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5.緊急検査


 寝起きに見た天井は、いつもより黄ばんで見えた。


 天井はいつもと同じ。相変わらず平坦な白い壁と、埃っぽい乾いた冷気。

 胸の中央に何か異物がねじこまれたような違和感。いや、その違和感は全身にあった。考えも感情も、喉の渇きも尿意も、確かに〝いつもの目覚め〟なのに、どこか違う。


 それが成霊化した所為なのか、はたまた気持ちの問題だけなのか、判別できない。

 透は布団を蹴って起き上がり、予備の制服に腕を通す。箪笥の臭いが染みついているので、いつもより多めに消臭剤をかけておく。鏡に映る自分の顔は、いつも通り眠そうで、少し眉間に皺が寄っていた。


 居間へ向かうと、すでに両親が朝食に入っていた。

「起きたの、透」

 母――貴船千寿は箸を止めずに言って、次の瞬間、目だけで透を刺した。


「……で? 昨日のあれ。返事は?」


 透の喉が、きゅっと縮む。


「ごめん。通知だけ見て、返信するの忘れてた」

「忘れてたじゃないでしょ。そろそれハッキリさせなさい」


 母の声は、怒っているというより、呆れているようだった。昨晩、遅く帰ってきたのもあって、きっと遊び歩いていると思っているのだろう。

 透は椅子を引いて座り、皿に目を落とした。


「進路のことも、ちゃんと決めなさいよ」

「……考えてるよ」

「ほら。いつもの」と母は呆れつつ料理を口に運ぶ。

「そういうの、いちばん困るのよ」


 父――貴船徳四郎が、黙ったまま透を見た。怪訝に口元を歪め、何か言いたいのか、言うべきなのか、迷っている顔。腕を組み、仏頂面のまま、悩ましそうに首を傾げる。

 母が、父に視線を飛ばす。


「あなたも、なにか言ってよ」


 父は真っすぐに透を見つめて「悩んでいるんだろう?」と。


「ま、まあ、そんな感じ」

「なら良し。大いに悩みなさい」


 そういうと、父は食事を再開した。魚の切り身が無精ひげをたたえた口に吸い込まれていく。


「……それだけ?」と母は怪訝に眉を顰めた。

「悩んでいるのなら、それは真剣に向き合っているって事だ。今の社会は昔ほど仕事の選択肢は多くないが、それなりに自由はあるからね。好きにするといい」

「あのね、貴方って人はどうして、そう――」


 今だ、と透の目がきらりと光る。


「あっ、もう時間じゃん」


 母の意識が父に向いた瞬間に、透は一息に朝食を口にかき込んだ。そして、鞄を掴んで立ち上がって、脱兎のごとく駆けだした。


「行ってくる!」

「あ、こらっ! 待ちなさい!」


 母の声を背中で聞き流して、透は玄関を出た。

 外に出ると、細かな雪が服の合間から首に滑り込んできた。寒さに悲鳴を上げるのを我慢して、押し固められた雪道を早足で歩いていく。道すがら、秘傘を差して通勤する大人や他校の生徒とすれ違った。関係ない人たち、なのに、透は誰かの横を通り過ぎるたび、言葉にし難い後ろめたさを密かに感じていた。


 秘密にするしか、ないよなぁ。

 破けて血まみれになった制服、大槌、白枝会、成霊化、辺居。どれもこれも厄介な事実で、取り消しようのない過去だ。誰かに打ち明けようなんて思えない。


 隠しつづけるしかないんだ。

 透は制服の襟をピッと撫でて顔を上げ、大股で歩を進める。


 しばらくして、校門が見えてきた。赤いペンキが塗られた鉄製の門の上に薄く雪が積もり、アラン先生がそれを払っている。その横を「おはようございます」と小声の挨拶だけ残して横切る。

 先生は「おはよう」と首だけ捻って返してくれた。

 透は振り返ることもなく、そのまま校舎に駆け込んだ。



 教室に駆け込んで、鞄を自分の席のフックに下げる。

 ちょうど、教室の扉ががらりと開いた。


「透さーん!」


 マフラーを口元まで巻いた小路が、両手をぶんぶん振りながら入ってくる。その後ろで、澪と綾香が肩を寄せ合うみたいにしてついてきた。


「おはよー。早いじゃん」


 澪が明るく言って、透の机の横に寄ってくる。綾香は軽く手を挙げるだけで、視線だけ透に投げた。


「おはよ」


 透は短く返した。声の出し方を忘れたみたいに、喉が引っかかる。

 小路が透の鞄をちらりと見て、首を傾げた。


「あれ? 今日はギターないんですか?」


 その一言で、透の頭の中に無残な屍となったギターの姿が、ありありと思い浮かんだ。ネックが変な方向に曲がって、木が裂けて、弦が緩んでいた例のブツ。

 透は反射で目を逸らし、机の上の消しゴムを指で弾いた。


「忘れてきた」

「本当? どうせ飽きたんでしょ」澪が笑って、机に肘をつく。「昨日まで弾くの楽しいって言ってたのに」

「言ってないよ」


 飽きたと言われれば、そうなのだろう。実際、そこまで熱中していたとは言えないのも、また事実だ。

 その理由まで含めて、誰にも言えない。今の透が抱えているのは、暇つぶしじゃない。退屈の毒を散らすための遊びじゃない。もっと生臭くて、手触りが硬くて、持ち歩くのに向かないものだ。


「そういえばさ」


 澪が端末を取り出して、画面をぱっと見せた。指先でニュースの見出しをなぞる。


「一昨日、町中で魔獣出たらしいですよ。見ました? これ」


 画面には、短い文字が並んでいる。

 ――町中への魔獣侵入。対魔局により解決。

 ――慈善団体白枝会が住民支援。


「こわー……」小路がわざとらしく肩をすくめて、透に寄ってくる。「でも対魔局がすぐ片付けてくれたって。さすがですよねぇ」

「まあ、よくあるやつじゃない?」


 綾香が机に鞄を置きながら言う。「最近ちょいちょい出るし」

 “対魔局により解決”

 透が見たもの、体験した〝あれ〟は、もっと生々しい。血と息と、牙と――あの場にいたのは、白枝会の狩人だった。透自身も、そこで死にかけた。


「……へえ」

「透さん大丈夫でした?」小路が思い出したように言う。何気ない一言に、透は心臓を捕まれたように感じた。「確か、魔獣が出た場所って……透さんの帰り道から近いところですよね?」


 透は顔に出さないように、わざと欠伸を噛み殺したふりをする。


「サイレンが鳴ったから、走って帰ったよ」

「運が良いなあ、透は」


 澪が笑って肩を揺らした。



 ガラっと音を立てて、教室の扉が開いた。

 担任のアラン先生がしゃんと背を伸ばして、教壇に立つ。いつもなら連絡事項を淡々と読み上げるだけのはずが、今日は少し違った。まとめられた紙束をしっかりと握りしめている。

 皆の違和感に答えるように咳払いしてから、アランは声を張った。


「急ですが、これから緊急の健康診断を行います」


 ざわりと教室内の空気が跳ねた。生徒らはお互いに顔を見合わせて「なぜ?」と眉を顰める。


「理由は……昨日、町中で魔獣が現れた場所付近に、当校の生徒がいたという証言があったため、念のための確認です。すでに専門の機関が体育館で準備しています。落ち着いて、指示に従ってください」


 健康診断。

 魔獣が現れた場所。

 生徒がいた。


 自分だ。


 透は確信した途端に、冷たいく空気に指先から溶け込んでしまうような感覚に襲われた。四肢はスウッと冷たくなるのに、吐き出す息は妙に扱った。机の下で、何もない空気を握りしめた。じんわりと手に汗が滲み、指先が痺れる。炭骨検査まで含まれていれば、成霊化していることなど一発で見抜かれるかもしれない。血液検査でもまずいのか、霊子反応を測られたらどうなるのか、透には分からない。

 教師が紙束を持ち上げた。


「これから検査票を配ります。氏名と学籍番号に誤りがないか確認してください。中央に切り取り線がありますが、まだ切らないこと。体育館前の仮設受付で確認印を押してもらったあと、受付に用意されているハサミで各自切り分けます。片方は検査時に担当医へ提出、もう片方は本人控えとして保管すること。紛失しないように」


 検査票が前の席から順に回ってくる。

 透の手元にも、薄い検査票が届いた。中央には点線が引かれ、その上には受付確認欄らしい四角い枠が印刷されている。右側には提出用、左側には本人控え、と小さく書かれていた。ただの紙切れのはずなのに、透にはそれが首へ巻かれる紐のように見えた。


「うわ、めんど……」


 隣で澪が呟く。


「これ、血とか採るんですかねぇ」


 小路が不安そうに検査票を覗き込む。

 担任の指示で、クラスは列を作って教室を出た。廊下には、同じように検査票を手にした生徒たちが並び始めている。足音が重なり、霊子灯の白さが紙面に反射して、視界の端がやけに眩しい。体育館へ向かう流れが、迷路みたいに校舎の中へ伸びていた。

 透は列の途中で、喉の奥をこじ開けるように声を出した。


「トイレ、行ってきていいですか?」


 近くの教師が一瞬だけ透を見る。透は視線を合わせずに、腹を押さえるふりをした。教師はため息をついて、短く頷く。


「すぐに戻ってくるように」


 透は「はい」と頷いて、列から外れた。

 トイレに入り、個室の扉を閉める。鍵を掛ける音が強かに反響した。透は端末を取り出し、指が震えるのを押さえながら履歴を探し、電話をかけた。


 出て。

 呼び出し先は、代表の番号。

 通話が繋がるまでの数秒が、ひどく長く感じた。


『……おう』


 低く、ぶっきらぼうな声が耳に入った瞬間、透は息を吐く暇もなく言葉を吐き出した。


「緊急で健康診断をやるらしいの。体育館で、専門機関が準備してるって。魔獣が出た場所にうちの生徒がいたって証言があったからみたいで――」


 自分の声が少し上ずっているのが分かった。透は歯を食いしばる。


『落ち着け。予想は出来てただろ』

「予想?」

『ちと対応が早えがな』


 電話の向こうで、短く笑う気配がした。笑っているのか、息を吐いただけなのか分からない。


『とりあえず時間を稼げ。なんとかする』

「どうやって――」


 言い終わる前に、通話が切れた。

 透は端末を耳から離し、画面に残った通話終了の表示を睨む。


 なんとかするって、どうやって……。


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