第10話 女神との契約――止まった世界で
――黒い影が、視界を埋めた。
黒狼だった。
彼女は躊躇なく悠真の前へ躍り出ると、その巨体で炎を受け止める。直撃。圧縮された炎が逃げ場なく叩きつけられる。
爆ぜる火、焼ける匂い、肉の焦げる音。
「おい!」
悠真が叫ぶ。だが炎は容赦なく黒狼を飲み込み、その全身を焼き尽くしていく。
数秒。それだけで十分だった。
炎が消えたとき、黒狼は四肢を焼かれ、立っていることすら困難な状態だった。それでも――最後まで、一歩も退かず、悠真の前に立っていた。
「……なんでだ……」
崩れ落ちる。巨体が音を立てて地に伏す。
悠真は即座に膝をつき、その身体を抱き上げる。焼けた毛皮、熱が残る皮膚、指先に伝わるかすかな震え。まだ――生きている。
「……馬鹿が」
低く吐き捨てる。だがその声は、わずかに震えていた。
黒狼の瞳がゆっくりと悠真を捉える。金色の瞳、かすかに揺れる光。
悠真は呟く。「勝手に死ぬな」
その瞬間――
光が、溢れた。
白ではない。
もっと鋭く、冷たく、すべてを呑み込む光。
――戦場で、見た光。
あのとき。
すべてが途切れた瞬間。
自分を、この世界へ引きずり込んだ光。
同じだった。
意識が引き抜かれる。
その瞬間、音が消えた。風も炎も敵兵の足音も、すべてが止まる。時間が切り取られたように、広場の光景が色を失っていく。
その中に、一人の女が立っていた。
「この世界の均衡を見守る者」
「そして、あなたをこの世界に招いた者です。」
穏やかな声。だが、その存在は圧倒的だった。
女は、そこに“立っている”ようで、立っていない。足元は地に触れているはずなのに、影がわずかに遅れて揺れる。
輪郭がわずかに曖昧で、視線を外すと、そこにいた形すら揺らぐ。
長い髪は、色を持たない。白とも銀ともつかない光を帯び、空気の流れとは無関係にゆっくりと揺れていた。その一本一本が、細い光の糸のように淡く発光している。
瞳は、深い。色で表せるものではない。覗き込めば底がない。星のような輝きがあるわけでもない。ただ、どこまでも“続いている”としか言いようがない。
衣は簡素だった。装飾はない。だが、その布は光を拒まない。周囲の色を受けながら、同時に自らも淡く輝いている。白とも黒とも定義できない、不確かな色。
肌は滑らかで、傷一つない。だが生きている人間のそれとは違う。温度が感じられない。存在しているのに、触れれば消えそうな錯覚を覚える。
何より――
“重さ”が違った。
そこにいるだけで、空間そのものが押し広げられているような感覚。空気が薄くなるわけではない。だが、呼吸を忘れそうになる。視線を逸らすことが許されない。
悠真は、黒狼を抱いたまま、ゆっくりと顔を上げる。
本能が告げていた。これは、人ではない。
存在の階位が違う。
――神だ。
女神は静かに悠真を見下ろす。
表情は変わらない。感情も読み取れない。
だが、その瞳だけが、確かにこちらを“見ていた”。
ただ、向き合うしかない存在だった。
「彼女は神獣フェンリル。あなたのもとへ遣わした」
その言葉に悠真の目が細くなる。「……なぜ俺だ」
「あなたは戦場で“選択できる者”だから」
女神は静かに答える。
悠真は何も言わない。ただ沈黙で続きを促す。
女神は一歩、距離を詰めた。
「この世界はいま均衡を失っています。力ある者が欲望のままに奪い、歪みが広がっている。人も、魔も、神々の加護すらも、本来の位置から外れかけているのです」
「それを俺に正せと?」
「ええ」
迷いのない肯定。
「あなたは異物です。だからこそ外から壊れた均衡へ手を入れられる」
悠真は鼻で笑う。
「便利な駒が欲しいだけに聞こえるな」
「何故、自分でやらない」
女神は優しく穏やかに微笑む
「そう思ってもらっても構いません」
女神は話しを続ける。
「本来、女神とは見守る存在です。そこに深く干渉することはできません。だからこそ他の者に力を託すのです」
女神の声は変わらない。穏やかで、揺らがない。
「ですが――あなたにも理由ができたはずです」
その言葉と同時に。
――景色が、割り込む。
土の匂い。
夏の陽射し。
祖父の家の庭。
小さな手。
それを追い越す、大きな影。
笑い声。
転ぶ。
土まみれになる。
舌で頬を舐められる。
「……くすぐったいって」
林檎を投げる。
駆ける影。
噛んで、戻ってくる。
誇らしげな顔。
撫でる手。
暖かい体温。
――別の日。
雨上がり。
濡れた土。
足跡が並ぶ。
小さいものと、大きいもの。
隣同士。
離れない距離。
――夕暮れ。
影が長く伸びる。
並んで座る。
何も話さない。
それでも、寂しくない。
――そして。
山。
静寂。
気配。
重い音。
振り向く、巨大な影。
呼吸が止まる。
動けない。
足がすくむ。
その前に――
立つ影。
迷いはない、振り返らない。
ただ前を見る、飛び出す。
ぶつかる。
血。
叫び。
地面に叩きつけられる。
それでも、離れない。
噛みつく。
引き裂かれる。
それでも――
退かない。
最後まで。
守るために。
――音が、消える。
悠真は、目を閉じていた。
「……最初に会ったとき」
低く呟く。
「あの黒狼に、違和感があった」
理由のない感覚。懐かしさ。今ならわかる。
女神が静かに言う。
「魂は輪廻します」
わずかに間を置いて。
「元居た世界とは、別の世界で」
それだけだった。
悠真はゆっくりと目を開く。迷いは、もうない。
「契約してください、榊原 悠真
世界の均衡を正すために戦うと」
「報酬は?」
間髪入れない問い。
「彼女は死にません」
「そして」
「悠真、あなたに女神である私の力の一端を」
十分だった。
悠真は短く息を吐いた。
「……いいだろう」
女神が微笑む。
「ありがとう。榊原 悠真」
白い光が弾ける。世界が戻る。音が、熱が、戦場が蘇る。炎の残滓が崩れ落ち、敵兵の怒号が響き、血の匂いが空気に満ちる。
その中で。
悠真の腕の中、黒狼――フェンリルの体が、わずかに動いた。焼けたはずの肉が再生していく。呼吸が戻る。胸が上下する。
そして、ゆっくりと目を開く。
金色の瞳。
その奥に、確かな光が宿っていた。
悠真はそれを見下ろす。
何も言わない。だが――その瞳から、目を逸らすことはなかった。
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後書きまでお付き合い頂きありがとうございました。




