が混じる。
エイルはそこへ踏み込む。
しかし次は同じことをしない。
ヴェラが使っていたように、相手の剣を大きく止めず、最小限の接触だけで外へ流す。
そのまま片腕の老人から教わった、戻りを意識した軌道で剣を返す。
レオンが受ける。
次の剣が早い。
「……混ぜてるのか」
「その方が使いやすかったので」
「何日見た?」
「ちゃんと見始めたのは数日前です」
「嘘だろ」
本当だった。
◇
《戦脈》がまた追いついてくる。
しかし今度は、先ほどまでより時間が掛かっていた。
理由はエイルにも分かる。
使える選択肢が増えた。
《身体強化》で基礎速度そのものが上がり、《衝界》による方向転換まで混ざったことで、同じ初動から繋がる先が増えている。
しかも、エイル自身が戦いながら新しい動きを追加している。
レオンが適応する。
その適応を見て、エイルが変える。
またレオンが追う。
今度はエイルが先に予測する。
互いが互いの次を読み合う。
数分前とは戦いの形そのものが違っていた。
【《剣術 Lv.56 → Lv.57》】
【《近域感知 Lv.53 → Lv.54》】
【《身体強化 Lv.46 → Lv.47》】
表示が連続する。
普通なら、技能Lvが50前後まで来れば1つ上げるだけでも相応の時間が掛かるはずだった。
エイルの場合、それが戦闘の途中で動いている。
しかも相手はS級。
自分より遥かに長い対人経験を持ち、戦うほどこちらへ適応してくる。
今までほとんど経験してこなかった種類の壁。
《越境》Lv.6にとって、これ以上なく濃い成長環境だった。
ただ。
《越境》そのものは動かない。
まだ。
この程度ではない。
エイルも、それを何となく理解していた。
Lv.7へ至るなら、きっと今よりさらに大きな何かを越えなければならない。
だから今は。
その前に、伸ばせるものを全部伸ばす。
◇
レオンが突然、後ろへ跳んだ。
距離が5メートル開く。
エイルも追わずに止まった。
互いに呼吸は乱れていない。
ただ、レオンの額には少し汗が浮かび、エイルのやや長い髪も額へ数本張り付いている。
「少し分かってきた」
レオンが言う。
「僕の?」
「ああ」
「嫌だな」
「俺の固有技能知ってて言うな」
長剣を軽く振る。
「お前、基本は速さと感知だと思ってた。そこに馬鹿みたいな膂力と、妙な衝撃操作が付いてる」
「馬鹿みたいな」
「褒めてる」
「多分違いますよね」
「でも、それだけじゃない」
レオンの表情が真面目になる。
「お前の一番面倒なところ、たぶんそこじゃない」
エイルは黙って聞く。
「戦ってる間に、選択肢そのものが増えてる」
その言葉。
エイルにも分かった。
最初は剣で攻撃する。
避ける。
《衝界》を使う。
それくらいだった。
今は違う。
ガルムから拾った膂力の差し込み。
ヴェラの受け流し。
ジークの支点崩し。
片腕の老人の戻り。
双剣使いから見た役割の切り替え。
そして自分自身の感知と《衝界》。
全部が1つの戦闘の中で繋がり始めている。
「《戦脈》で追いつくたびに、お前が少し違う奴になってる」
レオンが笑った。
「こういう相手は初めてだ」
「僕も《戦脈》は初めてです」
「そういう意味じゃない」
剣を構える。
「面白くなってきた」
エイルも長剣を上げた。
その時。
遠くから大きな破裂音が響いた。
中央拠点方向。
続いて青い信号弾。
2発。
青陣営の緊急招集。
ジークの表情が変わる。
「中央が押されてる!」
エイルも感知を広げた。
ここからかなり遠い。
それでも大規模な戦闘による振動は届いてくる。
さらに。
中央付近の人間反応が、大きく移動している。
「赤が増えてます」
「何人?」
「分からない……でも20人以上追加。北側から回ってきてます」
レオンが剣を下ろした。
「俺の仕事は終わりだな」
「終わり?」
「お前らをここで足止めすること」
エイルが少し眉を寄せる。
「最初から?」
「当然だろ。演習だぞ」
忘れかけていた。
レオンは笑う。
「俺1人に第18席と、お前と、遊撃の半分近くを止められた。赤としては十分だ」
「……やられた」
「お前、戦い始めたら本当に周り見なくなる時あるな」
痛いところだった。
感知自体は切っていない。
だが、レオンとの戦闘へ集中するあまり、遠方の戦況変化まで追っていなかった。
これは明確な失敗。
強さとは別の部分。
「行くぞ、エイル!」
ジークが叫ぶ。
「はい!」
エイルは剣を鞘へ戻した。
レオンの横を抜けようとする。
「エイル」
呼び止められた。
振り返る。
「次やる時は、その先も使え」
「その先?」
レオンの視線がエイルの身体へ向く。
「今の《身体強化》が全力じゃないだろ」
エイルは少しだけ目を細めた。
《高密度強化》。
まだ使っていない。
「……分かります?」
「戦ってりゃな」
やはり厄介だ。
レオンが笑った。
「次はそれ込みで見せろ」
「分かりました」
答えてから、エイルは走り出した。
青陣営の中央拠点まで距離はある。
だが今なら。
《身体強化》。
さらに足元へ《衝界》。
地面を蹴った瞬間、少年の姿が森の奥へ一気に消えた。
その速度を見送ったレオンが、しばらく黙る。
「……まだ上がるのか、あれ」
近くにいた赤陣営の監視役が何も答えられないまま、森の奥へ消えていった16歳の背中を見つめていた。
そして中央拠点では。
エイルがこれまで見てきた個人戦とは違う、数十人規模の戦いがすでに崩れ始めていた。




