4.貴船透はどう生きる
その瞬間、魔獣の一撃が放たれた。
角――いや、触手が、鞭みたいにしなり、空気をえぐって迫る。
避けろ、と頭が命令する。脚を動かせ、と神経が叫ぶ。
でも、足がすくんだ。
透の身体は、ほんの半歩しか動けなかった。
次の瞬間、衝撃が全身を叩いた。
「――っ!」
透は吹き飛ばされ、背中から壁に激突した。肺が潰れ、視界が揺れ、照明がぱちぱちと点滅した。光が切れたり戻ったりするたび、魔獣の輪郭がぼやけていく。
背中と肩。肋。痛みが遅れて爆発するけれど、それらは間もなく消える。ヒビが入っていたのか、もしくは折れていたのか、今となっては分からない。確かめる間もなく、傷は治った。
透は、歯を食いしばって立ち上がった。
「下手に魔獣の攻撃を受けちゃいけない」
皐月の声が上から降ってきた。平然としているのに、警告だけは冷たい刃みたいだ。
「魔獣の呪いにかかって、キミまで魔獣化するぞ。その血だけは絶対に身体に入れないよう気を付けたまえ。キミのように馬鹿げた再生能力を持つ個体に感染されると、我々では手が付けられなくなるだろうからね」
呪い。
人や幻獣を狂わせ、バケモノに変える霊的なウイルス。実際のところ、いまだに呪いに罹っていないのは、運が良かったとしかいえない。自分の腕があの触手みたいにうねり、角が生えて、口から熱い息を吐く――そんな想像が脳裏に過った。
やめろ。
想像するな。
魔獣が、再び迫ってくる。
透は今度こそ、動いた。痛む足を無理に踏みしめ、横へ跳ぶ。触手が空を切り、床を抉った。火花が散る。そのまま、距離を取るように後ろへ下がった。
――このままじゃいけない。
透は大槌を握り直し、魔獣の動きを見た。
角がしなる。上体が前へ傾く。その一瞬、腹の横が開いた。
来る!
魔獣の触手が再び振り下ろされる。透は身を捻り、紙一重で避けた。風圧が頬を叩く。
避けた。
避けられた。
透の中で、ほんの小さな希望が見えた。
さらに、そのまま踏み込んだ。
「――っ!」
そして、大槌を振り抜いた。鈍い手応えが、腕に返ってくる。
魔獣が、わずかに怯んだ。
当たった。効いた!
「……っ、よし」
透は小さく息を吐いた。
当然の如く、魔獣は激高した。
触手みたいにうねる枝角が、乱暴に空気を引き裂く。床の粉塵が舞い、点滅していた灯りが一度だけ強く揺れて、白い光が歪んだ。
「――っ!」
透が大槌を構え直そうとした、その動きごと叩き潰される。
枝角の一撃が大槌の頭部を弾き、手首が跳ね上がる。
大槌が、吹き飛んだ。
真っ赤な塊が回転しながら床を跳ね、暗いところで二度、三度と跳ねて止まる。
透と大槌の間に、魔獣の巨体が割り込んだ。
「……っ、クソッ」
喉が勝手に鳴った。
透は転がるようにして距離を取った。背中を床に擦り、粉塵がシャツに貼り付く。
魔獣が踏み込んでくる。
その足音が、工場の腹の底を叩く。逃げろ、と身体が叫んだ。だが、
どうする。
武器がない。
取りに行かないと。
近づいたらマズい。呪い。魔獣化。
胸を貫く爪。
死ぬ。
――死にたくない。
「クソッ……!」
怒鳴ったのは、魔獣にじゃない。自分にだ。
魔獣が距離を詰める。
透は横に跳んだ。床を滑って、肩で受けて、痛みが遅れて咲く。触手が背中のすぐ後ろを薙ぎ、壁の鉄板を凹ませた。火花が散る。灯りがまた瞬いた。
穴の上から声が落ちてきた。
「自分が成霊体だってことを忘れるな。きみは普通の人にはできないことができるんだよ」
足立の声だ。軽さを保ったまま、そこには期待の色があった。
透は息を呑み、反射で言い返しかけた。
「は? 意味――」
意味がわからない。成霊体にしかできないこと?
そのとき、枝角が鞭みたいにしなり、透の視界の端を叩く。
透は言葉を飲み込み、さらに横へ回避する。足がもつれる。床の部品に当たって、それは跳ね、地面を転がった。
大槌の位置を探す。
あそこだ。赤い頭が、粉塵の中で輝いている。遠い。大槌との間に魔獣がいて、一直線に行くこともできない。
透は踏み込もうとして、また躊躇した。
足が、ほんの一瞬、すくむ。
その隙を、魔獣は見逃さない。触手が突き刺さるように伸び、透の肩口を掠めた。布が裂け、皮膚が熱くなる。
透は喉の奥で呻き、逃げるように距離を取った。
普通の人にはできないこと。
成霊体だからできること。
あの礼装は、込められた魔力に応じた衝撃を出す。そして、この身体はバケモノじみた治癒能力がある。
だったら。
だったら、透がやるべきは“骨が燃えるほどの魔力を生成し、礼装の力を最大限に引き出すこと”だ。
透は一歩、踏み出した。
魔獣がそれを追う。透は、わざと回り込む。真正面から大槌へ行かない。魔獣の視線を引き、角の軌道を誘導する。
怖い。脚が震えるけれど、やるしかない。
触手が振り下ろされる。
透は床を蹴って、滑るように抜けた。次の瞬間、触手が床を抉り、粉塵が跳ねる。
さらに、透は踏み込んだ。
赤い大槌の柄に指を絡め、握って引き寄せる。
透は魔獣と距離を取って、息を吸い込み、骨の奥に意識を向ける。
先刻、腕を焼いたときの感覚を探る。熱の種。炭骨が火床みたいにうずく場所。そこに、種火を加えるように〝生まれろ〟という意思を注ぎ――魔力を生成する。
身体の内側が、じわりと熱くなる。
肉が焼けるほど発熱しているはずなのに、皮膚の表面に出てくるのは「熱い」じゃなく「温かい」に近い違和感だ。痛みが、許容されている。
その熱を大槌へ向けた。
流せ。込めろ。溜めろ。
大槌の頭部側面の円に、光が灯った。
点がひとつ、息を吹き返すみたいに。光は確かにそこにある。透の骨の熱が、目に見える形になった。
魔獣が、追撃のために迫ってくる。
透は顔を上げ、目を逸らさずに、その影を見据えた。
恐怖は消えない。消えないまま、透の中で別の感覚が立ち上がる。
――証明する。
そのゴールに、ようやく指先がかかった。
◆
魔獣が距離を詰める。床が鳴り、影が覆いかぶさってきた。
透は大槌を両手で構え、円に灯る光点を視界の端に置いたまま、骨の奥の熱をさらに引き出した。点の光が強まる。眩しいほどではないが、確かに“エネルギー”が増していく感覚が手元に乗る。
迫る枝角。触手の先がしなる。
透は歯を食いしばり、踏み込んだ。
「――っ!」
大槌が魔獣の横腹を叩いた。
鈍い衝撃。湿った骨を砕く音が、金属の余韻に混ざって響く。魔獣が体をくの字に折り、口から血を噴いた。
だが、倒れない。
透の腕が痺れる。点の光が、わずかに揺らいだ。
「……っ、足りない!」
透の声に、魔獣が怒号みたいな鳴き声で応えた。
間髪入れず、透は真正面から叩き返された。枝角が胸を抉るように突き、透の身体が宙へ浮く。
「っ……!」
肺から空気が逃げていく。背中が床に落ちてしまう――その前に、透は反射で脚を跳ねさせた。地面を蹴り、体を捻って受け身を作る。衝撃を散らすことはできた。痛みはあるが、致命的にはならない。
透は膝に手をついて起き上がり、大きく肩を上下させて呼吸する。
骨の奥が熱い。だが、まだ引き出せる。それに、自分は完全に炭化させても復活する再生能力がある。それは確かに痛いけれど、生存が保証されているなら、まだ頑張れる。
魔獣が突っ込んでくる。
透は半歩だけ引き、枝角の軌道を読んで肩をずらす。掠って、皮膚が裂けてしまい、嫌な痛みが走る。
「当たっちゃダメだよ、透ちゃん」
穴の上から足立の声が降ってくる。
透は返事をしない。そんな余裕はなかった。
代わりに、透は踏み込んだ。
大槌を振る。
魔力を注ぐ。点の光がさらに強くなる。今度は、魔獣の肩口を狙って叩きつけた。
肉が潰れ、骨が折れ、魔獣がよろめいた。
それでも倒れない。
「……しぶとっ……!」
透は舌打ちした。
再生が速いからって、平気な訳じゃない。魔力を作るたびに、骨の奥の熱が積み重なる。長引けば、どこかで手が、意識が鈍る。息が切れ、足が止まるかもしれない。
―― 一撃で片を付けたい。
透が次の動きを探した瞬間、魔獣が激昂して突進した。
床が揺れ、照明が一瞬だけ強く瞬いて、粉塵が舞う。
魔獣の憤りが頂点に達したのが、透にも分かった。
枝角が大きくうねり、触手の先が広がる。工場の空気が、じっとりと重くなる。
来る。
透は大槌を引いた。
逃げるより、耐えるより、避ける。最小限で。位置をずらすだけでいい――そう判断した瞬間、枝角が振り下ろされた。
「――っ!」
透は肩を落として軌道を外した。
だが、完全には避けきれない。触手の先が腹を裂き、熱い痛みが走った。血が噴く感覚。視界が一瞬だけ白くなる。
それでも、透は動かなかった。
そこに踏ん張ったまま、骨の奥の熱を大槌へ流し込む。円の点が、いままでにない速さで走り始めた。
点が円周を駆ける。
一周、二周。速度が上がる。光の軌跡が繋がり、円そのものが発光しているように見えた。
透は歯を食いしばり、目の前の巨体だけを見た。
「……来い、バケモノ」
魔獣が、仕留めるために体を捻る。
透は、その動きに合わせて踏み込んだ。狙いは、頭部の側面。
大槌が赤い軌跡を伴って、全力で振り抜かれる。
点の速度がさらに跳ね上がり、円の光が一段、鋭くなる。
そして、透の一撃が――魔獣に届いた。
大槌の頭部が、鹿の頭の側面を捉える。
触れた瞬間、円の上を疾走していた光点がさらに加速し、軌跡が完全に輪になった。赤い頭部の縁が、白く発光して見える。
透は雄たけびを上げた。
「――吹き飛べっ!」
次の瞬間、蓄積していた衝撃が一気に解放された。
風圧が爆ぜる。金属の床に積もった粉塵が、円を描くように舞い上がった。
魔獣の頭部が、側面から“消し飛んだ”。
肉も骨も、霧みたいに散る。胴体だけが数歩よろけ、枝角が最後に一度だけ痙攣するようにうねって――そのまま、重い音を立てて崩れ落ちた。
その衝撃と風圧が、穴を通って上へ抜けた。
穴の縁で見下ろしていた足立と皐月の外套が、ばさりと煽られる。
透は大きく息を切りながら、大槌を下ろした。
頭部が地面を討ち、鈍い音が残響する。手のひらが痺れている。脚が震える。視界の端が少し暗い。
――倒した。
その事実が、遅れて胸の奥に落ちた。達成感が溶けた鉄が身体という型に流し込まれるようにじんわりと広がっていく。
「お見事」
穴の上から足立の声が降ってきた。軽い調子に戻っている。
「まさか一人で倒しきるとはね。キミに霊薬をあげた甲斐があるってもんだ」
透は、褒められているのだと理解して、口の端が勝手に上がりそうになった。
皐月も、短く言った。
「やるじゃないか」
「……っ、当然」
透は荒い息のまま返した。強がりのつもりだったが、声が掠れて、結局みっともない。
そのとき、穴の上で足立が端末を取り出した。着信音が、工場の静けさに妙に浮く。足立は表示を一瞥して、にやりとする。
「代表だ」
足立は通話に出ると、スピーカーに切り替えた。
『どうだ、初めて魔獣を討った気分は』
端末越しのシルバーピットの声が、やけに鮮明に響いた。
「……は?」
透は思わず声を漏らした。ここにいないはずの人間が、どうして。
スピーカーから、楽しそうな気配が滲む。
『はははっ、いい反応をするじゃないか。なに、私は他の奴より〝目が良くてね〟。遠くから見学させてもらっただけだ』
透は穴の上を睨み上げた。足立はとぼけた顔をして、皐月は肩を竦めた。
足立が端末に向かって言う。
「それで、この娘の評価は?」
透の喉が鳴った。
『猪突猛進。魔獣の呪いにかかるかもしれないってのに、攻撃をくらう迂闊さ。まるでなってない魔力の扱いに、ただただ殴りかかるだけの無鉄砲さ――』
透は拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。
『……まだまだ磨くところ多いが、使ってやるよ』
「えっ」
透の声が、素で出た。
『魔獣に真っ向から戦えるのなら良し。狩人としての生き方ってやつを教えてやる』
透の胸の奥に、熱が戻った。
嬉しい、と決めつけるには怖さが残っている。けれど、少なくとも“処理”とやらは遠のいた。
その安堵に浸る暇もなく、シルバーピットの声が続く。
『――だが、まだ甘いな』
透が眉をひそめた。今しがた倒した魔獣と似た輪郭が、いくつも、ゆっくりと立ち上がる。枝角が触手みたいにうねり、白い灯りの下で不気味に揺れた。
「……っ」
透は反射で大槌を構えた。
だが腕が重い。息が追いつかない。熱を絞った骨が、じわじわと痛む。
穴の上で、足立が短く言った。
「皐月ちゃん、頼んだ」
皐月が、即答する。
「いいだろう」
次の瞬間、皐月が杖を振った。
何が起きたのか、透の目は追いつかなかった。白い光の筋が走ったように見えた、と思った瞬間には、魔獣たちが崩れ落ちていた。肉と骨の塊が床に転がり、枝角が力なく散っていく。
透は言葉を失い、ただ立ち尽くした。
さっきまで死ぬ気で殴り合っていた相手が、正しく瞬く間に狩られた。
穴の上から、皐月が透を見下ろし、挑戦的に口元を吊り上げる。
「さて、私はきみに驚かせてもらえるのかな?」
透は大槌を握り締めた。
震えは、もう恐怖だけの特権じゃない。そこには、確かに悔しさが混じっていた。熱が、別の形で腹の底に燻り始めるのを感じる。
透は、わずかに口角を持ち上げた。
「嫌な奴だね、あんた」




