第3話 保たれた距離
第3話の改稿・推敲版になります。
悠真は黒狼の治療を終え立ち上がる。
日が沈みきり、森はゆっくりと色を失っていく。
木々の輪郭だけが、かろうじて闇の中に浮かんでいた。
悠真は黒狼に背を向け、森の闇へと足を踏み入れる。
数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
「……何やってるんだ、俺は」
それでも、あの場に立ち尽くしていた自分よりは——まだましだと思えた。
だが、この異常な状況ではそうやって自分の精神を保たないとおかしくなりそうだった。
更ける夜の森を歩き、やっと悠真はその日の野営地を決めると、木の根元へ背を預けた。
背後は太い幹。左右は低木。正面だけが開けている。
視界と退路、どちらも確保できる位置だ。
火は敵を呼ぶ、だから焚かない。
近くに水場は見つけたが食料は少ない。弾も少ない。
考えることは多い。
だが、今は身体を休めなければ判断が鈍る。
悠真はゆっくりと息を吐き、周囲に耳を澄ませる。
風の音。虫の気配。遠くで何かが動く微かな揺れ。
――異常なし。
携行食を取り出し、包装を歯で破る。
味というより素材だった。
噛むたびにぼそぼそと崩れ、口の中の水分を奪っていく。
うまくもまずくもない。ただ、腹に落とすためのものだ。
そのとき、草を踏む音がした。
反射的に視線を向ける。手はすでにライフルへ。
黒狼だった。
気配を隠す気はないのか、わざと音を立てるように歩いてくる。
口に小型の獣を咥えていた。
悠真の前まで来ると、それをどさりと落とす。
血の匂いが広がる。
「……俺にくれるのか?」
黒狼は答えない。ただ、少しだけ顔を背けた。
視線を合わせない。だが、離れもしない。
悠真はしばらくそれを見つめる。
罠の可能性。
毒、寄生虫、頭の中でいくつも可能性を潰していく。
そして――問題ない。
ナイフを抜き、解体を始めた。
皮に刃を入れ、筋に沿って切り開く。無駄な力は使わない。
骨に当たる感触、関節の位置。
慣れた手付きは身体が覚えている動きだ。
兵士になってから数え切れないほど訓練した、サバイバル術。
血で滑らないよう、草で何度か刃を拭う。
使える肉だけを切り分け、内臓は捨てる。
必要最低限。それ以上は持たない。
その手元を、黒狼は近くでじっと見ていた。
瞬きも少なく、ただ観察するように。
「……近いな」
悠真が低く言うと、黒狼は三歩だけ下がる。
それでも完全には離れず、視界の端に位置を保つ。
――距離を測っている。悠真はそう判断した。
解体を終え、肉を布に包む。一部はその場で口に運ぶ。
肉を口に入れた瞬間、わずかに温もりが残っていた。
噛むたびに濃い味がにじみ、乾いた携行食の感触を押し流していく。
体が、先にそれを求めていた。
理屈ではなく、本能が理解している。
黒狼は動かない。奪いもしない。ただ見ている。
「……食うか?」
そういうと悠真はナイフを入れ、切り分けた肉を一片だけ取る。
わずかに腕を伸ばし、地面へ落とすように置いた。
距離は詰めない。
黒狼はすぐには動かなかった。
金色の瞳が肉と悠真を交互に見る。
数秒の静止。
やがて、ゆっくりと一歩だけ前に出る。
鼻先で匂いを確かめる。
――食べた。
噛み砕く音は小さい。
飲み込むと、黒狼はそれ以上求めなかった。
ただ、再び悠真を見た。
悠真は微笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。
夜更け。
悠真は横にならず、木にもたれたまま目を閉じる。
完全には眠らない。意識を浅く沈めるだけだ。
何度か目を覚ます。
そのたびに、黒狼の気配は近くにあった。
風下、死角。位置は変わるが、常に周囲を押さえている。
――警戒しているのか。それとも。
「……見張ってるつもりか…」
答えはない。だが、不思議と不快ではなかった。
敵ではない。だが味方とも言い切れない。
奇妙な均衡だった。
目を閉じる。
だが、すぐには眠れなかった。
脳裏に浮かぶのは、つい数時間前までいたはずの場所。
硝煙の匂い、断続的な銃声、怒号。
――あの戦場は、どうなったのか?
仲間は、生き残っているのか?
思考が勝手に戻っていく。
転移の直前。
途切れかけた無線の声。
『……松……隊長が……KIAと認定……!』
『繰り返す……隊長、KIA……!』
ノイズ混じりの声が、今も耳に残っている。
あの人が死ぬはずがないと、どこかで思っている。
拳がわずかに握られる。
何もできなかった。
あの場に、自分はいなかった。
――いや、いたとしても。
奥歯を噛みしめる。
考えても答えは出ない。
それでも、考えることを止められなかった。
ふ、と息が漏れる。
目を閉じたまま、わずかに眉が歪む。
気づかないほどに、ほんのわずかな。
その目尻に、滲むものがあった。
一筋にも満たない、かすかな涙。
誰にも見せるつもりのないものだった。
やがて、思考はゆっくりと沈んでいく。
意識が落ちる。
眠りに引きずり込まれる直前。
かすかに、気配が近づいた。黒狼だった。
音もなく、静かに距離を詰める。
その金色の瞳が、悠真の顔を覗き込む。
じっと、動かずに見ていた。
涙の跡に気づいたのかどうかは分からない。
ただ、しばらくその場を離れなかった。
やがて、ゆっくりと身体を伏せる。
悠真の視界の端。手の届かない、だが近い場所。
外敵に最も反応しやすい位置。
――守るように。
黒狼はそのまま、動かなかった。
静かな夜が、続いていく。
――――――――
東の空が、わずかに白み始めている。
まだ日は顔を出さない。
それでも、鳥の声だけが先に増えていった。
悠真の意識が覚醒する。
すぐさま立ち上がり、装備の確認を始める。
弾倉、ナイフ、包帯、水。――問題なし。
荷物を背負い、歩き出す。
数歩進んだところで気配を感じた。
振り返ると、黒狼がいた。
昨日と同じ距離。
こちらを見て、ゆっくりと立ち上がる。
悠真が歩き出すと、
少し遅れて、黒狼も動いた。
悠真は数秒だけ視線を合わせ、前を向いた。
「……勝手にしろ」
黒狼は一瞬だけ鼻を鳴らす。それが返事のようにも聞こえた。
一定の距離を保ったまま、黒狼は静かに後をついてくる。
足音はほとんどない。だが、確かにそこにいる。
振り払うことも、撃ち殺すこともできる。
それでも――悠真は何もしなかった。
ここがどこかも分からない。
ただ、一人でいることに、悠真はわずかな抵抗を感じていた。
ほんのわずかに、表情が柔らぐ。
悠真は肩の力を抜き、前へ進む。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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後書きまでお付き合い頂きありがとうございました。




