第11話 神獣フェンリル
止まっていた時間が動き出す。
広場に、怒号と血の匂いが一気に戻ってきた。敵兵たちの足音、炎の爆ぜる音、リゼルの荒い呼吸。そのすべての中で、悠真の腕の中にあった黒狼の身体が、ふっと淡い光を帯びた。
「……っ」
焼け焦げていたはずの毛並みが、白銀の光に包まれていく。火傷の痕が霧のように薄れ、砕けた息遣いが規則正しく整っていく。悠真は思わず腕を緩めた。
光はさらに強くなった。
広場の石壁を白く照らし、敵兵たちが目を細めてたたらを踏む。ローブの魔導士までもが一瞬呪文を止めた。
「な、なんだ……!?」
光の中心で、黒狼の身体が輪郭を変えていく。四肢が細く伸び、毛並みが衣へと変わり、獣の耳はそのまま残しながら、人の少女の姿が現れた。
悠真の腕の中にいたのは、十代半ばほどの少女だった。
黒銀の長い髪。
月光のように淡い肌。
瞳は狼のときと同じ、金色。
身に纏っているのは、この世界の貴族服ではなかった。
胸元を締めた小袖に近い上衣、帯で留めた袴めいた衣。悠真の記憶の奥にある、日本の時代劇や古い武家装束を思わせる――武士風の衣装だった。
少女はゆっくりと瞼を開くと、悠真を見上げた。
「……主」
小さく、だがはっきりとした声だった。
「喋れるのか」
悠真が低く問うと、少女は悠真の腕からするりと降りた。素足が石床に触れ、彼女はまっすぐ立つ。
背筋が妙に美しい。
「私はフェン。覚醒の殻を破る前の名を、そう呼ばれておりました」
その言い回しは少し古風で、妙に落ち着いていた。
敵兵たちがざわめく。
魔導士が一歩下がる。
だが、少女――フェンは彼らを見ない。視線はずっと、悠真に注がれていた。
「女神様の遣いとして、私はあなたを導くために傍らにありました」
彼女は片膝をつき、胸元へ手を当てる。
「榊原悠真。どうか私と正式な契約を。神獣フェンリルとして、あなたの牙となり、爪となりましょう」
その場にいる全員が、一瞬息を呑んだ。
神獣、契約。
それがどれほど重い意味を持つか、リゼルにはわかったのだろう。痛みに顔を歪めたまま、それでも目を見開いていた。
だが悠真は、表情を変えない。
「断る」
あまりにも即答だった。
フェンの尻尾がわずかに揺れる。
リゼルが「なっ」と息を漏らした。
悠真は剣を握ったまま、静かに言った。
「契約なんてものは、縛りだ。俺は誰かを縛る気も、縛られる気もない」
「ですが――」
「お前はもう、勝手についてくるだけで十分だ」
ぶっきらぼうにそう言い放つ。
フェンは数秒、きょとんとしたように悠真を見上げていたが、やがてふっと目を細めた。怒った様子はない。むしろ、どこか嬉しそうですらあった。
「……不器用な御方です」
「お前は家族だ」
悠真が聞こえないくらいの小さな声で返した、その瞬間。
広場の奥から魔導士が吠えた。
「茶番は終わりだ! まとめて焼き尽くせ!」
赤い魔力が膨れ上がる。
悠真は反射的に一歩前へ出た。




