第26話 灰色の記憶
——それは、榊原悠真が知らない戦場。松岡勝が、壊れた日。
通信は死んでいた。ノイズだけが耳に残る。松岡勝は走る。瓦礫を蹴り、崩れた壁を抜け、残響を追う。
「……榊原……」
名が漏れる。
「あいつは生きてる」
言い聞かせる。そう思わなければ、足が止まる。
崩れた建物に踏み込む。血の匂い。薬莢、弾痕、抉れた地面。終わった空気。その中で、瓦礫の隙間から手が出ていた。
「おい!!」
駆け寄る。指先が震えている。まだ生きている。
「待ってろ、今出す!」
瓦礫に手をかける。力を込める。だが動かない。角度を変え、指を差し込み、爪が割れるのも構わず押し上げる。
「……隊長……」
「いる、ここにいる!」
だが持ち上がらない。どうやっても足りない。
「すぐ出すから……!」
その瞬間、内部で何かが軋んだ。嫌な音。次の瞬間、崩落。コンクリートが落ち、露出していた手が飲み込まれる。
「……あ?」
間の抜けた声。さっきまで生きていたものが、目の前で消えた。
「……遅ぇんだよ……俺……」
ほんの少しの遅れで、全部が終わる。
「おかあさん……」
泣き声。松岡は顔を上げる。
走る。迷わない。今度こそ間に合う。
半壊した家屋に踏み込み、小さな影を見つける。泥と血で汚れた顔がこちらを見る。——生きている。
「……大丈夫だ」
息を整える。一歩、近づく。
「もう大丈夫だ」
声は驚くほど静かだった。伸ばした手。あと少しで届く距離。
助けられる。今度は間に合う。
子供が、かすかに手を伸ばした。
その瞬間、床下から鈍い膨張音。視界の端で白煙が弾ける。
「——下がれ!」
叫ぶより先に身体が動く。抱き込む。覆う。守る。
次の瞬間、爆発。閃光と衝撃が室内を薙ぎ払う。
腕の中を見た。
「……は……?」
軽い。軽すぎる。血が温かい。
子供の顔はそこにある。だが、その下がない。
――音が消える
「……なんだよ……これ……」
声が震える。
「さっきまで……生きてただろ……」
返事はない。あるはずがない。
「ふざけんなよ……!」
喉が裂ける。
「俺、守ろうとしただろ……!」
腕が震える。止まらない。止められない。
「なんでだよ!!」
視界が滲む。
「……守るって……なんだよ……」
言葉が崩れる。
ゆっくりと子供を地面に置く。手を離した瞬間、何かが完全に切れた。
立ち上がろうとして膝が抜ける。左脚が言うことをきかない。脛が裂け、血が溢れている。
「……チッ……」
舌打ち。それでも止まれない。止まったら、また遅れる。
壁に手をつき、無理やり体を起こす。体重を右に預け、引きずるように進む。外で銃声。味方だ。まだ戦っている。
「……待ってろ」
路地に出る。墜落したヘリの残骸が道を塞いでいた。煙の中、その陰に味方が二人。辛うじて生きている。
「隊長!」
「持たせろ!」
松岡は足を引きずりながら前へ出る。残骸に身を寄せ、射線を取る。撃つ。敵が倒れる。だが数が多い。
「弾が……!」
次の瞬間、銃声。一人が崩れ落ちる。
もう一人が歯を食いしばって飛び出す。叫びながら突っ込む。だが届かない。撃たれる。倒れる。
「……くそ……!」
撃つ。撃つ。撃ち続ける。だが足りない。足が遅い。踏み込めない。間に合わない。
また一人、消える。
「なんでだよ……!!」
喉が裂ける。
静寂。
松岡は一人、立っている。いや、立たされている。左脚はもう支えにならない。
「……もう、いいだろ……」
掠れた声。
「守れねぇよ……こんなの……」
銃口が向く。複数。避けない。避けられない。
発砲。衝撃。身体が弾かれる。二発、三発。さらに撃ち込まれる。膝が砕け、地面に崩れる。血が広がる。
呼吸が浅い。視界が暗くなる。
足音。駆け寄ってくる気配。
「松岡隊長!!」
榊原悠真。焦りと怒りと恐怖が混ざった顔。
松岡は、わずかに笑う。
「……生きてたか……」
手を伸ばす。届くはずもない距離。それでも伸ばす。
「……よかった……」
息が続かない。
「なぁ……榊原……俺……何も守れなかったわ……」
視界が揺れる。
「目の前で……全部、消えた……あと少しだったんだ……ほんとに……」
「なのに……届かなかった……」
「はは……は、はは……っ、あー……はは……」
笑う。壊れた笑い。
「守るって……なんだ……?」
そのとき、榊原の輪郭が揺れる。崩れる。ノイズのように掠れていく。
「…………?」
消える。そこにいたはずの姿が、跡形もなく。
代わりに——目の前に立っていたのは敵兵だった。無機質な目。こちらに向けられた銃口。
理解する。今のは幻覚。
「……あぁ……」
引き金が引かれる。乾いた音。最後の衝撃。
呼吸が止まる。
——暗転。
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ場所だった。冷たい石の感触。身体は横たわっている。
視界の上には刻まれた紋様。見たことのない天井。ゆっくりと焦点が合う。周囲に人影。
動けない。身体が重い。
そして——自分は祭壇の上に寝かされていた。
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