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6.無茶ぶり

 透は頭を抱えたくなった。実際、頭を鷲掴みにして、個室の扉へ額を押し付けていた。このまま打ちつけたい衝動に駆られたが、理性で辛うじて踏みとどまる。深呼吸を一回だけして、個室を出た。


 列は、さらに長くなっていた。

 階段の踊り場まで伸び、体育館へ向かう生徒たちは、妙に行儀よく進んでいる。透は最後尾に近い場所へ滑り込んだ。教師が視線だけをよこすが、特に追及はしてこない。

 透は、列の背中を見ながら、必死に考えた。


 時間を稼げ。

 どうやって。


 腹が痛いと言ってみる。倒れたふりをする。階段で足を滑らせる。けれど、どれもすぐに駄目だと分かった。骨や炭骨を確認される流れになれば終わりだ。怪我をするなら、骨に届かない場所でなければならない。


 体育館前の仮設受付が見えてきた。

 長机がいくつも並び、白い上着を着た大人たちが端末を操作している。受付の端には、切り分け用のハサミが数本置かれていた。生徒は順番に検査票を出し、担当者が切り取り線の上から確認印を押し、それから自分で紙を切る。何でもない手順のはずなのに、透の目はそのハサミに吸い寄せられていた。


 その刃は、よく研がれているように見えた。

 列が進む。

 あと数人。

 代表はなんとかすると言ったが、今この瞬間に列へ並んでいるのは透自身だ。自分でどうにかするしかない。


 順番が来た。

 受付の担当者が、透の検査票を受け取る。名前と学籍番号を確認し、切り取り線の上から判を押した。返された紙を受け取り、透は机の端に置かれたハサミを手に取った。


 これしかない、と透は覚悟を決めた。

 そっと切り取り線へ刃を合わせ、ほんのわずかに親指をずらした。力加減を間違えたように見える角度で、刃を滑らせる。


「痛っ」

 鋭い痛みが走った。


 親指の腹が裂け、赤い血が検査票の端へぽたりと落ちる。思ったより痛い。思ったより血が出る。骨には届いていない。ただの切り傷だ。

 透は反射的に傷を塞ごうとする身体の奥の熱を感じ、奥歯を強く噛んだ。


 治るな。

 今だけは、治るな。


「あっ、指!」

 近くの生徒が声を上げる。受付の担当者が顔をしかめ、すぐに教師が近づいてきた。透は血のついた親指を押さえ、少しだけ息を乱して見せる。わざとらしすぎない程度に。痛いのは本当だから、違和感は無い筈だ。


「まったく、何してるんだか。早く保健室に行きなさい」


 教師の声は苛立っていたが、疑っている様子はない。列を止められていることの方が面倒なのだろう。

 小路が列の後ろから身を乗り出した。


「透さん、私も――」

「いい」


 透はすぐに遮った。思ったより強い声が出て、喉が少し詰まる。


「大丈夫。あんたは検査受けてきて」

「でも」

「平気だって。ちょっと切っただけだから」


 小路はまだ何か言いたそうだったが、教師が「列を乱すな」と声を飛ばし、綾香が小路の肩を押さえた。澪も心配そうにこちらを見ていたが、透はそれ以上目を合わせなかった。


 透は親指を押さえたまま、列から外れた。

 体育館前のざわめきが、背後へ遠ざかっていく。廊下へ出た瞬間、透はようやく細く息を吐いた。

 保健室に着くと、養護教諭は透の手を見るなり、すぐに洗うよう促した。水が傷口に触れて、鋭い痛みが跳ねる。透は顔をしかめたが、声は出さなかった。消毒液の匂いが鼻を刺し、薄いガーゼが当てられ、包帯が親指の周りへ丁寧に巻かれていく。


「少し深いけど、縫うほどじゃないわね。しばらく押さえておきなさい」

「はい。ありがとうございます」


 バレるかもしれない、という後ろめたさと怖れから解放され、自然と息を吐き出してていた。養護教諭も透の様子に微笑みを向け、治療道具を片付け始める。たぶん、傷と血への恐れから解放されたのだと、そう考えたのだろう。申し訳さない。ただ、そう思った。


 包帯の下では、傷口がまた塞がろうとしている。透は包帯越しに親指を軽く押さえ、治ろうとする熱を押し込めた。怪我を治さないよう努力するなんて、昨日までなら考えもしなかった。


 そのとき、端末が震えた。

 養護教諭が棚の方を向いている隙に、透は画面を見る。知らない番号からの短いメッセージが表示されていた。


 ――校門まで来て。

 透は一瞬、画面を見つめたまま固まった。このタイミングで届く連絡が、ただの偶然のはずがない。包帯を巻かれた手を胸元へ寄せ、椅子から立ち上がる。


「すみません、ちょっと、トイレ行ってきます」


 養護教諭は書類へ目を落としたまま、「戻ってきなさいよ」とだけ言った。透は小さく頷き、保健室を出る。そのまま体育館とは逆方向へ足を向ける。靴音が一つ鳴るたび、心臓も一緒に跳ね、鼓動は加速していく。包帯を巻いた親指は、まだじくじくと痛んだ。


 校門が見えてくる。

 透は息を切らしながら、門の外側に立つ人物を見た。

 ピンク色の外套。首元にかかる透明な防護眼鏡。場違いなくらい軽い立ち姿。

 足立明季が、そこにいた。

 声が喉で引っかかる。


「――どうするの?」


 足立は透の言葉に答える代わりに、ポケットから小さな封筒を取り出した。薄い紙の感触が、指先からでも分かる。封筒は透の前に差し出され、透は反射で受け取ってしまった。


「これを、体育館の担当に渡して」


 足立の瞳は濁りのない艶を纏い、まるで後ろめたさなど無いように見えた。

 透は封筒を握りしめ、喉が鳴るのを押さえた。


「……それだけでいいの?」


 透の声には不安の色があり、それは震えで表れる。こんなので、本当にどうにかなるのか。

 足立はしっかりと見つめたまま「大丈夫。上手くいくって」と言った。

 一瞬だけ、唇を噛んだ。信じるしかない。他に道は無いように透には思えた。


「わかった」


 透は封筒を制服の内側に押し込み、鞄を握り直した。足立はそれ以上何も言わず、校門の影の中へ半歩下がり、透は踵を返し、校舎へ走った。

 そうして、列に戻ると、教師の怒鳴り声が飛んできたが、透は「すみません!」とだけ投げて、さっきいた位置へ戻ろうとした。生徒たちの視線が刺さる。


 列はもう、体育館の入口まであと数歩のところまで進んでいた。

 透は胸の内側の封筒を確かめる。紙の角が制服越しに当たって、痛かった。


 上手く、いくだろうか。

 透は唾を飲み込み、体育館の扉へ向かって、一歩踏み出した。



 体育館の中は、消毒薬のような刺激と、金属と紙の匂いがした。簡易の仕切りがいくつも立てられ、白い上着の大人たちが端末を操作しながら生徒を流している。ざわめきはあるのに、声はどれも低く、妙に抑えられていた。


 透は列の最後の角を曲がり、検査の区画へ入った。

 前の生徒が椅子に座り、腕を差し出している。担当の男が手元の器具を近づけ、淡々と数値を確認していた。

 前の生徒が「ありがとうございました」と立ち上がり、胸をなでおろして、ホッとした顔で検査票の控えを大事そうに握ったまま退館した。


「次」


 透の番が来た。

 透は椅子に座った。鞄は足元。制服の内側に入れた封筒の角が、肋のあたりに当たって硬い。息を吸うと、その硬さが一緒に胸へ食い込む。

 担当の男が、透の顔と名札を見比べる。端末に指を滑らせる。


「貴船透さん」


 透は「はい」と返事をする声は、少し乾いていた。

 担当の男が器具を取ろうとした、その瞬間。


「これを」と透は制服の内側から封筒を取り出し、机の上へ置いた。

 担当の男は、眉を寄せた。


「何だい、これは」

「渡すよう言われました」


 担当の男は封筒をつまみ上げ、訝しな一瞥を透にくれ、封を切った。中身を引き出し、一枚、二枚と目を走らせる。透はその目線の動きだけを見て、胃の底が冷えるのを感じた。

 ふと、担当の男の指が止まる。

 その目が、わずかに見開かれた。透の背筋が自然と丸くなってしまう。

 男は透を見ないまま、端末を素早く操作し始めた。画面に何かを入力し、確認し、また入力する。透は器具の置かれた机の端を見つめ、呼吸だけが浅くなっていく。


「……きみは、大変興味深い人間関係を構築しているね」


 男は短く言って、何事もなかったように器具を構えた。

 透は一瞬ためらうも――おそるおそる腕を差し出した。

 器具が近づく。冷たい感触。何かが肌の下を覗き込むような圧を感じる。そっと目を閉じた。


「はい。終わり」


 透は目を開けた。

 担当の男は端末を一度だけ確認し、淡々と言った。


「問題なし。健康体ですね」


 その言葉が、体育館の騒がしさの中で、ひどく間抜けに聞こえた。


「……は?」


 透は小さく漏らした。漏れた声に自分で驚く。

 担当の男はそれ以上説明するきなどないのか、あるいは「これ以上関わりたくない」と言いたいのか、次の生徒へ視線を移し、「次」と強い声色で言うだけだ。


 透は椅子から立ち上がった。それから、足元の鞄を掴み、ふらつきそうになるのを堪えながら、区画の外へ出た。

 体育館を出ると、電灯のか細い灯りが透の肩を頼りなく暖める。透は壁に背をつけ、息を吐いた。


 ――とりあえず、無事なのかな。

 あの紙に何が書かれていたのか分からないけれど、男の人の怪訝な声色から〝不吉〟な何かは感じられた。あの封筒ひとつで、御国が主導する検査を潜り抜けられた。それは透の胸に、白枝会という組織へ一抹の畏怖を抱かせるに十分な出来事だった。


 放課後。

 透は教室を出て、校舎裏の人目の少ない場所で端末を開いた。知らない番号から届いていたメッセージ履歴を辿り、そこへ発信する。

 数回の呼び出し音のあと、繋がった。


『はい』


 足立明季の軽やかな声が返ってくる。


「……助かった。あれ、何だったの。封筒の中身」


 透は端末を握り直し、声を低くした。今さら誰かに聞かれている気がして、周囲を見回してしまう。


『企業が隠したい悪事についてのメモ。それと——脅しだね』

「……脅し?」

『うん。どんな組織にも秘密はあるものだし、公にしないための努力はするものだよ。とくに大きな古傷であれば、尚更ね』


 透の喉が鳴る。


「白枝会のこと甘く見てたかも……っていうか、なんでそんなの持ってるの? 企業スパイみたいなのがいるってこと?」


 足立は、少しだけ間を置いてから言った。


『そんなズップリ入り込んでる訳じゃないよ。その手の情報収集は大体は僕がやってるんだ。何を隠そう。あの〝辺居の千里耳〟とは僕のことなのさ』


 透は「知らない」と言い返そうとして、やっぱり止めておくことにした。


『まあ、代表の人脈があってこそだけどね』


 足立はあっけらかんと零す。


『元軍人の技術なのか、色んな企業の色んな弱みを、どこかから掘り出してくる。キミも、代表に感謝の言葉くらいはかけておいて』

「何者だよ。代表も、白枝会も」

『そりゃあ、泣く子も黙る義賊様さ』


 通話が切れた。

 その直後、狙い澄ましたみたいに、別の着信が鳴った。

 代表だ。

 透は反射で出る。


「もしもし」

『終わったか』


 ぶっきらぼうな声。短く、無駄がない。


「終わった……大変興味深い人間関係だって言ってた」

『ガキ相手に嫌味とは、大人げない奴がいたもんだ。災難だったな』


「嫌味?」と透はおもわず聞き返す。

『いずれ分かるようになるさ』


 代表は遠い夜空の上から語り掛けてくるように、そう言った。

 なんとなく透は、さっき足立に言われた言葉を思い出し、聞いてみたくなった。


「代表。軍人だったって聞いたけど。本当?」

『……ああ』


 代表は息を吐いた。黒い油のように重く湿っているように思えた。


『クソみたいな戦場に「御国のためだ」と飛び出して、塹壕の中で土に埋まった仲間の足を掘り上げながら、帰ったら栄誉と死ぬまで食いっぱぐれない金が御国から賜れるはずだと、冷たい仲間の身体に語り掛けてた。ただ、それだけだ』


 さらに代表は続けた。


『で、帰って来てみれば栄誉も金も貰えず、辺居の暮らしは敗戦国の連中が入ってきて、さらにクソになった。御国様も高尚な思想掲げた企業様も——石の裏の虫みてぇに、見て見ぬふりだ』


 透は、電話越しの声色だけで、それが飾りじゃないと分かった。淡々と語っているのに、そこには確かな怒りがある。長く腹の底に沈めていた血痰を吐き出しているようだった。


『ムカついただけさ』


 透の胸の奥が、じわっと熱くなった。感情の名前がつかない。尊敬でも同情でもない。ただ、“本音”の破片に触れてしまった感じがした。


『……ま。お前に求めてるのは、狩人としての仕事だけだ。それ以外は——上手く楽しみながらこなせ』

「楽しめって、この状況を?」


 透は、思わずそう返してしまった。代表の笑い声は聞こえなかった。ただ、声の端がほんの少しだけ軽くなる。


『もう一人、融通の利く自分を作ればいいだけさ。お嬢様』


 通話が切れた。

 透は端末を下ろし、校舎の壁を見上げた。

 少なくとも〝お嬢様〟という皮肉は、透にも理解できた。


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